この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【紫微斗数】遷移宮の象意について。

こんばんわ。天機です。

(約2000字)

 

 

きょうは、占いのお話です。

 

東洋占術に、「紫微斗数(しびとすう)」という占いがあるのですが、

きょうは、その占いで登場する「遷移宮(せんいきゅう)」

についての、独自の分析記事になります。

 

 

 

さて、紫微斗数においては、

いろんな分野のことを占うために、命盤というのを用意します。

 

その命盤は、12の部屋に分かれていて、それを「12宮」といいます。

 

その12宮のなかで、自分自身をあらわす、

いちばん大切な部屋が「命宮(めいきゅう)」なのですが、

その命宮の向かい側の部屋、つまり、命宮の対宮(たいきゅう)

にあたる部屋が、遷移宮なのです。

 

 

 

遷移宮については、一般的に、

 

①外出運、移動運などをあらわす。

 外出した際や、遠方に移転したときに、その移動先で

 発展できるのかどうか。

 ひとから歓迎されるのか、どうか。

 

②そのひとの対外的な印象をあらわす。

 外から見て、そのひとは、どのように見られているのか。

 

といったことをあらわす、と言われています。

 

 

 

天機は、ここからさらに発展させて、

遷移宮というところが、

どういうふうなことをあらわすのかについて、考えてみようと思います。

 

 

 

まず第一に、遷移宮は、「後天運」や「後半生」を

あらわす可能性があります。

 

ふつう、紫微斗数において、「後天運」や「後半生」をあらわす宮位といえば、

「身宮」が有名でしょう。

 

ですが、各種の紫微斗数の文献や、あるいは、

紫微斗数の本場、台湾などの紫微斗数サイトでは、

身宮にならんで、

「福徳宮」や「遷移宮」が、「後天運」や「後半生」

をあらわす、としているものが、いくつかあるのです。

 

 

 

このことについては、つぎのように考えることができます。

 

 

 

遷移宮の「遷移」という言葉は、

「移り変わって変化していく」という意味を持ちます。

 

つまり、命宮と、その対宮である遷移宮の関係でいえば、

そのひとが生まれたときどうであったか、ということをあらわすのが命宮なら、

その後どのように変化していくのか、をあらわすのが遷移宮なのです。

 

したがって、

先天運や前半生のことが命宮によく示されるように、

後天運や後半生のことは遷移宮によく示される、と考えることができるわけです。

 

 

 

ということは、たとえば、

命宮にはあんまりいい星が入っていないけれど、

遷移宮にはかなりいい星が入っている、というような人は、

生まれた時や若い時にはあまり恵まれないけれど、

人生の後半に向かうにつれて、だんだん運が上向きになる、と読めるわけです。

 

 

 

そして、この「遷移宮」については、

 

各宮の遷移宮

 

というものを考えることができると思うのです。

 

 

 

どういうことなのか、説明していきましょう。

 

 

 

たとえば、紫微斗数の命盤においては、

夫妻宮と官禄宮というのは、たがいに向い合せになっており、

対宮の関係にあります。

 

ということは、

官禄宮というのは、夫妻宮から見た場合の「夫妻宮の遷移宮」であり、

夫妻宮というのは、官禄宮から見た場合の「官禄宮の遷移宮」である、

とみることができるわけです。

 

 

 

ということは、どういうことかというと、

官禄宮は、仕事運や事業運といった、本来あらわしている内容以外に、

 

後半生における結婚運をあらわす

 

という読み方をすることが可能になるのです。

 

反対に、夫妻宮は、本来あらわしている恋愛運や結婚運以外に、

 

後半生における仕事運をあらわす

 

という読み方をすることが可能になるのです。

 

 

 

ゆえに、本来の紫微斗数の命盤において、

夫妻宮にはいい星が入っているけれど、官禄宮には悪い星が入っている、

といった場合には、このひとは、

 

前半生においては恋愛運がよくて仕事運が悪いけれども、

後半生においては仕事運がよくなり恋愛運が悪くなる、

と読むことができます。

 

 

 

以上が、各宮の遷移宮、ということについての説明です。

 

 

 

もう1つ、遷移宮は「遷移」すること、つまり、

 

変化すること全般

 

の吉凶をみることができます。

 

 

 

遷移宮にいい星がたくさん入っているのなら、

このひとは、なにかと変化したほうがラッキーである、という運の持ち主なのです。

 

反対に、遷移宮にあまりいい星が入っていないようなら、

このひとは、あまり変化せずに、

ひとつの所をじっと守ったほうがいい、という運の持ち主だということになります。

 

 

 

たとえば、変な例ですが、

数学の試験問題を解いているときに、

1つの問題がむずかしくて、全然わからないとします。

 

遷移宮がいいひとなら、こういうとき、

その問題はおいといて、他の問題にとりかかったほうが、

うまくいく可能性が高い、ということになります。

 

