この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

東大寺の高僧がおっぱいさわるとか。

こんばんわ。天機です。

(約2000字)

 

 

 

最近はずーっと、柳の字源と十二支の原理、という連載記事を書いていたの

ですが、

今回はまあ、すこし休憩といいますか、

毛色の違った、時事ニュースに関する記事でも書いてみようと思います。

 

 

 

さて、昨日のことでしたか、

東大寺の高僧が女性のおっぱいをさわって書類送検

というニュースが流れてきました。

 

 

 

書類送検されたのは、

奈良の東大寺のトップである住職、につぐ、要職をつとめていた高僧で、

御年69歳にもなり、

東大寺で働いていた20代のアルバイト女性のおっぱいを、

境内の施設で無理やり触ったとかで、

女性から被害届がだされたそうです。

 

当の高僧は、弁護士をたてて解決した、とかなんとか

主張していらっしゃるようですから、

たぶん、報道されているようなことは、あったのかもしれません。

 

 

 

なんだかなあ、という感じです。

 

生臭坊主、エロ坊主というのは、

昨今では、というより、昔から、珍しくもない存在ではありますが、

かの有名な、奈良の大仏もいらっしゃるような名刹の高僧まで、

煩悩に勝てなかったのか、というところが、

世も末感がありますね。

 

 

 

聖職者や宗教関係者が、破廉恥な事件に手を染めるというのは、

これまでにも、ときどきあったわけなのですが、

まあ、普段からやたらと欲を抑え込まれている、と一応は言われていて、

周囲からも模範となるように期待されているかもしれず、

その反動というのが大きいのかもしれません。

 

 

 

宗教関係者とか、聖職者というのは、

煩悩とか、俗っぽいこととかからは、かけはなれたところにいるように

思われているので、

いったん、こういった事件が起きた時の衝撃というのは、

なかなか大きいものがあります。

 

 

 

ところで、

こういった宗教がらみの事件についても、

長いスパンで見てみると、

時代の変化といったものを感じることができるかもしれません。

 

 

 

いまからおよそ20年以上前の、1990年代半ばに、

当時のオウム真理教という新興宗教の団体が、

地下鉄サリン事件をはじめとした一連の犯罪事件を実行して、

日本社会を震撼させました。

 

ほぼそれと同時期に、

パナウェーブという団体が、全身白装束という異様ないでたちで

練り歩き、

これもワイドショーをさわがせたことがあります。

 

 

 

この、オウム真理教という団体も、パナウェーブという団体も、

どちらかというと、

マイナーな宗教団体あるいは団体です。

 

オウム真理教は、最盛期には1万人ほどの信者がいたとは言われていますが、

それでも、

世界宗教であるところのキリスト教とか仏教を信仰する宗教団体、

あるいは、国政政党を擁するほどの宗教団体ほどには、

メジャーな存在ではなかったわけです。

 

 

 

どういうことを言いたいかというと、この90年代半ばという時代は、

「普通とは違っている変なことをやっているマイナーな団体とか、

 そういうやつらは、異常で、ヤバいやつらだよね」

という認識が、まだ広く世をおおっていた時代なのです。

 

オタクがまだ十分には社会において受容されてはいなくて、

モテない君などとしてさかんに叩かれていたのも、この頃です。

 

 

 

ところが、それから20年ほどもたった、

この2018年ごろの、最近の世相はどうでしょうか。

 

最近起こった、宗教がらみの事件を列挙してみると、

 

〇 東大寺の高僧が女性のおっぱいを無理やり触る

〇 善光寺の住職がセクハラ

〇 富岡八幡宮(相撲の行事もおこなわれる伝統ある神社)で、

  宮司の一族に殺人事件

〇 靖国神社宮司天皇陛下を批判

〇 キリスト教聖職者のあいだで児童への性的虐待が広範に見つかり、

  ローマ法王が謝罪の声明

 

とまあ、いろいろあるわけなのですが、

これらの最近起こった宗教がらみの事件と、

90年代半ばの事件の、違いがわかるでしょうか。

 

