男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

浮気女の消毒も大事。

男性が浮気をしたことに腹をたて、男性に消毒液をかけたことで

男性が火だるまになったという事件で、女を逮捕。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

これに対してヤフーコメントでは、

浮気なら仕方がない、という意見が多いが、それをいうなら、

同様の浮気を女がした場合に、男性が怒って浮気女を火だるまに

したとしても、

やはり、浮気なら仕方がない、というふうに、同様の反応を示さなければ、

辻褄があわないことになるよ。

 

浮気男性を女が火だるまにした場合に、浮気なら仕方がない、

といっているのに、

浮気女を男性が火だるまにした場合に、

火をつけるなんて異常だ、みたいな反応をもししたりしたら、

おいおい、浮気なら仕方ないんじゃなかったのかよ、

論理的な整合性はあるのか?って話になるわな。

 

今後の、同種の事例を注意深く見守りたいものだ。

タカタの経営破綻と、状況の変化。

自動車のエアバッグ製造大手のタカタが経営破綻したと、報じられている。

 

タカタという会社のマークは、こんなかんじだ。↓

 

https://s1.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20141203&t=2&i=996431939&w=644&fh=&fw=&ll=&pl=&sq=&r=LYNXNPEAB208A

 

このマークをみればわかるように、タカタという会社のマークは、

右上の部分に欠けがある。

そして、マークの色は、赤だ。

このマークを読み解いてみよう。

 

まず、方向には、上下左右の4方向がある。

そのうちの、右と上をとりだして合わせると、右上という方向ができる。

タカタのマークは、その右上が欠けている。

つまり、タカタという会社は、右という方向があらわす原理や、

上という方向があらわす原理には、背を向けるような会社だ、ということだ。

 

では、右という方向があらわす原理、上という方向があらわす原理とは、

いったい、どのようなものなのだろうか。

 

まず、右という方向があらわす原理から考えてみよう。

芥川龍之介の「羅生門」の、なぜ。 - 男性差別、ときどき、世界への反逆。

というブログ記事でも書いたのだが、右という方向は、

理の原理をあらわす方向なのである。

対して、左という方向は、生の原理をあらわす。

 

つぎに、上という方向があらわす原理について考えてみよう。

この世界には、上のほうに天が、下のほうに地が、それぞれ存在する。

そして、これはまた別のブログ記事で書こうと思っているのだが、

天というのは男性原理を、地というのは女性原理を、

それぞれあらわすものなのだ。

つまり、上の方向というのは、男性原理をあらわす方向なのである。

 

タカタのマークは、右上が欠けている。

つまり、タカタという会社は、右という方向があらわす原理、

上という方向があらわす原理には、背を向けるような会社なのだ。

そして、右という方向が理の原理を、上という方向が男性原理を、

それぞれあらわすものであることから、

タカタという会社は、

理の原理や男性原理には、背を向けるような会社であることがわかる。

 

ここで、タカタのマークをもういちど。

 

https://s1.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20141203&t=2&i=996431939&w=644&fh=&fw=&ll=&pl=&sq=&r=LYNXNPEAB208A

 

この右上が欠けたマークは、どことなく、つぎのアルファベットに

似てはいないだろうか。

 

https://tockhouse.net/wp-content/uploads/2016/09/P9280929.jpg

 

そう、アルファベットのLである。

そして、Lというアルファベットを頭文字に持つ単語には、

LIKEであったり、LOVEであったり、LIVEであったり、

といった単語がある。

 

他者からの好意や支持、評価によって力をえるのだ、という原理をあらわす

LIKEやLOVE。

他者を犠牲にして、他者を犠牲にすることをつうじて、

この自分が生きるのだ、という原理をあらわすLIVE。

 

そうなのである。

アルファベットLというのは、理の原理とは反対の、

生の原理にかかわるアルファベットなのだ。

そして、タカタという会社のマークは、どことなく、

このアルファベットLに似ているのである。

 

さらには、タカタという会社のマークの、色はどうであろうか。

タカタという会社のマークの色は、赤である。

そして、このことも

芥川龍之介の「羅生門」の、なぜ。 - 男性差別、ときどき、世界への反逆。

というブログ記事の中で書いたことなのだが、

赤という色もまた、生の原理をあらわす色なのだ。

 