ほかの問題に「移る」ということを、「遷移宮」が管轄しているからです。

 

 

 

また1つ、変な例ですが、

デパートの便所に行ったら、すごく並んでいたとしましょう。

 

遷移宮がいいひとなら、こういうとき、

エスカレーターでほかの階へ移って、べつのトイレを探してみたら、

案外、すいているかもしれません。

 

ほかのトイレへと、「場所を移動」することは、

遷移宮の管轄だからです。

女性はなぜ、共感をもとめるのか。

こんにちわ。天機です。

(約3600字)

 

 

 

きょうは、男女のコミュニケーションのありかたの違いについて、

考えてみたいと思います。

 

 

 

さて、世の中ではときどき、

男女のコミュニケーションのありかたについて、

 

 

 

女性は共感をもとめる

 

 

 

のに対して、

 

 

 

男性は解決策を提示しようとする

 

 

 

といったことが、言われることがあります。

 

 

 

もし、これが事実なのだとしたら、

その原因はいったい、どんなところにあるのでしょうか。

 

 

 

これについては、

男性は「思考」が発達しているのに対して、

女性は「感情」が発達しているからだ、

といった説明がされることも、よくあると思うのです。

 

 

 

ですが天機は、もっと深く考えてみようと思いました。

それは、以下のようになります。

 

 

 

天機は、このことの背景には、

 

 

 

苦というものをどのようにとらえているのか

 

 

 

について、

男女間で違いがある、ということがあるのではないだろうか…と、

思ったのです。

 

 

 

具体的にみてみましょう。

 

 

 

天機の考え方では、

 

 

 

男性は、「苦を消し去ることは可能だ」と考えている

 

 

 

のに対して、

 

 

 

女性は、「苦を消し去ることはできない」と考えている

 

 

 

のではなかろうか、と思うのですね。

 

 

 

いまここに、なにか問題があったとします。

 

 

 

問題が、解決されないままでそのまま残っているのは、

嫌なことですから、

それはひとつの「苦」である、といっていいかもしれません。

 

 

 

もし、この「苦」を目の前にしたときに、

「苦というものは消し去ることができるんだ」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

それはもちろん、そんな「苦」は、

早々に消し去ってしまったほうがいいに決まっています。

それで、嫌なこととおさらばできるのですから。

 

そして、そのためには、「解決策」を考えていく、ということになりそうです。

 

 

 

これが、おそらくは、男性の基本思想なのです。

 

したがって男性は、

なんらかの「苦」を提示されると、それを「問題」ととらえて、

「解決策」を模索しようと、頭脳を稼働させ始めるのです。

 

それは、「苦というものは消し去ることができるのだ」

という、男性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

では、同様に、ここになにかひとつ、問題があったときに、

「苦というものは消し去ることはできない」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

これは、先の場合とは異なります。

 

今度は、苦というのは、嫌なものなのに、

それから逃れるすべは、原理的には「ない」ということになってしまいます。

 

ここでは、どんなに「解決策」のようなものが提示されたとしても、

そのひとにとっては、どれも空疎なものに聞こえるでしょう。

 

それよりは、

逃れようのない圧倒的な「苦」にさらされている自分にとっては、

せめて、その自分の苦しみへの「共感」があるほうが、

どんなにか力強く感じられるのではないでしょうか。

 

 

 

これが、おそらくは、女性の基本思想なのです。

 

したがって女性は、

なんらかの「苦」に直面すると、基本的には、

その苦を解決しようとしたり、解決策を求めたりするよりも、

自身への「共感」をもとめることになるのだと思います。

 

それは、

「苦というものを消し去ることは原理的には不可能だ」

という、女性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

ちまたで、男女が口論になっている場面では、

男性は、

「どうして解決策を考えようとしないんだ!?」といきどおり、

女性は、

「ただ共感がほしいだけなのに…なんでわかってくれないの?」

といったふうにいきどおる…

といったようなことがある、と聞いたことがあります。

 

天機は、そんな場面に出くわしたことが、これまでの人生でありませんので、

よく知りませんが。

 

 

 

こういった場面でも、

男性がなんで、解決策にこだわるのかといえば、それは、

 

問題というものは解決ができるのだ

 

と、ある意味「無邪気に」信じているからかもしれず、

 

女性がなんで、共感にこだわるのかといえば、それは、

 

この世界には、解決できない苦しみもあるんじゃない?

