この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

犬を含む漢字について。

こんにちわ。天機です。

 

今回の記事は、とても気が引けるのですが、大作です。

字数は、約10400字あります。

 

 

 

きょうは、ひさしぶりに漢字論について語ってみようと思います。

 

ただし、いつものことなのですが、

天機が独自説をとなえるときというのは、いつも、

自分の思い付きを「論理的に見えるように」説明したものになります。

 

漢字を専門的に研究している大学の先生などには、

学問的なトレーニングというバックボーンがありますが、

天機には、それがありません。

 

なので、あまり、正しいことを言っている、とは思いこまないで、

エッセーのようなたぐいだと思って、読み進めてください。

 

では、いきます。

 

 

 

漢字の中には、「犬」という部分を含む漢字が、いくつかあります。

 

本場の中国では、それはもう漢字の数がすごく多いですから、

犬を含む漢字も多数に上るのですが、

ここは日本ですから、常用漢字にしぼって考えることにしましょう。

 

そのなかでも、「犬」なのか、「大」なのかについて、

争いのある漢字については省くことにします。

 

すると、

日本の常用漢字において、あきらかに「犬」という部分をふくむ漢字は、

以下の8つになります。

 

 

 

伏 然 犬 状 献 獄 獣 黙

 

 

 

天機は、うえにあげた「犬」をふくむ漢字の字源について気になったので、

ネットで調べてみました。

 

以下に記載する、それぞれの漢字の字源については、基本的には、

ウィクショナリーというサイトを参考にし、

ウィクショナリーに字源の記載がない場合は、

その他のサイトを参考にしました。

 

では、字源について、見ていきましょう。

 

 

 

この漢字は、会意文字とされています。会意文字とはなんであるのか、

天機にはよくわかりません。

人が、犬のように伏せたり、はいつくばったりするところからできた漢字だ、

とされているようです。

 

 

 

この漢字も、会意文字とされています。

犬の肉をあぶるところからきた漢字で、燃焼の燃の原字だという説明ですね。

 

 

 

この漢字の説明はシンプルでした。

象形文字です。

犬が、このように見えた、ということなのでしょう。

 

 

 

この漢字は、右側の「犬」という部分と、左側の部分とからなっていますが、

左側の部分は、もともと、寝台を意味する部分で、

音のみを借りた形声文字だという説明がされていました(説文解字)。

形声文字がなんなのか、天機にはよくわかりません。

 

 

 

この漢字は、左側に「南」という部分がみえますが、ここはもともと、

「南」ではなく、

物を煮炊きする意味をもつ、べつの原字があったようです。

そこからこの漢字は、

犬を煮炊きして神にささげる、という意味を持つようになった、

という説明がされています。

 

 

 

この漢字は、いちばん左側にあるけものへんと、いちばん右側にある「犬」とが、

あわせて2匹の犬をあらわしていて、

その2匹の犬がお互いに吠えて争うところから、

原告と被告をあらわし、裁判に関係し、服役、刑務所に関係する、という説と、

もう1つ、

2匹の犬がお互いに吠え争うところから、

そのような、人間にとっては危険な場所をあらわすようになった、

という説があります。

 

 

 

この漢字の左側の部分は、狩猟の道具をあらわしていて、

右側の「犬」は、狩猟の際に連れて行く猟犬をあらわしており、

あわせて「狩猟」というのがもともとの意味なのだ、という説明がされています。

 

 

 

犬を犠牲として埋めて、だまって喪に服する、

という説明が、白川静さんによってなされています。

「字統」や「字訓」といった大著のある白川先生は、

漢字学においておおきな影響力をもつことになりましたが、

正統派の漢字学者からは、批判されることがあります。

 

 

 

以上が、ネットを参考にしてまとめてみた、

「犬」という部分をふくむ漢字の字源です。

 

こうしてみてくると、明らかなことなのですが、

これらの字源の説明において、

なぜ、「犬」という部分がふくまれているのかについて説明するにあたっては、

ことごとく、

 

実際に吠えたり走り回ったりするところの、

動物の犬をもとに思考をすすめている

 

のです。

 

 

 

天機はなにを言ってるんだ?

そんなの、あたりまえやん。

動物の犬以外に、「犬」になにがあるっていうんだよ!

 

そんな、お叱りの声も聞こえてきそうです。

 

 

 

でも、頭のおかしい天機は、こんなことを考えてみたのです。

 

 

 

犬という部分を含む漢字における犬は、

実際の動物の犬ではなくて、

犬という動物に象徴されるような、

背後にあるなんらかの隠れた原理のことを指してるんじゃないか?

 

と。

 

 

 

では、この天機の妄想をもとに、論をすすめていきましょう。

 

ここから、天機の独自説を開陳していきますが、

独自説を展開するにあたっては、

古今の碩学の学説などといったものは、ことごとく無視していきます。

 

では、いきましょう。

 

 

 

漢字というものが、どうやってできたのか。

そんなことを考えていると、そこにおおきなロマンを感じることがあります。

 

漢字学者といったような、漢字について専門的に考えることを

職業にしているひとたちも、漢字について、日々考えていることでしょう。

 

 

 

ですが天機が思うに、

漢字学者といったようなひとたちは、

古代の人たちが漢字をつくりだすにあたって持っていた理性というものを、

すこし軽く考えるくせがあるのではないかな?

と思うのです。

 

つまり、現代というのは文明が開けた世界であって、

人間の歴史というのは、時代が新しくなればなるほど、どんどん進歩していく。

逆に言えば、

はるかな古い古い時代というのは、文明もまだ開けていなくて、

迷信もはびこっており、

ということは当然、古代人の持つ理性などといったものもたいしたことはなく、

なにかのもののかたちを見たままに象形文字にしたり、

あるいは、呪術的な要素も、濃厚に作字のプロセスには存在したであろう。

 

そんなふうに、現代の漢字学者は考えているのではないかな、

と、天機なんかは、思うことがあるのです。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

天機は、この世界にかたちをとってあらわれた、

個別具体的な存在や現象の背後には、

それらのおおもとになったような、かくれた原理が存在する、

と考えています。

 

漢字は一見したところ、それらの個別具体的なもののほうを参考にして

つくられたように見えるかもしれませんが、

じつは、漢字というのは、

背後に隠れたおおもとにある原理のほうに言及して生まれてきたものなのではないか。

 