 

 

そうです。

 

最近起こった宗教がらみの事件は、多くが、

「誰の目にも明らかなほどのメジャーな宗教団体で発生」

しているのです。

 

そして、おそらくは、その時代の変化と軌を一にするように、

以前はオタク趣味だった、たとえば、初音ミクなんかが、

Youtubeにさまざまな楽曲がアップされて、

なかには1億回近い再生回数を誇るようなものがあらわれてきたり、

あるいは、

オタクとは対極の位置に存在するといってもいいような、

ジャニーズのTOKIO山口メンバーが、

淫行疑惑で失脚するような事例も起こってきているわけです。

 

 

 

簡単にまとめると、

昔は、

「普通とは違ったことをやっている、マイナーで、異常な、

 ごく少数のやつらは、ヤバいやつ、イケてないやつ」

といった空気感だったのが、

現在は、

これまでメジャーとされてきたもの、ひと、集団、

といったものに、激しい逆風が吹き付けるようになり始めたのかも

しれない、

ということなのです。

 

 

 

天機は、そんなふうに考えてみました。

 

きょうは、ここまでにしたいと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

 

「柳」の字源と、十二支の原理ーその5

こんにちわ。天機です。

(約1600字)

 

 

 

それでは、前回のつづきです。

 

 

 

最初、

黒|白

だったのを、

 

黒|白|黒|白

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

………

 

と、分割、撹拌をかさねていったとしたら、

その究極のところ、極限のところは、

いったい、どんな感じになるのでしょうか…?

 

 

 

天機は、つぎのように考えました。

 

 

 

この分割を重ねていくと、ひとつひとつの黒と白は、それぞれ、

どんどんどんどん、小さくなっていきます。

 

それがもし、究極というものがあったとして、

その究極というところまでたどりついたとしたら、

そのとき、

黒と白は、まったくの「ゼロ」になってしまうでしょう。

 

ゼロ、というのは、いかにも数字っぽいのであれなんですが、

言い換えると、

まったくの「無」になってしまう、と言ってもいいかと思うんです。

 

 

 

つまり、こういうことです。

 

この分割、撹拌の、あくまで途中のプロセスに在るときは、

 

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白…………

 

みたいな感じなんです。

 

 

 

ところが、それがいったん究極にまで到達すると、その瞬間に、

 

無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無…………

 

へと変化する、というわけなのですね。

 

黒と白、それぞれが、あまりにも分割され過ぎたために、

ついには、大きさを持たなくなってしまったためです。

 

 

 

そして、黒と白、それぞれが、小さくなったとはいえ、

あくまでもまだ大きさを持っているときには、

それは、互いに異なる他者と他者ということで、

「理」のかたちが保たれていたわけなのですが、

究極にまでいたると、黒と白、それぞれの大きさがついにはなくなってしまって、

互いに異なる他者と他者、という前提が崩れてしまいます。

 

つまりは、「理」の否定が起こるわけです。

 

 

 

そして、「理」の否定というのが、つまりは「矛盾」であることを考えると、

この究極において、

「矛盾」が発生した、と見ることができそうです。

 

 

 

それでは、その究極のかたち、矛盾のかたちというのが、

 

無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無…………

 

だったので、

 

つまりは、「矛盾」というのは、「無」のことだったのでしょうか…?

 

 

 

天機は、そうではない、と思うんです。

 

もう一度、分割、撹拌の作業を確認してみましょう。

 

 

 

黒|白|黒|白

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

 

上記のような、分割と撹拌の作業をかさねていくと、

なるほど、ひとつひとつの黒と白はどんどん、どんどん小さくなっていって、

最後には、無になってしまうかもしれません。

 

 

 

しかし、その逆に、このプロセスにおいて、

どんどん、どんどん、数が増えているものがあります。

 

数が増えているもの。

それは、何でしょうか…?