 

という、男性へのひそやかな反問がかげにかくれているから、

かもしれません。

 

 

 

ところで、そもそも、

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

これが、根源にある、かなり大きな問いであるような気がするのです。

 

 

 

天機は、この広い自然世界と、人間の体のかたちとかを、

関連付けて考えるクセがあって、

それは、このブログのほかの記事とかでも書いているのですが、

この世界は、

 

 

 

矛盾→理→生

 

 

 

という順番で生成してきた、と、勝手に考えています。

 

 

 

具体的な存在や現象でいうと、

 

矛盾(夜の闇の黒)→理(昼の光の白)→生(夕焼け空の赤)

 

であり、また、

 

矛盾(髪の毛)→理(頭脳)→生(胴体、生殖器

 

でもある、と思っているのです。

 

 

 

で、この原理の関係のなかに、

 

 

というのを入れてみると、じつは、

 

 

 

矛盾(苦しみ)→理(それを解決しようとする理性)

→生(その結果得られる快楽)

 

 

 

なんじゃないか?

とも、思ったんですよね。

 

 

 

ここでもう一度、問いにもどります。

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=髪の毛

 

なわけです。

 

 

 

女性って、どういうわけか、髪の毛を長くのばしますよね。

男性は、そうはしない。バッサリといっちゃう。

 

 

 

これなんかも、

女性というのは、苦(髪の毛)というものを、

まるで愛おしむかのようなところがあるように、自分なんかには思えるのです。

 

 

 

いや、そんなことはないよ、って、女性からの反発の声もあるとは思います。

 

でも、少なくとも男性は、苦というものを、

ただ嫌なものでしかない、と見る傾向が強いな、という気はします。

 

 

 

もうひとつ、上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=夜の闇の黒

 

でもあるわけです。

 

 

 

暗闇で、たとえばマッチなんかをすって、光をともすでしょう。

 

すると、そこにあった暗闇(苦)は、消えます。

 

言ってみれば、光(理性)によって闇は殺された、とも、言えるかもしれません。

 

 

 

そうすると、たしかに、

光(理性)によって闇(苦)を消すことができた、と見えるかもしれません。

 

 

 

しかし、光には、寿命があります。

 

マッチの火であれば、マッチが燃え尽きれば、やがては、

もとの闇が戻ります。

 

 

 

この広い広い宇宙は、そのほとんどが暗闇でおおわれています。

 

太陽のように、みずから燃えて輝く恒星はたくさんあって、

その恒星の周辺では、暗闇が消されているわけですが、

それら恒星にも、寿命があるわけなので、

恒星が燃え尽きれば、やがては、ふたたび闇におおわれることになるでしょう。

 

 

 

男性というものは、ある意味、無邪気なところがあって、

その無邪気さが、いろんな成功や発展につながることもあったし、

その無邪気さが、逆に、悲しみや苦しみを生むこともあったと思うのです。

 

 

 

基本的には、男性は、苦しみを嫌がります。そして、快楽を好みます。

苦しみがあれば、それを消し去ろうとして、

頭脳をフル稼働させてくるのが、男性です。

 

苦しみとともにいよう、とか、苦しみを抱きしめよう、とかは、

たぶん、ほとんどの男性は、考えないと思います。

男性にとっては、「苦」は「嫌なもの」でしかないからです。

 

 

 

その男性の、苦しみを避けたいという気持ちと、

そのために働かせた頭脳のおかげで、

たとえばこの地球上には、さまざまな学問がうまれ、科学が発達し、

文明の利器がたくさん誕生しました。

 

そのために、たとえば、

夏の暑さに苦しむという「苦」も、

過重な労働をしなければいけないという「苦」も、

みな、「消し去る」ことができたのです。

 

 

 

そのなかには、たとえば、

炊飯器や電気洗濯機、エアコンや冷蔵庫や電気掃除機なんていうものも

あったりして、

それらは、これまで家事労働を主にになうことも多かった女性の負担を

一定程度減らしているかもしれず、

男性は「えっへん。どうだい?」と胸を張るわけです。

 

 

 

しかし、そんなにも文明と文明の利器が発達したのにもかかわらず、

もう何千年、何万年の昔から、

たとえば、

お産の時に、女性だけが苦しまなければいけない、

といった現実は、なんら変わっていないのです。

 

 

 

女性だけが苦しまなければいけない、などという理は、

もちろん、あるはずもないのですが、

この、人間の歴史においては、事実として、

「女性」と「苦しみ」は、近い位置に存在し続けてきたのです。

 

 

 

つまり、

「苦しみ」というのは、

女性にとっては、「肌感覚で感じることのできる現実の1つ」

なのだ、というところが、男性と違うところであって、

それゆえ、

なにか問題があったときに、

解決策を提示してくる男性の、その背景に、

 

苦しみというものは消し去ることができる

 

という、男性特有の無邪気な基本思想の存在を、

女性の敏感な「嗅覚」は感じ取っていて、

それが女性の中に、いやいや、

 

消せない苦しみもあると思うよ?

