この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

人間の男性には、なぜ、ヒゲが生えるのだろうか。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約2500字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議について考える一環として、

人間のからだについて考えてみようと思います。

 

 

 

人間の男性は、大人になってくると、口のまわりにヒゲが生えます。

これはいったい、どうしてなんでしょうか。

 

 

 

男性にヒゲが生えるのには、男性ホルモンがおそらくは関係しているでしょう。

が、それは、ヒゲの生える「しくみ」を解き明かしたことにすぎません。

どうしてヒゲが生えるのか、という、その根本的な「理由」や「意味合い」

を解き明かしたわけではないのです。

 

 

 

頭には頭髪があって、人間の頭を保護しているといわれています。

また、生殖器もたいせつなものだから、毛が守っているのだ、

といわれることもあります。

 

同じように考えて、人間の男性のヒゲも、

保護するために生えているのだ、とする説があります。

 

 

 

が、この説には異論があります。

 

そもそも、人間というのは、幼児期にはまだか弱い存在であって、

保護が必要であるはずなのに、その幼児期には、ヒゲは生えていません。

 

また、男性にはヒゲが生えますが、女性にはヒゲは生えず、

女性には保護の必要がないのか、という疑問も生じます。

 

 

 

こういったことから、ウィキペディア先生は、

その「髭」の項目で、

「なぜ髭が生えるのか、というその理由については、今もって不明である」

とおっしゃっています。

 

 

 

なぜ、人間の男性には、ヒゲが生えるのでしょうか。

 

天機は、例によって、さまざまな学説を無視しながら、

壮大な見地からの独自説をたててみたいと思います。

 

 

 

さて、人間の男女は、セックスをします。

 

ここで、セックスに関連する、一連のプロセスをながめてみると、

 

① 男性器から精子が放出される

② 放出された精子が女性器に到達し、女性器内部に至る

③ 精子卵子と出会い、十月十日ののちに、同じ女性器から子供がでてくる

 

というプロセスになります。

 

 

 

このプロセスは、ふつう、①から③までで完結です。

③でおしまいです。

 

 

 

おしまいのはずなのですが、天機は頭がおかしいので、

 

「このプロセスをここでおしまいにするのではなくて、

 なんとか『循環』させられないかな?」

 

と思ったんですね。

 

そうやって、天機が考えたプロセスというのが、以下のようになります。

 

 

 

① 男性器から精子が放出される

② 放出された精子は女性器に到達し、女性器内部へと至る

③ 精子卵子と出会い、十月十日ののちに、同じ女性器から子供がでてくる

④ 女性が産んだその子供を、男性の口が食べる

⑤ その子供は男性の体内で消化されて、精子へと変化する

⑥ ふたたび①へ

 

 

 

どうですかね。

いくぶん、異様な世界だなあ、というのは、承知しております。

 

が、天機は、普段われわれが慣れ親しんでいるこの世界、

表面的なこの世界の背後には、

かくれた原理、深奥、異様な世界が広がっている、と思うのです。

 

そして天機という人間は、

たとえ異様な世界に足を踏み入れることになっても、

誰も知らないようなこの世界の秘密を自分は知りたい!

と願う人間なのです。

 

 

 

さきの、循環のおはなしに戻りましょう。

 

ふつう、女性が産んだ子供を、男性が食べるなどということは、ありません。

女性が産んだ子供は、2人でなかよく育てていくものです。

 

が、ここで、人間の男女というものからすこしはなれて、

視点をおおきくとってみましょう。

 

大自然の中では、いったい、どのようなことがおこなわれているでしょうか。

 

 

 

たとえば、大地に柿の木が生えています。

 

柿の木は、柿の実をつけます。

 

その柿を、お猿さんが食べます。

 

消化しきれなかった柿の種が、お猿さんのおしりから、大地にまかれます。

 

種は、大地の中で、生長します。

 

それがやがて、柿の木となって地上にあらわれ、柿の実をつけます。

 

それをお猿さんが(以下略

 

 

 

というようなことも、起こっているわけなんですよね。

 

 

 

ここで、人間の男女のあいだで起こっていたことと、

この、大自然の中で起こっていたことを、

対比してみましょう。

 

 

 

① 人間の男性が精子を放出 (お猿さんの肛門から柿の種放出)

② 精子は女性器に到達、女性器内部へ (柿の種は大地にまかれる)

③ 精子卵子と出会い、子供が出産される (柿の種は生長、柿の木が生える)

④ その子供を男性が食べる (柿の木の実をお猿さんが食べる)

⑤ 男性の体内で子供は消化されて精子に (柿の実は消化され、種だけが準備)

 

 

 

こんなふうに対応してると思うんですよね。

 

 

 

ここから、天機は、こんなことを考えました。

 

この自然界では、ふつう、生き物は、同族を食べません。

人間は人間を食べることはないし、猿は猿を食べることはないし、

鮭は鮭を食べることはないのです。

 

ある生き物が、食べ物とする生き物は、

自分たちの一族ではない、自分たちの一族からはすこしずれたところに位置する

生き物です。

 

生き物Aは生き物Bを食べ、生き物Bは生き物Cを食べ、生き物Cは生き物Dを食べ、

というふうに、

すこしずつ、ずれて、ずれて、ずれたものの重なりが、

この複雑な自然界、生態系を構成しているのですよね。

 

 

 

でも、天機は思ったのです。

 

まだ、この世界が、こんにちのように複雑に分化していなかったころ。

まだ、この世界が、はじまったばかりだったころ。

 

そのときに、人間の男女、とか、生き物のオスとメスとか、

そういった、具体的な形をとるまえの、

 

「男性なる原理」

「女性なる原理」

 

があったときに、その両原理の間で、

上で見てきたような、「循環」があったのではないですかね?