 

 

 

それは、黒と白のあいだをへだてている「境界線」の本数なのです。

 

 

 

黒|白

のときは、境界線は1本です。

 

黒|白|黒|白

なら、境界線は3本。

 

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

なら、境界線は7本になりますよね。

 

 

 

黒と白が小さくなればなるほど、分割されていけばいくほど、

境界線の本数は、だんだん、だんだん、増えていくはずです。

 

 

 

それならば。

 

 

 

ついには、

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白…………

こうなって、

 

それが、

無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無…………

 こうなってしまうほど、

それほどまでに、分割と撹拌がすすんだとしたら。

 

 

 

その、究極の時の、境界線の本数は、

いったい、何本になっていると考えることができるでしょうか…?

 

 

 

きょうは、ここまでにしたいと思います。

 

お読みいただき、ありがとうございました。

 

つづく

 

「柳」の字源と、十二支の原理ーその4

こんにちわ。天機です。

(約1800字)

 

 

では今回も、柳の字源と十二支の原理、

そして、十二支の原理の背景にある、

この世界がどのようにしてできてきたのか、についての、

独自説について、見ていきたいと思います。

 

 

 

前回、

理というのは、はっきりと区別されていることと仲が良くて、

矛盾というのは、混沌として混ざり合っていることと仲が良い、

という話をしました。

 

理の原理というのは、

自分とは異なる他者というのが、他者として存在することを認め、

尊重する原理だ、というようなお話もしました。

 

 

 

では、今回は、

理というものから、矛盾というものをつくっていけないか?

ということについて、

簡単なモデルをもとにして考えていきたいと思います。

 

 

 

まず、はじめにここに、理というかたちがあるとします。

 

理というのは、ごくごく簡単に言えば、

自分と、自分とは異なる他者とが、

まじり合わずに、独立に別個に存在する、というかたちでした。

 

なので、ここでそれを、

 

黒|白

 

というようなモデルであらわしてみることにしましょう。

 

 

 

このとき、世界は、黒と白の2つでできています。

黒と白は、おたがいに、相手とは異なるものです。

 

世界には、黒と白しかなく、それゆえ、

黒の否定が白に、白の否定が黒になる、

という関係が成立している、と思ってください。

 

黒と白のあいだにある縦線は、

お互いを区別する境界線のようなものです。

 

 

 

さて、これが「理」のかたちなのですが、

いっぽうで、「矛盾」というのは、

お互いの区別なく、混沌として、まじり合ったものだ、

というお話をしましたよね。

 

 

 

小学校の時に、理科の実験とかで、

水と塩をまぜて食塩水をつくる、といったような実験をしたひとも、

いるかと思います。

 

最初は塩と水にわかれていても、

かきまぜたり、撹拌したりすることで、

だんだんとまじり合って、食塩水になっていきますよね。

 

 

 

このとき、

水と塩がそれぞれ分離して別個に存在する状態を「理」だとすると、

おたがいにまじり合って1つの食塩水となった状態が、

「矛盾」のようなものだと思うのです。

 

つまり、撹拌、という作業によって、1つの「混沌」が生まれたわけですね。

 

 

 

この「矛盾」をつくる「撹拌」という作業を、

さきの

 

黒|白

 

というモデルにも適用して、やってみましょう。

 

 

 

最初、おおきな全体領域は、黒と白で二分されています。

 

これをさらに分割すると、

 

黒|白|黒|白

 

になりますね。あくまで、イメージの上でのことですが。

 

 

 

最初の全体領域が100センチあったとすると、

黒|白

の二分された状態のときは、

黒と白が、それぞれ50センチずつ占めていたような感じです。

 

それが、

黒|白|黒|白

となったときは、1つ1つの黒と白は、それぞれ、

25センチずつ占めているような感じですかね。

 

 

 

あいだの境界線について見てみると、

黒|白

のときは、境界線は1本です。

 

それが、

黒|白|黒|白

になったときには、境界線は3本に増えています。

 

あくまでも、

全体の領域の大きさはかわらずに、内部がだんだんと分割されていく、

というイメージですね。

 