そして、

そういった隠れた原理を洞察して、それに言及し、

広範な漢字の体系の中で相互に矛盾のないしくみとして組み上げていく

ことができた古代人の理性というのは、

じつは、むしろ、

現代人などが逆立ちしてもかなわないような、

神がかり的なレベルにあったのではないか。

 

そんなふうに天機なんかは考えたりするのです。

 

 

 

では、今回とりあげた、

「犬」という部分をふくむ漢字に話をもどして考えてみると、

どういったことがいえるでしょうか。

 

天機の想像は、こうです。

 

 

 

人間について、すこし考えてみましょう。

 

人間には、「体」と「心」があります。

 

体というのは、見ることができる。

体から発せられる声などは、聞くことができる。

愛するひとの体に、触れることもできる。

 

ようするに、感覚器官でもってその対象である体を把握することができるというのが、

「体」というものがもっている1つの性質です。

 

 

 

また同時に、体というものは、変化しにくい、という性質をもっているとも、

ある程度はいうことができるかもしれません。

 

もちろん、女性は化粧をすれば変身することができるでしょうし、

交通事故などに遭えば、

たちどころに重傷を負うようなこともありうるでしょう。

 

ですが、

昨日会った友人が、今日見てみると、身長が2倍に伸びていた、とか、

1年前に会った親戚の伯父さんに、ひさしぶりに再会したら牙が生えていた、

といったことは、通常はないわけです。

 

へんなたとえをだしましたが、

体というのは、だいたいにおいて、変化はしにくいものだと、天機は思うのです。

 

 

 

それに対して、心はどうでしょうか。

 

ひとは、話したり、手紙を書いたりすることで、

自分の心の内を、他者に伝えることはできます。

 

ですが、その伝えた内容が、つねに真実である保証はありません。

人というのは、嘘をついたり、冗談を言ったりすることがあるからです。

 

拷問にかけて、ひとに一定の「情報」を吐かせることはできるかもしれませんし、

キリシタンに踏絵をふませて、「忠誠」をあきらかにさせることも

できるかもしれませんが、

そのじつ、内心ではなにを思い、なにを考えているかまでは、

通常は、分かりにくいものでしょう。

 

ということは、心というのは、体とはちがって、

感覚器官による把握がむずかしい、ということが、一定程度、

言えるのではないか、と思います。

 

 

 

また同時に、心というものは、からだにくらべて、

変化しやすい、という性質ももっています。

 

女心と秋の空、というたとえがありますが、べつに女性の心にかぎらなくても、

さっきまで気分良く過ごしていたのに、

急に電話がかかってきて、仕事で呼び出された、とかいったことがあると、

とたんに不快な気分になる、

というのが、人間の心です。

 

その意味で、人間の心は、からだにくらべると、変化しやすいものだと思うのです。

 

 

 

以上を整理すると、

人間には「体」と「心」があって、

体というものは、感覚器官で把握しやすく、また、変化しにくい。

他方で、心というものは、感覚器官で把握しにくく、また、変化しやすい。

 

おおざっぱにいって、うえのような区別をたてることが可能ではないだろうか、

と思います。

 

 

 

うえでみたような、体と心の区別というのは、

「人間」に対象をしぼって考えてみたものでした。

 

では、これを、

この宇宙とか、この世界とかに、範囲をひろげて考えてみたら、

どうなるでしょう。

 

 

 

天機が、このように考えてきたときに、

漢字の成り立ちとの関連で考え付いたのが、

 

という漢字と、

という漢字です。

 

 

 

大も、小も、いずれも小学校で習うような、基本的な漢字ですよね。

 

大は大きいということであり、小は小さいということである。

いずれの意味も、日本人にとっては基本的なもので、

さらにいえば、

大という漢字と小という漢字から、これ以外の意味を導き出すようなことは、

通常はあまりないといってもいいでしょう。

 

 

 

ですが、天機は、さまざまな漢字の中の一部として、

この「大」や「小」がふくまれている場合をずーっと見てきた中で、

ひと言で言えば、

 

大という漢字は「フェーズ」を

小という漢字は「遷移」を

 

それぞれあらわすのではないだろうか?

と思ったんです。

 

 

 

さらに、もっと突っ込んで言えば、

大という漢字の中には横線が入っていますが、

 

漢字における横線はフェーズをあらわし

 

また、小という漢字の中には縦線が入っていますが、

 

漢字における縦線は遷移をあらわす

 

のではないだろうか、と、例によって天機は、

「勝手に」考えたんです。

 

 

 

ここで、「フェーズ」だの、「遷移」だのといった、

もともとの用語からしてあまりなじみがないうえに、

さらには、おそらく天機はここにおいて、

自分独自の用語法でこれらの言葉を使用してるであろうために、

さらに混乱を招きかねない、

これら2つの言葉について、くわしく見ていきたいと思います。

 

 

 

まず、フェーズについて。

このフェーズという言葉によって、天機がここで言い表そうとしている内容は、

 

「存在や現象。それはなんなのか?と問われたときに、それは〇〇だ、というふうに

 かちっと定義できるようななにか。目に見えたり、耳で聞こえたり、感覚器官

 で把握しやすいもの。人間の、体と心でいうならば、体にあたるもの。

 かちっとしていて、比較的明確で、空間性のあるもの。変化があまりないもの。

 確定的であって、そこに立脚して、つぎに積み重ねていくことができる基盤に

 あたるようななにか。場。姿。外面。ある局面。静と動でいえば、静。」

 

と、おおよそ天機の頭の中では、こういうふうなものをフェーズという言葉で

あらわそうとしています。

 

 

 

ではつぎに、遷移について。

この遷移という言葉によって、天機がここで言い表そうとしている内容というのは、

 

「精神や法則性、理法といったような、物事の表面からは見えない、背後に隠れた

 なにか。人間の、体と心で言うならば、心にあたるほう。フェーズというのが、

 電車が停まる駅だとすると、遷移というのは、その間をつなぐ線路みたいなもの。

 かちっとした確定的な感じはなくて、変化変動しようとするのが、遷移。

 感覚器官ではとらえにくく、変化しやすい。いま、どうであるのか、いま、なんで

 あるのか、を問題にするのがフェーズの議論であるならば、

 これから先、どのような方向へと変化していくのか、ということを問題にするのが

 遷移の議論。静と動でいえば、動。内面。変化とかかわりがあるので、

 時間性と関連があるのが、遷移。物質がフェーズだとすると、エネルギーが遷移。

 エネルギーが遷移とかかわりがあって、エネルギーというのは、他のものに力や

 作用を及ぼすものであるところから、この遷移は、作用、変化、適用、といったもの

 とも関連する。」

 