 

そして、そのような循環のプロセスの、各「折り返し点」をみてみると、

 

① 精子を放出する「男性器」

② 精子を受け入れる「女性器」

③ 子供を出産する「女性器」

④ その子供を食べる「男性の口」

 

が、それぞれ「折り返し点」になっていて、この「折り返し点」に相当する、

人間の男女の、からだの器官の周囲には、

ことごとく「毛」が生えています。

 

 

 

つまり、人間の男性の口の周りにヒゲが生えるのは、

この「循環」プロセスの一角を占めているからであって、

他方で、女性の口の周りにヒゲが生えないのは、

女性の口というのは、この「循環」プロセスの一角を占めてはいないから

ではないか?

 

 

 

そんなふうに、天機は思いました。

気持ちいいことは、悪なのだろうか。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約2600字)

 

 

 

連日暑い日が続いていますね。

熱中症への警戒がさけばれています。

 

 

 

熱中症への対策としては、水分や塩分の補給、ということが

よく言われるのですが、

どういうわけか、

「冷房を使用しましょう」

とは、なかなか言わないような気が、天機はいつもするのです。

 

そして、冷房を使用しましょう、と、かりに言ったとしても、

冷房を「適切に」使用しましょう、などと言ったりするんですね。

 

まるで、冷房を使用することに、なんとかして枷(かせ)をはめたいような、

そんな雰囲気を感じるのです。

 

 

 

天機は、熱中症対策としても、夏の暑さを緩和するためにも、

冷房をかけたほうがいい、と思っています。

 

そして、冷房というのは、

「適切に」使用すれば、暑さという苦痛をとりあえず軽減できますが、

「キンキンに」部屋を冷やせば、すごく気持ちよくなります。

 

 

 

思うのですが、冷房は、「適切に」使用することだけが許されて、

「キンキンに」部屋を冷やすことは、なにか悪いことなのでしょうか。

 

 

 

天機は、どうもそうは思えないのです。

 

この世の中には、

 

①とりあえずの必要性を満たせるという段階

 

と、そこからさらにすすんで、

 

②気持ちよくなる、快楽を得られる段階

 

という、2段階になっているものが、ときどきあります。

 

 

 

たとえば、飲食はどうでしょうか。

 

 

 

人間という生き物は、食べ物を食べたり、飲み物を飲んだりしなければ、

命をたもつことができません。

食べたり、飲んだりすることは、人間の生存にとって、

「必要な」ことなのです。

これが、必要性を満たす、という段階です。

 

 

 

この点、ただ単に必要性を満たす、というだけなら、

ヒエやアワのようなものを主食にして、豆類などの雑穀をたべ、

一汁三菜を基本にして、1日2食にしたとしても、

生存はできるかもしれないのです。

 

 

 

ところが、現実の人間の行動は、どうでしょうか。

飲食に関して、必要性を満たす、という段階で、とどまっているでしょうか。

 

 

 

そうではない、と思います。

 

人間は、飲食に関して、ただ単に生存の必要性を満たすために、

最低限の食事をとる、ということを超えて、

「美味しいものを」「たくさん食べて」

味覚や食欲を満足させようとします。

 

焼き肉やステーキ、寿司やお刺身、メロンやアイスクリームなど、

人間はいろいろと、「美味しい」ものを好んで食べますよね?

テレビの番組などを見ても、

美味しそうな料理が画面に映っていないような日をさがすのは、

とても難しいでしょう。

 

それはなぜかというと、

人間が食事をとることは、生存のために必要な行為なのですが、

食事をとるという行為それ自体は、快楽と結合しているからです。

人間は、その快楽を、積極的に実現しようとするのです。

 

 

 

ということは、どういうことかというと、

人間は、飲食に関して、

「必要性を満たす」という段階にとどまらず、そこからさらにすすんで、

味覚や食欲という、「気持ちよさや快楽を得る」ということも、

自然におこなっているわけであって、

そういった「気持ちよさや快楽を得る」ことは、

べつに悪いことだとは考えてはいない、ということになります。

 

 

 

であるならば、飲食についてそのようであるならば、

そのほかのことについても、

「必要性を満たす」という段階を超えて、

「気持ちよさや快楽を手に入れる」という段階を、人間が目指したとしても、

一概に非難されるものでもないと、天機なんかは思うのです。

 

 

 

その1つの例は、さきの冷房の例です。

 

冷房を「適切に」使用することは「必要性を満たす」という段階の行為で

ありますが、そこからさらにすすんで、

部屋を「キンキンに」冷やすことで、

「気持ちよさや快楽を得た」としても、

それはべつにかまわない、ということになります。

 

