この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

ヘイトスピーチは規制すべきなのか?

こんにちわ。天機です。

(約 9900字)

 

 

 

きょうは、いわゆるヘイトスピーチの問題について、

天機独自の立場から、考えてみたいと思います。

 

 

 

最近になって、

いわゆるヘイトスピーチというのが問題視されるようになり、

それを規制する条例や法律が整備されるようにもなってきました。

 

 

 

ヘイトスピーチ、と横文字の言葉ですから、

おそらく、もともとは欧米で言われるようになった問題なのでしょう。

 

 

 

天機の理解では、

ある特定の民族や宗教、国家に属している人について、

その属性をもとにして、一般的に、

明確な根拠に基づくことなく誹謗中傷を浴びせるような言動を、

ヘイトスピーチと呼んで規制しようとしているように思われます。

 

 

 

では、そもそも、なぜそのような言動が仮にあった場合に、

それが問題になるのでしょうか。

 

 

 

天機が思うに、それは一つには、

そのような言動を浴びせられることになる個々人への、

権利侵害という側面を持っているからだと思うのです。

 

 

 

ヘイトスピーチを浴びせられた人は、

おそらく、精神的に傷つき、嫌な思いをするでしょう。

 

また、それだけではなくて、

脅迫や暴行などの、具体的な加害行為も懸念されるかもしれません。

 

 

 

これが、個々人に対する権利侵害、ということです。

 

 

 

さらに、それだけではなくて、

ヘイトスピーチなどというものが、もし仮に実際に起これば、

それは、被害者個人への権利侵害になるだけではなくて、

国家や社会に対する悪影響をもたらすおそれもあるかもしれません。

 

 

 

たとえば、犯罪の中には、

賄賂の授受とか、売買春とか、麻薬の売買とか、

それを受け渡しする当人同士のあいだでは、

なんら、被害者の存在しないような犯罪類型というのがあります。

 

 

 

にもかかわらず、国家が、

それらを違法行為として法律の威嚇をもって禁圧しようとするのは、

それらの行為が社会に蔓延するようにでもなれば、

そのときには、国家や社会に重大な害悪が発生する、

と考えているからにほかなりません。

 

 

 

それはそうでしょう。

いくら当人同士が満足しているからといっても、

賄賂が横行するような社会、

売買春が横行するような社会、

麻薬や覚せい剤が蔓延しているような社会には、

あまり住みたいというようには、一般的には思えませんよね。

 

 

 

同様のことが、

ヘイトスピーチの問題に関しても、言えるのかもしれません。

 

 

 

単一民族だけが暮らしているような国家でもないかぎり、

こんにちの多くの国家では、

さまざまな民族や宗教、国家というバックグラウンドを持った人々が、

同じ国家のなかでともに暮らしていることは、

めずらしいことではありません。

 

 

 

それらの民族や宗教、国家といった属性だけにことさらに注目して、

それを誹謗中傷などでもって排斥するようなムーブメントが

社会の中に大々的に広がっていけば、

社会の中に広く軋轢や亀裂を生む可能性があります。

 

 

 

だけでなく、

気に入らない者は声高に誹謗中傷してそれを追い込んで構わないのだ、

といった風潮が社会に蔓延していけば、

それはやがて、

そういった民族や宗教、国家といった特定のバックグラウンドを持つ

人々への攻撃、といったところからさらに拡大して、

自分たち自身の社会の中の、

さまざまな気に入らない人への無秩序な攻撃へと発展していく

おそれもあるでしょう。

 

 

 

これが、

個々人に対する権利侵害、ということ以外に懸念される、

国家や社会への害悪、悪影響ということです。

 

 

 

このようにして見てくると、

ああ、やっぱりヘイトスピーチというものはいけないものなんだ、と、

天機という人物は、

ヘイトスピーチを規制することに賛成なのだな、

と思われるかもしれません。

 

 

 

ところが、

 

かならずしもそうではない

 

のです。

 

 

 

上で述べたようなことは、

いわゆるヘイトスピーチがもたらす害悪についてです。

 

 

 

そして、繰り返しになりますが、ヘイトスピーチというのは、

特定の民族や宗教、国家といった、バックグラウンド、属性を

持つような人々に対して、

ことさらにその属性のみに注目して、

その属性と関連付けるかたちで、

当該民族や宗教、国家に属するひとびとを一般的に、

なんらの理性的な明確な根拠に基づくことなく誹謗中傷し、

これを排斥しようとする言動なのでした。

 

 

 

であるならば、

特定の民族や宗教、国家といったバックグラウンドに対して

一定の注目はするものの、

なんらかの根拠に基づいて、

冷静に、論理的に批判するような行為についてまで、

これを一律にヘイトスピーチと同視して機械的に規制しようとするのは、

それはちょっと違うんじゃないか。

 

天機は、そう思ったのです。

 

 

 

天機は、このブログのほかの記事でも

ときどき書いていることなのですが、

ひとつの信条のようなものを持っています。

 

 

 

それは、

 

理の原理を大切にしたい

 

ということなのです。

 

 

 

一般的ではない考え方かもしれませんが、天機の考えでは、

この世界には、2つの原理が存在します。

 

 

 

他者を犠牲にすることになっても、この自分は生きるんだ、

という、自己の生存や利益を追求する原理が、生の原理です。

 

 

 

それに対して、

自分とは異なる他者が存在することを認め、

その他者と自己という両者によってこの世界は成り立っているんだ、

というところに価値を認める原理が、理の原理です。

 

 

 

そして天機という人間は、この両原理のうちの、

後者の理の原理のほうを大切にしたい人間なのだ、ということなのです。

 

 

 

この観点からヘイトスピーチの問題を見てみたとき、天機は、

特定の民族や宗教、国家を批判することを一律に禁じて、

理性的で論理的な批判という行為と誹謗中傷をおなじように封じてしまおう

とする考え方というのは、

この、理の原理に反する内容をもつのではないだろうか、

と考えたのです。

 

 

 

そのことを、具体的に見ていきましょう。

 

 

 

人間の歴史においては、今日に至るまで、

人間はその頭脳を使いながら、さまざまに文明を発達させてきました。

たとえば、科学なんかも、

そういった人間の頭脳のはたらきの1つの産物としてうまれてきたものです。

 

 

 

人間がその理性を行使し、頭脳を使う上で、

特徴的なことはいろいろあると思いますが、

そのなかの1つに、

 

抽象化

 

というものがあります。

 

 

 

たとえば、科学においては、

実験や観察が重視されますよね。

 

 

 

あるひとが、Aという時間と場所において観察したところ、

水は100度で沸騰しました。

 

またべつのひとが、Bという時間と場所において観察したところ、

やはり水は100度で沸騰しました。

 

そしてその後、さまざまな時間と場所で観察をつづけても、

どうやら、水というのはいつも100度で沸騰するのではないか、

ということがわかってきたのです。

 

 

 

このとき、

 

水は100度で沸騰する

 

という原理ないし原則は、

個別的なA、B、C、…といった、具体的な時間や場所からはなれて、

帰納的に抽象化された1つの法則として定立されることになります。

 

 

 

これが1つの、

 

抽象化

 

というものをあらわした例です。

 

 

 

人間は、この、

個別具体的な多数の事例を観察して、考えて、

そこから、それらのあいだに共通してみられる法則性のようなものを

導きだし、

帰納的に抽象化していくことで、

一般的に成り立つ原理や原則を定立する、

という、特徴的な能力をもっています。

 

この能力があるために、

物事や現象の背景にあってそれらを支配する、

かくれた法則性や原理を把握することができるようになり、

いったん、

それらの法則性や原理があきらかにされたならば、

こんどはその、法則性や原理のほうをスタート地点にして、

初見の問題や未知の問題にも、

方針をもって取り組むことができるようになったのです。

 

 

 

これが、

抽象化ということのもつ偉大な力であって、

理というものがもつ、1つの性質なのです。

 

 

 

では、このことと、ヘイトスピーチの間には、

どのような関連性があるのかについて、見ていきましょう。

 

 

 

どこの国であっても、たとえば、外国であっても、

その国、その国で、やはり、

他の国家や他の民族、他の宗教に対する、

ある種の「差別的な」見方というのは、一定程度、

存在するのかもしれません。

 

 

 

身近な例で考えるために、ここでは、

「中国人というのは、マナーが悪い」

という命題について考えてみましょう。

 

 

 

ただし、注意してほしいのは、ここで天機は、

「中国人というのは本当にマナーが悪いなあ!許せない!」

という立場から論じているわけでは、

かならずしもない、ということなのです。

 

 

 

中国人というのが、他の国の人々とくらべた場合に、

本当にマナーが悪いのかどうか、という点については留保して、

つまり、

「中国人というのは、マナーが悪い」

という命題の真偽については保留したうえで論をすすめていこうと

しているということを、ご了承ください。

 

 

 

さて、日本においては、とりわけ、

ネット界隈やテレビなどでは、ときどき、この

「中国人というのは、マナーが悪い」

ということが言われることが、あると思うんですね。

 

 

 

では、そもそも、なんでそんなことが言われるようになってきたのでしょうか。

 

ある種の都市伝説のように、

実際にはなんの客観的な根拠もないにもかかわらず、

自然発生的に、ひとびとの口伝えで広がっていったデマのたぐいなのでしょうか。

 

 

 

天機は、かならずしも、そうではないと思います。

 

 

 

おそらくは、

観光のために日本を訪れる中国人も数多くなってきた昨今の情勢のなかで、

ある観光地Aにおいて、たとえば、

中国人が列に並ばない、などのマナー違反の行為が目撃され、

また、ある住宅街Bにおいては、

中国人がゴミ出しの曜日や場所を守らない、

などのマナー違反が目撃された。

 

 

 

そういった事例が積み重なって、積み重なって、

だんだんと多数の事例が集積していったときに、

多くの日本人の中で、

そういった個別の事例から帰納的に抽象化されるかたちで、

 

「中国人というのは、もしかしたら一般的に、

 マナーの悪いひとたちなのではないか?」

 

という認識が形作られていった可能性がある、と思うんですよね。

 

 

 

そして、このような認識の形成にも、

いま述べたように、

 

抽象化

 

という、理の持つ働きの1つがかかわっているわけです。

 

 

 

そういうわけであるので、

ここで、

たとえ中国人がマナーの悪い事例があったとしても、

それは個々の中国人の個別の問題であって、

それらの個々の事象の間には相互の関連はなく、

それらの個々の事象から帰納的に、

中国人が全体としてマナーの悪い人間なのだ、という「法則性」

を導き出すことは、ヘイトスピーチとして許されない、

と考えることは、

 

帰納的に抽象化して物事を把握する

という、理の原理そのものを否定する

 

傾向性を、一定程度、含んでいるかもしれないのです。

 

 

 

これが、

なんでもかんでもヘイトスピーチであるとして、

理性的な根拠に基づいた批判をも機械的に封じてしまおうとする

考え方が、

理の原理に反していて危険なのではないか?

と天機が考える、1つの理由です。

 

簡単にいうと、

抽象化というものを一律に否定するような考え方はおかしいのではないか、

と天機は思っている、ということです。

 

 

 

なんでもかんでもヘイトスピーチであるとして、

理性的かつ建設的な批判をも一律に禁じてしまうことが、

理の原理に反していて危険なのではないか、

と天機が考える理由は、ほかにもあります。

 

 

 

ここで少し、「生と死」というものについて考えてみましょうか。

 

 

 

よくドラマとかで、

いまにも死にそうな人が病床に横たわっている場面というのが

映し出されることがあります。

 

その傍らには、

心拍でしょうか、心臓の鼓動の様子でしょうか、

そういうものを計測している機械が置かれてあって、

緑色の光の線が波をえがいています。

 

 

 

だんだんとその波長の間隔が長くなっていって、

そのひとがついに臨終をむかえると、

ぴーーーーっと音が鳴って、

その緑色の光の線は、波打つことをやめて、一直線の平坦な線になる。

 

そんな場面がありますよね。

 

 

 

この緑色の光の線の波打つ様子に特徴的なのですが、

人間が生きているとき、つまり、「生」の場面では、

変化があります。動きがあります。

 

 

 

言ってしまえば、

「楽しいこともあれば、苦しいこともある。

 うれしいこともあれば、いやなこともある。」

それが、生ということなのです。

 

 

 

ところが、ひとが死んだときは違います。

 

一直線になってしまって、ついに波打つことをやめてしまった

その緑色の光の線に特徴的なのですが、

ひとが死んだとき、つまり「死」の場面では、

動きがありません。変化がありません。

 

 

 

言ってしまえば、

「楽しいこともなければ、苦しいこともない。

 うれしいこともなければ、いやなこともない。」

それが、死ということなのです。

 

 

 

そして、

楽しいこともあれば苦しいこともある「生」と、

楽しいこともなければ苦しいこともない「死」は、

それぞれがたがいに対極的な位置に位置していますよね。

 

それが、生と死の関係です。

 

 

 

ここで、天機がその理論においてよく展開するところの、

生の原理と理の原理についても考えてみましょう。

 

 

 

自分が生きるためには他者を犠牲にしてもかまわない、

というのが生の原理です。

 

それに対して、

この世界には自分と他者の両者が両者ながら存在しているのであって、

そういった他者の存在を認め尊重する原理が、

理の原理なのでした。

 

 

 

その、生の原理と理の原理の両者もまた、

たがいに対極的な位置に位置しているといえるでしょう。

 

 

 

とするならば、

先に見てきたように、

生と死はたがいに対極的な位置関係にあり、また、

生の原理と理の原理もまたたがいに対極的な位置関係にあるということなので、

生や、生の原理とは、反対の方向に存在するという点において、

死と、理の原理には、共通性があると考えることができます。

 