 

 

とまあ、このように、

天機の頭の中は、おもちゃ箱がひっくり返ったような感じで混乱しているのですが、

「フェーズ」という言葉と、「遷移」という言葉で、

天機が脳内でイメージしている事柄というのは、

だいたい、上で述べたような感じになります。

 

そして、繰り返しになりますが、

漢字の「大」は「フェーズ」に、漢字の「小」は「遷移」に、

それぞれ関連している、と考えているわけです。

 

 

 

では、「犬」という漢字は、いったい、どのように考えたらいいのでしょうか。

 

 

 

ネットにのっている字源解説では、この「犬」という漢字は象形文字だと、

つまりは、犬を見たらそういうふうに見えたと、解説されていました。

 

 

 

が、天機はそのようには考えませんでした。

 

天機は、この「犬」という漢字は、

「大」という漢字がもともとあって、その右上に点をひとつ加えたものだと

思ったのです。

 

つまり、漢字の「大」があらわすような性質がまずあって、

それを前提にして、右上に1つ点を加えることで、

その性質にある種の制限をかけた、と考えたのです。

 

 

 

それが意味するところはなにか、というと、

 

存在や現象といった、外から見てわかるなにか、体と心で言えば、体、

そして外面、

そういったものに、一定の拘束や制限がかかっている状態

 

その状態を指して、

「犬」という漢字で表現したのではないだろうか、と考えたのです。

 

 

 

犬を象形文字だとする考え方というのは、ようするに、

そのへんを走り回っている、個別具体的な動物の犬の姿を見て漢字をつくったのだ、

とする考え方なのです。

 

それに対して、天機の考え方というのは、

そのへんを走り回っている、個別具体的な犬の背後には、

じつは、

大という漢字があらわす存在や現象といったものに一定の拘束や制限がかかっている

状態、

というひとつの原理があって、

犬という漢字は、個別具体的な動物の犬から着想を得てできた漢字ではなく、

そのおおもとになった、ひとつの原理のほうに言及してできた漢字なのだ、

というものなのです。

 

 

 

そして、非常に狂気じみたことに、

漢字というのは、日常の意思疎通のために便宜的に記号のようなものを

人間がこしらえた、というわけではなくて、

ふつうは見えないような、この世界の隠れた原理、

さらには、それら原理相互間の関係、そして、その関係の集大成である体系まで、

洞察したうえでつくられたものである、と、

天機は考えているのです。

 

 

 

「犬」という漢字に話をもどしましょう。

 

ふつうは、この世界に犬という動物がいて、それを見て、

ひとは「犬」という漢字をつくったのだ、と考えるかもしれません。

 

 

 

ですが、天機は頭がおかしいので、そのようには考えません。

 

この世界には、個別具体的な存在物に先立って、なんらかの「原理」があった、

と考えます。

そして、その「原理」が、具体的なかたちをとって、

この世界にあらわれ出でたのが、個別具体的な存在物である、と考えるのです。

 

「犬」についていうならば、

存在や現象といった外面に、なんらかの一定の拘束や制限がかかっている状態、

というひとつの「原理」がまずはじめにあって、

その「原理」が、この世界に具体的なかたちをとってあらわれたのが、

動物の「犬」なのだ、というふうに天機は考えています。

 

 

 

そして、犬はこのような背景をもってこの世に生まれてきているので、

この原理をあらわすような性質を、

実際の動物としての「犬」も、持つようになります。

 

 

 

たとえば、この世界を見渡してみると、いろんな動物がいますよね。

 

牛も、豚も、鶏も、魚も、人間に獲って食べられることも多く、

その意味では、人間の支配に服している、と見ることもできるかもしれません。

 

が、だからといって、それらの生き物は、

人間に対して従順であるという姿勢を、外面的に表したりはしませんよね。

服従の姿勢をしめすことは、ないんです。

 

 

 

犬と並んで、人間がペットとして飼うことも多い猫とかも、

そうではないでしょうか。

 

自分はペットには詳しくはないのであれなんですが、

猫がリードをつけて散歩されてたり、

猫が「お手!」とか「おすわり!」とかいったことをやらされてる場面

というのは、

犬に比べると、想像しにくいんですよね。

 

 

 

ところが、犬はちがいます。

 

犬というのは、ほかのいろんな生き物がいるなかでも、

あきらかにほかとは異なって特徴的なことに、

人間に対する「服従」の姿勢を、「外面的に」表現するのです。

 

もちろん、犬だって生き物ですから、

その気持ちの中では、「この飼い主きらいだな」と思っているかもしれませんよ。

 

でも、ここで問題にするのは、そういった内面ではなく、

外面なのです。

 

そして、その外面というのは、漢字の「大」が象徴するものでした。

 

 

 

つまり、

「犬」という生き物は、その漢字の成り立ちからわかるように、

存在や現象といった、姿、外面に一定の拘束や制限がかかっている状態、

という、1つの原理を背景として生まれてきている生き物なので、

なので、

実際の動物としての犬も、

飼い主に対する「忠誠」の姿勢を、他の生き物たちとは異なって、

外面的に表現するという性質をそなえるにいたったのではないか、

ということなのです。

 

 

 

そして、ここからがいよいよ、

今回のブログ記事のメインテーマなのですが、

最初のほうにあげたような、「犬」という部分をふくむいろいろな漢字についても、

個別具体的な動物の犬をもとにしてその字源を考えるのではなくて、

外面に対して制限や拘束がかかっているというかたち、

という、1つの原理をもとにして字源を考えてみたら、

統一的に解釈することができるのではないか、

というのが、天機の考えたことなのです。

 

では、1つ1つの漢字について、見ていきましょう。

 

 

 

これは、「犬のように」ふせたり、はいつくばったりするからではなく、

人間が伏せるという姿勢が、

外から見たときの人間の態度や姿勢、つまり、外面に抑制がかかっている

ところから、

このような字ができたと考えられます。

 

 

 

この漢字は、動作としては、自分の側から相手の側へと、

なんらかのものを受け渡すということなのですが、

通常は、たとえば、身分の低いものから目上の者へといった、

渡す側の「へりくだり」を含意する動作です。

 