 

 

他の例としては、人間の性欲もそうです。

 

 

 

生殖行為というのは、人間が子孫をつくるためにおこなうものですが、

生殖行為それ自体は、快楽と結合しています。

 

 

 

子孫をつくるためには生殖行為が必要だ、というのは、「必要性の段階」です。

 

この必要性を満たすためだけならば、

子供をつくるという明確な目的と計画をもっているときにだけ、

そういった生殖行為をおこない、

それ以外の時には、生殖行為などおこなわなければいいのですが、

人間というのは、そういうふうにはなっていませんよね。

 

べつに、子供をつくろうなどとは考えていないときでも、人間は、

エッチなことを考えて、エッチな行為をおこないます。

 

 

 

そして、先に見たように、

「必要性を満たす」という段階を超えて、

「気持ちよさや快楽を得る」という段階にすすんだとしても、

かならずしも非難されるものではないことからすると、

人間が、子供をつくるという目的や計画とは関係なく、

エッチなことを考えたり、エッチな行為をおこなったとしても、

それはべつにかまわない、ということになります。

 

 

 

なんでわざわざ、こんなことに言及するのかというと、

どうも、

冷房は適切にかけるのはかまわないが、キンキンに冷やすのはよくない、とか、

エッチなことを考えたり、したりするのは、よくないことで、

抑制されなければならないことだ、とかいった空気があるような気が、

天機はするからなんですね。

 

もっとも、これは天機の勝手な思い込みかもしれませんが。

 

 

 

でも、それならば、

冷房を使用することや、エッチなことに、制限を課そうとするのならば、

飲食だけが、なんの制限も課されずに、

まるで、無条件に明るくハッピーなことででもあるかのように、

承認され、称賛されているのは、おかしいことだと思うんですよ。

 

 

 

冷房を過度に使用すれば電力需給が逼迫する、という問題は、たしかにあります。

エッチな欲望が亢進すれば、ときには性犯罪などにつながったりする懸念も、

たしかにあります。

 

しかしいっぽうで、

人間がその食欲を野放図に満たそうとしなければ、

この世界に生きている、他の生命たちは、

人間に捕食されることなく、生き続けられたかもしれないのです。

 

 

 

こういったことを考え合わせると、天機は、

冷房をかけることやエッチなことに対して制限をかけるのであれば、

飲食についても制限をかけなければ、辻褄があわないようにも思うのです。

 

 

 

実際には、飲食については、みんなが楽しんでいて、

テレビなどでも、さかんにハッピーなこととして、とりあげられています。

 

であるならば、

冷房をかけたり、エッチなことを楽しんだりすることにも、

そんなに目くじらをたてないで、

みんなで楽しんだらいいのではないでしょうか。

 

 

 

天機は、そう思います。

西日本豪雨と、米中貿易戦争に思う。

こんにちわ。天機です。

ひさびさの更新になります。

(この記事 約2500字)

 

 

 

最近も、いろいろとニュースが多いですね。

 

国内でいえば、西日本の記録的な豪雨によって、おおきな被害が発生しています。

 

海外に目を転じてみると、

アメリカのトランプ政権が対中国で巨額の制裁を発動したことをきっかけとして、

米中貿易戦争がはじまろうとしています。

 

また、ヨーロッパにおいては、

各国で移民問題が深刻化するようになって、

EUの理念が揺らごうとしています。

 

 

 

天機は、これらさまざまなことの背景に共通してあるのは、

 

「異常の顕在化、例外の顕在化」

 

なのではないだろうか、というふうに思うのです。

 

 

 

この世界は、一見したところ、

どこまでも「普通の日常的な世界」がひろがっているようにも思えます。

 

しかし天機は、

その日常的な世界のはるかかなた、その周縁部、辺境には、

「普通ではない世界」が存在しているように思うのです。

 

 

 

通常があるとすれば、異常もある。

原則があるとすれば、例外もある。

 

この世界というのは、

通常と異常が組み合わさって、原則と例外が組み合わさって、

はじめて成立している。

 

けっして、通常だけでできているとか、原則だけでできているとか、

そういったことはないのだ。

 

通常だけ、原則だけ、という「1つ」ではなくて、

通常と異常、原則と例外、という「2つ」こそが、

この世界を表現するのに正しい数字なんだ。

 

天機は、そう思うのです。

 

 

 

自然災害などおこらない、平穏な日常生活というのが「通常」ならば、

大規模な自然災害が発生しておおきな被害が出るというのは「異常」です。

 

最近は、自然災害もふえてきているように感じます。

今回の西日本豪雨災害でも、死者数が200人に迫ろうとしています。

 

自然災害は「異常」をあらわすものですが、その「異常」は、

この世界から消すことは、できないのです。

 

ふつうは、自然災害は、まれにしか起こりません。

毎日毎日、自然災害が起こるかというと、そういうことは、ないわけです。

自然災害が起こる可能性は、やっぱり、とても小さい。

 

でも、とても小さいものは、すなわちゼロなのか、といえば、

それはちがう。

 

とても小さいものは、とても小さいものながら、それはゼロにならずに、

厳然として存在し続ける。

消せないのです。

 

 

 