 

といったような、ある種の反発をも生じさせているんじゃないかな。

 

 

 

そんなふうなことを、天機は考えていました。

 

 

心と体に刻印された数字。

こんにちわ。天機です。

(約1300字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議系のお話です。

 

 

 

1と2という数字があります。

 

とても単純な数字なのですが、天機はこの数字について、

なんとなく、

 

2というのは「対(つい)」になっているから、それで完結できる数字

 

1というのは、それだけでは完結できず、相手を求める数字

 

のように考えることがあります。

 

 

 

さて、世の中には、

 

男性と女性

 

がいます。

 

 

 

男性にも心と体があり、女性にも心と体がありますから、

 

男性の心、男性の体、女性の心、女性の体、

 

というふうに、4つのパターンがあると思うんです。

 

 

 

天機は、この4つのパターンには、

数字の1か2が、それぞれにセットになって「刻印」

されてるんじゃないかな?

と思ったのです。

 

 

 

そして、その刻印のされかたというのが、

 

男性の心ー②

男性の体ー①

女性の心ー①

女性の体ー②

 

なんじゃないだろうか?

と思ったのですね。

 

 

 

なんで、そういうふうに思ったのか。

 

その理由を、すこし明らかにしてみましょう。

 

 

 

まず、男性の心というのは、②と結合していますから、

それで完結しています。自己完結しているのです。

 

だから、男性は、どちらかというと女性に比べて、

心の交流をするというよりは、

自分の中であれこれと「思考」するのが好きです。

自分の中で解決しようとするのです。

 

 

 

それに対して、女性の心は、①と結合しています。

これは、自分だけでは解決せずに、相手を求める、ということです。

 

ですから女性は、どちらかというと男性にくらべて、

他者と心の交流をするのを好みます。

 

女性のこの性質は、たぶん、女性の「おしゃべり好き」

となってあらわれます。

 

 

 

体について、見てみましょうか。

 

 

 

男性の体というのは、①と結合しています。

 

つまり、男性は、体のことに関して、

自分だけでは完結せずに、相手をもとめる、ということです。

 

肉体に関して相手をもとめる、という、この男性の性質は、

たぶん、女性に比べた場合の、男性の「エッチさ」

になって、あらわれてくるように思えます。

 

 

 

それに対して、女性の体は、②と結合しています。

 

これは、女性は肉体のことに関しては、自己で完結している、

ということです。

 

つまり、肉体のことに関しては、

男性ほどには、相手を求める、ということをしないので、

それゆえ女性は、

男性ほどにはエッチなことを好むわけではない、

という性質になって、あらわれてくるように思えるのです。

 

 

 

そして、余談ですが、

男性の体が数字の①と結合し、女性の体が数字の②と結合しているのは、

男性の体、女性の体を、

それぞれ外から眺めてみたときの、「かたち」にも

関わっているような気もするのです。

 

 

 

男性の体には、女性の体にはない「出っ張り」があります。

おちんちんです。

その、おちんちんの数は「①」ですが、

これは、男性の体が数字の①と結合していることと符合します。

 

 

 

女性の体には、男性の体にはない「出っ張り」があります。

おっぱいです。

その、おっぱいの数は「②」ですが、

これは、女性の体が数字の②と結合していることと符合します。

 

 

 

きょうは、そんな変なお話でした。

食事中のトイレについて、思うこと。

こんにちわ。天機です。

(約2200字)

 

 

 

きょうは、食事中のトイレについて、思うことを書いてみようと思います。

 

 

 

食事中にトイレに立つことについては、いろいろな意見があるようです。

 

 

 

「食事中にトイレに立つなんて、マナー違反だ。

 きちんと食事前にトイレをすませておくべきだ。」

 

という意見があるいっぽうで、

 

「食事中にトイレに行きたくなったときに、

 我慢を強いるというのは、一種の虐待にもなるんじゃないか?」

 

といった意見があったりします。

 

 

 

天機は、この問題について、自分の意見をのべてみたいと思います。

 

天機の意見が正しい、というわけではなくて、

世の中にいろんな意見がある、そんななかの1つの意見として、

天機はこんなふうに考えているのだな、

と思っていただければ、さいわいです。

 

 

 

さて、天機はいろんな問題について考える際の、

その思考枠組みの1つに、

 

「物事には、この世界には、通常と異常がある。

 通常だけがこの世界のすべてをおおいつくしているわけではなくて、

 通常と異常、その2つが合わさって、はじめてこの世界はできている。」

 

というような思考枠組みを持っています。

 

 

 

今回の、食事中のトイレの問題も、

この思考枠組みをもとにして、考えてみましょう。

 

 

 

まず、「通常」は、

食事中にトイレに立つというのは、マナー違反であって、

避けるべきことだと思うのです。

 

 

 

1人で食事をしているときなら、さほど問題ではないかもしれないですが、

ほかのひとが同席しているときなどは、やはり、

だれかが食事中にトイレに立つというのは、気分のよいものではありません。

 

 

 