単に、あげる、とか、わたす、とかいった、単純な「give」ではないのです。

 

そこにふくまれる「へりくだり」が、

わたすひとの外面への抑制や制約になっているところから、

この字には「犬」がふくまれると考えられます。

 

 

 

だまっている、沈黙している、ということと対比されるもの、

それとは反対になるもの、といえば、通常は、

話している、声を出している、自分の意見を表明している、

ということでしょう。

 

自分の意見を表明するということは、発話によって、

自己表現をおこなう、自己主張をおこなう、自分というものを押し出していく、

ということです。

 

沈黙しているということは、話すのか話さないのかということに関して、

自分というものを積極的に外へと押し出していく姿勢に

一定の拘束や制限がかかっているということができます。

 

なので、この漢字にも「犬」がはいります。

 

 

 

この漢字は、現代でいえば、刑務所のことをさすでしょうか。

 

刑務所に入った受刑者、服役囚は、

基本的には、看守やその他の人間の規律に服して、おとなしくしている必要が

あります。

 

たとえ、どんなに心の中(内面)において、

「この看守、気に入らねえなあ。殺してやりてえ。」

と思ったとしても、その気持ちを態度(外面)にあらわせば、

袋叩きにあいますよね。

 

なので、「獄」に収監されている者は、みずからの態度(外面)を抑制的に

している必要があり、

その限度で外面に制約がかかっているといえるので、

やはり、この文字にも「犬」がはいります。

 

 

 

この世界には、いろんな生き物がいます。

 

草原にも、海の中にも、ジャングルの奥地にも、それは多数の生き物が

いますから、

たとえ人間と言えども、それらの生き物のすべてを24時間コントロールしたり、

支配したりは、できないわけです。

 

しかしながら、この「獣」という文字は、おそらくは、

たんに中立的な立場から生き物たち、動物たちを指してうまれた文字ではなく、

人間に対する者、いざとなれば人間によって支配される、人間とは異なった

生き物、という意味で、動物たちを指してつくられた文字だという気がするのです。

 

禽獣ですね。

 

サーカスで鞭打たれるライオンも、鉄砲におびえる山奥の熊も、

心の中(内面)では、人間に対して激しい怒りを持っているのかもしれませんが、

そういったこととは関係なく、

実際の事象(外面)としては、人間によって支配、馴致されるわけです。

 

なので、そういった外面において、人間に対する関係においては抑制され、

制約を受けているという事実に着目して、

この「獣」という文字にも、やはり、「犬」がはいるのではないでしょうか。

 

 

 

状、然

これら2つの文字に犬がはいる理由は、一見したところ、判然としません。

これらの文字になぜ犬がはいるのかは、じっくりと考える必要があるのです。

 

そこで、熟語にして考えてみましょう。

 

「状」という漢字をふくむ熟語には、たとえば、

状態、状況、状勢、逮捕状、書状、樹状突起、斑状組織、症状、現状、

といったものがあります。

 

「然」という漢字をふくむ熟語には、たとえば、

悠然、自然、天然、泰然自若、公然、

といったものがあります。

 

 

 

たとえば、こんな状況を考えてみましょう。

 

大規模な自動車事故、交通事故、あるいは、鉄道事故などが発生し、

警察や消防、救急などへ通報があいついだとします。

けが人も多数出ています。

 

そういった報を受けた、警察や消防、救急の側には、

おそらく、その事案に応じて対処するために、指揮命令系統というのが

存在すると思うのですが、

総合的な判断をくだす、そういった管轄の上司、リーダーとしては、

「現場の「状」況は?」

と、たずねると思うんですね。

 

すると、実際に事故の現場で対応にあたっている、警察官、消防隊員、

救急隊員などは、どういった応答をしますか?

 

 

 

「おばあちゃんが、ねぎの入った買い物かごをさげてて、

 そのかごから、しょうゆのボトルがころがりでて、おばあちゃんメガネも

 割れてて…」

とか、

「車が、大きいのと、小さいの、赤いのやら黄色いのやらが、ぶつかってて、

 ドアがへこんでて…」

とかいったような、わけのわからない報告は、まずしないと思います。

 

こんな報告の仕方をしていたら、警察官失格、救急隊員失格になってしまうかも

しれませんよね。

 

そうではなくて、通常は、

「〇〇時〇〇分、現着。傷病者合計7名、現場にて多数の散乱物あり。」

とかいった報告の形態になると思うんですよね。

 

 

 

さっきの報告と、今回の報告と、なにがちがうんでしょうか。

 

 

 

それは、さっきの報告というのは、「生の(なまの)事実」をそのまま、

脈絡なく伝えているのに対して、

今回の報告は、上司が判断をしやすいように、必要な情報だけを咀嚼し、

整理したかたちで伝えている、ということなのです。

 

そして、ひとが、「状」況、「状」態、「状」勢、現「状」というふうに認識

ができるためには、

このように、

外面にあらわれた、表面にあらわれた、生の(なまの)事実をそのまま取り扱う

だけでは足りず、

そこに思考や判断によって、

評価、解釈、分析をくわえていく必要があるのです。

 

「然」という漢字についても、同じようなことが言えます。

 

悠然という表現であるならば、ひとがある様子を見たときに、

ああ、これはゆったりした様子だなあ、と感じて、

その様子全体に対して、「ゆったりしている」という観点からの

評価をくわえています。

 

公然というのも、人がある様子をみて、

はっきりしているなあ、隠し事がないようだなあ、という観点から、

全体を「公然」という一言のもとにまとめているわけです。

 

 

 

ということを整理すると、

「状」の字と「然」の字は、ともに、

表面的、外面的にあらわれた事実に対して、

観察者である人間の側が、評価や分析、解釈や批評をくわえるという意味において、

その外面的な事実に対して、ある種のワクをはめ、拘束をくわえている、

とみることができます。

 

おそらく、こういった背景があるために、やはり、

「状」の字にも、「然」の字にも、

「犬」がはいってくるのだろうと、天機は思います。

 

 

 

漢字についての、それ以外の独自考察については、こちら。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

白髪を染めるのをやめようか、と思う。

こんにちわ。天機です。

(約1300字)

 

 

 

天機がブログ記事を書くのは、ひさしぶりです。

 

ふだん購読している皆様のブログには、基本的にはいつも、

目を通しているのですが、

自分自身の記事を書くのが、最近、おっくうになっていました。

 