国と国とがおたがいに仲良くし、共通の相互利益をめざして貿易などを

発展させていく、というのが「通常」であるのならば、

おたがいに対立しあい、制裁などを課すようになって貿易が縮小し、

はては、戦争状態にまで至ってしまうようなのは、「異常」です。

 

1990年前後から、これまで30年ほどにわたって、

世界を席巻してきた潮流というのは、

いわゆる「グローバリゼーション」という言葉で表現されるような、

世界的に貿易が拡大し、国と国とが密接に関係しあい、

世界が一体化していくという、

上でいうところの、「通常」の拡大局面だったわけです。

 

ところが、

2016年に発生した、

イギリスのEUからの離脱、アメリカにおけるトランプ政権の誕生、

といったイベントをきっかけに、

世界の潮流、風向きがかわりはじめました。

 

ヨーロッパにおいては、

国と国との垣根をなくしていく利益よりも、移民の弊害のほうがクローズアップされる

ようになり、

アメリカでは、これまで自身が率いてきた自由貿易体制による利益よりも、

安価な海外製品が自国産業を破壊する弊害のほうがクローズアップされるように

なってきたのです。

 

いわば、上でいうところの、「異常」が、だんだんと顕在化してきたのです。

 

ふだんの国と国とのやりとりでは、

貿易の振興をつうじてお互いに発展していくことを目指す、というのが、

「通常」です。

ほとんどの局面は、それなのです。

 

でも、その背後には、

国と国とが、自国の利益をかけていがみあい、激しく対立するという、

「異常」が存在しているのです。

 

この「異常」は、日常的な世界には、なかなかあらわれてきません。

なかなかあらわれてきませんから、ひとは、

そんなものはないんだ、と、ともすれば、考えてしまいがちなのです。

 

ところが、その「異常」は、けっしてなくなったわけではない。

「異常」を、この世界から消し去ることは、できないのです。

その「異常」は、この世界にあらわれる機を、じっと待っていて、

それがたとえば、

今般の米中貿易摩擦や、ヨーロッパにおける移民に対する世論の硬化のように、

一挙に噴出してくることがあるのです。

 

 

 

自然災害など起こらない平穏無事な日常生活という「通常」に対して、

大規模な自然災害が発生して甚大な被害が生じるという「異常」。

 

貿易の振興をつうじて相互利益の拡大を目指していくという「通常」に対して、

国と国とがいがみあい、制裁を課し、戦争にまで至るという「異常」。

 

あるいは、

安全快適にまもられた、社会における日常生活という「通常」に対して、

凶悪な犯罪が発生するという「異常」。

 

 

 

こうして見てくると、

「異常」というものは、普通の感覚では、「いやな」ものが多いですね。

 

だからひとは、その「異常」について、

あたかもそんな「異常」はこの世界には「存在しない」かのようにふるまったり、

あるいは、

その「異常」は「邪悪」なものであって、それを「なくす」ことが「正しい」

と考えたりするように、天機には思えるのです。

 

 

 

でも天機は、

この世界というのは、そもそも、

そんな「異常」というのが、ごく日常的な「通常」と組み合わさることで、

はじめて成り立っているものだと、思うんです。

 

たいせつなのは、

「異常」を亡き者にすることではなくて、

その存在を認めて、それと共存していくことです。

 

通常には、通常に対する対処の仕方があり、

異常には、異常に対する対処の仕方がある。

 

異常のもたらす災禍に対しても、それに応じて対応していく必要はあります。

 

ただ、異常というものを、はなから悪と決めてかかって、

それをまったくのゼロにしてしまおうとすると、

かえって、この世界からのおおきな反撃を喰らうような気もします。

 

天機は、そう思います。

 

 

ばかばかしい仮定をおいて考えるクセ。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1300字)

 

 

 

昨晩は、夜中に起きて、サッカーW杯の日本✕ベルギー戦を見ていました。

 

あと一歩のところまで来ていたのに、とても惜しかったなあ、

と思いましたね。

 

 

 

ところで天機は、ときどき、

ばかばかしいような仮定をおいて、空想してみるのが好きなのです。

 

今回のサッカーで、つぎのような空想をしていました。

 

 

 

あるところに、願い事をかなえることのできる、

不思議なパワーをもったひとが誕生したとします。

 

おぎゃあ、と出生した、という意味ではありません。

もともと力を持っていなかったけれども、

そんな不思議な力をあるときから持つようになった、ということです。

 

 

 

そのひとは、

みんなのためにその力を使うことも、

自分自身のためにその力を使うことも、どちらでも選択できます。

 

 

 

いま、そのひとが、みんなのためにその力を使うことを仮に選択すると、

たとえば、

サッカーW杯決勝Tで、日本がベルギーに勝利する結果が得られます。

 

他方で、そのひとが、自分自身のためにその力を使うことを仮に選択すると、

たとえば、

その人自身に、1万円の臨時収入がはいります。

 

 

 

こういうとき、いったい、どうしたらいいでしょうか。

 

 

 

ふつうの一般人なら、こう思うかもしれません。

「サッカーW杯決勝Tで日本が勝利することと、1万円が手に入ることじゃあ、

 全然、重みがちがうやん。

 当然、サッカーでの勝利のほうを選択するだろう。」と。

 