つまり、以上からわかることは、

タカタという会社のマークは、

その欠けている部分、その形状、そしてその色、

それらのすべてが、男性原理や理の原理を排斥し、生の原理を礼賛する

思想でつらぬかれているのである。

 

 

はたして、この、生の原理を礼賛するという戦略は、得策なのであろうか。

 

これは、たしかに、

これまでの時代においては、

得策だったといえるかもしれない。

 

生の原理というのは、たとえていうならば、

99.999999…%を支配する原理なのである。

それに対して、理の原理というのは、たとえていうならば、

0.000000…1%を支配する原理なのだ。

 

生の原理が99.999999…%を支配するものである以上、

戦った場合は、そのほぼすべてにおいて、生の原理が勝つ。

だから、勝つ可能性の非常に高い生の原理のほうに肩入れしておくことは、

戦略決定としては、あながち責められないものなのだ。

事実、これまでの時代は、タカタという会社は、

世界シェアの2割をしめるなど、非常に繁栄してきたのである。

 

ところが、ここ数年になって、

世の中の風向きが、微妙に変化し始めてきた。

このこともまた、べつのブログ記事で稿を改めて書こうと思っているのだが、

冥王星が、やぎ座という冬の星座を通過し、だんだんと理の星座である

みずがめ座に接近しつつあることが影響しているのか、

世の中の空気的に、徐々に、

理が強まりつつある

ような気がするのだ。

 

ふつうは、生が勝つのである。理は、負けることがおおい。

ところが、ごくまれに、理が勝つことがあるのだ。

現在という時代は、どうも、理の原理がだんだんと力を増しつつあるような、

そんな時代の転換点、変革期であるような気がするのだ。

だからこそ、これまで生の原理を礼賛することで繁栄を謳歌してきた

タカタという会社も、

理の原理の抬頭というあらたな時代の波に、一敗地にまみれることに

なったのではないか。

 

理が、反撃を開始しつつある。

小林麻央さんの死に思うーその3。

自分はこのブログの中で、しばしば、生の原理と理の原理について

考えている。

生とは、他者を犠牲にし、他者を犠牲にすることを通じて、

この自分が生きる、という原理。

理とは、自分とは異なる他者が存在するということを認める、という原理。

 

芥川龍之介の「羅生門」の、なぜ。 - 男性差別、ときどき、世界への反逆。

というブログ記事でも書いたのだが、

生きるということ、生の原理とは、つまるところ、悪なのである。

小林麻央さん、夏目雅子さん、坂井泉水さん、本田美奈子さん、

といったひとたちに、「毒がない」ということは、つまりは、

悪の要素が少ない、ということで、それがじつは、

生き抜いていく上での生命力の弱さのようなものに、もしかしたら、

つながっているのではないだろうか。

 

生き抜いていく上では、ハングリー精神、タフネスといったものが大切で

あろうことはいうまでもないのだが、

自分がここで、彼女たちに欠けているのではないか、と考える資質は、

こういったハングリー精神やタフネスではないのだ。

あくまで、「悪」、邪悪さなのである。

 

この世界では、当然のことながら、悪や邪悪さといったものは、

よくないものとされている。

それは、ひとつのタブーなのだ。

でも、どんな人間の中にも多かれ少なかれ存在するであろう、その悪は、

じつは、その当人を盾のように守ってくれて、しぶとく生き抜かせる

原動力のようなものになっているのではないだろうか。

そして、その悪の要素があまりにも希薄であって、当人があまりにも

透明な、純粋な善のようなものに近づいていくと、じつはそれは、

死に近づいている、ということになるのではないだろうか。

ふと、そんなことを思った。

 

 

以前、TSUTAYAで、「ぼくのエリ」という洋画を借りたことがある。

そのあらすじは、こうだ。

主人公は、内気な少年で、あるとき、女の子と出会う。

が、じつはその女の子は吸血鬼で、周囲で何人もの人間が犠牲になっていた。

その女の子は、その少年のことが好きだった。

あるとき、その少年が、プールでいじめられて、おぼれさせられそうになる。

殺されそうになったのだ。

少年には、なすすべがなかった。

そのとき、助けてくれたのが、吸血鬼の女の子だった。

女の子は、少年を溺れさせて殺そうとしたいじめっ子たちを、皆殺しにしたのだ。

その女の子は、少年に、たしかこんなことを言ったように思う。

「生のことを怖がらないで、生を忘れないで」かなんか、そんなことを。

詳しい内容については、記憶違いがあるかもしれないが、だいたい、

こんな内容だったと思う。

 