 

 

さらに分割すると、

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

といった感じになります。このとき、境界線は7本に増えます。

 

さらに分割すると、

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

といった感じになります。このとき、境界線は15本に増えます。

 

 

 

さて、このようにどんどん分割していくことで「撹拌」し、

「矛盾」にいたることを目指すわけです。

 

ここで、

「理」というのは、おたがいに異なる他者と他者が、

相互にまじり合わずに別個独立に存在している状態であったことを考えると、

この「分割」や「撹拌」をすすめていくなかで、

1つ1つの「黒」や「白」が、

たとえ、どんなに細かくなっていったとしても、

小さな「黒」や「白」として存在が残っているかぎりは、

おたがいに異なる他者と他者というかたちは残存しているわけですから、

そこにはまだ、「矛盾」はあらわれてはこずに、

「理」のかたちが保たれていることになります。

 

 

 

では、この作業を「可及的に」すすめていくと、どうなるでしょうか。

つまり、行き着くところまで、どんどんと細かく分割、撹拌をかさねていけば、

その極限は、いったい、どんな感じになるでしょうか。

 

 

 

きょうは、ここまでにしたいと思います。

 

お読みいただき、ありがとうございました。

 

つづく

 

 

 

「柳」の字源と、十二支の原理ーその3

こんにちわ。天機です。

(約1500字)

 

 

 

では今回も、柳の字源と十二支の原理について、考えていきたいと思います。

十二支の原理について考える前段階として、

この世界はどのようにして生成してきたのか、

についての、独自説のつづきを述べていきます。

 

 

 

前回は、人間の髪の毛というのが、

この世界のはじまりに存在した「矛盾」という女性なのではないか、

 

そして、その下にある人間の頭というのは、

その「矛盾」という女性が産みだした、「理」という男の子なのではないか、

という話をしました。

 

 

 

非常に唐突な話なので、困惑された方もいらっしゃると思うのです。

 

自分がなぜ、こんなふうに考えるのかというと、

この世界の、目に見えている現象の背後には、

かくれた原理が存在するのではないか、という、

自分の独特な思想があるからなのです。

 

 

 

人間のからだ、というものについても、それは、

この世界がどのようにしてできてきたのか、とか、

この世界はどのようにして成り立っているのか、とかいった、

からくりや秘密のようなものを反映して、それで、

あのような人間のからだのかたちになっているのだ、という思想があるのですね。

 

そのように考えるようになったきっかけについては、

以下の記事を参考にしていただけるとありがたいです。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

しかしながら、いちいち元記事を参照していただくのもあれなので、

人間の髪の毛=矛盾という母、その下にある頭=理という子供、

と考えるに至った考え方というのを、簡単に整理してみましょう。

 

 

 

まずはじめに、理、というのはなにか。

自分は考えてみました。

 

 

 

高校で数学を習っていると、背理法、というのがでてくることがあります。

ルート2が無理数であることを証明するときなんかに、

この背理法というのを使います。

 

この証明では、最初、ルート2は無理数じゃないよ、

っていう仮定をおきます。

 

そして、その仮定からスタートして、どんどん論をすすめていくと、

「矛盾」が生じるんです。

 

それで、あっ、ルート2は無理数じゃない、っていう、

そもそもの仮定がおかしかったんだ、

だから、ルート2って、やっぱり無理数だったんだ、

って証明していくのが、背理法の証明の仕方です。

 

 

 

背理法の「背理」っていうのは、

理にそむく、とか、理に反する、とかいったことです。

 

そして、なにが理に反しているのか、っていうと、

矛盾が生じるのはおかしいよ、っていうことなんです。

 

では、矛盾ってなんなのか?