 

 

したがって、

楽しいことも苦しいこともあるのが生の原理ならば、

楽しいことも苦しいこともないのが理の原理である、

ということができるかもしれません。

 

 

 

では、そういった性質をそれぞれ持つ、

生の原理と理の原理が、

ここでかりに、自分の原理がもつ優位性や素晴らしさを主張するとしたら、

いったい、

どのような主張を展開するでしょうか。

 

 

 

生の原理について考えてみましょう。

 

生の原理は、「楽しいことも苦しいこともある」

という性質を持つ原理です。

 

このうち、楽しいことがある、というのは素晴らしいことで魅力的ですが、

苦しいことがあるというのは、あまり訴求できないマイナス面です。

 

 

 

なので、生の原理は、こう主張するでしょう。

 

「この世界にはね、そもそも、苦しいことは存在しないんだ。

 苦なんてものは、この世には初めから存在しないんだ。

 この世で大切なのは、楽しいかどうかだけ。

 そして、自分のこの生の原理は、その楽しさを持っている原理なんだよ。」

と。

 

 

 

では反対に、理の原理はどのような主張をするでしょうか。

 

理の原理は、「楽しいことも苦しいこともない」

という性質を持つ原理です。

 

このうち、苦しいことがないというのは、素晴らしく魅力的なものなのですが、

楽しいことがないというのは、あまり訴求できないマイナス面です。

 

 

 

なので、理の原理は、こう主張するでしょう。

 

「この世界には、楽しいこともあるかもしれないけれど、

 苦しいことだってあるんだ。

 苦は存在しないわけじゃなくて、苦はあるんだよ。

 そして、自分のこの理の原理を選択すれば、

 その苦を減らしたり、なくしたりできるんだよ。」

と。

 

 

 

このようにみてくると、1つのことがわかります。

 

つまり、

生の原理というのは、

この世界には苦が存在するということ、つまり、

嫌なことやマイナスも存在するのがこの世界だということを

承認しない原理だということです。

 

他方で、

理の原理というのは、

この世界には苦が存在するということ、つまり、

嫌なことやマイナスも存在するのがこの世界だということを

承認する原理だということです。

 

 

 

これらのことをふまえたうえで、

ヘイトスピーチの問題に戻って考えてみましょう。

 

 

 

ヘイトスピーチを規制しようとする論者というのは、

往々にして、

根拠に基づいた理性的な批判をも一律に封じようとするきらいがあり、

それは危険だと天機は考えたのでした。

 

 

 

ここで、

ある民族や宗教、国家に対する論評というのを考えてみたときに、

それには2つの種類があるといえます。

 

 

 

1つは、

「〇〇の民族や宗教、国家に属するひとびとは、

 △△という素晴らしい点があって、ほんとうに素晴らしい人たちだなあ。」

と、プラスの評価をするもの。

 

もう1つは、

「✕✕の民族や宗教、国家に属するひとびとは、

 ◇◇という醜い点があって、ほんとうに嫌な人たちだなあ。」

と、マイナスの評価をするものです。

 

 

 

ヘイトスピーチと、

他の民族や宗教、国家に属するひとに対する理性的、論理的な批判を

同視して一律に禁じようとするひとたちというのは、

上で述べた2つの評価のうち、

プラスの評価だけを認めて、マイナスの評価を認めないのです。

 

 

 

でも、これって、

考えてみたらおかしなことではないでしょうか。

 

どのような人間であれ、また、どのような団体であれ、

優れているところもあれば、劣っているところもあるだろうし、

素晴らしい部分もあれば、嫌な部分もあるでしょう。

 

 

 

にもかかわらず、

あたかも、劣っているところや嫌な部分などは、

はなからこの世界には存在しないとでも言わんばかりに、

それらの点に言及してマイナスの評価をすることを封じるというのは、

事実をありのままに冷静にとらえていないばかりではなく、

 

この世界には苦や嫌なことが存在する

という事実から目をそむけているところが、

理の原理に反する

 

と天機などは思うのですね。

 

というのも、さきに述べてきたように、

この世界には苦や嫌なことも存在するということを

承認する原理が、理の原理だからです。

 

 

 

これが、

ヘイトスピーチと、

根拠に基づいた理性的で論理的な、他民族、他宗教、他国民への

批判を一律に同視して封じてしまおうとすることが、

理の原理に反していて危険だと天機が考える、2つめの理由です。

 

 

 

では最後に、

ヘイトスピーチとそれに類するものを一律に安易に封じてしまおうと

することが、

理の原理に反していて危険だと天機が考える、

3番目の理由をしめして、この稿を終わりにしようと思います。

 

 

 

天機理論においては、

この世界が生成してきたところの、

世界生成理論について考えることがあります。

 

 

 

天機の理論では、こうです。

 

 

 

まず、この世界のはじまりに、「矛盾」という母がいました。

 

その「矛盾」という母が、第1子となる男子を出産します。

その男の子が、「理」です。

 

生まれた男の子の「理」は、

自分をうんだ母親の「矛盾」とまじわります。

 

すると、この世界に2番目の子供が誕生します。

 

その2番目のこどもが、女の子である「生」です。

 

 

 

つまり、この世界は、

矛盾(母)→理(男の子)→生(女の子)

という順番で生成してきた、

と天機は考えているのです。

 

 

 

そしてこの順番は、

こんにちにいたるまで、この世界の具体的な事物や現象で

「なぞる」ことができるとも、

天機は考えています。

 

 

 

具体的に言うと、

矛盾(母ー夜が明ける前の暗闇の黒ー髪の毛)

理(男の子ー日の光の白ー頭、頭脳)

生(女の子ー夕焼けの赤ー生殖器をふくむ胴体部)

 

と考えているのです。

 

 

 

ここで、この生成プロセスの真ん中にある、

 

 

について考えてみましょう。

 

 

 

夜が明ける前というのは、真っ暗な闇につつまれています。

どこを見渡しても、漆黒の暗闇です。

もっとも、都会ではなかなかそんなふうには感じられないかもしれませんが。

 

 

 

ところが、太陽が東の空に近づいてくると、

まず、地平線という「線」が、この世界にあらわれてきます。

 

つづいて、それまではなんの区別もなく闇の中に沈んでいた

個々の事物が、「輪郭」を生じて、

他者とは異なる自己というものを主張し始めるのです。

 

山々があらわれ、木々があらわれ、ビル群がすがたをあらわし、

鳥や虫たちがうごきはじめます。

 

 

 

暗闇の黒の中に沈んでいたときは、

自己と他者の区別もなく「溶け合って」、

言ってみれば、すべてが1つ、すべてが同じ、だったのに、

日の光の白があらわれてくると、

それぞれのものが、輪郭を以て、

 

違い

 

を主張するようになってくるのです。

 

 

 

日の光の白を担当していたのは、

矛盾ー理ー生という世界生成プロセスの中の「理」の原理ですが、

このように、理の原理もまた、

「違い」というものを大切にするのです。

 

 

 

この「理」は、人間の体のなかでいえば頭脳ですが、

この頭脳もおなじく、「違い」を大切にします。

 

物事や現象の、それぞれのあいだにある共通点だけではなくて、

相違点は相違点として認識し、はっきりと区別することで、

人間はその理性を発達させてきて、

この世界に対峙してきたのです。

 

 

 

つまり、

 

私とあなたは違うんだ、という、

違いを大切にするということこそ、

理の原理の持つ重要な性質の1つ

 

なのです。

 

 

 

そして、この「私とあなたは違うんだ」という、

違いのあらわれというのは、

個々の人間と人間のあいだで生じるばかりではなくて、

いろんなレベルで生じうるものであるはずです。

 

 

 

私の組織とあなたの組織はちがうんだ。

私の会社とあなたの会社はちがうんだ。

私の家庭とあなたの家庭はちがうんだ。

私の民族とあなたの民族はちがうんだ。

私の宗教とあなたの宗教はちがうんだ。

私の国家とあなたの国家はちがうんだ。

 

いろいろです。

 

 

 

違いというのは、1つには、

「輪郭」というか、「枠」のようなものを設定して

考える思考とかかわりがあります。

 

 

 

あなたの民族とわたしの民族は違う、というときは、

自分の民族というものに、ひとつの「輪郭」を見出し、

それの内か外かで考えているのかもしれません。

 

あなたの国家とわたしの国家は違う、というときは、

もっと明白な、国境線という「輪郭」の存在があります。

 

 

 

ヘイトスピーチや、それに類する、

他民族や他宗教、他国家への理性的で論理的な批判をも一律に禁じようとする

論者の考え方というのは、

こういった、

民族という輪郭や、宗教という輪郭、あるいは、

国家という輪郭を意識し、それを設定し、それに立脚して論を展開する

ことを、異様に嫌う傾向性があるのです。

 

 

 

というのも、

民族や宗教、国家といった輪郭を設定して、

それに基づいて論を展開する姿勢というのは、

ようするに、この世界における「違い」に力点をおいた主張になるからであり、

そのような主張を、

ヘイトスピーチのたぐいを規制しようとする側が嫌うというのは、

端的に言えば、

彼らが「違い」というものの存在から目を背けたいからにほかなりません。

 

 

 

そして、このことこそが、

違いというものを大切にしている理の原理にとっては、

ヘイトスピーチやそれに類するものを安易に一律に規制しようとする

人間というのが非常に危険な存在である、

ということを、よく示しているように思われるのです。

 

 

 

ヘイトスピーチを規制しようとする側には、

おなじような思想を持った、仲間になる存在がいます。

 

 

 

国境などといった枠にとらわれず、

地球温暖化といった、地球全体の問題に取り組もう。

 

国境などといったものは廃して、

EUのような、単一市場、単一政府をめざそう。

 

移民を受け入れよう。

移民に関するマイナスのステートメントは許さない。

 

グローバリゼーションを拡大しよう。

国と国との間に壁を設けるトランプなんかは、悪の権化だ。

 

それらの流れの中の1つに、

ヘイトスピーチ規制論者がいるのです。

 

 

 

このように、

理の原理がたいせつにしているところの、

「違い」というものの存在を認めず、

できることなら、「違い」というものを亡き者にしてしまいたい、

という傾向をもっているところが、

天機が、

ヘイトスピーチとそれに類するものを安易に一律に規制しようとする

勢力が、

理の原理に反していて危険なのではないか、と考える、3番目の理由です。

 

 

 

以上の3つの理由であげたように、

ヘイトスピーチとそれに類するものを安易に一律に規制しようとする

勢力には、

理の原理に反するという傾向があるように思われます。

 

 

 

天機は、

明確で理性的な根拠もなく、

特定の民族や宗教、国家に属するひとたちを、一般的に、

その属性に関連付けるかたちで誹謗中傷する行為や言動には反対ですが、

明確で理性的な根拠にもとづいたうえで、

ある特定の民族や宗教、国家に属していることに一定の注目をし、

論理的、建設的な提言や批判をすることまでが、

安易に一律に封殺されるべきではない、と考えます。

 

 

 

【紫微斗数】福徳宮化禄と福徳宮化忌。

こんばんわ。天機です。

(約 4800字)

 

 

 

きょうは、占いに関するお話です。

 

 

 

東洋占術において、本場の台湾や中国などでは、

四柱推命と並ぶくらいの人気があるのが、「紫微斗数(しびとすう)」です。

 

 

 

その紫微斗数では、

人の運命を占うために12個の部屋を用意するのですが、

そのなかに、福徳宮(ふくとくきゅう)というのがあります。

 

 

 

きょうは、その福徳宮のなかに、

四化星である化禄星と化忌星が入ったばあいに

どういう現象があらわれるのかについて、

独自の立場から考察記事を書いてみたいと思います。

 

 

 

では、まずその前に、

記事の前提となる知識を整理しておきましょう。

 

 

 

① 

人間には、運というものがあります。

一般的に言えば、嫌なことや辛いこと、苦しいことがあったときには、

運が「貯まって」います。

逆に、楽しいことや嬉しいこと、ハッピーなことがあったときには、

運を「消費して」います。

運が貯まれば貯まるほど、

だんだんと楽しいことが起こりやすくなってきます。

逆に、運を消費しすぎて運が足りなくなってくると、

だんだんと嫌なことが起こるようになってきます。

福徳宮は、運についてあらわすことがある宮位です。

言ってみれば、「運の貯蔵庫」のような役割をもつのが福徳宮だ、

と言ってもいいかもしれません。

 

 

 

四化星には、化禄、化権、化科、化忌の4種類がありますが、

そのなかでも、

ラッキースターの代表格が化禄で、

アンラッキースターの代表格が化忌です。

化禄があれば吉の事象をあらわし、化忌があれば凶の事象をあらわします。

一般的にはそれでいのですが、たぶん、それ以外に、

化禄は「膨張や拡大」、つまり、

大きくなっていくことや広がっていくこと、増えていくことをあらわし、

化忌は「収縮や縮小」、つまり、

小さくなっていくことや減っていくこと、少なくなっていくことを

あらわすように思えます。

西洋占星術には、

ドラゴンヘッドドラゴンテールというのがありますが、ちょうど、

ドラゴンヘッドが化禄に、ドラゴンテールが化忌に、

それぞれ対応しているような感じです。

そのために、

福徳宮に化禄が入っているということは、

運が増えていくということをあらわします。

逆に、福徳宮に化忌が入っているということは、

運が減っていくということをあらわすのです。

 

 

 