 

 

書きたいことは、頭の中に、何個もあるのです。

そのほとんどは、「この世界の不思議」に関連する内容のものなのですが、

例によって、複雑な内容のものなので、

いざ書こうとすると、構成を考える必要があり、また、

けっこうな長文になる予感がするんですよね。

 

それで、書くのがおっくうになっていた、というわけなのです。

 

 

 

きょうは、天機の日常のお話です。

 

 

 

天機は、35歳をすぎたあたりから、白髪が目立つようになり、

40歳になった現在では、なにもしなければ、

すごく白髪が目立ってしまいます。

 

それで、40歳近くになったあたりから、

白髪を染めるようになりました。

 

 

 

ドラッグストアとかに行けば、メンズ用の白髪染めが700円くらいで

売っていることもあります。

 

が、天機は面倒な作業を自分自身でするのがいやだったので、

すこし高くても、街の美容室で染めてもらっています。

 

 

 

最初に行った、カラーのお店は、

カラーだけを専門にやっている(カットはしていない)お店で、

白髪染めは3300円でした。

そのときは、カットは別の店でしていて、カットは2300円でした。

合計で5600円ほどかかっていたことになります。

 

 

 

その後、別のお店で、カットとカラーを同時にやってくれて4000円弱だ、

というお店があったので、

これだ!

と思って、そのお店に変えました。

 

 

 

さらにその後、

タイムサービスを使うと、

カラーが1980円、カットが690円になる、というお店があって、

いますこし、そちらのほうに行っています。

 

 

 

こうして見てくると、

ずいぶんとカラーとカットにかけるお金も安くなったので、

これでいいやん、と思うかもしれません。

 

 

 

ですが天機は最近、

白髪染めをまったくしなければ、

お金も、労力も、時間も、ずいぶん浮いてくるなあ、

なんてことを考えるようになりました。

 

 

 

白髪染めをまったくしなければ、1年間で1万円ほどは浮いてきます。

天機は、カラーやカットは、基本的に、

3か月に1回くらいしか行かないからです。

 

染めてもらっている間、じーっと待っている時間も、浮いてきますよね。

 

 

 

白髪染めをしてもらうと、たしかに、髪が真っ黒になるので、

若々しくはなります。

 

ですが最近、ネットとかで、

 

「白髪 染めない」

 

とかで検索してみると、けっこうヒットするんですよね。

 

 

 

野球のイチローとか、俳優の吉川晃司とか、

比較的まだ若いなあ、と思うようなひとでも、最近は、

堂々と、白髪を染めないで過ごしている有名人を見かけることがあります。

 

もしかしたら、

白髪を染めない人っていうのは、最近、すこし増えてきてるんじゃないか?

とも思うんですよね。

 

 

 

黒髪に白髪がまだらにまじっている状態というのは、見様によっては、

汚らしく見えることもあるかと思います。

 

しかし、その時期をすぎて、

ある程度白髪が頭全体をおおうようになってくれば、

もうその状態が新しい自分だとして、

グレイヘアの人生を歩んでいってもいいような気もするんですよね。

 

 

 

というわけで、天機は最近、

白髪染めをやめてしまおうかな、と考えています。

皇太子ご一家と、秋篠宮家。

こんにちわ。天機です。

(約1400字)

 

 

 

天機はあまり、テレビをみることがなくて、

お昼のワイドショーとかもまったく見ないのですが、

見る人は見ますよね。

 

 

 

お昼のワイドショーとかでは、

芸能ネタをやったり、ときには、

皇室に関する話題を取り扱ったりすることもあるかと思います。

 

 

 

きょうは、皇室に関する、

天機の下世話な論評になります。

 

 

 

皇室には、皇太子ご一家と、秋篠宮家があります。

 

天機は、時代の大きな流れ、時代の変化、

といったものをつかみたいと、いつも思っているのですが、

この、皇室における2つのご家庭をみていると、

やはり、時代の変化というものがあるように思えるのです。

 

 

 

2003年ごろから、今年、2018年ごろにいたるまでの、

おおよそ15年間、

世の中的にも、ある種の特徴をもった1つの時代がありました。

 

 

 

そして、この、2003年ごろから2018年ごろに至るまでの15年間というのは、

ごくごくおおざっぱに言って、

 

「皇太子ご一家下げ、秋篠宮家上げ」

 

という時代だったように思うのです。

 

この時代には、皇太子ご一家があまり運気がよくなくて、

秋篠宮家は運気がよかったような印象をうけるのですね。

 

 

 

2003年ごろを境として、皇太子ご一家では、

雅子様が、適応障害という病気にかかられて、

一般に姿を見せられることがなくなりました。

 

そのために、皇太子ご一家が、ある種のバッシングにさらされることも、

あったわけなのです。

 

 

 

同時期の秋篠宮家は、比較的幸運でした。

 

2006年には、秋篠宮家に、待望の男系男児となる悠仁様が誕生し、

国民の祝福を受けることにもなりました。

 

 

 

以上のことから、総じて言えば、

2003年ごろから2018年ごろにかけてのおおよそ15年間は、

 

「皇太子ご一家下げ、秋篠宮家上げ」

 

という流れだったように思います。

 

 

 

ところが、この流れは、

2018年前後になって、変化を見せ始めます。

 

 

 

2016年、天皇陛下が、突然の生前退位の宣言をなさいました。

 

このことによって、

皇太子さまは、近いうちに、確実に次期天皇になられることが確定し、

皇太子さま、雅子様は、つぎの天皇皇后両陛下になられることになり、

他方で、

秋篠宮家がそのようになる目は消えました。

 

このことと、だいたい時を同じくするようにして、

雅子様の病状が急速にご快復に向かわれるようになり、

メディアへの対応など、

公の場に雅子様がお見えになることが増えてきたのです。

 

 

 

他方で、秋篠宮家においては、

眞子様の婚姻問題が突然浮上することとなり、

婚姻だから慶事であろうと、ふつうは思われるところなのですが、

お相手の人柄なども関連して、

国民の間に祝福のムードが広がっているかというと、

かならずしも、そうとは言えない状況にもなっています。

 

 

 

これらの事柄を総合すると、

2018年前後になってきて、時代は、

 

「皇太子ご一家上げ、秋篠宮家下げ」

 

の方向に、すこしシフトしてきたかな、というように、天機は思うのです。

 