 

 

しかしながら、この結論は、

その、願いをかなえることのできる不思議な力をもったひと本人にとっては、

自明のものではありません。

 

というのも、

サッカーW杯決勝Tで日本が勝利することは、たしかに、

「みんなに」とっては、とてもうれしいことなのですが、

「その人自身に」とっては、それほどうれしいものであるとは、

かぎらないからです。

 

他方で、

その人自身に1万円が入ることは、

「みんなに」とっては、全然うれしくもなんともないことですが、

「その人自身に」とっては、とてもうれしいことになるはずです。

 

 

 

もしかりに、

このひとが、みんなのために、と思って、

サッカーW杯決勝Tで日本が勝利することに、自分の願いを使ってしまったら、

自分自身に1万円入ってくるという、個人的な利益をあきらめなければ

ならないことになります。

 

 

 

このひとは、それはいやだ、と考えるかもしれません。

 

そうすれば、

このひとは結果的に、自分の個人的な願いを実現するためにその願い事を使い、

1万円を手に入れる一方で、

サッカーW杯決勝Tでの日本の勝利は、なくなってしまいます。

 

 

 

でも、考えてみれば、これってすごく、無駄な願い事の使い方ですよね。

 

天機は思うんです。

 

1万円欲しい、という、このひとの個人的な願いは、

だれかほかのひとたちが、

実際にこのひとに1万円渡してあげることで、簡単に実現できる。

 

そのうえで、

願い事をかなえることができるという、このひとの持つ不思議な力は、

サッカーW杯決勝Tで日本が勝つ、ということをかなえるために、

使ってもらう。

 

そうすれば、

みんなも、このひとも、

双方とも簡単にハッピーになれるんじゃないかな、と思います。

 

 

 

天機の、ばかばかしい空想でした。

「手料理」という言葉に、違和感。

こんばんわ。天機です。

(この記事 約3200字)

 

 

 

時代が移り変わるにつれて、言葉というものも変遷していきます。

そのなかで、最近は、以前にはなかったような言葉も、

たくさんあらわれてくるようになりました。

 

 

 

たとえば、以前は「登校拒否」と言っていたものが、「不登校」に。

お薬とかの「副作用」と言っていたものが、「副反応」に。

夏の暑い日の「日射病」は「熱中症」に。

栄養が不足している状態の「栄養失調」は「低栄養」に。

と、まあ、いろいろです。

 

 

 

そんななか、天機が最近耳にするようになった言葉が、

「手料理」

です。

 

 

 

手料理。

 

この言葉って、ところで、昔からある言葉なんでしょうか?

 

いま、インターネットで検索すると、

ウィキペディアでは、「料理」はでてきますが、「手料理」はでてきません。

 

「手料理 広辞苑」と検索しても、それらしい項目はでてきませんから、

もしかしたら、

広辞苑にも「手料理」という言葉は収載されていないんじゃないか、

と勝手に思ったりします。

 

 

 

ということで、「料理とは」と検索してみると、

以下のようなのがでてきます。

 

kotobank.jp

 

基本的には、まず「材料」というのがあって、それに各種の「調理法」

にもとづいて「こしらえて」、「調味料」とかで味をととのえていく、

という「一連の作業過程」を「料理」とよんでいます。

 

これは、一般的に「料理」という言葉から、ふつうに連想される、

ごく自然な用語の使い方だと思います。

 

NHKの番組には「きょうの料理」という番組があります。

また、書店に行けば、各種のレシピを紹介した「〇〇の料理手帖」なんていう

本が売ってたりもします。

 

それらの番組や書籍で取り扱われている「料理」というのも、

基本的には、「料理」という言葉から自然にひきだされるような内容の

ものになっています。

 

つまり、「材料」というものからはじまる、「一連の作業手順」としての、

それです。

 

 

 

そういう意味からすれば、

スーパーで買ってきた「お惣菜」や、電子レンジでチンしただけの冷凍食品は、

「食べ物」であるとはいえますが、

「料理だ」というには、やや、おこがましいように思います。

 

一見したところは、「食べ物 = 料理」という関係が自明に成り立っている

ような気もします。

 

が、「食べ物」という「名詞」には、その背景になるような「動詞」の存在を

探し求めることが困難であるのに対して、

「料理」という「名詞」は、「料理をする」という「動詞」と分かちがたく

結合しています。

 

つまり、「料理である」ということの背後には、「一連の作業」が加えられている、

料理がなされている、という、暗黙の前提の存在をみることができるのです。

 

だとするならば、

スーパーで購入してそれをテーブルに並べるという「作業」や、

冷凍食品を開封してお皿に盛り、電子レンジに入れてボタンを押すという「作業」は、

本来の「料理」という用語が想定している一連の「作業」手順からは、

おおきく逸脱するものであろうと思うのです。

 

実際、もしかりに、

NHKの「きょうの料理」で司会を担当している料理研究家が、

「きょうはスーパーで買ってきただし巻きを並べてみましょう」と言ったり、

書店に並んでいる「〇〇の料理手帖」という本のなかの1ページが、

まるまるニチレイのエビピラフの紹介だったりすれば、

視聴者や読者からは、クレームがでるのではないでしょうか。

 