福徳宮は、後半生、つまり、

人生の後半がどうなるのか、ということをあらわします。

紫微斗数において、後半生をあらわす宮位といえば身宮が有名ですが、

台湾や中国などの紫微斗数の本場のネットや書籍では、

身宮以外にも、福徳宮や遷移宮が後半生をあらわす、

としているものがちらほらあります。

したがって、

福徳宮に吉星が入っているようなら後半生において恵まれることになり、

福徳宮に凶星が入っているようなら後半生において辛い目にあうことになる、

と、一般的には言えるかもしれません。

 

 

 

④ 

そしてもちろん、福徳宮本来の意味として、

精神的な充足度や、心のありようといった、

一般的によく知られている意味があります。

福徳宮に吉星がある人というのは、やさしく、

他人を思いやることのできるひとかもしれません。

逆に、福徳宮に凶星があるひとというのは、

どちらかといえば、自己中心的な側面をもつひとであるかもしれないのです。

 

 

 

では、これらの前提知識をもとにして、

福徳宮に化禄が入っている場合と、福徳宮に化忌が入っている場合に

ついて、考察していきましょう。

 

 

 

自分の生年月日時をもとにしてつくった命盤において、

福徳宮に化禄が入ると、どうなるのでしょうか。

 

 

 

まず、このひとは、

どちらかというとのんびりしていて、あくせくしたところがなく、

鷹揚で、心優しく、思いやりを持った人なのかもしれません。

 

心の優しさや思いやりといった面は、

精神的な充足度や心のありようをあらわす福徳宮に、

非常に大きなパワーのある吉星である化禄が入ったことに根拠があります。

 

また、このひとがのんびりしているのは、

もしかしたら、

自分に本当の運がめぐってくるのは人生の後半になってからだ、

ということを、本能で知っているからかもしれません。

 

 

 

紫微斗数においては、重要な宮というのがあります。

 

自分自身の根幹にかかわる命宮、財運をあらわす財帛宮、

どれくらい発展する傾向にあるのかをあらわす遷移宮、

結婚運のよしあしを示す夫妻宮、

仕事運はどうなのかを示す官禄宮、などです。

 

 

 

こういった、

「人生における具体的な成功や発展」にかかわる宮にくらべれば、

福徳宮は、そういった観点からすれば、

「重要ではない宮」である、ということも言えてしまうのです。

 

 

 

化禄というのは、とてもいい星ですから、

おそらくは、どこの宮に入っても、プラスの側面がクローズアップされる

ものでしょう。

 

 

 

それはたしかにそうなのですが、

福徳宮の場合は、すこし事情が違っていて、

手放しでは喜べない可能性がなきにしもあらず、なのです。

 

 

 

福徳宮に化禄が入ったということは、

上であげたような、命宮や財帛宮、遷移宮、夫妻宮、官禄宮といった

枢要な宮に化禄が入るチャンスをいわば「犠牲にして」、

福徳宮に化禄が「入ってしまった」ということなのです。

 

したがって、このひとは、とくにその前半生においては、

どちらかといえばうだつのあがらない、

ぱっとしない人生を歩んでしまう懸念もあります。

 

 

 

ところが本人は、それでしょげているのか、といえば、

全然そんなことはなくて、

自分のそんな窮境をどこか俯瞰して眺めていたり、

自分の「悲惨な状況を」笑い話にしてユーモアにかえていたり、

あるいは趣味に走っていたりして、

やはり、どこか鷹揚なのです。脳天気とでもいいましょうか。

 

 

 

このひとは、さきに述べましたように、

他者に対する優しい思いやりの気持ちを持っていて、

ときには自己犠牲的な奉仕的行動をとったりもします。

 

また、とくにその前半生において、

めだった金銭的、あるいは社会的な成功をしません。

 

 

 

そのために、このひとは、その前半生において、

「あまり運を使わない」のです。

 

いや、もっと言うならば、

このひとは人生の中ごろに至るまで、運を使うどころか、

どんどん、どんどんと、

運を貯めこむ人生をおくるのです。

 

このことは、

ドラゴンヘッドのように「拡大や膨張」をあらわす化禄が、

運の貯蔵庫をしめす福徳宮に入っていることと、軌を一にします。

 

運が増える、ということなのです。

 

 

 

そのために、このひとが人生の中盤にさしかかり、

人生の後半がスタートするころには、

かなり大量の運が貯めこまれているのです。

 

そして、このことこそが、

このひとが後半生において運がよくなるということの原因になっており、

この、後半生において運がよくなるということは、

後半生をあらわすことのある福徳宮に

代表的な吉星である化禄が入っていることと符合しています。

 

 

 

では逆に、

自分の生年月日時でだした命盤において、

福徳宮に化忌が入ったひとは、どのようになるのでしょうか。

 

 

 

このひとは、どちらかといえば、

「心根の汚い」ひとであるのかもしれません。

 

心根の汚い、という表現が語弊のあるものかもしれないので、

ほかの表現を借りるならば、

他人の窮境といったものに思いを寄せるというよりは、

自己が競争によって他人に打ち勝つことを重視する、というような、

ある意味で自己中心的な傾向性を持っている可能性があります。

 

 

 

このひとは、心の中で、

まるで渇した者が水を求めるように「具体的な成果」を求めます。

 

その成果を求めることを急ぐあまりに汲々とし、

心がどこかアクセクするのです。

簡単にいうならば、心から余裕が失われるのです。

 

そして、具体的な成果がたとえあがったとしても、

満足感を得られることが少なくて、

次々と、「もっと、もっと!」と求めてしまうことがありそうです。

 

 

 

自己中心的な傾向性を持っているということ、

悪い言い方をすれば「心が汚い」ということは、

精神的な充足度や心のありようといったものをあらわす福徳宮に、

代表的な凶星中の凶星である化忌が入ったことによって示されます。

 

また、

このひとが具体的な成果を非常に急ぐということは、

もしかしたら、

人生の後半になると運勢が暗転する可能性があるということを、

本能のどこかで知っているからかもしれません。

 

 

 

こうしてみてくると、

福徳宮に化忌がはいっているということは、

やはり、よくない事象としてあらわれてくるものなのだな、

と思われるひとも多いかもしれません。

 

 

 

ところが、必ずしもそうとばかりも言いきれないのです。

 

 

 

先に、紫微斗数の命盤においては、

命宮や財帛宮、遷移宮、夫妻宮、官禄宮といった、

「枢要な宮」がある、というお話をしました。

 

このひとの場合は、

福徳宮に化忌が入ったために、結果として、

それらの枢要な宮に化忌が入るということからまぬかれているのです。

 

 

 

男性、女性ともに、命宮や遷移宮に化忌が入ったり、

あるいは、男性の場合なら官禄宮や財帛宮に化忌が入ったり、

あるいは、女性の場合なら夫妻宮に化忌が入ったりすれば、

人生が大ダメージを受けてしまうということが、

決して少なくはないのです。

 

このひとは、福徳宮に化忌が入ったために、

そういった最悪の事態は回避することに成功しているわけです。

 

 

 

だけではありません。

 

化忌をいわば、福徳宮が「引き受けた」おかげで、

このひとは、

財産や社会的な成功といった面で、

おもにその前半生において、具体的な成果をあげる可能性が高くなります。

 

 

 

これは、そのひとの心性が、

どちらかといえば自己中心的で、競争的であることも、

その支えになっています。

 

世間的に、成功したり、有名になったり、財を成したりするひとはいるものですが、

彼らがただ単に、

お人よしで、人の苦しみを感じやすい痛みやすい心の持ち主であったのならば、

そういう成功をはたして勝ち得たかどうかは、

疑わしいものであるかもしれないのです。

 

心の汚さというのは、

ある意味では成功に必要な1つの要素であって、

福徳宮化忌のひとは、その資格を持っている可能性があります。

 

 

 

ところが、時間の経過とともに、状況は変化していきます。

 

 

 

福徳宮化忌のひとは、その前半生において、

あまり他人のことを顧みる思いやりはなく、

どちらかといえば、奉仕的なこともしないで、

自己中心的な、競争的価値観のなかで生きていきます。

 

また、その前半生において、

たとえば、財をなしたり、出世したり、事業が成功したりと、

具体的な成果をあげてしまうのです。

 

 

 

これらの、「自己中心性」と「具体的な成功」というのが、

このひとの前半生においてあらわれる結果、

このひとは、前半生において、すごく運を消費するのです。

 

このひとは、前半生をつうじて、どんどんと運が少なくなっていきます。

 

もともと持っていた運が、

具体的な成功へとかたちを変えるからです。

 

 

 

この、前半生をつうじて運が少なくなっていくということは、

「収縮や縮小」をあらわすドラゴンテールのような化忌が、

運の貯蔵庫とでもいうべき福徳宮に在位していることと符合します。

 

運が減っていく、ということです。

 

 

 

このために、このひとは、

人生が中盤にさしかかり、これからいよいよ人生の後半がはじまるぞ、

というときに、

運が尽きかかってしまう懸念があります。

 

 

 

そして、これこそが、

このひとが後半生においては運勢が暗転する可能性があることを示しており、

そしてそのことは、

後半生をあらわすことのある福徳宮に代表的な凶星である化忌がはいっている

ということと、軌を一にしているのです。

 

 

 

では、

福徳宮化禄のひと、福徳宮化忌のひとは、

それぞれ、

どんなことに注意して、どんなふうに生きていったらいいのか。

 

 

 

また、

たとえば兄弟宮や夫妻宮といった個別の宮の宮干、

あるいは、特定の大限の大限宮の宮干からとばした化禄や化忌が、

福徳宮に入ってくる場合には、

どう考えたらいいのか。

 

 

 

こういったことについて、

続編記事で書いていこうと思います。

ストーカーは、なぜ嫌われるのか。

こんにちわ。天機です。

(約3400字)

 

 

 

きょうは、ストーカーについて、

すこし思ったことを書いてみようと思います。

 

 

 

天機は、ストーカーをしたことも、されたこともありません。

恋愛に無縁である、ということが影響しているのかもしれませんが。

 

 

 

しかし、世の中では、

ときどき、ストーカーについての話を聞くことがあり、

ニュースになったりもしています。

 

 

 

たいていは、1人の相手に対して、

かなわぬ恋愛感情をつのらせたあげく、といった例が多いようで、

男性から女性へ、といったものが多いようですが、

女性から男性へ、といったものもあるようです。

 

 

 

そして、深刻な場合には、

殺人や傷害といった事件にも発展するようですね。

 

 

 

ストーカーに関する規制法がまだ存在しなかったときには、

こういったストーカーについては、

とくに法で規制するものとは、思われていませんでした。

 

 

 

そのため、

こういったストーカーの被害にあったひとは、

本当に困難な状況におかれたことと思います。

 

 

 

この社会では、

ストーカーをする人というのは、

嫌われ、非難されることが多いと思います。

 

 

 

それは、ストーカーに遭っている当事者から嫌われ、非難される

ばかりではなくて、

広く社会の多くの人からも、

嫌われ、非難される可能性が高いものだろうと思うのです。

 

 

 

なぜ、そうなのか、といえば、

それは1つには、

ストーカーという行為の持つ、

その行為態様の薄気味悪さからくるものだろうと思うのですね。

 

 

 

実際に、

自分が思いをよせる相手に対してつきまとったり、

といった、

実際の行為の持つ薄気味悪さばかりでなく、

相手から拒絶されているのにもかかわらず、

しつこく思い続けることをやめない、という、

その心性の持つ薄気味悪さも、ここでいう薄気味悪さの1つです。

 

 

 

しかしながら、

ストーカーの持つそういった行動原理には、

すこし、共感したり、同情したりできる部分がないわけではありません。

 

 

 

ひとから拒絶されるというのは、

誰にとっても、つらく悲しい現実の1つです。

 

 

 

容易にはあきらめきれないという気持ちは、

ストーカーにまでは至らない人の心の中にも、

おそらくは、多かれ少なかれ、存在するでしょう。

 

 

 

また、容姿や能力、収入といった、

そのひとのもつスペックの違いによって、

他人に容易に受け入れられるひともいれば、

なかなか他人には受け入れてはもらえないひともいる、というのも、

恋愛にともなう、

かならずしも「美しい」とはいえないかもしれない、

harshな現実の1つです。

 

 

 

けれども、

そういったことどもを考慮に入れても、なお、

ストーカーをするというのは、

その相手側にとって嫌なことになる、というだけではなくて、

そのストーカーをする本人にとっても、

報われることの少ない行動ではないだろうか、

とも思うのですね。

 

 

 

というのは、

そこには、この世界における、

2つの異なった原理がかかわっていると思うからです。

 

 

 

天機が思うに、この世界には、

 

他者からの好意や同意といったものが

非常に重要な意味をもつ原理

 

と、

 

同意がなくても頭脳などの力により

強制的に物事を実現できる原理

 

という、2つの原理があると思うのです。

 

 

 

この両原理は、

どちらの原理のほうが優れているとか、

どちらの原理のほうが劣っているとか、

そういったものでは、ないのです。

 

 

 

ただ、この世界には、そういった2つの原理があるだけであり、

みずからの原理が「管轄」する世界においては、

あたかも、その世界の「王様」であるかのように、

圧倒的なパワーをもって、

それぞれの原理が君臨しているのです。

 

 

 

このことを理解せずに、たとえば、

同意や好意が重要な意味を持つ世界で、

物事を強制的に実現することを目指したり、

逆に、

同意がなくても強制的に物事が実現されるような世界で、

ただ同意や好意といったものを重視したりするのでは、

無用の反発をくらって、

得られる収穫は少なくなるものだろうと、天機なんかは思うのですね。

 

 

 