お里が知れる、という言葉もありますが、

いい大人になって、食事の最中にトイレに立つようなことが度重なると、

「このひとは、小さい時に、そういったマナーをしつけてもらえなかった

 のかな?」

と思われる可能性も、なきにしもあらずでしょう。

 

 

 

そして「通常」は、

食事中にトイレに立つことを防ぐことは、

さほどむずかしいことでもないようにも思うのです。

 

自分がそういった傾向がある、というふうにわかっているのなら、

注意して、

なるべくトイレは食事前にすませておくように、

習慣づけることもできるはずだからです。

 

 

 

以上が、「通常」です。

 

 

 

ただ、この世界には、「通常」だけではなく、

「通常」の外側に、「異常」が存在する、と天機は思うのです。

 

 

 

では、食事中のトイレの問題に関しての、

「異常」とは、いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、その「異常」というのは、

 

「食事前にあらかじめトイレに行っておく、などの予防策を講じて

 おいたのにもかかわらず、

 その点における不注意はなかったにもかかわらず、

 急な、突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立つ必要に

 迫られた場合」

 

のような場合だと思うのです。

 

 

 

これが、「通常」に対する、「異常」の場合です。

 

 

 

そして、通常には通常を管轄する論理があって、

通常の場合は、その通常を管轄する論理に従えばいいのですが、

他方で、

異常には異常を管轄する論理があって、

異常の場合は、通常を管轄する論理で対応すべきではなく、

異常を管轄する論理で対応しなければいけない、

というのが、天機の考え方です。

 

 

 

あらかじめ、食事前にトイレを済ませておく、

などの予防策をとったのに、

それでも、急な突発的な腹痛で、どうしてもトイレに行く必要に

迫られた、というのは、「異常」の論理が適用されるべき場面です。

 

 

 

ここでもかりに、

「通常」の論理を適用したとなると、

 

「どんなに急で突発的な腹痛が起こったとしても、

 食事中にトイレに立つのは、

 いついかなるときでも絶対的にマナー違反だから、

 どんなに苦しくても、絶対に食事中にトイレに立ってはダメだよ?」

 

ということになりかねません。

 

 

 

ですが、天機は、これはおかしなことだと思うのです。

 

 

 

そもそも、マナーや礼儀といったものは、

人と人とが、健やかに幸福に社会生活をおくっていくために、

人間社会において醸成されてきたものであるはずです。

 

つまり、人間の幸福というものが優先すべきものであって、

その意味からすれば、マナーは、

人間の幸福との関係では、劣後するものなのです。

 

 

 

いま、急で突発的な腹痛によって、どうしてもトイレに行きたくて、

苦痛を感じている人に、

それでもマナーだからトイレに行くな、

というのは、

人間に不必要な苦痛を強いるものであって、

本来、人間の幸福には劣後するはずのマナーが、

人間の幸福に対する優位を主張する、おかしなことになっている、といえそうです。

 

 

 

ですから、天機は思うのです。

 

 

 

食事中のトイレの問題に関しても、

「通常」と「異常」が存在するのです。

 

「通常」は、食事中にはトイレに立たないように、

食事前にトイレを済ませておくのがマナーであって、

それは、特段むずかしいことでもありません。

 

また、小用など、我慢するのがさしてむずかしくないような

便意に関しても、我慢するのがベターだといえそうです。

 

 

 

しかし、あらかじめ注意をしていた(つまり、本人に「帰責性」がない)

にもかかわらず、

急で突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立ちたくなった

(つまり、トイレに立つ「必要性」が大きい)ときに、

それでもマナーを理由として、本人に無用の苦痛を強制するのは、

不適当だと思うのです。

 

このような「異常」の場合には、

マナーは劣後し、トイレに行かせてあげるのが穏当であろう、

と、天機は思います。

千本釈迦堂の「大根炊き」は、無料ではない。

こんにちわ。天機です。

(約1800字)

 

 

 

今回の記事は、たまたまヤフーニュースに上がっていた

ニュース記事を読んで、

ちょっと思ったことを書いてみようかな、と思った、

まあ、言ってみれば、臨時の記事のような感じです。

 

 

 

さて、きょうのヤフーニュースに、

こんな記事が上がっていました。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 

 

無病息災を祈って、

このお寺の参拝客に、大根とおあげを炊いた煮物を提供するようです。

 

 

 

ただ、気になったのは、この記事の本文中で、

大根とおあげの炊いたのが、

 

ふるまわれる

 

と表現されていることなんですね。

 

 

 

ふつう、「ふるまわれる」という言葉から思うのは、

その料理などが、

 

無料で

 

提供される、ということでしょう。

 

 

 

「ふるまわれる」という日本語の中には、通常、

この「無料性」というものが含意されているので、

それゆえ、たとえば、

晦日に神社へ行ったところ、甘酒が無料で提供されたような場合には、

「甘酒がふるまわれた」

というのは自然な表現になりますが、

吉野家に行って牛丼並盛を料金を支払って食べた場合、

吉野家が牛丼を「ふるまった」とは、通常は言わないでしょう。

 