 

 

上で述べたようなことが真実なのかどうかは、全然わかりませんけれども、

なんとなく、

皇太子ご一家の運勢と、秋篠宮家の運勢は、

たがいにシーソーのような関係になっているような気がするのです。

 

 

 

そして、

2003年ごろから2018年ごろまでの時代には、

そのシーソーはある方向に傾いていましたが、

2018年ごろの最近になって、

そのシーソーが、傾きをすこし変えてきたかな、というように思うのです。

牛と人間の友情が成立しないとしたら。

こんにちわ。天機です。

(約1700字)

 

 

 

きょうは、動物と人間の友情について、考えてみたいと思います。

 

 

 

はてなブログを読んでいると、ブロガーさんの中には、

生き物を飼っていらっしゃるかたも、ちらほら見かけます。

 

代表的な生き物で言えば、犬さんとか、猫さんとかでしょうか。

 

飼い主さんたちは、精一杯の愛情をそそいで、

それらの犬さんや猫さんとの友情を築いているように思います。

 

 

 

犬さんや猫さんは、通常、「愛玩動物」とされています。

人間が、ペットとして飼育することが、

一般的に想定されているような生き物だ、ということだろうと思います。

 

 

 

ところが、

牛さんや豚さん、鶏さんは、

一般的には、愛玩動物であるとの評価を受けてはいないように思います。

 

牛さんや豚さん、鶏さんは、

一般的には、食用動物であるとの評価を受けているように思うのです。

 

 

 

この、

犬さんや猫さんに対する人間の評価や取扱いと、

牛さんや豚さん、鶏さんに対する人間の評価や取扱いに、

このような相違が生まれてくる原因は、

いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、それには、

人間の食生活の歴史が関係しているのではないだろうか、と思うのです。

 

 

 

人間の歴史が、文書によって記録されるようになってから、

かれこれ、数千年がたちます。

 

人類、と言う種が誕生してからだと、

アウストラロピテクスでしたっけ?

100万年くらいはたっているかもしれません。

 

 

 

人間も、その他の多くの生き物とおなじように、

生きていくためには、他の生き物を食べなければいけません。

 

 

 

人類は、おそらく、

その古くからの歴史において、

どんな生き物なら食べられて、どんな生き物なら食べられないか、

また、

どんな生き物なら食べて(人間にとって)美味しくて、

どんな生き物なら食べて(人間にとって)美味しくはないのか、

いろいろと試行錯誤や実験をするなかで、

学習していったんだと思うのです。

 

 

 

そして、幸か不幸か、

犬さんや猫さんは、人間にとっては、食べてもあまり美味しくはなく、

他方で、

牛さんや豚さん、鶏さんは、食べると、

比較的美味しいぞ、ということが、

人間にとって、だんだんとわかってきたのです。

 

 

 

それゆえに、

犬さんや猫さんは、食用とされることからは、

だいたいにおいてはまぬかれ、

他方で、牛さんや豚さん、鶏さんは、

多くは人間の食用となるように、運命づけられてしまったのです。

 

 

 

つまり、ごくごく簡単に言うと、

牛さんや豚さん、鶏さんの「不幸」を決定づけたのはなにか?

というと、それは、

 

自分自身の肉体が人間にとっては美味であったということ

 

に、ほかなりません。

 

 

 

だれかを友人として所有したいという願いと、

だれかを、なにものかを、食べてしまいたいという願いは、

相いれない願いです。

 

 

 

友人としてだれかを所有したいという願いは、

その友人は、自分とは異なる他者として生存し続ける、

ということが前提になっています。

 

 

 

他方で、だれかを、なにものかを、食べてしまいたいという願いは、

そのだれかやなにものかの生存を、

この世からは消し去ってしまうということが前提になっているのです。

 

 

 

もしかしたら、牛さんとの友情をはぐくむことも、

あるいは可能かもしれません。

 

この広い地球上には、

食肉として出荷することを前提とはせずに、

純粋に牛さんとの友情をはぐくむために、

牛さんを飼育しているひとだって、それはいるでしょう。

 

 

 

でも、牛さんにとっては不幸なことに、牛さんは、

人間にとっては非常に美味である、という、肉体を、

自己の一部として持っています。

 

そのために、人間の側としては、

牛さんとの友情をぶちこわしにしてでも牛さんの肉体を味わいたい、

という誘惑にたえずとらわれることにもなり、

他方で、牛さんの側としては、

いまはたとえ人間の側との友情が成立していたとしても、

いつ、人間の側の食欲が表面にあらわれてきて、

自己の生存がおびやかされるかわからないという、

慢性的な恐慌状態におちいることにもなるわけです。

 

 

 

牛さんの肉体が非常に美味である、ということが、

牛さんと人間との間で純粋な友情が成立するうえでの、

おおきなネックになっているのです。

心と重力。

こんにちわ。天機です。

(約2700字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議、にかんするお話です。

 

天機は、よく荒唐無稽な妄想をするのですが、

きょうの記事も、そんな感じのおはなしですね。

 

 

 

さて、この世には、「重力」というものがあります。

 

万有引力の法則を発見したのは、ニュートンでしたっけ。

この世の中の、ありとあらゆるものは、みな、引力をもっている、

とかいうことだったと思います。

 

 

 

ですから、

太陽は地球に引力をおよぼし、そのために地球は、

太陽の周りを周回運動しています。

 

地球は月に引力をおよぼし、そのために月は、

地球の周りを周回運動しています。

 

地球の持つ重力は、地球の上に乗っかっているありとあらゆるものに影響して、

それゆえに、みんな、地球にくっついているし、

人間はみな、体重というものを持っているし、

高いところから物を落とせば下に落ちていく、というわけです。

 

 

 

ここで、万有引力、というからには、

田中さんも、佐藤さんも、渡辺さんも、みな、

それなりに引力を持っているはずなのですが、

実際には、

田中さんが佐藤さんの引力に引っ張られてぴゅーっと飛んでいくとか、

佐藤さんが渡辺さんの引力にとらえられて身動きできない、

なんてことは、起こっていないわけです。

 

 

 

というのも、自分の理解では、

地球の持つ圧倒的な強さ、大きさの重力に比べて、

佐藤さんや田中さんのもつ引力なんて、

あまりにも小さすぎるので、実際は、

無視してよいようなものだからなんですね。

 

 

 