具体的には、どういったものがあるでしょうか。

 

 

 

まず、同意や好意といったものが重要な意味を持つ世界としては、

 

恋愛や商売、芸能界

 

といったものがあるだろうと思います。

 

 

 

たとえば、恋愛の世界で、相手に、

自分のことを強制的に好きになれ、といっても、それは無理でしょう。

 

 

 

商売で、自分の商品を強制的に買わせるとか、

芸能界で、視聴者に自分を強制的に好きにならせるとか、

みな、無理な話なのです。

 

 

 

そういった世界では、相手から同意や好意を得る、

ということこそが大きなポイントになるのであって、

また、そういった同意や好意という、「他者からの支持」を

幅広く獲得すればするほど、

自分の人気やパワーといったものが、

大きくひろがっていくのです。

 

 

 

つまり、そこには、

 

面の広がり

 

といったものをイメージできるかもしれません。

 

 

 

一方、

物事を強制的に実現できる世界としては、

 

軍事や科学、学問や学科試験

 

といったものがあるだろうと思います。

 

 

 

戦争に勝利した国は、基本的には、戦争に敗れた国に対して、

自分ののぞむことを強制的に実現できます。

 

 

 

科学的な法則が発見されて、

それに基づいて機械や新薬が発明、発見されたならば、

それらは、

人間が賛成しようとしまいと、

その科学的な法則のみに基づいて作動、作用します。

 

 

 

試験勉強を頑張ったならば、

そのひとが、芸能オーディションなどでは簡単に落とされてしまうような、

まったく魅力的ではない外見の持ち主であったとしても、

点数さえよければ、機械的に合格するのです。

 

 

 

戦争に勝利するためには、

部分的、局地的な戦闘での勝利を積み重ねていく必要があり、

部分的、局地的な戦闘で勝利するには、

「局限された戦域において相手方よりも優勢な兵力」

を結集させる必要があります。

 

 

 

たとえるならそれは、

細い細い針の先が、先がとても細いために、

その針の先にかかる圧力が非常に大きなものとなって、

結果的に紙を破るようなものです。

 

 

 

科学でも、学科試験でも、これと似たようなところがあって、

科学的な発明や発見にいたるためには、

問題となっている状況に対象をしぼって、

繰り返し観察や実験、考察をかさねていく必要がありますし、

学科試験でいい成績をとろうと思うのならば、

自分の苦手としているところなどに、たとえば範囲をしぼって、

繰り返し練習問題などを解くなどして、

試験に合格できるだけの実力を涵養していく必要があるのです。

 

 

 

このように見てくると、

軍事や科学、学問や学科試験といった、

物事を強制的に実現することを目指す世界というのは、

 

一点を深く掘り下げる

 

ということと親和的だ、といえるかもしれません。

 

 

 

では、ここで、ストーカーのお話に戻ってみましょうか。

 

 

 

ストーカーをする人が目指しているのは、おそらくは本来は、

 

恋愛において自分が報われること

 

であったはずなのです。

 

 

 

ただ、その恋愛という世界をつかさどっている原理というのは、

 

同意や好意が重要な意味をもつという原理

 

であって、

 

面の広がり

 

と親和的な世界なのです。

 

 

 

ところが、ストーカーをするひとというのは、

そのような恋愛の原理と世界において、

たった1人の人に絶対にこだわり、そのひとを決してあきらめず、

自分の偏執的な行為によって、

相手を強制的に振り向かせることを目指すのです。

 

 

 

つまり、

同意や好意が重要な意味をもち、

面の広がりと親和的な

恋愛の世界で、

 

一点を深く掘り下げるという、

物事を強制的に実現させる、

軍事や科学といった世界をつかさどるような

原理でもって臨もうとする

 

わけです。

 

 

 

これが天機が、ストーカーという行動原理が、

おそらくは、そもそもが原理的に報われないだろうなあ、

と考える理由です。

 

 

 

そしてこの世界には、ストーカーとは対照的なひとがいます。

 

 

 

数うちゃあたる、で、

何人もの女性につぎつぎと交際を申し込むものの、見事に撃沈をすることを重ねて、

それでも、

「また振られちゃったよ┐(´~`;)┌」

と、あっけらかんとしているひとです。

 

 

 

こちらのタイプの男性は、

比較的、社会から笑顔をもって迎えられることが多いのです。

 

 

 

それはなぜかといえば、

1つには、その行動や心性が「陽性」である、

ということももちろんあるでしょうが、おそらくは、

その「数うちゃあたる」式で、

振られた相手にこだわることなく、つぎつぎとチャレンジして

広げていくということが、

 

面の広がり

 

と親和的な、恋愛の原理に合致しているからだろうと、

天機などは思います。

女性中学教諭が男子中学生とキス、の事件について。

こんにちわ。天機です。

(約1600字)

 

 

 

けさ、ヤフーニュースを見ていたら、

こんな記事があがっていました。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

中学校の女性教諭が、おなじ中学校の男子生徒と、

いろいろな場所でキスをするなど、

不適切な行為をしていたことが発覚したため、

懲戒免職処分になった、というものです。

 

 

 

この事件に関して、おなじ記事についたヤフーコメントでは、

さまざまな意見があがっています。

 

 

 

女性教諭は大人なのだから、その点については自制が必要だった

のではないか、という、教師を非難する意見。

 

男子中学生にも恋愛感情はあったのだろうから、

周囲が騒ぎ立てるほどのことはないのではないか、という、許容する意見。

 

 

 

いろいろです。

 

 

 

天機はといえば、

女性教諭は自制すべきだった、と思うのと、

まあ、恋愛なんだし、と思うのが、半々くらいです。

 

 

 

ただ、天機は、

このブログのほかの記事でも書いているのですが、

理の原理と、それにともなう公平性というのを、

非常に重視する人間です。

 

 

 

天機がだいたい、ニュースとかを読んでいて、

いらだつことのひとつに、

物事が公平ではなかったとき、というのがあります。

 

 

 

今回の事件については、どうでしょうか。

 

 

 

まず、今回のような事件について、

「教師というものは自制すべきであって、未成年である生徒に対して

 ハレンチな行為をすべきではない」

としたとしましょう。

 

 

 

そのときには、天機は、

それは、男性にも女性にも、適用される原理原則だと思うのです。

 

 

 

つまり、

教師が未成年の生徒といちゃこらしたことで非難をうけるのならば、それは、

 

女子生徒と男性教師という組み合わせだけではなくて、

男子生徒と女性教師という組み合わせであっても、

教師が非難を受けないとおかしい

 

と思うのですね。

 

 

 

他方で、

 

「たとえ教師と未成年との関係であったとしても、

 双方のあいだに恋愛感情があったのならば、

 許容してかまわないのではないか?」

 

としたとしましょう。

 

 

 

そのときにも、天機はやはり、それは、

男性にも女性にも、適用される原理原則だと思うのですね。

 

 

 

つまり、教師が未成年の生徒といちゃこらしても、

それはべつにかまわない、と許容するのであれば、それは、

 

女性教師と男子生徒という組み合わせばかりではなく、

男性教師と女子生徒という組み合わせにおいても

許容されなければおかしい

 

と思うのです。

 

 

 

教師が未成年の生徒といちゃこらしたときには、

いろんな意見があると思います。

 

 

 

あるひとは、

そんなことをするなんてけしからん、教師は大人の自覚をもて!

と、教師を非難するでしょうし、

またあるひとは、

まあ、おたがいに恋愛感情があったのなら、べつにいいんじゃね?

と、教師に対して寛容な見方をするでしょう。

 

 

 

天機は、それはべつにどちらでもいいような気がするんです。

 

 

 

ただ、

 

男性教師と女子生徒の不適切な関係においては

厳しく男性教師の側を非難するのにもかかわらず、

それが、

女性教師と男子生徒の組み合わせになったとたん、

女性教師に甘く寛容な見方をするのであれば、

それは理に反し、公平でもない

 

と、天機なんかは思うのですが。

 

 

 

教師が大人としての自覚をもて、

といわれるときには、それが基礎としているのは、

教師が大人である、という事実だけです。

 

けっして、

大人である男性教師は自覚をもたなければいけないが、

大人である女性教師は自覚をもたなくてもいい、

というわけではないはずなんです。

 

 

 

他方で、恋愛感情が成立していたために、

生徒の側も満足していた、というときには、

その生徒が、男子生徒であっても、女子生徒であっても、

恋愛による満足を得ていたことには、かわりがありません。

 

 

 

したがって、

この種の事件が発生したときには、

男性に対しても、女性に対しても、

公平な見方をもつことが大切なんじゃないだろうか、

と、天機なんかは思います。

咳という漢字の字源と、亥と、垓下と、四面楚歌。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

今日はひさしぶりに、漢字についての分析記事を書いてみようと思います。

(約8200字)

 

 

 

今回分析するのは、

 

 

という漢字です。

 

 

 

咳という漢字は、口に亥と書いてできます。

 

なぜ、口に亥と書くと、咳になるのでしょうか。

 

咳という漢字に亥がふくまれているのは、なぜなんでしょうか?

 

 

 

まずはネットで、咳という漢字の字源について、

一般的な説を調べてみましょう。

 

 

 

ウィクショナリーという漢字についてのサイトでは、

こう書いてあります。

 

つまり、

亥という漢字の部分は、豚の骨組みをあらわしており、

豚が病んで痩せて、咳を出している様子をあらわしているのだ、と。

 

 

 

また、知恵袋など、そのほかのサイトでは、

つぎのような分析をしているひともいました。

 

つまり、亥という部分は音(おん)を借りてきた部分で、

つまりは、咳をした時のゴホン!という音をあらわしているのが

亥という漢字なのだと。

 

 

 

天機は例によって、

一般的な漢字学説をことごとく無視して、独自説をたててみたいと思います。

 

 

 

天機が注目したのは、

咳という漢字のなかに含まれている亥という文字は、

十二支の1つだということです。

 

 

 

十二支を順にならべてみると、

 

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、

 

で、十二支の12番目に来るのが、亥なんですね。

 

 

 

ここから天機は、次のようなへんなことを考えました。

 

 

 

つまり、

 

咳という漢字の中に亥がふくまれているのは、

咳という生理現象と、

亥があらわす十二支の第12原理とのあいだに、

なんらかの関連があるからなのではないか?

 

なんてことを考えたのですね。

 

 

 

では、この自分の考えを説明していくために、

まずは、咳という生理現象について考えてみましょう。

 

 

 

咳って、どういうときにでるでしょうか。

 

 

 

思いつくのは、風邪をひいたり、なんらかの肺の病気にかかったりしたときには、

咳がでるでしょう。

 

また、食べ物や飲み物がむせたりしたときにも、

ゴホゴホと、咳が出てしまうものだと思います。

 

 

 

これらのことの背景に共通してあるのは、おそらく、

 

異物が肺に入ろうとしたときに、それを防ぐため咳が出る

 

ということだろうと思うのですね。

 

 

 

でも、このことを、もっと深く考えてみたいと、

天機は思うんです。

 

 

 

この、咳によって、肺に入ろうとすることを防ぐところの、

 

異物の大きさ

 

って、どれくらいのものだと、みなさんは思いますか?

 

 

 

ジャガイモくらい?

サイコロステーキくらい?

お刺身くらい?

わらびもちくらい?

お豆さんくらい?

ラムネくらい?

ごまくらい?

砂糖の粒くらい?

 

 

 

すこし、言葉をかえてみましょうか。

 

 

 

咳というのは、わらびもちくらいの異物が肺に入ろうとしただけでは出なくて、

異物がサイコロステーキくらいの大きさになって、はじめて出る、

そういったものなのですかね?

 

 

 

あるいは、咳というのは、

異物が砂糖の粒くらいの大きさの時にはまだ出なくて、

お豆さんくらいの大きさの異物が肺に入ろうとした段になって

はじめて出る、

そういったものなのですかね?

 

 

 

…いずれもたぶん、違いますよね。

 

 

 

咳というのは、その異物がかなり微細なものであっても、

たとえば、ほんのわずかな食べ物のかすとか、ツバのかすかな一部とか、

蒸気みたいな水滴の一部であっても、

 

おおよそ空気でないものが、

本来、空気のみが通過することを許可されているところの

肺や気管に侵入しようとしたときには、

それがかなり微細なレベルにあって、

十分な大きさをそなえてはいなかったとしても、

咳でもってその侵入をはばむ

 

ものだろうと思うんですよね。

 

 

 

肺や気管というのは、おもに空気の通り道です。

 

その肺や気管に侵入しようとして、咳でもってその侵入をはばまれるのは、

おもに、たとえば水滴であったり、食べ物のカスであったりです。

 

 

 

ここで、

 

空気=実体のないもの

水滴や食べ物のカスなど=実体のあるもの

 

と、ものすごくザックリと2つにわけて対比してみると、

咳というのは、

 

実体のないものが存在すべき「場」が、

実体のあるものによって占有されようとしたときに、

逆方向へと爆発的にそれを押し返す

 

という性質をもつものであることがわかります。

 

 

 

そして咳というのは、先にみたように、

その異物がかなり微細なものであっても発生するのです。

 

というよりはむしろ、異物が微細な段階であるときに処理するからこそ、

咳というのは異物排除の用をなすのであって、

異物がある程度大きくなるまで咳が発生しないようなら、

異物排除の役には立たないような気もするんですよね。

 

 

 

ここで、この咳によって排除される異物が、

微細なものであっても排除されるというところから、

「微細」ということについて考えてみましょう。

 

 

 

数の世界において、数をどんどん、どんどん、小さくしていくと、

いずれは、0(ゼロ)になります。

 

そして、数の理論と数学においては、

限りなく、限りなく小さな「数」である

0.00000000000000…1のようなものは、

これを0(ゼロ)と同視します。

 

0.00000000000000…1を0と同視するということは、

数の理論と数学が成立するうえでの根幹、大前提になっているのです。

 

 

 

ただ、数の理論や数学の世界では、

そのように、0.000000000000…1を0と同視するのですが、

天機の考え方、および天機理論では、

そのようには考えません。

 

 

 

天機は、

なにかがどんどん、どんどん、小さくなって小さくなって、

限りなく小さくなっていくときには、

それが完全なゼロ、つまり、「無」になってしまう、

ちょうどその直前の段階に、

「無」とすごくよく似ているけれど「無」とはかすかに違い、

なにかがあるという状態がある、と考えていて、

その「無」の超直前の段階を「寸」と呼んで区別しています。

 

「闘」という漢字は、「門」のなかに「豆」と「寸」がはいってますよね?