だれのなかにも、この映画のエリという女の子のような存在がいる。

その存在は、一見したところ邪悪で、正面切っては認めることができない

ようなものなのだ。

でもじつはその女の子は、その当人が生きていてくれることをだれよりも

願っていて、盾のようにその当人を守ってくれるのだ。

 

生きることは、悪だ。

悪の要素が希薄になりすぎると、死の危険がせまる。

悪が、じつは自分を守ろうとしてくれるのだ。

小林麻央さんの死に思うーその2。

小林麻央さんの死に関しては、いろいろなひとが、いろいろなことを

言っている。

34歳という、あまりにも早すぎる死ということが、

ひとびとにいろんなことを感じさせるようだ。

 

新歌舞伎座になってから、歌舞伎界には、不運なことが続いている。

その歌舞伎界の「呪い」のひとつなのではないか、というひともいる。

 

また、小林麻央さんはこれまで、家柄にも、美貌にも、才能にも、

名声にも、結婚にも、子供にも、非常にめぐまれた人生をおくってきた。

そのような順風満帆の人生をおくるなかで、運を使い果たしてしまったの

ではないか、というひともいる。

 

あるいは、市川海老蔵という男は、これまで、数多くの女性を泣かせてきた、

ともいわれる。市川海老蔵に泣かされた女性たちの、生霊のようなものが、

小林麻央さんにとりついたのではないか、というひともいる。

 

真相はどうなのか、わからない。

でも、早めに複数の病院で、慎重に検査を受けるという、

人間の努力で、防げる可能性のあった災難でもある。

 

小林麻央さんは、34歳の若さで亡くなった。

日本女性の平均寿命は80歳代半ばとされているから、小林麻央さんは、

平均よりも50年以上、寿命が短かったことになる。

くわえて、その人生の末期の約3年間は、病に苦しめられた時間だった。

 

順風満帆な人生をおくってきたのだが、病に苦しめられ、

寿命がすごく短くなる。

こうしてみてくると、彼女の人生を全体としてみたときに、

ほんとうに幸せな人生だったのかどうかは、なんともいえない。

 

 

彼女に限らず、とても若くして亡くなる芸能人、というのが存在する。

夏目雅子さんもそうだし、ZARD坂井泉水さんもそうだし、

本田美奈子さんもそうだ。

小林麻央さん、夏目雅子さん、坂井泉水さん、本田美奈子さん。

こうして、若くして亡くなった4人の容貌を思い浮かべてみたときに、

ぼくが思うのは、

とても美しい人ばかりだなあ、ということだ。

それも、ただ単に美しいのではなく、なんというか、

透き通るような透明感のある美しさを持っていたり、

笑った時にその笑顔が透き通っていて屈託がないような、

そんな人ばかりなのだ。

 

ひとことでいうと、「毒がない」のである。

人間、生きていれば、他人のことをねたんだり、うらんだり、

腹をたてたり、そういった負の感情は、自然に発生するものだと思う。

男性でも、女性でも、そういった負の感情は、おおくのひとがかかえて

生きている。つまり、ある程度の「毒」は、だれしもがもっているはずなのだ。

ところが、小林麻央さん、夏目雅子さん、坂井泉水さん、本田美奈子さん、

といったひとたちには、なぜだか、そういった「毒」を感じないのである。

 

もちろん、人間だから、彼女たちもそういった負の感情を、

本当は持っているのかもしれない。

自分は、彼女たちと近しい人間ではないから、本当のところはわからない。

あくまで、テレビの画面でみたかぎりで、そういう印象がある、

というだけのことだ。

でも、テレビに映る芸能人は多数いて、その多くは、画面上からも、

ある程度の毒をもっていることが、はた目にもわかるのである。

いや、むしろ、そういった毒をある程度はもっていないと、

とても芸能界のような世界では、生き残ってはいけないだろうと思うのだ。

ところが、彼女たちには、その毒が、あまり感じ取れない。

小林麻央さんの死に思うーその1。

小林麻央さんが亡くなられた。34歳だった。

テレビなどでは、多くの人が悲しんでいる、と報じられている。

小林麻央さんのブログにも、たくさんのコメントが寄せられているそうだ。

 