自分は、この物理的な重力を、

人間の心と関連付けて考えてみました。

 

 

 

いまここで、かりに、佐藤さんという人が、

「自分はバナナがとても好きなんだ。バナナは美味しいし、健康にもいいよ。

 みんな、バナナを食べようよ!」

というような見解を持っていたとしましょう。

 

 

 

この佐藤さんが、さて、

他の多くの人に、自分と同じようにバナナを好きになってもらい、

バナナを食べる気になってもらうためには、どうしたらいいでしょうか。

 

 

 

ふつうは、たとえば、

いろんな人に話しかけて、バナナの素晴らしさを伝えるとか、

インターネット上でサイトを立ち上げて、バナナをアピールするとか、

ブログやツイッターでバナナをアピールするとか、

バナナの素晴らしさについて新聞に意見広告をだすとか、

はたまた、政治家になって、

国民がバナナの消費をふやすように政策をかえていくとか、

まあ、そういったあたりのことでしょうかね。

 

 

 

佐藤さんはみんなにバナナを食べてほしいのですが、

それを実現するためには、

上に挙げたような手段を、通常はとらなくてはいけないのです。

 

 

 

それはどうしてかというと、ふつうは、

佐藤さんが、自分はバナナが好きだ、バナナの良さよ、世界に広まれ!

と心の中でいくら念じたところで、

それだけでは、ほかのみんなの心は、

バナナを食べよう、っていうふうには、ならないからなんですね。

 

 

 

そんなの当たり前やん!なに、当然のこと言ってんだよ!

なんて、お叱りの言葉を受けそうです。

 

 

 

たしかに、これは当たり前のことです。

誰かが心の中でなにかを思い、なにかを願ったとしても、

通常は、そのことだけでは、

他者の気持ちに影響をあたえることは、できません。

 

他者の気持ちをかえていくためには、

自分の意見を表明し、その表明された意見にふれた他者が、

自分の意見をかえていく、というプロセスをふまなければいけないのです。

 

 

 

ですが、ここで天機は、ふと、重力のことを考えてみました。

 

太陽や地球といった、とてつもない重力をもつものは、

その重力で、他の物体に影響をあたえることができます。

 

ところが、個々の人間のような存在は、重力をもっているとはいっても、

その重力があまりにも小さすぎるため、

ほかの物体をひきつけたりする現象は、通常は、認識されないのです。

 

 

 

人間の心も、通常は認識されないけれど、じつは、

重力のようなものを、秘めているのではないだろうか。

 

個々の人間の心がもつ重力は、認識できないほど小さいので、

通常は、

だれかがなにかを思ったり、なにかを願ったりするだけでは、

ほかのひとの心に「直接」影響することはない。

 

 

 

でもここに、かりに、

すごい強力な心の重力を、何らかの理由で持つにいたった、

特殊な人間がもしいたとしたら、

たとえば、

そのひとが「バナナは素晴らしいなあ。バナナが好きだ。みんな、

バナナを食べよう」と、

 

心の中で思っただけで

 

他の多くの人が、どういうわけか、

だんだんとバナナが好きになりだす、といったような、

超常現象が起きることがあるのではないだろうか。

 

 

 

天機は、そんなことを考えていました。

 

 

 

中国の古典に、「老子」という作品があります。

 

老子第49章には、

「聖人無常心、以百姓心為心。」

とあります。

 

 

 

この文章を、書き下し文にすると、

「聖人には常の心なく、百姓(ひゃくせい)の心をもって心となす」

となります。

 

 

 

一般的には、この老子の文章は、

「聖人というものには、一定不変の決まりきった心というものがなく、

 常に民衆の気持ちに寄り添っているのだ」

と解釈されることが多いです。

 

 

 

でも、天機は変わり者です。

 

変わり者の天機は、この老子の文章について、以下のように解釈しました。

 

 

 

「聖人は、われわれが一般的に考えるような、

 通常の意味での普通の心というものを持たない。

 聖人がなにかを思い、なにかを願ったなら、

 それがそのまま直接、ひとびとの心に影響して、

 そのひとびとの心を変えさせる。

 聖人とは、そういう超能力、特殊能力をもった存在である」

 

というように解釈したのです。

 

 

 

老子において、「聖人」とは、

出自が高貴であるひと、というわけではありません。

 

人格的に優れていて、とても優しいひと、というわけでもありません。

 

書物を多く読んでいて、知識をたくさん貯めこんでいるという意味において

賢いひと、というわけでもないのです。

 

 

 

老子における、「聖人」の資格は明確です。

 

この世界の森羅万象の背後に流れていて、

通常人の認識では到底知りえないような、隠れた原理について洞察しているために、

脳みそが通常人とは異なるようになった存在、

それが老子でいうところの、「聖人」です。

 

単に優しいとか、普通人の理解がおよぶくらいの賢さがある、というだけでは、

「聖人」とするには、足りません。

 

聖人か聖人でないか、のちがいは、ただ1つ、脳みその違いなのです。

 

 

 

天機が思うに、

そのように脳みそが通常人のそれと異なるにいたった聖人は、

その心が「重力」をもつにいたったのではないでしょうか。

 

それゆえ、

老子がわざわざ第49章でおそらくはのべているように、

聖人の心は、民衆の心に、直接的な影響力をもつようになったのではないか。

 

 

 

天機は、そのようにも思います。

宇宙銀行のしくみとは?-預け入れと貸し付け

みなさんこんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、宇宙銀行について書いてみようと思います。

(約3600字)

 

 

 

宇宙銀行については、以前にもいくつか記事をアップしたことがあります。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

今回のお話は、若干、スピリチュアルなおはなしになるかと思います。

 

 

 

世の中では、いいことをしたり、誰かのためになることをしてあげたりしたら、

やがてそれは、自分に良い影響となって還ってくるんだよ、

なんてことがいわれたりします。

 

たとえば、

「情けは人のためならず」とか「陰徳陽報」とかいった言葉は、

そのことをあらわした言葉である、と、一般的には考えられています。

 

 

 

宇宙銀行とか、宇宙預金とかいった言葉は、

そういったしくみを、言い換えた言葉なのです。

 

 

 

この世の中には、目には見えない宇宙銀行というものがあって、

自分が誰かのためになにかいいことをしてあげたりすると、

それは、宇宙預金となって、自分の口座に蓄積されていく。

 