「寸」はその「寸」です。

 

 

 

つまり、天機理論においては、

「寸」というのは、ひとつのごくごく微細な最小単位なのです。

 

 

 

この、天機理論において、

「無」という段階の超直前に「寸」という、微細な最小単位があるということ。

 

咳というのは、排除しようとする異物が微細なものであっても、

それを排除しようとする、ということ。

 

咳は、空気という、いわば「実体のないもの」が本来占めるべき「場」を、

水滴や食べ物のカスといった、いわば「実体のある」ものが占めようとしたときに、

それを逆方向へと爆発的に押し返す現象である、ということ。

 

そして、その咳という漢字のなかに、亥という文字が含まれているのは、

咳という生理現象と、十二支の第12原理である「亥」に、

なんらかの関連があるのではないか、ということ。

 

 

 

これらのことを総合して、自分は以下のように考えました。

 

 

 

十二支の第12番目の亥のあらわす原理というのは、

「寸」であらわされるような最小単位領域が、

実体のないなにかではなく、

実体のあるなにかによって占められようとした

まさにその瞬間に、

爆発的に逆方向へと押し返すことによって、

その、実体のあるなにかを排除しようとする原理、

その原理こそが十二支の第12原理である「亥」であって、

人間の咳の発生機序は、

この十二支の第12原理が、

人体における生理現象として具体化したものであるので、

咳という漢字には亥がふくまれる。

 

 

 

とまあ、こんなふうな非常に理屈っぽいことを考えたんですよね(๑◔‿◔๑)

 

 

 

なんで、十二支の第12番目の「亥」の原理というのは、

こんなふうになっているのか。

 

それを考えるには、十二支というものがそもそも、

どうしてできてきたのか、ということについて考える必要があります。

 

 

 

天機の考えでは、十二支というのは、

この世界がどのようにしてできてきたのか、また、

どのように変化していくのか、という、

生成、変化、流転の順序をあらわすものだと思っているんですね。

 

そして、十二支の第12番目である「亥」というのも、

この、世界生成の1つの段階をあらわしているのです。

 

 

 

天機は、こんなふうに想像してみました。

 

この世界のはじまりに、無だろうか、なんだろうか、

何かがありました。

 

それが、世界のはじまりとともに、

それがもともといた中心となるところから、周囲へとむかって、

ぱーーーっと、広がっていくんですね。

 

そして、それが限界まで広がっていったところで、

今度はそれが、もとの中心へ向かって帰ってきます。

 

 

 

どうたとえればいいですかね。

 

たとえば、ミカンの皮をむくときに似ているかもしれません。

 

ミカンをひっくりかえして、底の部分に指をつっこんで、

ミカンの皮をむきはじめますよね。

 

それが、世界のはじまりで、中心から周囲へ向かってわーーっと

向かっていくスタートのところです。

 

で、ミカンの皮を途中で切れたりせずにうまくむけたら、

底とは反対側のぽちっとしたところまでむけますよね?

 

その、ぽちっとしたところにたどりつくのが、

わーっと広がっていったものがもともとの中心へ帰ってきた、

というところです。

 

 

 

ミカンだったら、

スタート地点は底のところで、帰ってくるところはぽちっとしたところなので、

スタート地点≠ゴール地点ですね。

 

なので、たとえとしては、うまくなかったかもしれません。

 

 

 

むむむ。

 

 

 

天機が、十二支の第12原理である「亥」の原理を、

いちばんわかりやすく説明できると思うのは、

新世紀エヴァンゲリオン」というテレビアニメでの一場面かもしれません。

 

 

 

地上波テレビ放送で「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ本放送がはじまったのは、

たしか1995年のことで、

天機はまだ高校生でした。

 

テレビ版新世紀エヴァンゲリオンは、たぶん、全部で26話くらいあったと思う

のですが、そのなかに、

使徒、侵入」というのがあります。

 

 

 

マイクロサイズの使徒である第11使徒の「イロウル」が、

ネルフ本部のコンピュータ指令システムであるMAGIシステムに侵入するのです。

 

MAGIシステムは、

メルキオール、バルタザール、カスパーという3つの部分からなるのですが、

その第11使徒イロウル」によって、

メルキオール、バルタザールはすべて侵食されてしまい、

最後に残ったカスパーも、

そのなかの最小単位を残すだけになって、残りはすべて

イロウル」に制圧されてしまいます。

 

そして「イロウル」が、

MAGIシステムを完全に制圧しようとして、

最後に残ったカスパーの最小単位をやっつけようと攻撃すると、

そこの最小単位は、まるで戦っているかのように少し点滅した後、

なんと、

制圧しようとしていた攻撃側の使徒イロウル」が、

さーーーっと、MAGIシステムから一掃されてしまうのですね。

 

これはリツコ博士が逆ハッキングプログラムを送り込んだからなのですが、

あんまり、文字で説明してみても、

よくわかんないかもしれません。

 

どっかに転がってる動画を探してみてもらえれば、よくわかると思います。

 

 

 

これがたぶん、

十二支の第12原理である「亥」の原理を、

とてもよくあらわしている映像になるかと思うんです。

 

 

 

でも、いまここに、その映像はないので、

あくまで自分の言葉で説明すると。

 

 

 

世界のはじまりに、無かなにかがあって、

それが中心からぱーーーっと周囲へむかって広がっていく。

 

それが限界まで広がっていったら、今度は、もとの中心へ向かって

それが帰ってくる。

 

 

 

その、ぱーっと広がっていって、またもとへと帰ってくる「そいつ」

が動いた移動範囲には、

「色がぬられる」とかりに想像してください。

 

もとの中心からそいつが周囲へ向かってぱーっと広がっていくとき、

「色が塗られた」範囲、領域も、どんどん、大きくなっていきます。

 

そいつが限界まで遠く離れて、また、もとの中心へと向かって折り返すとき、

おおよそ、「世界」の半分くらいに色がぬられた状態でしょうか。

 

そいつが、もとの中心へむかってさーーと戻ってきて、

もとの中心へ近づけば近づくほど、

色をぬられた領域はどんどんと広がっていき、

色がまだぬられていない領域というのは、どんどんと小さくなっていきます。

 

 

 

その、色をぬられていない領域がどんどん、どんどん小さくなって、

ついに、「寸」くらいの大きさになって、

「そいつ」が、とうとうその最後に残った最小単位をも自分の「色」

でぬりつくそうとした、まさにその瞬間に、

その最小単位領域から爆発的に「逆進」が発生するのです。

 

 

 

最小単位をつぶそうとした瞬間に反撃を喰らう

 

ひと言で言うと、これが、

十二支の第12原理である「亥」のあらわす原理なのです。

 

 

 

天機が非常に理屈っぽい人間なので、

ながながと理屈っぽいお話に付き合わせてしまい、申し訳ありません。

 

ですが、このお話には、

あとすこし、続きがあるのですლ(╹◡╹ლ✿)

 

 

 

ところで皆さんは、

司馬遼太郎という小説家の書いた、「項羽と劉邦」という作品を

ご存知でしょうか?

 

 

 

いまから2200年ほど前、紀元前200年ごろの古代中国には、

国史上初めて全土にわたって、

中央集権制の官僚国家をうちたてた「秦」王朝というのがありました。

 

その秦が暴政をしいたため、

秦の始皇帝の死後、各地で燎原の火のように反乱がひろがり、

その反乱の中から、

項羽と劉邦という、2大英雄が現われて、覇を競うことになるのです。

 

 

 

先にあげた「項羽と劉邦」という司馬遼太郎の作品は、

この史実に取材したものですが、

もしかしたら、この作品のことは知らなくても、

項羽と劉邦のことは知っている方も、いらっしゃるかもしれませんね。

 

 

 

勇猛無比で向かうところ敵なしだった項羽に対して、

当初、劉邦軍は弱かったのです。

 

ですが、劉邦のもとには、きら星のように才能のある将領があつまり、

多士済済でした。

 

 

 

劉邦は、そんな有能の士のアドバイスをよく容れ、

智恵を使うことで項羽と戦い、だんだんと互角にもっていきます。

 

そしてついには、

広武山というところで1年にわたって両軍が対峙できるほどのところまで

もっていき、

項羽軍がやや衰微したところで、両軍は和約を結びます。

 

 

 

ところが、この和約を、劉邦軍が破って、

退却していく項羽軍の後背を襲うのです。

 

 

 

項羽は怒って野戦で劉邦軍を破り、劉邦は奔って固陵城に逃げ込みます。

 

固陵城はなんということもない平凡な城だったのですが、

項羽軍は補給の難もあってこのころには衰微しており、

攻城戦をやっている余裕がなく、

やがて項羽は、固陵城の囲みを解いて、撤退をはじめます。

 

 

 

このときになって、

劉邦の同盟軍であった韓信の軍30万や、彭越の軍、

周殷の軍などが、

劉邦の説得によって、項羽を討つべく、劉邦軍のもとに参集をはじめます。

 

弱者としての劉邦の戦略的な布石が、ようやく生き始めたのです。

 

 

 

項羽は本来なら、故郷の楚へ帰還して再起を図るべきだったのですが、

ここで項羽は、おかしな行動をとります。

 

「このあたりによい地形はないか?」と、

近侍の者に探索させて、発見した場所で項羽は、

なんと、野戦築城をはじめたのです。

 

その場所というのが、

 

垓下(がいか)

 

というところなのです。

 

 

 

天機という人間が、いったい、なんの話をしようとしているか、

想像はつきますか?

 

まあ、聞いてください。

 

 

 

垓下の地で野戦築城をした項羽は、

そこに急造した城に自分の軍を入れ、そこで籠城戦にはいります。

 

このころには、

劉邦の軍(漢軍といいます)のもとには、

韓信の軍や、彭越の軍、周殷の軍など、

各地の軍が集まりました。

 

その軍は日増しに増え、野に満ち、この大陸始まって以来の大軍になりました。

その大軍は、項羽の所在する城を、幾重にも厳重に包囲しました。

 

 

 

大軍に兵法なし、といいます。

劉邦は、ただ、攻撃命令を下すだけでよかったのです。

 

集結した劉邦軍は、項羽軍の城の城門めがけて殺到しました。

 

項羽軍はそれに対して逼塞してはいませんでした。

 

城門を八の字にひらいて、項羽軍(楚軍といいます)の兵は

逆襲にでました。

 

項羽軍の兵は城門からまっすぐに劉邦軍の中を突き進み、

劉邦のいる本営までもが動揺しましたが、

左右から劉邦軍の別動隊に包み込まれて殲滅されました。

 

夕方頃には、あたりを馳駆しているのは、

ほとんどが劉邦軍の兵ばかりになってしまったのです。

 

項羽は、いよいよ最後の時が来たようだ、と悟ったといいます。

 

 

 

ところが夜半になって、事態はまたおかしな方向へと動きます。

 

真夜中になったころでしょうか。

 

劉邦軍(漢軍)のほうからなんと、歌声が聞こえるのです。

 

それも、漢の歌ではなく、項羽の故郷である楚の歌でした。

 

しかも、四面ことごとく楚歌でした。

 

 

 

有名な

 

四面楚歌

 

です。

 

 

 

古来、この歌はだれが歌っていたのかとか、

だれが歌わせたのかとかについて、いろんな説があります。

 

項羽と劉邦」を書いた司馬遼太郎氏などは、

歌は漢軍中の楚の出身の者によって自然にわきおこったのだろう、

という見解をとっています。

 

そのいっぽうで、

漢軍の総司令官であり、背水の陣など、

奇策をもちいた韓信の指示によって歌は発生したのだ、

という説もあります。

 

 

 

いずれにせよ、

この漢軍陣営で発生した楚歌は、項羽の内心に影響します。

 

項羽は、ここでぽっきりと心が折れたのか、

籠城戦をかなぐりすてて、単騎、陣を抜け出して疾風のように遁走するのです。

後にしたがうのは、項羽軍の騎兵数百騎のみとなってしまいました。

 

 

 

驚いたのは劉邦です。

 

項羽が生きている限り、天下は定まらない。」と、

項羽の首に法外な懸賞金をかけるとともに、

5000騎という、この時代ではまれにみる規模の騎兵団を組織して、

項羽に対する特別捜索軍を編成して、項羽を追撃させるのです。

 

 

 

でも、ここで、天機は思ったんですよね。

 

なんか変じゃないかな?と。

 

 

 

劉邦が特別捜索軍まで編成して項羽のあとを追撃させたということからわかるのは、

劉邦にとって、

絶対に項羽を生かしておくわけにはいかない、ということです。

 

項羽が生きているということは、

劉邦にとって、めちゃくちゃまずいことなんです。

 

 

 

であるならば、考えてもみてください。

 

垓下で籠城戦にはいった項羽というのは、

まさに、籠の中の鳥、まな板の上の鯉じゃないですか?