っていうと、それは、

同時には成立できないような2つのものが、同時に成立しているよ、

っていうことなんです。

 

 

 

たとえば、

画用紙の真ん中に、マジックで1つの円を描くとします。

 

画用紙の中は、円の内側と、円の外側にわかれます。

 

 

 

このとき、ふつうは、

円の外側にあって、同時に、円の内側にもある、

なんてことは、ありえません。

 

それをありえないことだ、とするのが、「理」です。

 

 

 

逆に、円の外側にもあって同時に円の内側にもあるよ、

っていう立場があるとすれば、その立場は、「矛盾」ということになります。

 

 

 

つまり、「理」というのは、「違い」を大切にする原理なのです。

 

自分とは異なる「他者」が、「他者」として存在することを認め、

尊重する原理。

 

それが、理の原理だと、天機は考えています。

 

 

 

別の角度からみると、

理というのは、はっきり区別されている、ということと仲が良くて、

矛盾というのは、混沌としていて混ざり合っている、

ということと仲が良いようにもみえます。

 

 

 

きょうは、ここまでにしたいと思います。

 

お読みいただき、ありがとうございました。

 

つづく

「柳」の字源と、十二支の原理ーその2

こんばんわ。天機です。

 

 

 

今回は前回にひきつづき、柳という漢字について考えていきたいと思います。

(約2000字)

 

 

 

ちなみに、この、「柳」の字源と、十二支の原理について考えるこの記事は、

一度に全部を書いてしまおう、とすると、

すごい超長文の記事になってしまうことが予想されます。

 

柳という漢字の字源について考えるだけだから、

たいしたことなさそうに思えるかもしれませんが、

十二支の原理についての独自説を述べるところが、

すごく長くなってしまうのです。

 

たぶん、読者の皆さんは、一度にそんな超長文を読むのは、

うんざりされるだろうと思うので、

だいたい、1500字前後の文字数になったら、

その回の記事をいったん投稿してしまおうと思っています。

 

というわけで、今回の記事も、

だいたいそれくらいの文字数になるかと思いますが、

そういうわけで、今回も完結はしません。

 

だいたい、これくらいの文字数の記事を、

何回かあげていって、そのうちに完結することを目指そう、と思っています。

 

 

 

では、本編に入ります。

 

 

 

前回の最後のほうで、

十二支というものが、いったい、何をあらわしているものなのか、

その起源について、

天機の独自説をたてました。

 

 

 

それは、

 

十二支というのは、この世界ができた順番をあらわしているのでは?

 

というものでした。

 

 

 

とはいえ、これはいくぶん、唐突なものと感じられるかもしれません。

 

「世界ができた?それって、宇宙のはじまりのビッグバンのこと?

 だったら、140億年ほどまえのことか…」

 

と考えるひとだって、いるでしょう。

 

 

 

でも、ビッグバンというのは、

物理学における、この宇宙が誕生した時期に関しての、

1つの仮説にすぎないのです。

 

そして、天機が考えている、この世界の誕生や生成、成立についての、

仕組みやからくりというのは、

物理学的な、あるいは、科学的な、それとは、全然ちがいます。

 

 

 

天機は、どちらかというと、

科学があんまり好きではないんですよね。

 

数学や物理学、科学といった方面への素養や才能がなく、

あまりよくわからないから、でもあります。

 

科学に関しては、世界中の大学などの専門機関に、

それこそ、数えきれないほどの専門の科学者がいるだろうと思うので、

科学的な観点から世界のはじまりについて考えてもらうことについては、

彼らに頑張ってもらえばいい、とも、天機は思っています。

 

 

 

大勢の人たちがすでにやっていることを、天機も同じくやってみたところで、

あまり、意味のあることとも思えません。

 

それよりは、天機は、ほかのひとがあまりやっていないような方向からの、

独自のアプローチをとろうと思うのです。

 

 

 

天機は、世界中の神話や、伝説、故事成語といったものが好きです。

 

また、ユング心理学のような、精神世界的なものも好きです。

 

アルファベットや漢字、また、言葉の中にも、

この世界の秘密がかくれているかも、と考える人間ですし、

人間におっぱいが2つあることや、

太陽が東から昇って西に沈むことなど、

あたりまえすぎて科学が取り扱わないようなことを、

1つ1つ丹念に集めていきたい、と思う人間なのです。

 