 

 

この、ヤフーニュースの記事にあがっている、

千本釈迦堂で「ふるまわれる」と表現されているところの、

大根とおあげの炊いたのは、どうなのかといいますと、

 

タダではない

 

んです。

 

 

 

この、大根とおあげの炊いた煮物、まあ、たぶん、お椀1杯ほどのもの

だと思うんですが、

 

1杯1000円

 

という料金をちゃんととって、販売されているものなんです。

 

 

 

大根とおあげだけしか具が入っていなくて、

しかもお椀1杯ほどしかないのに、1杯1000円というのは、

かなり強気な値段設定だと、自分なんかは思いますが、

まあ、値段はお寺が勝手に決めることができるものですから、

それについては、文句はいいますまい。

 

 

 

また、材料費も、労働力もかかっているのに、

それをタダでもらおうなんて、あさましい!

というお叱りがあるとすれば、それももっともなことでしょう。

 

 

 

そんなことは、わかっているのです。

 

自分が主張したいのは、

その煮物をタダでよこせ、ということではないのです。

 

 

 

タダではないのなら、そのタダではない、という現実に即した表現を

すべきであって、

あたかも、お寺の側が一方的に、参拝客に対して奉仕をしているかのような、

誤った表現をすべきではない、と言っているのです。

 

 

 

この、千本釈迦堂での、大根とおあげの煮物の提供というのは、

冬の風物詩のようで、

毎年、この頃になると、ニュース記事にあがることがあるようです。

 

 

 

そのなかで、この「ふるまわれる」という表現に違和感を感じて

ブログ記事にしているひとも、自分のほかにもいて、

少なくとも2015年の段階から、

新聞では、この千本釈迦堂での飲食物の提供を「ふるまわれる」

と表現しているものがあることが、わかります。

 

 

 

「お寺のひとがせっかく作ってくれてるんだろ?

 だったら、そんな細かいこと言うなよ。」

 

というひとも、なかにはいるかもしれません。

 

 

 

ですが、自分は思うのです。

 

この世界には、自分がいれば、他者がいます。

他者がいれば、自分がいます。

 

自分だけがいる、とか、他者だけがいる、とかいうわけでは、ないのです。

 

 

 

お寺の人がせっかく作ってくれている、というのは、なるほど、そうでしょう。

 

ですが、それは、お寺の側に立脚した視点です。

 

そして、煮物を作ってくれるお寺という存在があるいっぽうで、

それに相対するものとして、

その煮物に対価を支払う参拝客の存在があるわけです。

 

 

 

対価をとっていわば「商売」をしている、千本釈迦堂の煮物に対して、

それを「ふるまう」と表現するのは、

煮物の提供者、販売者である千本釈迦堂の側にやや、かたよりすぎた

視点の持ち方であって、

それに対して対価を支払っている参拝客の側をなおざりにした

視点の持ち方だと思うのです。

 

 

 

おたがいに、相対する関係にあるような両者、

利害が対立する可能性があるような両者、

そのような両者が存在する場合には、

いっぽうだけの言い分とか、必要性とか、利益とかに言及するだけでは、

不十分だと思うのです。

 

そこにはやはり、両者それぞれに目配りするような、

「公平性」が求められるものだと、自分なんかは思います。

昔話と、意識と時間。

こんにちわ。天機です。

(約2800字)

 

 

 

今回は、昔話を題材にもしつつ、人間の意識と、時間の関係について、

考えてみたいと思います。

 

 

 

まず、ここでちょっと、皆さんの日常的なことを思い出してほしいのですが、

たとえば、

おんなじ8時間と言っても、

朝出勤してから夕方退勤するまでの8時間と、

夜就寝してから朝起床するまでの8時間とでは、

あー、8時間たった、というときの、その時間経過の感覚が、

すこし違うような感じがしませんか?

 

 

 

自分なんかは、

朝から夕方までの8時間の場合には、

それこそいろんなことがあって、いろんな人にも会って、

飯も食って、移動もして、それでようやく夕方になって、

ああ、やっと今日も一日お疲れさんだ、という感じで、

すごく、8時間が長く感じるんですよ。

 

 

 

それに対して、

夜布団に入ってから、ぐーぐー、ぐーぐー、寝て、

まあ、夢とかは見ることがあるかもしれませんが、

朝になって起きたとき、ああ、朝が来たなあ、また1日のはじまりだ、

というときって、

なんだか、布団に入ったのは、ついさっきのような感じがしませんか?