 

どうしても項羽を仕留めたいのなら、

ここで徹底的に項羽の退路を絶って、厳重の上にも厳重に包囲をかさねて、

逃げ道を封じて、そのうえで一挙に総攻撃をかけて

項羽を殲滅してしまえばよかったんじゃないですか?

 

 

 

四面楚歌というのの発生については、その原因に関していろんな説がたしかに

ありますが、

もし、韓信の指揮下におこなわれた「作戦」であったとすると、

なぜ、項羽本人の遁走にもつながりかねないような、

そんな作戦を志向する必要があったんですかね?

 

なにより、

項羽が自身と、自身に従う数百騎のみなのに、

漢軍の重囲を突破して遁走に成功したというのも不自然です。

 

 

 

天機は、そこで思ったんです。

 

 

 

漢軍は、劉邦軍は、そして韓信は、

項羽を取り逃がしたんじゃ、ないのではないか?

 

総攻撃をかけなかったんじゃなくて、

 

下という場所で総攻撃をかけるわけには

いかなかったんじゃないか?

 

と思ったんです。

 

 

 

垓下。

 

 

項羽が起死回生の必殺の一撃を放とうとしたのか、

えらんだその垓下という地の、

垓の字のなかには、

 

 

がはいっていますよね。

 

 

 

十二支の第12原理の「亥」の原理のあらわすものを一言でいうと、

 

最小単位をつぶそうとした瞬間に反撃を喰らう

 

というものでした。

 

 

 

つまり、こういうことなんです。

 

亥という文字がふくまれた、この垓下という地、垓下という場所、

そのものに、

亥があらわす十二支の第12原理の性質が刻み込まれており、

追い詰められて追い詰められてついには「最小単位」にまでなってしまった

項羽は、

その垓下という土地の性質を知っていたからこそ、

この地で起死回生の反撃を目指そうとして野戦築城をしたかもしれず、

また、漢軍は漢軍で、同様にこの垓下という地のもつ

そのような影の意味を知っていたからこそ、

安易に最終攻撃をかけると最終攻撃をかけた側が逆襲されるという、

十二支の第12原理である「亥」の性質を警戒して、

あえて最終攻撃はかけずに、四面楚歌作戦を発動させたのではないですかね?

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。

 

 

 

 

 

 

男性と結婚離れ、について考える。

こんにちわ。天機です。

(約11300字)

 

 

 

きょうは、男性の結婚離れ、というテーマで、

すこし書いてみようと思います。

 

 

 

さて、日本では現在、

少子高齢化というのが非常に問題になっています。

 

 

 

人口減少のために労働力が不足し、

いろんな業界で人手不足が起きていますし、また、

地方からも人が減っていって、

シャッター商店街と言われるようなものも、珍しくはなくなっています。

 

 

 

この、人口減少の背景に、

少子高齢化がある、と考えられているのです。

 

 

 

この深刻な事態に対して、政府も手をこまぬいているわけではなく、

いくつかの対策を打ち出しています。

 

 

 

たとえば、幼児教育や高等教育の無償化、

といったことが、その対策の1つにあげられます。

 

 

 

つまり、

子育てにかかるようなコストを縮減することで、

結婚している夫婦が、

子供を持ち、子供を育てるうえでのハードルを下げて、

それで子供の数が増えることを期待しているのです。

 

 

 

ですが、天機は思うのです。

 

 

 

少子高齢化の原因になっているのは、

結婚している夫婦がなかなか子供をつくらない、

ということももちろんあるのでしょうが、それだけではなくて、

そもそもが、結婚の件数そのものがだんだんと減っている

ということにあるんじゃないだろうか、

と思ったのです。

 

 

 

おそらくは、

結婚した場合にある程度の子供をもうける、というのは、

そこまでの減少はないように思うのです。

これは、結婚した夫婦がどれくらいの子供をもうけるか、

ということのデータの、経年変化をみていけばわかると思います。

 

 

 

そうではなくて、ここ数十年で、

結婚する男女そのものが急速に減少している、ということこそが、

少子高齢化の問題に関してはボディーブローのように効いてきていて、

政府はそれゆえに、少子高齢化の問題に関して対策を講じるにあたっては、

結婚している男女がどうすれば子供をもうけたいと思うようになるか、

ということだけではなくて、

 

そもそもどうしたら、結婚したいと思うようになるか

 

という観点からの施策を講じることが、不可欠であるように

天機は思います。

 

 

 

90年代ごろまでは、

いわゆる生涯未婚率というのは、男女ともに数%ほどでしかありませんでした。

 

一生涯結婚しないような人というのは、

この社会においてはかなりの少数派だったわけです。

 

 

 

ところが、直近の2015年の国勢調査においては、

生涯未婚率が、男性は23%ほどに、女性は14%ほどになっていて、

いずれも大きく伸びています。

 

 

 

ところで、この日本社会においては、

国際結婚をするひともそれなりにはいるでしょうが、

全体からみると、かなりの少数派ではあるでしょう。

 

 

 

ということは、つまりは、

日本人の男性は日本人の女性と結婚することが一般的には多く、

日本人の女性は日本人の男性と結婚することが一般的には多い、

ということが言えそうです。

 

 

 

これがなにを意味するのか、というと、

男性にとっての女性、あるいは、女性にとっての男性、というように、

自分から見た場合の、結婚する際の相手方になる性の、

生涯未婚率がだんだんと上昇していけば、

だんだんと結婚の相手方候補者が少なくなっていくことになって、

結果、自分の側も結婚しにくくなってくる、ということなのです。

 

 

 

簡単に言うと、

男性の生涯未婚率が高まっていくと、

それに「引きずられる」かたちで女性の生涯未婚率が高まっていくし、

女性の生涯未婚率が高まっていくと、

それに「引きずられる」かたちで男性の生涯未婚率が高まっていく、

ということが考えられるわけです。

 

その意味で、

男性の生涯未婚率の上昇と、女性の生涯未婚率の上昇とは、

連動しており、不可分な関係にある、

とみることもできそうです。

 

 

 

では、そういったことを考えた場合に、

生涯未婚率の上昇を抑えて、

結婚したいという気持ちを喚起するためにどうしたらいいのか、

といえば、それは、

 

男性と女性、双方の要求をくみ取ること

 

だと、天機は思うのです。

 

 

 

先に見たように、

男性の生涯未婚率の上昇と、女性の生涯未婚率の上昇とは、

たがいに連動していて、深い関係があります。

 

 

 

このことは、どちらか一方だけの、

つまり、男性だけとか、女性だけとか、そういった観点からの

問題解決を目指しても、

あまり意味はない、ということを意味しています。

 

 

 

結婚なんかしたくない、と思うひとには、

そう思う、なんらかの理由があるはずです。

 

つまり、結婚した場合になんらかの不満や不信を抱えているわけです。

 

 

 

そして、この不満や不信といったものは、

結婚したくないと考える男性、結婚したくないと考える女性、

双方が持っているわけです。

 

 

 

ですから、この問題に取り組んで、

すこしでも結婚したいなあ、という気持ちになってもらううえでは、

男性の抱える不満や不信をとりのぞくような施策をするだけでは不十分であり、

また、

女性の抱える不満や不信をとりのぞくような施策をするだけでも不十分です。

 

 

 

男性も女性も、

それぞれが、たがいに相手に対して言いたい言い分を持っているでしょう。

 

 

 

ですから大切なのは、

どちらかだけの言い分を聞くことに傾斜するのではなくて、

その双方の言い分を公平に聞き、

双方の言い分をともに考えたような施策を、

政府が政策として決定していくことだろうと、

天機は考えます。

 

 

 

昨今、ちまたでは、

結婚したら嫌なことばかり、とか、

旦那に不満がある、嫁に不満がある、とかいった情報が、

テレビでも、新聞でも、ネットでも、

非常に目につくようになっているような気がします。

 

 

 

もちろん、

結婚してよかった、とかいった情報や、

結婚してしあわせに暮らしている夫婦の情報などもあるのでしょうが、

そういった結婚のプラス面よりかは、

結婚のマイナス面を強く意識させるような情報が、

あふれかえっているような気がするのです。

 

 

 

こういった情報ばかりに普段から接していれば、それは、

これから結婚しようかどうしようかと、

人生の選択の岐路に立っているようなひとからすれば、

結婚に二の足を踏むようになったとしても、

しかたのないことだとも思えます。

 

 

 

では、どうすればいいのか。

 

 

 

よく、頭痛薬のCMをみていると、

痛みのもとを絶ちつつ、痛みが伝わる回路を遮断する、とかいう、

いわゆる「ダブルブロック」の効能をうたっているような商品を

目にすることが、ときどきあります。

 

 

 

結婚についても、これと同じような作戦をとって、

若者たちに、

(実際には結婚には嫌な側面が多々あったとしても)

結婚にまつわるマイナス情報にできるだけ触れさせないようにして、

結婚のプラス面ばかりを喧伝する、

といった方策が考えられるかもしれません。

 

 

 

しかし、真実でないことで事実を糊塗していくのでは、

やはり、無理があるものだろうと思います。

 

 

 

実際には、結婚生活をおくるうえで、

嫌なことが頻発するようならば、いずれは、

結婚生活の先輩から結婚生活の後輩へと、

その情報は、漏れ伝わってしまうものでしょう。

 

 

 

ですから、たいせつなのは、

やはり第1には、

結婚生活において嫌なことが発生することが多いのならば、

その嫌なことが発生しないように、

その現実のほうを解決する手立てをとることです。

 

 

 

けっして、

嫌な事実が発生するのはそのままにしておいて、

そのマイナス情報が伝わることだけを遮断しよう、

とは、しないことです。

 

 

 

そのうえで、それでも、

実際の現実に輪をかけて、

結婚生活に対して過剰な警戒感を抱いてしまうとなると、

それはやはり問題ですから、

決して結婚生活を美化することはないようにしつつも、

結婚生活のいい面、悪い面を、

これから結婚生活に踏み出そうかどうしようかと考えている若い層に、

客観的に、公平に伝えていく努力をすることがたいせつでしょう。

 

 

 

まとめると、

若い層に結婚への積極的な気持ちを持ってもらうためには、

若い層が結婚をためらう原因となるような、

結婚生活において発生する嫌なことやマイナス面を、

現実的に減らしていくような解決策を模索することが1つと、

そういったマイナス面について取り扱った情報ばかりを流して、

若い層が結婚に対して過剰な警戒感を持たないようにすることが1つの、

あわせて2つが大切だと思います。

 

 

 

そして、そのことについては、

男性からみた視点と、女性からみた視点の、

双方が、双方ともに、大切であろうと思うのです。

 

 

 

男性が抱える妻への不満や、

男性が結婚生活において感じる嫌なこと、

こういったことだけを解決したとしても、

女性が抱える夫への不満や、

女性が結婚生活において感じる嫌なことを解決しないのであれば、

男性は結婚に向かおうという気持ちになるかもしれませんが、

女性は、やはり結婚なんかやめておこう、と思うかもしれないのです。

 

 

 

逆もまた然り、です。

 

女性が抱える夫への不満や、

女性が結婚生活において感じる嫌なこと、

こういったことだけを解決したとしても、

男性が抱える妻への不満や、

男性が結婚生活において感じる嫌なことを解決しないのであれば、

女性は結婚に向かおうという気持ちになるかもしれませんが、

男性は、やはり結婚なんかやめておこう、と思うかもしれないのです。

 

 

 

だからこそ、どちらかに偏ることなく、

双方とも、男女とも、が感じる不平や不満を、

公平に解決していくことこそが、たいせつなことなのです。

 

 

 

結婚生活をいとなんでいくうえでは、

夫が妻に対して言いたい言い分や不満もあれば、

妻が夫に対して言いたい言い分や不満もあるでしょう。

 

ときには、その両者の言い分や不満がおたがいに対立することで、

険悪な雰囲気になってしまうことも、あるかもしれません。

 

 

 

そんなとき、そういった険悪な状況を緩和する1つの方法は、

おたがいに譲り合う、

ということです。

 

 

 

ただし、ここで注意しなければいけないことがあります。

 

それは、

譲るということ、それ自体が大切であるということ以上に、

その譲りが、

 

お互いであるということ

 

が、非常に大切だということなのです。

 

 

 

つまり、どちらかがただ譲っていればいい、というわけではないのです。

 

夫が妻に譲ることもあれば、妻が夫に譲ることもある、といったように、

 

譲り合いが双方向を向いている

 

ということが、きわめて大切なことなのですね。

 

 

 

世の中には、サービス残業というものがあって、

ブラック企業なんかでは、

とりわけ問題になっていますよね。

 

あれなんかは、従業員側が経営者側に対して、

一種のサービスをしているわけです。

 

 

 

サービスをすること、譲ることが、

それだけで無条件にいいことならば、

そういった、ブラック企業におけるサービス残業のようなものも、

素晴らしい、ということになってしまいそうです。

 

 

 

ですが、それはやっぱり、おかしいことですよね。

 

そして、そこにおいて、なにがおかしいのか、というと、

 

従業員側は経営者側にサービスをするということ、

譲るということが求められているのに、

経営者側から従業員側へは、

なんらのサービスも譲りも、おこなわれてはいない、ということなんです。

 

 

 

譲り合いは素晴らしいものだ、とされて、

称賛されることは、よくあります。

 

ただ、そこで大切なのは、

 

「譲り」あい

 

である、ということだけではなくて、

 

譲り「あい」

 

である、ということなのです。

 

 

 

この、譲り合いが「双方向で」おこなわれている、ということ、

2本の矢印がたがいに反対方向を向いてそれぞれ成立している、ということ、

これこそが、まさにそこに、

 

 

が存在している、ということにほかなりません。

 

そして、この「理」を軽く考えたり、「理」をないがしろにしたりすると、

この世界では、

長期的なスパンにおいて、いろいろ不都合が生じてくるようになります。

 

 

 

夫婦間でなにか争い事や、不平不満があったときに、

アドバイザーのような人がやってきて、アドバイスするとしますよね。

 

そんなとき、

夫の側にも、妻の側にも、それぞれ言いたいことや不平不満があるのに、

アドバイザーが、

 

「それは奥さんが旦那さんに譲ることが大切ですよ。

 譲り合いが夫婦円満の秘訣ですよ?」

 

といったアドバイスをしたら、妻の側は、どう思いますかね?