自分は、小林麻央さんという人を、あまりよく知らない。

もともと、あんまりテレビを見ないこともあって、

芸能ニュースなどに疎い、ということもある。

ずいぶん昔に、恋のから騒ぎにでていた、と言われれば、

そういえばなんか、見たことがあるかもしれない、と思う。

NEWS ZEROでキャスターをやっていた、ともいわれるが、

自分はその番組を見ていない。

だから、結局のところ、あまりよく知らないのだ。

 

自分がよく知っているひと、思い入れのある人であれば、

その死はとても悲しいものとなって自分に襲い掛かってくるだろうが、

いかんせん、小林麻央さんはそのようなひとではないので、

すくなくとも自分は、あまり悲しいなどという感情はわかないのだ。

 

そしてさらにいえば、自分の個人的な事情から、

小林麻央さんの死を素直には悲しめないところがある。

【時流を読む】没落する2003年興隆組。 - 男性差別、ときどき、世界への反逆。

というブログ記事でも書いたのだが、

小林麻央さんという人は、2003年ごろを境にして、運勢が急上昇した

ひとの1人なのである。

2003年ごろを境にして、きらびやかな表舞台へと登場したひとなのだ。

ところが、この2003年という年は、自分個人にとっては、

運勢が急降下をはじめた年なのである。

その後の十数年間、自分個人にとっては、ほんとうにつらい時期が続いた。

つまり、簡単に言えば、小林麻央さんの運勢と自分の運勢は、

互いにシーソーのような関係にあるようなのである。

小林麻央さんの運が絶好調の時、自分の運は絶不調。

小林麻央さんの運が絶不調の時、自分の運は絶好調。

おそらく、そうなるだろうと思う。

こういう、特殊な個人的な事情があるために、自分は、

小林麻央さんの幸福を願うわけにはいかないのである。

実際、小林麻央さんが癌である、という情報が流れたあとも、自分は、

彼女の回復を願わなかったし、彼女のブログもほとんど見に行かなかった。

 

冷酷なようにも思えるかもしれないが、そもそも

運命というものが冷酷なものなのである。

自分の不運は、だれか他人が肩代わりしてくれるわけではない。

彼女は今回、大病と早世というおおきな不運に見舞われたわけだが、

その不運は、だれか他人が肩代わりできるわけではない。

同様に、自分も2003年からの十数年間、非常な不運に見舞われたのだが、

だれか他人がその不運を肩代わりしてくれたわけではないのだ。

幸運も、不運も、自分で受け止めるしかないのである。

それでいえば、ある人間に永遠に幸運をあたえるいっぽうで、

他の人間には永遠に不運をあたえるようなことが、もしかりにあれば、

そちらのほうこそ、よほど残酷ではないか、と思う。

運はめぐりゆく。

幸運はいつまでも続かないであろうし、不運もまた、いつまでもは続かない

であろう。

それが、時というものの性質なのだ。

映画館のレディースデー。

商業施設では、しばしば、女性優遇的なサービスが設定されることがある。

映画館のレディースデーというのも、そのひとつだ。

メンズデーを同時に設けているのなら、べつに女性優遇的ではないのだが、

レディースデーのみ設けている映画館も、めずらしくはない。

自分は、男性差別的、女性優遇的なサービスには、日ごろから憤慨して

いたので、このこともひとつの原因になって、

映画館からは足が遠のいていた。

 

ところが去年の秋、ひさしぶりに映画館へ行くことになった。

きっかけは、報道番組で、「君の名は。」がヒットしている、と報じられた

ことだった。

自分も見てみようかな、と思って、行ってみた。

 

その日はたまたま、その映画館のレディースデーの日だった。

自分がそのレディースデーの日をえらんで行ったのではなく、

報道があった翌日に行ったら、レディースデーの日だったのだ。

 

心なしか、女性の数が多いように感じた。

そして、驚くべきことに、自分がチケットを買った座席の、

その両隣が、1人で見に来ていた若い女性だったのだ。

君の名は。の上映時間中ずっと、若い女性にはさまれながら映画を楽しむ

ことができた。

 

レディースデーも悪くない、と思った。

若い女の子と物理的に近い空間にいられると、なんだか、

若返りのエキスをもらったようなうれしさがある。

反対に、電車やバスなどの公共交通機関で、うじゃうじゃと老人が

いたりすると、なんだか汚されたような気分になるのだ。

クソババアの転落。

女だてらに上昇志向のクソババアが墓穴を掘って本当にスッキリ。

このまま地獄の底から出てくんな。