そして、その場合になぜ、そうしたクレームがでるのかといえば、

それは、

そういった内容のものは一般的には「料理」とは認められていないからに

ほかなりません。

そして、確認のために付け足しておくと、それらのコンテンツのタイトルは、

決して、

「きょうの手料理」でも、「〇〇の手料理手帖」でもないのです。

それでも、苦情は出る、ということが意味しているものは、大きいと思います。

 

 

 

まとめると、こういうことです。

 

「料理」ということばの自然な用語法としては、それは、

「材料」からはじまって、一連の決まった作業過程を経たものをいいます。

その意味からすると、

スーパーのお惣菜や、冷凍食品は、料理と言いうるには、

やや、グレーゾーンだといえます。

 

これが「原則」だと、天機は考えています。

 

 

 

ところが、「手料理」というあらたに登場した言葉は、

この「原則」のほうをひっくりかえすことを試みるのです。

 

「料理」と「手料理」の違いはなにかな?

と思って、検索すると、以下のようなのがでてきました。

 

手料理と料理の違い〜手料理と料理の違いを簡単解説

 

ここでは、「料理」というものは、家庭でいちから作ったものばかりではなくて、

出来合いのお惣菜を買ってきて並べたものも、冷凍食品をチンしたものも、

みな「料理」であって、

「手料理」というのは、それらと違って、家庭でいちからつくった料理のことだ、

と主張しています。

 

 

 

もちろん、料理、手料理、ひとによっていろんな考え方があるところだろうとは

思います。

ここは天機のブログなので、天機自身の思うところを述べようと思います。

 

 

 

スーパーで買ってきた出来合いのお惣菜についてですが、

そのお惣菜を「料理」したのは、そのスーパーの裏手でそれを調理した

従業員のかたですよね?

そのお惣菜をならべたひとは、スーパーで買ってきて並べただけであって、

自分が「料理」したわけではありません。

 

冷凍食品については、

その冷凍食品を「料理」したのは、食品工場の作業員ですよね?

電子レンジでチンしたひとは、電子レンジでチンしただけであって、

自分が「料理」したわけではありません。

 

もちろん、「料理」というものは、いろんな作業手順が組み合わさって

できていますから、

お皿への盛り付け、フライパンで温める、といったことも、

「料理」という作業の「一部」にはなっているかもしれません。

 

が、「料理」という言葉が本来想定している作業手順からは、

大幅に割引された作業量になっていると思います。

 

そして、「食べ物 = 料理」という用語についての考え方から、

そういった出来合いのお惣菜や冷凍食品といった「食べ物」のことを

「料理」と呼ぶならば、それはたしかに「料理」ではあるでしょう。

ただし、その場合には、

「料理をする」という動詞要素とは、切り離された内容をもつものになっています。

 

 

 

この点は、世代によっても、考え方が異なってくるのではないでしょうか。

 

ただ、「手料理」という言葉の登場が、

 

「家庭で普通につくる料理と言えば、材料からいちからつくったものだよね。

 それが料理だよ(原則)。

 ということからすると、買ってきたお惣菜や冷凍食品っていうのは、

 料理って言うには、ちょっと手抜きだよね(例外)。」

 

という状況の、原則と例外を「逆転」させて、

 

「家庭の料理といえば、いちからつくったものも、買ってきたお惣菜も、

 冷凍食品も、みな料理だよ(原則)。

 そのなかでも、家庭でいちからつくった料理っていうのは、「手料理」

 という特別素晴らしいもので、「手料理」をつくるっていうのは、

 特別なすごいことなんだよ(例外)。」

 

という状況を現出させているような気がするんですよね。

 

 

 

もっとも、この点は、天機は極論をよく吐く人間なので、

異論反論も多々あろうとは思います。

 

ただ、これまでは、

 

家庭で一から食事をつくる→それを「料理」という→それはふつうのこと

 

であったのが、

 

家庭で一から食事をつくる→それは「手料理」という→それは特別なこと

 

へと、変遷していったような気がするのです。

 

 

 

そして天機は間抜けにも、ここまで書くのにもうずいぶん字数とエネルギーを

使ってしまったので、これ以上深くは考察できないのですが、

この「手料理」という言葉の登場1つとってみても、

たとえば、家庭における共働きの増加と、それにともなう余裕の減少、

といった状況を読み取れるのかもしれないな、とも思いました。

時代の変わり目と、「瑞兆」?

こんにちわ。天機です。

(この記事 約3100字)

 

 

 

天機は、この世界の不思議、というテーマで、

森羅万象の背後に隠れた原理について考えるのが好きですが、

そのいっぽうで、

昔から、精神世界のことや、オカルトの話にも興味があります。

 

 

 

じつは、ここ数年、

日本にも世界にも、「時代の変わり目」が到来しているのではないか?