 

 

 

一見、譲り合いをすすめているようにもとれるのですが、

じつは、奥さんが旦那さんに「一方的に」譲ることだけを、

このアドバイザーはすすめているわけです。

 

 

 

これでは、奥さんは、到底納得のいくものではないでしょう。

 

 

 

逆もまたしかりです。

 

 

 

夫婦間でなんらかのいざこざやトラブル、不和があるときに、

夫婦間の問題についてアドバイスをおこなう、

アドバイザーが来て、こんなアドバイスをしたら、どうですか?

 

 

 

「それは旦那さんが奥さんに譲るべきですよ。

 譲り合いというのが、夫婦円満の秘訣ですよ?」と。

 

 

 

たしかに、譲り合いは、夫婦円満の秘訣かもしれません。

 

しかしながら、このアドバイザーは、

夫婦がおたがいに譲り合うことではなく、

夫の側が妻の側に、一方的に譲ることだけをすすめているのです。

 

 

 

言いたいことや言い分、不平不満を持っているのは、

妻だけではなく、夫についても言えることなのです。

 

にもかかわらず、自分の側だけが譲ることを求められるのならば、

夫の側としては、到底納得のいくものではないでしょう。

 

 

 

譲り合い、というのは、

一見、素晴らしい言葉なので、

これに反対を唱えることは、なかなか難しいときがあるんですね。

 

それでも、この言葉を聞いて、

なんとなく腑に落ちないなあ、釈然としないなあ、

という思いを抱くことがあるとすれば、

じつはその原因は、

「譲り合い」と言っているのに、実際には、

「自分の側だけが一方的に譲ることを求められている」

ことにあるのかも、しれないのです。

 

 

 

夫婦間の問題に関して、

「アドバイザー」とやらの意見を聞くときには、

そのアドバイスが、

 

双方向の視点を持っていて公平なものであるのか

 

という点に、大きな注意をはらう必要があります。

 

 

 

そのアドバイスが公平なものでなければ、

かならず、その不公平さに不満をかかえる側がでます。

 

そして、その不公平感にともなう怒りを抱えた側が、

夫であっても、妻であっても、

結婚生活には暗い影が落ち、やがては、

結婚生活の最終的な破たんにつながる可能性も、ないとはいえないのです。

 

 

 

夫婦間で、すれ違いやいざこざが発生することに関して、

男女の脳の構造のちがいに、その原因をもとめる見解などを

目にすることがあります。

 

 

 

よくあるのは、

一般的に女性というのは、「共感」をたいせつにする脳構造を

しているために、

「論理」をたいせつにする男性の脳構造とは、

うまく合わないのだ、という意見です。

 

 

 

なるほど、一理ありそうな見解ですよね。

 

 

 

ところが、問題はそこから先の論理展開なんです。

 

 

 

この見解をとる論者というのは、往々にして、

 

女性というのは共感を大切にする生き物なのだ。

 

だから、男性が女性に合わせて、共感を大切にするべきだ

 

と結論づけるのです。

 

 

 

でも、これって、なんだかおかしくはないですか?

 

 

 

もう一度、議論の最初にもどって、考えてみましょう。

 

男性の脳構造は、「論理」を大切にするものなのです。

女性の脳構造は、「共感」を大切にするものなのです。

 

この段階では、

男女の脳構造には、それぞれ違いがあって、

それぞれ異なった特質があるのだなあ、ということが

わかるだけのことです。

 

けっして、

男性の脳構造は「論理」にすぐれているから

男性の脳構造は素晴らしいのだ、とか、

あるいは、

女性の脳構造は「共感」にすぐれているから

女性の脳構造は素晴らしいのだ、とかいったみたいに、

男女それぞれの脳構造に関して、

 

優劣を決定するようなものでは決してない

 

はずなんですよね。

 

 

 

であるならば、

男性の脳構造の優れている部分、女性の脳構造の優れている部分、

それぞれを生かしながら、

男女が互いを尊重して、おたがいに歩み寄れるような関係を

築いたほうが、よくはないですか?

 

つまり、

男性は「論理」に優れていて「共感」には弱いのだから、

自分に不足している「共感」の部分をできるだけ意識して使うようにして、

女性の考え方に寄り添っていく。

 

他方で、

女性は「共感」に優れていて「論理」には弱いのだから、

自分に不足している「論理」の部分をできるだけ意識して使うようにして、

男性の考え方に寄り添っていく。

 

そういったことが、大切なのではないでしょうか。

 

 

 

結婚生活というのは、2人で築いていくものであるはずです。

 

そこに必要なのは、

 

お互いがお互いに歩み寄る

 

という姿勢であるはずで、けっして、

 

一方だけが一方的に歩み寄る

 

ものでは、ないはずなんです。

 

その意味で、

 

女性は「共感」に優れていることから、

「共感」こそが唯一の素晴らしい脳の働きなのであって、

男性は当然、共感だけを目指して女性の側に一方的に歩み寄るべきだ、

と結論付けるのは、

非常に偏頗な考え方だと言わざるをえません。

 

 

 

婚姻というのは、両性の合意のみに基づいて成立するものです。

 

つまり、結婚する男女が、ともに結婚したい!となったときにだけ、

結婚は成立する、ということなのです。

 

 

 

考えてみれば、その確率は、かならずしも多いものではありません。

 

以下に場合分けをしてみましょう。

 

 

 

①男性は結婚したくない ✕ 女性は結婚したくない =結婚不成立

②男性は結婚したい ✕ 女性は結婚したくない =結婚不成立

③男性は結婚したくない ✕ 女性は結婚したい =結婚不成立

④男性は結婚したい ✕ 女性は結婚したい =結婚成立

 

 

 

明らかなように、結婚が成立するのは、

4パターン中1パターンのみです。

 

自然な流れで行くと、結婚不成立のほうが、

起こりやすい現実である、とさえ、見ることができるかもしれません。

 

 

 

だからこそ、

結婚の成否を考えるにあたっては、

男女のうち、どちらかだけが「結婚したい」という気になったとしても、

あまり意味のあることではない、ということがわかるのです。

 

たいせつなのは、

男女の双方が、

結婚したいという気持ちになることなのです。

 

 

 

結婚を考える若い層に、結婚への積極的な気持ちを持ってもらううえでは、

結婚にできるだけ多くのメリットを感じ取ってもらい、

また、あまりデメリットは感じ取ってはもらわないことが大切です。

 

そして、そのさいに、

上で見てきたように、結婚の成立にあたっては、

男女の双方が、結婚に前向きな意思を持っているということが

大切であることからすると、

メリットやデメリットに関しても、

男女の双方が、

メリットを多く感じて、デメリットは少なく感じることが、たいせつなのです。

 

 

 

よく、ネット上などには、

結婚することにはメリットが多いのか?デメリットが多いのか?

について、

比較検討したサイトがあることがあります。

 

あのようなサイトに関しても、注意が必要です。

 

 

 

たとえば、

「結婚するとこんなメリットがあります!」

とうたってるサイトがあったとしても、

そのメリットというのが、男性にとってのメリットばかりであって、

女性には、さしてうったえかけるメリットが言及されていないのならば、

男性は結婚しようという気になるかもしれませんが、

女性はあまり結婚しようという気にはならないかもしれません。

 

 

 

逆もまたしかりです。

 

「結婚するとこんなメリットがあります!」

とうたってるサイトがあったとしても、

そのメリットというのが、女性にとってのメリットばかりであって、

男性のメリットにはほとんど言及がないのであれば、

女性はそれを見て結婚しようという気になるかもしれませんが、

男性はあまり結婚しようという気にはならないかもしれないのです。

 

 

 

そして、繰り返しになりますが、

結婚の成立には、男女の双方が、ともに、

結婚したいという気持ちになることが必要なのです。

 

ということからすると、

男性か女性の、どちらか一方だけに傾斜した、

結婚のメリットの喧伝というのは、

あまり意味のあることではないでしょう。

 

 

 

結婚生活において、

いわゆる「経済的虐待」というのが問題になることがあるかもしれませんが、

この問題についても、

慎重に、仔細に検討していくことがたいせつです。

 

 

 

たとえば昨今、児童虐待というのが問題になることがありますが、

それはなにかというと、

両親などの「保護責任」のあるものが、

その期待される子供に対する適切な保護監護の責任に違背して、

子供に対して、

精神的、肉体的な加害行為をおこなうことであろう、と思うんですね。

 

 

 

結婚生活における「経済的虐待」にかんしても、

同様の視点で考えていくならば、

他方に対して経済的に扶養する責任があると考えられている一方当事者が、

他方当事者に対して、

その期待される責務に違背して、

経済的な扶養をおこなわない、ということになりそうです。

 

 

 

たいせつなのは、

経済的「虐待」という言葉にセンシティブに反応することではなく、

それが意味する内容を、具体的かつ慎重に、

仔細に検討していくことであろうと思います。

 

 

 

では、結婚生活において、

経済的扶養をおこなうことが期待されている一方当事者というのは、

いったい、誰のことなんでしょう?

 

 

 

重要なのは、ここにおいて、

 

結婚生活において経済的に大きな役割をはたす

ことが期待されている一方当事者を

男性に限定することは、できない

 

ということなんです。

 

 

 

やみくもに結婚生活をおくっていったのなら、

広く国民は、迷うこともあるでしょうし、

結婚生活にともなう問題をどう解決していったらいいか、

困ることもあるでしょう。

 

 

 

そこで、

そういった結婚生活をおくるうえでの1つの指針として期待されるものとして、

民法というのが1つにはあるわけです。

 

 

 

その民法には、

 

婚姻というのは両性の協力によって

それを維持継続していくべきである

 

ということが書かれてあります。

 

 

 

けっして、

一方当事者が一方的に他方を支え、

他方当事者は一方的にその支援を頼りにして生活すべき、

などとは、書かれていないわけです。

 

 

 

であるならば、

結婚生活において、その経済生活をどのように維持継続していくのか、

という点に関しても、

やはり、この民法の考え方は参考になるかと思います。

 

 

 

つまり、お金の問題に関しても、

夫婦のどちらか一方だけがその責任を負うということはなく、

夫婦のそれぞれがともに、

金銭的な問題について責任を負い、考え、行動していく必要がある、

ということです。

 

 

 

そしてこのことは、

わざわざ民法を持ち出すまでもなく、

昨今では自然なことでもあるでしょう。

 

 

 

戦前の日本、あるいは、昭和の半ばくらいまでの日本においては、

多くの家庭というのは、

夫が外で働いて生活費のほぼすべてを稼いできて、

他方で妻が、家で専業主婦として家庭内のこと一切を切り盛りしていた、

といったような事例が多かったかもしれません。

 

 

 

しかし、時代はかわりました。

 

 

 

昨今では、家事や育児といった家庭内の仕事というのは、

なにも妻だけの仕事ではない、ということがよく言われるようになってきました。

 

とするならば、それと同時に、

外で働いて生活費を稼いでくる仕事というのも、

なにも夫だけの仕事ではない、ということになるでしょう。

 

 

 

つまり、

生活費をそとで稼いでくるという仕事にも、

家事や育児といった家庭内の仕事にも、どちらについても、

夫も妻も、双方ともに、

責任を負うような、そんな時代になってきた、ということなのです。

 

 

 

であるならば、

結婚生活において、

その結婚生活を維持継続していくために必要な金銭を調達し、

それを家庭内へと届ける役割というのは、

夫婦の双方が負担すべき役割であって、

それを一方的に夫のみの役割であるとか、

夫のほうが主要な役割をはたすべきものであるとかいったふうに考えるのは、

理に合わないことです。

 

 

 

このことから考えると、

いわゆる「経済的虐待」という概念が、

 

夫のほうが経済生活において多くの責任を

負担すべきだという考えに基づいているならば、

それは間違った考えである

 

ということになりそうです。

 

 

 

ものすごく簡単に言うと、

 

「夫なんだろ?夫だったら金稼いできて、それを家に入れろよ。

 それをしないっていうのは、経済的虐待だ!」

 

というような主張は通らない、ということです。

 

 

 

金を稼いできてそれを家に入れなければならない責任があるのは、

なにも夫だけに限りません。

 

家に金を入れないことが経済的虐待にあたるとする、

この論法でいくならば、

家に金を入れない夫は経済的虐待をはたらいていることになりますが、

家に金を入れない妻もやはり、経済的虐待をはたらいていることになります。

 

 

 

じゃあいったい、どういった場合に「経済的虐待」というのが

成立することになるんだ?