なので、

世界のはじまりについて天機が考え、アプローチする際には、

科学をする者がとらないような、

こういった道から進んでいきたい、と思います。

 

 

 

では、この世界は、いったい、どのようにしてできてきたのでしょうか。

 

天機も、まだ考えている最中のことなので、

完成形での天機理論をお示しすることはできないのですが、

ここでその一端を披露してみましょう。

 

ちなみに、なぜ、この世界がどのようにしてできたのか、ということについての

自分の考えをまず述べるのか、というと、

それをまず述べたうえで、そのうえで、

その自分の考えた、この世界の生成の順番と、

十二支の原理を、対比させる形で、のちに説明していこうと思っているからです。

 

 

 

では、天機の考えたとおりに、述べていきたいと思います。

 

 

 

天機は、人間のてっぺんには髪の毛が生えているということ、

その髪の毛は、頭部を包み込んで守っていて、

また、頭髪はつぎつぎと生えては、どんどんとのびてくることを見ていて、

つぎのようなことを考えました。

 

 

 

すなわち、人間の髪の毛というのは、じつはこの世界のはじまりの、

矛盾、というお母さんであり、

その下にある人間の頭部というのは、

理、という、そのお母さんがはじめて産んだ男の子なんじゃないだろうか、

という、へんなことを考えたのです。

 

この、人間の髪の毛と、この世界のはじまりについて、

くわしく考察した記事は、以下になります。

興味をもたれたかたは、読んでいただけるとさいわいです。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

ここまで書いてきただけで、すでに1900字を超えてしまいました。

 

すでに10日ほど、新規の記事を投稿できていない状態が続いているので、

いったん、ここで投稿してしまいたいと思います。

 

お読みいただき、ありがとうございました。

 

つづく

「柳」の字源と、十二支の原理ーその1

こんにちわ。天機です。

(約1700字)

 

 

 

今回は、「柳」という漢字について、考えてみたいと思います。

 

 

 

柳、という字の、字源はなんなのか、と思って、

いつもお世話になるウィクショナリーというサイトを見てみましたが、

字源については未編集でした。

 

また、漢字学者の白川静さんは、

柳という漢字の字源についても、独自の説を唱えておられるようですが、

あまり一般的ではないようでした。

 

そこで、今回もまた、

古今の学説を無視しながら、天機が独自説をたててみようと思います。

 

 

 

柳、という漢字は、木へんに卯と書きます。

 

卯というのは、十二支のひとつで、子、丑、寅、卯の、

あの卯ですね。

 

十二支と動物を対応させる考えでいけば、うさぎさんにあたるところです。

 

 

 

じゃあ、なんで、柳という字は、木へんに卯なんだろう?

 

柳の木の下には、いつもうさぎさんがたたずんでいる、

というわけでもなさそうですよね。

 

 

 

でも、木へんに卯と書くからには、

なにか、十二支の卯と、柳の木のあいだには、関連がありそうです。

 

そこで、十二支の卯、さらには、十二支そのものについても、

じっくり考えてみましょう。

 

 

 

ちなみに、卯という漢字なんですが、この漢字は、

十二支の4番目をあらわす以外の意味を持たない漢字なのです。

 

なので、柳という漢字は、十二支の4番目と、

何らかの意味で関連がありそうです。

 

 

 

では、十二支について考えてみましょう。

 

 

 

十二支というのは、ね、うし、とら、う、と、

12個ならんでいるやつのことで、

僕たち日本人にも、なじみのあるものです。

 

お正月に年賀はがきを書いたりするひとは、

その年の干支はなんだったかなあ?と考えたりしますよね。

 

 

 

この十二支には、対応する動物があてられています。

 

子、には、ねずみ。

丑、には、牛。

寅、には、虎。

卯、には、うさぎ。

 

といった具合です。

 

 

 