と、天機は考えているのですが、

それに呼応するかのように、ここ数年、

奇妙な現象が発生しているようにも思います。

 

以下に、その例をあげてみようと思います。

 

 

 

 

◆ 日本の各地で、数年前から、「竹の花が咲いた」とか、

  「笹が開花した」という報告が、続々となされるようになっています。

  竹の花が咲く、とか、笹が開花する、というのは、

  非常にめずらしい現象です。

  というのも、それらの花は、基本的に、

  60年に1度、とか、120年に1度、といった周期でしか、

  花をつけないからです。

  そして、いったんそのように開花すると、

  それらの花は、いっせいに枯死してしまう、といわれています。

  この、竹の花が咲く、とか、笹が開花する、といった現象は、

  もっとも、瑞兆ではなくて、凶兆である、ともいわれています。

 

mainichi.jp

 

www.chunichi.co.jp

 

www.townnews.co.jp

 

◆ これも日本の各地、また、中国でもそうなのですが、

  数年前から、「双頭蓮(そうとうれん)」というのが、

  さかんに目撃されるようになっています。

  双頭蓮というのは、蓮(はす)の花の一種の突然変異で、

  数万株に1つしか咲かないといわれていて、

  人工的に咲かせることもできないものです。

  ふつう、蓮の花は、1本の茎から1つの花が咲くのですが、

  双頭蓮は、1本の茎に、2つの花が背中合わせに咲きます。

  双頭蓮が咲くことは、古来、瑞兆(めでたいことがおこる兆し)

  といわれていて、古くは、日本書紀にもその記述があるそうです。

 

www.asahi.com

 

www.asahi.com

 

www.fukuishimbun.co.jp

 

◆ 数年前から、めずらしい生き物が発見、捕獲された、

  という報告があいつぐようになっています。

  2014年ごろには、ダイオウイカや、リュウグウノツカイといった

  深海生物がさかんに水揚げされたことがあって、話題になりました。

  それ以降も、

  白いマグロや、白いクジラ、白いヘラジカ、白いカラス、白いタヌキ、

  といった生き物が、日本でも世界でも、さかんに目撃されています。

 

www.youtube.com

 

 

www.dailymotion.com

 

jp.sputniknews.com

 

j-town.net

 

matome.naver.jp

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 

空にも異変があらわれています。

 

◆ 数年前から、「火球」の目撃報告が相次ぐようになっています。

  天機は、それをテレビのニュースで聞いて、ああ、そういうのを

  「火球」っていうんだな、と、はじめて知りました。

  天機の小さいころには、あまり、聞いたことのない用語です。

  実際、数年前から、火球の発生件数が激増している、

  という報告もあるようです。

 

www.youtube.com

 

◆ 「2つの太陽」という現象が、世界的に目撃されるようになっています。

   もちろん、実際の天体としての太陽が2つに増えたのなら大事件ですが、

   そうではなくて、何らかの原因で、地上から見たときに、

   あたかも太陽が2つあるように見えるという現象だろうと思います。

   Youtubeで「two suns」といったワードで検索すると、

   多数ヒットします。

   この現象も、数年前から増えています。

 

www.youtube.com

 

天機は以前、というか今でも、ノストラダムスの予言に関心をもっていますが、

そのなかに、

「空に太陽が2つ見える12月に、法王がローマから逃げ出すだろう」

という予言があるそうです。

 

oka-jp.seesaa.net

 

◆  空から奇妙な音がきこえる、といった報告が、数年前からさかんに

   世界中でみられるようになりました。

   はじまりは、2011年ごろだったでしょうか。

   聖書において、この世の終末において天使がトランペットを吹き鳴らす、

   という記述があることから、

   この音は、「アポカリプティックサウンド」とよばれています。

   そのことが数年つづいて、最近は、アメリカその他の国で、

   家屋の振動をもたらすほどの「衝撃音」がきこえる、

   という報道がなされるようになっています。

   Youtubeで、「strange sound in the sky」とか、「strange boom」とか

   いったワードで検索すると、多数ヒットします。

 

www.youtube.com

 

◆  これも、日本と世界でここ数年、増えている現象なのですが、

   「幻日」「太陽のハロ」「環天頂アーク」「環水平アーク」「彩雲」

   といった、めずらしい現象が、頻繁に見られるようになってきています。

   このうち、彩雲は、実際にはありふれた自然現象であるようなのですが、

   古来、吉兆である、とされています。

 

www.nikkei.com

 

この青森の記事の中では、市民からの問い合わせが気象台にあいついだ、

と報じられています。

普通じゃない、珍しい現象だから、問い合わせが相次いだのではないかな、

と思います。

 

news.livedoor.com

 

彩雲について思うのですが、なにかめずらしい自然現象だ、というと、

いやいや、そんなのはめずらしくない、よくある現象だよ、というひとがいます。

たしかに、夕焼けはめずらしくもないでしょう。

雨降りも、雷もそうです。

虹を見るのは、比較的めずらしいかもしれません。

でも、天機は40年間生きてきて、この彩雲というのを、

生で見たことは一度もないと思います。

かなり珍しい現象だと言っていいと思うのですが、どうでしょうか。

 

◆  ここ数年、空に謎の光があらわれた、という報告も、よく見られます。

   2014年には、ロシアで、空に謎の光があらわれたことが、

   日本のテレビニュースにもなりました。

   「ロシア 謎の光」でYoutubeで検索すると、動画があると思います。

   最近では、南米のコロンビアのオカーニャという場所でも、

   空に謎の光があらわれました。

   「colombia ocana」でYoutubeで検索すると、もしかしたら、

   ヒットするかもしれません。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

コロンビアのオカーニャの動画では、

嘆き悲しんでいるかのような女性の声と、

陽気に笑っている男性の声が印象的でした。

 