というと、それは、

 

結婚生活の当初から、

夫婦の双方の合意にもとづいて、

結婚生活における経済面を主に支えることを

引き受けた一方当事者が、

その合意や、自らの責任引き受けの承認に違背して、

その責務をおこなわなかったとき

 

に成立するのです。

 

 

 

つまり、

家庭を経済面で支えるという責任は、

夫婦相互の間での合意や、あるいは、

自分自身の、その責任を引き受けるという意思表明を基礎として

はじめて成立するものなのであって、

男性だから無条件に生じるとか、

夫だから無条件に生じるとかいったものではないのです。

 

 

 

悪いことをしたら、非難を受ける。

 

それは、考えてみれば、当然のことです。

 

 

 

そして、悪いことをしたのならば、

悪いことをした者が非難を受ける。

 

これもまた、当然のことです。

 

 

 

Aさんが悪いことをして、

その悪いことをしたことについて主要な責任がAさんにあるのなら、

いちばん大きな非難を受けるべきなのは、当然、Aさん本人です。

 

Aさんが非難を受けるべきなのに、

全然関係のないBさんとか、

副次的な責任しかないCさんのほうが、

おおきな非難にさらされるようなことが、もしかりにあれば、

それはどう考えても、おかしなことでしょう。

 

 

 

結婚生活においても、しかりです。

 

 

 

結婚生活において、ときどき、

ドメスティックバイオレンス(DV)が問題になることがあります。

 

これに関しても、

DVをおこなったその本人に主要な責任があるのなら、

その本人が非難されるのが、スジというものでしょう。

 

 

 

とするならば、

夫が妻に対してDVをおこなったのならば、

非難されるべきなのは夫ということになりますが、

妻が夫に対してDVをおこなったのならば、

非難されるべきは妻ということになるはずです。

 

 

 

考えてみれば、これはあたりまえのことですよね。

 

 

 

夫が妻に対してDVをはたらいたときには、夫を厳しく非難するくせに、

妻が夫に対してDVをはたらいたときには、

 

「それは奥さんがよくこれまで我慢したと思うよ?

 きっと奥さん、不満がたまってたんだよ。」

とか、

「旦那さんの側にも、DVされるような原因があったんじゃない?」

とか、

「でも、そんな奥さんを選んだのは、あなただよね?」

とか、

「てか、やられっぱなしってありえない。

 なんでやり返さないの?

 奥さんの暴力をそのままにしてる旦那さんにも責任あるよ。」

 

とかなんとか言って、

非難されるべき奥さんを擁護し、

あろうことか、被害者であるはずの旦那さんをさらに鞭打つのは、

どう考えても、おかしなことではありませんか?

 

 

 

あたりまえのことですが、

わるいことをしたら非難される。

 

これは当然のことなのです。

そこに、男女の違いはありません。

 

 

 

男性であれば、悪いことをしても非難されないとしたら、

おかしなことでしょう。

 

逆も同じです。

女性であれば、悪いことをしても非難されないとしたら、

やはり、おかしなことでしょう。

 

 

 

さきほど、

夫が妻からDVの被害を受けていたときに、

加害者である奥さんの側を擁護し、

あろうことか、被害者である旦那さんの側を非難していた

馬鹿の例を書きました。

 

この馬鹿の頭の中では、

男性というのは、

自分が加害者であっても被害者であっても、

いつもサンドバックのように一方的に非難を受けるべき

存在なのでしょうな。

 

 

 

 

大坂なおみが全豪OP初優勝。時代がかわるとき。

こんにちわ。天機です。

(約4200字)

 

 

 

きのうは、大坂なおみがテニスの全豪オープンで初優勝しましたね!

天機はテレビで見ていなかったのですが、

ヤフーニュースのテキスト速報を固唾をのんで見守っていました。

(←テレビ見ろよ)

 

 

 

大坂なおみは、先の全米オープンでも初優勝をかざっていて、

これで、グランドスラム2勝目となります。

 

先の全米オープンでは、

セリーナ・ウィリアムズとのあいだで確執があったのですが、

今回は、論争の余地なく覇者となり、すっきりしました。

 

 

 

思えば、最近になって、

時代がかわりつつあるなあ、と思えるような出来事が、

立て続けに起こっています。

 

 

 

テニスでは、

2000年代の初頭から、セリーナ・ウィリアムズが絶対女王として、

ほぼ15年以上にわたって黄金時代を築いてきたのですが、

ここにきて、

大坂なおみが次世代の女王の貫録を見せつつあります。

 

 

 

野球の世界では、

1990年ごろからおよそ30年ほどにわたって、

イチローが名実ともにヒーローだったのですが、

ここにきて、

2019年になって、イチローマイナー契約になることが報じられるいっぽう、

大谷翔平というニューヒーローがあらわれようとしています。

 

 

 

将棋の世界では、

やはり、1990年ごろからおよそ30年間ほどにわたって、

羽生善治が名実ともに棋界の第一人者の地位を築いてきたのですが、

昨年2018年、羽生善治は、

約30年ちかくぶりに無冠に転落し、

いっぽうで、藤井聡太というニューヒーローが頭角をあらわしつつあり、

棋界は戦国時代の様相を呈してきています。

 

 

 

古い時代が過ぎ去って、新しい時代が始まろうとするときには、

オールドヒーローが勝てなくなって静かに退場して行き、

いっぽうで、

ニューヒーローが華々しく登場する、

のかもしれない。

 

天機は、そんな印象をいだいています。

 

 

 

思えば、2016年という年は、

イギリスがEUから離脱することが決まり、

アメリカにトランプ大統領が誕生することが決まり、

天皇陛下生前退位されることが決まった、

時代の画期となる年でした。

 

ことしは、2019年なのですが、

この2016年から2019年という、ここ数年間ほどのあいだに、

これまで長い間つづいてきたことが、大きく変わって、

時代がおおきく動き始めるような出来事が、数多く発生しています。

 

そのことについては、こちらの記事でも書いています→

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

1つの時代が変化するときというのは、

天機が思うに、

ひとびとの個々の運命も、おおきく変化するような気がするのです。

 

 

 

よく、人は言います。

 

成功しようと思ったら、努力しなくちゃいけない。

成功しようと思ったら、人との関係を大切にして、人から好かれなくちゃいけない。

情けは人のためならず、だ。

人のことを思ってなにか善いことをしてあげていれば、

やがてそれは、自分に返ってくるのだ、と。

 

 

 

たしかに、それらのことには、一理あるでしょう。

 

 

 

しかし、

 

時の運

 

というのは、不思議なもので、

 

そのひとが努力してきたのかどうか、とか、

そのひとが人から好かれているのかどうか、とか、

そのひとが他人に親切にしてきたのかどうか、とかいったことには、

 

いっさい関係がなく

 

電車の踏切で信号が青に変われば電車が進むことができ、

赤に変われば電車が進むことができなくなるように、

ただ、

 

時が変化したという、そのことだけで

まるでスイッチでも切り替わるかのように

 

この世界の、全体の時の運が変化したことによって、

世の中の風向きががらっと変わる、そのことによって、

突如としてうまくいかなくなる人がでてきたり、あるいは、

突如として成功の上昇気流に乗り始める人があらわれてきたり、

そういったことがあるのだろう、と、天機は思うのです。

 

 

 

このことを、情景でたとえるならば、

つぎのような情景を考えることができるかもしれません。

 

 

 

広い広い、大地があります。

その大地には、赤い旗を持った人と、白い旗を持った人がいます。

 

 

 

あるとき、その広い広い大地を見下ろすような、

高い高い山の頂に、

大きな大きな、「赤い旗」が1本、高らかに掲げられました

 

 

 

これが、「全体の時の運」「世の中の、そのときの風向き」を

あらわす旗で、

赤の時代の到来を示しています。

 

 

 

すると、

広い広い大地にいた、赤い旗を持った人たちは、

突如として、やることなすこと、うまくいくようになります

反対に、白い旗を持った人たちは、やることなすこと、うまくいかなくなります。

 

 

 

赤い旗を持った人たちは、自信を深めます。

白い旗を持った人たちは、自信を失います。

 

 

 

世の中には、

「成功するなら赤い旗を持とう!」とか、「時代は赤い旗だ!」

とかいった番組や情報、書籍があふれるようになります。

 

赤い旗を持った人が、さかんにメディアに登場し、

自分が成功したのは赤い旗を持っていたからだ、と得意げに語ります。

 

会社の上司は、出来の悪い部下を呼び出しては、

「おまえがいつも失敗ばかりするのは、白い旗なんか持っているからだ!」

と叱責し、

自宅でこれを読むように、と部下に手渡したビジネス本には、

「成功したいなら赤い旗を持て!」といったタイトルが書かれています。

 

 

 

ところが、です。

 

それから何十年かたったころでしょうか。

 

 

 

だれも注目をあまりしていないような、

その、広い広い大地を見下ろす、高い高い山の頂上に、

いままで燦然とひるがえっていた、あの

「赤い旗」が、ひっそりと降ろされて、

かわりに、「白い旗」が掲げられるときが来ます

 

 

 

白の時代の到来です。

 

すると、突如として、

いままであれほどうまくいっていた、

赤い旗を持って大手を振っていたひとたちが、

なぜだか、すこし、調子が悪くなり始めます。

 

 

 

最初のうちは、思うかもしれません。

 

そりゃ、赤い旗にも、調子のわるい時だってあるさ。

でも、基本はやっぱり、赤い旗だよね、って。

 

 

 

でも、違うんです。

 

赤い旗が調子が悪くなりはじめたのは、

全体の時の運」「世の中の、そのときの風向き」をあらわす、

広い広い大地を見下ろす、高い高い山の頂の、その1本の大きな旗の色が、

赤から白に変わったからなのです。

 

それに気づかないでいると、

赤い旗を持った人たちは、

いままでの成功と繁栄が、1枚1枚、樹の皮でも剥ぐかのように、

失われていくことになります。

 

そして、それまでの長い冬の時代、赤の時代を耐え忍んでいた、

白い旗を持った人たちには、

ようやく陽の光が差し込んでくることになるのです。

 

 

 

では、

赤い旗を持っていたひとたちは、努力が足りなかったのでしょうか。

それとも、努力が十分だったのでしょうか。

 

赤い旗を持っていたひとたちは、人から好かれる素質が足りなかったのでしょうか。

それとも、そういった素質にあふれていたのでしょうか。

 

白い旗を持っていたひとたちは、どうでしょう。

 

白い旗を持っていたひとたちは、努力が足りなかった?

それとも、努力が十分だった?

 

白い旗を持っていたひとたちは、人から好かれる素質が足りなかった?

それとも、そんな素質が十分だった?

 

 

 

もちろん、そういったことも、関係があるかもしれません。

影響があるかもしれません。

 

しかし、うえでみたような情景のなかで、

赤い旗を持ったひとたち、白い旗を持ったひとたち、

それぞれの栄枯盛衰に、もっとも大きな影響をもたらしたのは、

ほかでもない、

高い高い山の頂にある1本の大きな旗の色が、

赤と白のどちらだったのか、ということだったのです。

 

 

 

よくひとは、

成功すれば、それはそのひとが努力したからだといい、

人間性が素晴らしいからだ、と言って、誉めそやします。

 

反対に、失敗すれば、

それはそのひとの努力が足りなかったからだといい、

人間性が劣っているからだ、と言って、けなします。

 

 

 

しかし、そういったものとは関係なく

ただ、

 

時の運

 

がどうなのか、そして、

 

世の中の風向き

 

がいま、どちらの方向を向いているか、といったことが、

個々人の運命に大きな影響をもたらしていることは、

現実には、よくあることです。

 

そして、ある程度の年数を生きてこないと、

時の運というものは、じつは移り変わるものなんだなあ、ということは、

なかなか肌感覚での実感には、なりにくいものだとも思うのです。

 

 

 

かつて、松下幸之助という実業家は、

自社の社員を採用するさいに、運の良さを非常に重視した、

ということが言われています。

 

また、日露戦争の開戦がちかくなったときに、

だれを日本の連合艦隊司令長官にするかを決めるにあたって、

ときの総理の山本権兵衛は、東郷平八郎を推し、

その真意を下問された明治天皇に、

「彼は運のいい男ですから」と答えたというのも、

有名な逸話としてのこっています。

 

 

 

ある集団や組織においては、

そのトップとなる人間の運勢や運命といったものが、

その集団や組織の、全体の運勢や運命に影響することがあります。

 

 

 

あとすこしで、日本においては、

平成という時代が終わりをつげます

 

この平成という時代、この30年間の時代を、

言ってみれば、主宰するような人間は、はたして誰であったか?

といえば、それは、

今上天皇ということになるでしょう。

 

内閣総理大臣は、日本国のトップではありますが、

比較的頻繁にころころと変わりますから、

平成という30年間全般にわたってトップであった内閣総理大臣

というのは、考えにくいものでしょう。

 

 

 

とするならば、

この平成という、30年間の時代に対しては、

今上天皇ご本人のもつ運勢や運命が、

非常に大きな影響をなしていた可能性があります。

 

 

 

今上天皇は、

1933年12月23日午前6時39分に東京でお生まれになられています。

 

この生年月日と生まれた時間をもとにして、

西洋占星術でいうところの、ホロスコープをつくることが可能になります。

 

そのホロスコープと、

国民1人1人が持っている、

個々人の生年月日と生まれた時間をもとにしたホロスコープ

照らし合わせてみれば、

はたして、

この平成という時代が、

自分個人にとっては、運のいい時代だったのか、

それとも、そうではなかったのかが、

ある程度、読み取れるかもしれません。

 

 

 

そして、平成という時代が終わるということは、

その、自分個人の運勢にも影響してきたところの、

この日本国の全体の時の運、世の中の風向きも変わるということであって、

それはつまりは、

自分個人の運勢も変わるということなのです。