もっとも、これらの動物との対応関係というのは、

後世になって、ひろく民衆一般に十二支の考え方を普及させるために

創作されたものだといわれています。

 

なので、十二支と、対応する動物の関連で、

十二支について考えていくことは、本筋からはずれる懸念があります。

 

 

 

十二支というのは、中国においては、

はるか昔から存在していた考え方なのです。

 

殷の時代の、甲骨文字には、すでに、十二支についての記載が

なされていた、という話もありますし、

紀元前十何世紀といった古い時代から、

十二支の考え方は、すでに中国においては存在していた、

と考えたほうがいいでしょう。

 

 

 

十二支は、

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥

と、それぞれ独特な漢字があてられています。

 

なかには、十二支をあらわす以外には使い道がないんじゃないか?

と思えるような漢字も、いくつかあるかもしれません。

 

十二支に、どうしてこれらの漢字があてられるようになったのか、

ということについて、

ウィキペディア先生に聞いてみましたが、

これらの漢字があてられるようになった、もともとの意味については、

不明である、

とおっしゃっていました。

 

つまり、この十二支が誕生した当初は、

なんらかの意味が念頭にあって、十二支にそれぞれの漢字があてられて

いったのでしょうが、

長い年月がたつにつれて、もともとの意味が失われていったのです。

 

 

 

十二支と動物との関係が本質的なものではない、とすると、

じゃあ、いったい十二支とは…?

となってきます。

 

 

 

そこで、十二支の起源について言われているほかの説として、

十二支は、植物の生長過程をあらわしているのだ、

とする説があります。

 

この説の詳しいことについては、各自で検索されてください。

植物生長過程説は、天機の採用する説ではないからです。

 

 

 

では、天機はいったい、十二支というのは、

どのような起源をもって誕生してきた、と考えているのでしょうか?

 

天機は、こう考えました。

 

 

 

十二支というのは、この世界が誕生して、形作られてきた、

その順番と関係があるんじゃないだろうか?

と。

 

 

 

えーと、中途半端なところで切れてしまい、申し訳ないのですが、

字数が1700字ほどになってきましたので、

このつづきは、次回の記事で、書いてみたいと思います。

岐路に立つ女性向けマーケティング。

こんにちわ。天機です。

(約2300字)

 

 

 

世の中には、さまざまなマーケティング手法がありますが、

そのなかの一分野に、

女性への訴求をめざしたマーケティングというのがあります。

 

 

 

女性目線にたつ。女性のニーズを敏感に取り入れる。

 

そういったことで、成功につながった事例は、

これまでにも数多くありました。

 

 

 

たとえば、クルマの分野で言っても、

以前は、スピードとか、性能面でのアピールを

おもに男性購買層に向けておこなっていたのが普通でした。

 

 

 

それを、車内のデザインを可愛らしくするとか、

子育てママでも乗り降りしやすい設計を取り入れるなど、

女性購買層への訴求という視点を取り入れたことで、

売り上げを大幅に増やしたクルマも、たくさんあるのです。

 

 

 

ところが最近、この女性への訴求を目指したマーケティング手法が、

どうも、岐路に立っているような気が、天機にはするのです。

 

 

 

なぜ岐路に立っているのか、というと、それは、

業界環境の悪化に対する打開策として、

この、女性への訴求を目指したマーケティング手法というのを、

安易に濫発するようになってきたからです。

 

そのために、このマーケティング手法は、

さほどめずらしいものではなくなってきていて、色あせており、

期待されたほどの効果をあげていないのではないか?