 

つまり、8時間がすごく短く感じるんですよ。

 

 

 

この、時間経過に対する感覚の違いは、

いったいどこからやってくるんだろう?と考えたときに、

そういえば、

朝から夕方までの8時間というのは、起きている、つまり、意識がある。

それに対して、

夜から朝までの8時間というのは、眠っている、つまり、意識がない。

ということに、思い至りました。

 

 

 

言葉を変えると、

起きている、というのは、顕在意識の状態であり、

眠っている、というのは、潜在意識あるいは無意識の状態なのですが、

この、意識状態の差異が、時間経過に対する感覚に違いをあたえている

のではないだろうか。

 

 

 

具体的に言うと、

無意識状態のもとでは、

時間があまりたっていないかのように感じてしまうような、

そんな現象がおこるのではないか。

 

 

 

そんなことを思ったのです。

 

 

 

無意識ということでいいますと、

ユングとか、フロイトとかいった精神分析学者は、

人間の意識、無意識について、深く研究したひとたちです。

 

なかでも、集合的無意識という概念を導入したユングによって

創始された心理学を、深層心理学というのですが、

この深層心理学を日本に導入した泰斗が、河合隼雄という先生で、

かつて、文化庁長官をつとめられました。

 

この河合先生は、その深層心理学の研究に役立つという観点から、

世界各地の神話や伝説のほかに、

日本のもふくめた民話や昔話といったものにも、

熱心に目を通されていたといいます。

 

 

 

自分も、たとえば、昔話のなかにも、

この世界のかくれた真理や秘密の「かけら」のようなものが、

隠れているのではないだろうか?と考える人間なのです。

 

 

 

では、今回の記事のテーマでもある、

人間の意識と時間の関係について、ヒントになるような昔話は、

あるのでしょうか。

 

 

 

自分が思いついた昔話は、以下の2つです。

 

 

 

① 浦島太郎

 

浦島太郎は、亀を助けたために、海の底にある竜宮城へといざなわれ、

乙姫たちと楽しい日々をおくって、やがてもとの漁村へ帰ってきたのですが、

あたりは、もう何十年もたったかのように様変わりしていました。

そこで浦島太郎が玉手箱をあけると、白い煙がふきだして、

自分も白髪のおじいさんになってしまった、というのが、あらましです。

 

 

 

なんで、この物語は、最後はバッドエンドで終わるんでしょうか。

竜宮城で楽しみ過ぎたことの、罰が、年寄りになってしまうということだった

のでしょうか。

 

 

 

自分は、じつは、この浦島太郎という物語のなかにかくれている、

この世界の真理や秘密に関するひとつの「かけら」が、

人間の意識と時間の関係に関するものだろうと思うのです。

 

 

 

じつは、「海」というのは、無意識ととてもつよい結びつきがあります。

 

西洋占星術では、海をあらわす海王星は、無意識を管轄する星ですし、

また、先に述べたユング深層心理学では、

人間の意識(顕在意識)というのは、無意識の大海に浮かんだ、

島のようなものだ、という説明がされています。

 

 

 

つまり、です。

 

浦島太郎のお話においては、じつは、

 

〇海の底の竜宮城にいるとき→無意識下にあるという状態

 

〇もとの漁村に帰ってきたら時間がすごくたっていた

→無意識下と意識下では、時間の進行速度が異なる

 

ということが、描かれていたのではないでしょうか?

 

 

 

② 養老の滝伝説

 

自分が、人間の意識と時間とのかかわりについて、

示唆をあたえてくれるだろう、と考えた、もうひとつの昔話が、

いわゆる、養老の滝伝説です。

 

 

 

これは、日本各地にさまざまなバージョンがあるのですが、

だいたいのあらましをいうと、

 

〇 おじいさんと息子が暮らしていて、あるとき、息子が山奥で、

  かぐわしい香りをはなっている滝の水を見つけて、家に持ち帰り、

  おじいさんに飲ませると、おじいさんが元気になって若返った、

  というもの。

 

〇 老夫婦が暮らしていて、あるとき、おじいさんが山奥で、

  かぐわしい香りをはなっている滝の水を見つけ、飲んでみたところ、

  若返ったかのように元気になった。

  その話を、家に帰ったおじいさんがおばあさんにしたところ、

  おばあさんも出かけて行った。

  ところが、おばあさんがなかなか帰ってこないので、

  おじいさんが様子を見に行ったところ、

  若返りの水を飲み過ぎたおばあさんは、なんと、赤ちゃんになっていた、

  というもの。

 

といったパターンがあります。

 

そして、だいたいにおいては、この話に出てくる若返りの水というのが、

じつは、ある種のお酒であった、とされているようです。

 

 

 

ここで、お酒というのは、アルコールであり、

飲めば気分がよくなるように、

人間の意識状態に影響する飲み物です。

 

通常は、お酒を飲めば、顕在意識は退行して、ぼんやりとした意識になります。

 