怪異を目の当たりにした時に、男性と女性では、

受け止め方が多少違うのかもしれません。

 

 

 

このように、空において変化があらわれているのですが、

先述のノストラダムスの予言においては、

「(あらたな時代の)到来の前に、空は兆候を示すだろう」

としているものがあるようです。

 

www42.atwiki.jp

 

 

注目したいのは、これらの現象のほとんどが、

ここ数年になって頻発するようになってきた、ということです。

 

もっとも、Youtubeができたのが、2006年?2007年でしたっけ。

また、グーグルでなにかを検索した時にヒットするサイトというのは、

基本的に、あたらしいものからヒットするかもしれないので、

そういったことが影響しているだけであって、

実際には、もっと何十年も前から、

そういった「奇妙な」現象は、存在していたのかもしれませんが。

右翼と左翼。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1600字)

 

 

 

きょうは、右翼と左翼について考えてみたいと思います。

 

 

 

政治の世界では、右翼と左翼というのがあります。

 

たとえば、ヤフコメ民は、ネトウヨだと言われたりすることがあります。

彼らは、たいてい、中国や韓国、野党を小ばかにしていて、

安倍ちゃんを支持している印象がありますね。

彼らはたぶん、右翼なのでしょう。

 

他方で、左翼というのもあります。

左翼というのは、たいてい、反安倍で、

安倍ちゃんが街頭演説をしていると、野次を飛ばしたりする印象があります。

また、国に賠償をもとめて、各地で裁判を起こしたりしている印象もあります。

 

天機の、右翼と左翼についての知識なんて、そんなもんです。

 

 

 

天機は、右翼と左翼の背景には、

どんな思想的な力学がはたらいているのか、自分なりに考えてみました。

 

 

 

ここに、1枚の画用紙があるとします。

 

この画用紙の真ん中に、マジックで円を1つ描きます。

 

すると、画用紙の中は、

円の外側と、円周と、円の内側にわかれました。

 

 

 

この円周の部分が、「国家」です。

 

円の外側は、「外国からの侵略」とか「巨大な自然災害」とか、

国家に「外から」影響をおよぼしてくる「外部要因」です。

 

そして、円の内側にいるのが、「国民」です。

 

 

 

右翼というのは、どのように考える人々かというと、

「国民」がもし困るとすれば、それは、

「外部要因」が「国家」を攻撃し、その結果として「国民」が困ることになるのだ、

と考える人々なのです。

 

つまり、「敵」は「円の外側」からやってきて、それが「円周」を攻撃し、

その結果、「円の内側」も被害をこうむる、と考えるのですね。

 

そのため、右翼の人々は、

そういった危険をふせぐためには、

「円周」を強くしなければいけない、と考えます。

 

「円周」を強くすれば、「円の外側」からやってくる「敵」に備えることが

できるからです。

 

「円周」を強くするというのは、つまりは、「国家」そのものを強くする、

ということです。

 

「国家」そのものが強くなるとどうなるかといえば、

外に対して「国家」が強くなる過程では、軍備の拡張が起こり、

内に対して「国家」が強くなる過程では、国民への統制が強まるのです。

 

これが、右翼の思想的な力学です。

 

 

 

つぎに、

左翼というのは、どのように考える人々なのかというと、

「国民」がもし困るとすれば、それは、

「国家」そのものが強すぎるために、「国民」に対して過剰な圧迫、干渉に

なっていて、それで「国民」が困るのだ、

と考える人々なのです。

 

つまり、「敵」は、かならずしも「円の外側」からやってくる、

というわけではなくて、

「円周」そのものが「円の内側」にとっての潜在的な「敵」になりうるから、

これに注意しよう、と考えるのですね。

 

そのため、左翼の人々は、

そういった危険を防ぐためには、

「円周」が強すぎるのはよくない、と考えます。

 

「円周」が強すぎると、その「円周」それ自体が、

「円の内側」に対して圧迫や干渉をもたらすからです。

 

「円周」が弱いほうがいい、というのは、つまりは、

「国家」は強すぎないほうがいい、ということです。

 

そして、「国家」そのものが強すぎることがないようにするので、

外に対しては、軍備をあまり拡張しないようにし、平和憲法を堅持し、

内に対しては、国民をしばるような法制には反対していく、

ということになるのです。

 

これが、左翼の思想的な力学です。

 

 

 

天機は、国民にとっては、

「外国からの侵略」や「巨大な自然災害」などの「外部要因」が「国家」を

攻撃して、結果として「国民」が困る、

という経路も、たしかにあると思うし、

他方で、「国家」そのものが強くなりすぎた場合に、

それ自体が「国民」に対する圧迫、干渉になる、

という経路も、たしかにあると思うのです。

 

たいせつなのは、

「国民」が困る経路というのは、そのうちの片方だけしかない、

と考えるのではなく、

その双方の可能性にきちんと目配りし、

バランスのとれた政策をおこなっていくことではないでしょうか。