と思われるような事例も、ちらほら見られるようになってきました。

 

 

 

具体例でみてみましょう。

 

 

 

コンビニ業界の一角をしめるミニストップは、最近、

店内から成人向け雑誌を一掃することを決定しました。

 

どちらかといえば、男性購買層よりも女性購買層のほうを向いた戦略

といえますが、

このミニストップは、最近になって、

業績がひどく低迷していて、コンビニ業界の中では唯一、

最終赤字に転落しました。

 

 

 

百貨店業界やコンビニ業界では、最近、

女性用トイレをラグジュアリー化する流れと、

トイレを、男性用トイレと女性用トイレというふうに区分するのではなくて、

男女共用トイレと女性専用トイレというふうに区分する流れが、

顕著になってきています。

 

この流れも、女性購買層を向いた戦略といえるでしょうが、

アマゾンなどのネット通販の隆盛によって、

百貨店業界の斜陽化には歯止めがかかっておらず、また、

コンビニ業界も店舗数の飽和化によって、

業績が頭打ちになっています。

 

そして、これらの苦境をこの2つの業界にもたらした「元凶」の1つは、

アマゾンなどのネット通販なのですが、

おそらく、このネット通販の利用者には、男性が多いのです。

 

 

 

新聞やテレビなどの、メディア産業はどうでしょうか。

 

 

 

毎日新聞は、毎日新聞プレミアという媒体を持っていますが、

最近、そこではさかんに、

女性のニーズに焦点をあてた記事を濫発し、

そのなかで、女性の抱える問題の背景には、

男性の無理解があるとするキャンペーンのようなものを張っています。

 

ところがその毎日新聞は、いわゆる五大紙のなかでは、

部数が少ないことでも知られていて、

昨今の新聞離れの影響をもろに受けて、部数を大きく減らしているのです。

 

 

 

テレビはどうかというと、

TBS系列で放送されている「金スマ」などは、ラテ欄で、

「この番組は女性の皆様に元気になってもらうための番組です」

と標榜していますが、

金スマにかぎらず、昨今のテレビ番組のコンテンツのほとんどは、

女性のほうを向いた内容になっています。

 

やけに、出演者がその場で料理をしたり、食べたりする番組が多いいっぽうで、

エッチな内容の番組は、ほとんど見ないようになりましたよね。

 

 

 

ではそれで、視聴率のほうはどうなったか、といえば、

昨今、各番組の視聴率は、軒並み、右肩下がりです。

 

そのため、企業の多くは、テレビ広告への出稿を減らして

ネット広告へとシフトするようになり、

それがテレビ広告収入の減少をもたらして、番組制作費やギャラが削られ、

テレビ業界全体の斜陽産業化がすすんでいる、といわれているわけです。

 

 

 

また、テレビ業界では従来から、若い女性視聴者で構成されるところの、

いわゆる「F1層」にターゲットをしぼって番組作りをおこない、

ヒットを目指すのが、1つの常勝パターンでした。

 

流行に敏感で、流行の発信源ともなる彼女たちの影響力は、

非常に大きかったからです。

 

 

 

ところが、今年2018年はじめに、フジテレビ系列で放送された

海月姫」というドラマでは、

F1層からの評価は概して高かったのにもかかわらず、

全体としての視聴率はふるわず、ドラマは大爆死したと言われています。

 

このことはもしかしたら、

これまで流行のけん引役だったF1層の、

その影響力にかげりが生じ始めていることの、かすかな兆候なのかもしれません。

 

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そして、テレビ業界が衰退するいっぽうで、

相対的にネット業界が隆盛に向かっていますが、

どちらかといえばテレビよりもネットのほうを嗜好する層というのは、

相対的に、男性が多いのです。

 

 

 

以上のことから判断できることは、

おそらく、上に述べてきたような各業界では、

業界環境が悪化する中で、「窮余の一策」として、

安易に、女性への訴求を目指すマーケティングに頼ったのかもしれませんが、

たとえば、男性購買層の離反を一部で招くいっぽうで、

女性購買層そのものに、状況を転換させるほどのパワーがなかったために、

期待されたほどの効果を上げれていないのではないか、ということなのです。

 

 

 

女性への訴求を目指すマーケティングは、

おおきな効果を持つ場合があります。

 

とはいえ、それが常に万能の処方箋になるという保証はなく、

実際に行った、そのようなマーケティングが、

期待された効果をあげているのかどうかについては、

事後的な検証と分析が欠かせないように、天機は思います。