そして、人間の成長と老化に関して言えば、通常は、

赤ちゃん→子供→青年→壮年→老人

というのが、通常の時間経過のありかたのはずなのですが、

この、養老の滝伝説の昔話においては、

人間の意識をぼんやりさせるところの、若返りの水、つまりはお酒を飲むと、

若返る、つまり、時間経過の流れが反転する、とされているのです。

 

 

 

以上の2つの昔話から、

人間の意識と時間経過について考えてみて、

自分は、つぎのようなことを思いました。

 

 

 

つまり、

顕在意識のもとでの、通常の時間経過が、

たとえば、左から右へと流れる矢印のようなものであらわされるとしたら、

眠ったり、お酒をのんだりして、

意識状態が無意識や潜在意識にはいってくると、

逆に、右から左へ流れるような、

反転した時間経過があらわれてくるのではないだろうか。

 

通常は左から右への矢印なのに、そこに、右から左への矢印が追加されることで、

たとえば、

通常の時間経過が、すこしおそくなるような、

そんな現象もあらわれてくるんじゃないだろうか。

 

 

 

そんなことを考えていました。

「柳」の字源と、十二支の原理ーその7

こんにちわ。天機です。

(約1500字)

 

 

 

前回にひきつづき、柳という漢字の字源、

それに関わりのある十二支、十二支の背景になった世界生成の原理、

といったことについて、考えていきたいと思います。

 

 

 

前回は、

 

黒|白

黒|白|黒|白

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

 

というふうに、分割をかさねていくなかで、

 

① それぞれの黒と白が、かぎりなく細分化されて、無に近づいていく

ということと、

② 黒と白のあいだをへだてている境界線の本数が、

  かぎりなく無限大に近づいていく

ということを、見てきました。

 

 

 

自分は数学の素養がないので、あれなんですが、

この「限りなく近づいていく」ということを、天機なりに解釈すれば、

「限りなく近づいてはいくものの、それそのものではないだろう」

と考えてしまうんですね。

 

つまり、上の例で言えば、

黒と白は、かぎりなく小さくなってはいくだろうけど、

小さいなりに残っていて、まったくの無にはならないんじゃないか。

 

境界線はどんどん増えてはいくだろうけど、

無限大そのものにはならないんじゃないか。

 

そう考えてしまうわけです。

 

 

 

ここで、「理」と「矛盾」について、もう一度考えてみると、

理と矛盾は、おたがいに相反する原理であって、

理を否定するのなら、それは矛盾であろうし、

矛盾を否定するのなら、それは理であろう、ということだったのです。

 

 

 

いま、黒と白をどんどん、どんどん、

分割していって、それぞれの黒と白が限りなく小さくなり、

あいだの境界線の本数が限りなくふえていったとしても、

小さな小さな黒と白が、いまだ残存するかぎりにおいては、

それは、おたがいに相反する原理が併存している、という状態は、

いまだ崩れているとはいえないので、

その限度で理は残っている、と言わざるをえず、

矛盾はまだ、達成、実現されてはいない、ということになりそうです。

 

 

 

つまり、です。

 

この黒と白をどんどん分割していくプロセスにおいて、

最終的に「矛盾」という状態を実現したいと思えば、

黒と白が「限りなく無に近づいていく」という段階にとどまっているのでは

足りずに、

そこからもう1歩すすめて、

「限りなく無に近づいた黒と白は、とうとう、無になってしまったよ」

という状況までをも、想定しなければいけない、ということです。

 

 

 

限りなく無に近づいて行った、黒と白が、小さくなりすぎて、

とうとう、無そのものになっちゃったわ、

というとき、はじめてここに、「矛盾」が誕生します。

 

 

 

では、このように想定できるところの「矛盾」が誕生したとき、

そのとき、いったい、どのようなことがおこるのでしょうか。

 

 

 

まず、そもそも、このようにして「矛盾」が誕生したときというのは、

黒と白が、あまりにも小さくなりすぎて、ついには無そのものになっちゃった、

ということだったので、

そこから考えると、

「矛盾」それ自体も、「無」なのだ、と考えてよいのでしょうか?

 

 

 

天機は、そうは思いませんでした。

 

この黒と白の分割プロセスが極限にまで達して、

ついには、黒と白それぞれが、無そのものにまでなっちゃったときというのは、

 

黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白|黒|白

無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無|無

 

といったような状況が起こっている、と思うんですよ。

 

なるほど、これを見ると、たくさんの「無」が存在することは明らかですが、

そのあいだを、無数の境界線(|)がへだててますよね。

 

 

 

つまり、矛盾というのは、無そのものなのではなくて、

無と境界線が、

たとえは正確ではないですが、DNAの二重らせん構造のように、

あるいは、ミルフィーユ状に、とでも言えばいいでしょうか、

おたがいに絡み合い、重なり合った状態になっているものだ、と考えられます。

 

 

 

今日はここまでにしたいと思います。