そしてやがては、自分がその宇宙預金を引き出すときになって、

自分がこんどは幸福に恵まれることになる。

 

簡単に言ってしまうと、そういうしくみなのです。

 

 

 

この、宇宙預金とか、宇宙銀行とかいう考え方は、

最近では、インターネット上でも、ちらほら見かけるようになってきています。

 

この考え方を、本にあらわしたひととしては、

小林正観といったひとがいるようです。

 

 

 

この宇宙銀行や、宇宙預金について、

今回も、自分なりに考えてみます。

 

 

 

これまで、宇宙銀行や宇宙預金について、とりあつかっている

サイトや本などを見ていると、

その多くは、

「1人の人間について」とりあつかっているように思うのです。

 

つまり、

宇宙銀行に宇宙預金を預け入れる「自分という1人の人間」、

そして、やがてはその宇宙預金を引き出すことになる「自分という1人の人間」、

といった具合です。

 

視点が、1人の人間の、宇宙預金の出し入れ、

というところにしぼられているんですね。

 

 

 

でも、考えてもみてください。

 

みずほ銀行だの、三菱UFJ銀行だの、三井住友銀行だの、りそな銀行だの、

といった、

実際にお金をやりとりしている、現実の銀行は、

どういったしくみで動いているでしょうか。

 

 

 

それらの銀行は、たった1人の顧客を相手にしているわけでは、ないですよね?

 

たくさんの顧客から預金をあつめて、

それをたくさんの顧客に貸し付けて、基本的には、

それらの間の利ザヤを抜くことで、商売しているはずなのです。

 

 

 

であるならば、宇宙銀行や宇宙預金について考える際にも、

「自分という1人の人間に相対する宇宙銀行」

だけを考えるのではなくて、

「多くの人間のあいだで活動するところの宇宙銀行」

というふうに、

「宇宙銀行システム」

のようなものについて考える必要がある、と思うんですね。

 

 

 

では、その、「宇宙銀行システム」は、

いったい、どのようになっているのでしょうか。

 

 

 

たった1人の人間と、宇宙銀行との関係を考えているだけなら、

ことは非常に簡単で、シンプルです。

 

自分が善行をして、宇宙銀行に宇宙預金を預け入れる。

 

その宇宙預金に利子がつく。

 

やがて、その宇宙預金が自分に払い戻されて、自分に幸福がおとずれる。

 

以上で終わりです。このプロセスで、いちおうの清算となります。

 

世の中の、宇宙預金について書かれた、

インターネット上のサイトとか、本とかも、基本的にはこの、

「自分という1人の人間と、宇宙銀行とのやりとり」

についてしか、書かれてはいません。

 

 

 

でも、自分は、この宇宙銀行というのは、

多数の人間のあいだで運のやりとりをする、いわば、

「広域的宇宙銀行システム」のようなものを構築している可能性がある、

と思うんです。

 

するとどうなるか。

 

 

 

宇宙銀行システムは、

顧客から預かった宇宙預金を、その顧客当人に、満期が来たら弁済するだけでなく、

べつの顧客に、貸し付けることがあるのです。

 

つまり、

あるひとが善行をおこなって、運を貯めたとします。

 

ふつうは、その運は、そのひとが将来、自分の幸福というかたちで

受け取ることになる、と思うでしょうが、

広域的宇宙銀行システムにおいては、その運は、

だれかほかのひとのところへ、ほかのひとの幸福となって、

貸し出されてしまうことがあるのです。

 

 

 

ここで、宇宙預金や運についての、預け入れや貸し出しに関して整理すると、

 

預け入れ→将来自分が受け取れる運はたまるけれども、今現在は苦しいことが起こる。

払い戻し→自分がためた運を、現在の幸福というかたちで受け取る。運は目減りする。

貸し出し→誰かほかのひとがためた運を、自分の現在の幸福というかたちで受け取る。

     運に関して、負債を負うことになる。

 

 

というふうになるわけです。

 

自分がいま現在苦しい思いをしているのならば、

将来、幸福と交換できる運はたまっているのですが、いま現在の幸福はない。

 

自分がいま現在ハッピーであるならば、

いま現在の幸福はあるのですが、将来の幸福に変換できる運は目減りしてゆく。

 

だけでなく、

自分がいま現在、苦しい思いをして運をためていても、その運は、じつは、

だれかほかのひとの現在の幸福として、

すでに変換されてしまっている可能性がある。

 

これが、広域的宇宙銀行システムの意味するところなのです。

 

 

 

ここ日本では、しばしば、「勤倹貯蓄」が美徳とされることがあります。

 

コメディアンの萩本欽一さんは、「ダメなときほど運はたまる」という本を

上梓されていますが、そのなかでは、

運を貯めることの素晴らしさばかりが言及されていますが、

基本的には、貯めた運を使えば自分がハッピーになれる、ということに関しては、

あまり言及がありません。

 

まるで、貯めること=美徳、使うこと=悪徳、ででもあるかのようです。

 

 

 

戦後の日本の高度成長をささえた一つの要因にも、

日本人の、貯蓄を好む国民性があったともいわれています。

 

日本人の貯めたお金が、銀行を通じて企業に貸し出され、

それが設備投資などの費用に回った、というわけですね。

 

 

 

でも、このことにも注意が必要です。

 

 

 

たとえば、日本はアメリカの国債を非常に多く購入しています。

日本は債権を持ち、アメリカは負債を負っているわけです。

 

しかし、日本が購入している米国債は、

償還期限がきても毎回更新されるばかりで、

いっこうに償還される気配はありません。

 

 

 

日本はたしかにアメリカに対して債権を持っているのですが、

その米国債は、日本は、事実上、売却することができなくなっているのです。

 

ということは、どういうことかというと、

日本は米国にお金を貸し付けているのですが、

そのお金は、アメリカに取り上げられたようなもので、

自分の自由にはできない、ということなのです。

 

 

 

広域的宇宙銀行システムについても、

このような観点からの注意と警戒が必要です。

 

 

 

勤倹貯蓄は素晴らしいことだ、苦労することはいいことだ、

という価値観に支配されていると、

宇宙銀行や宇宙預金についても、

いま苦労しているんだから、宇宙預金が貯まって、

将来、きっといいことがあるんだ、と思いがちです。

 

 

 

でも、それはちがうと思います。

 

自分が貯めた宇宙預金は、だれか他の人間の幸福として、

貸し出されてしまっている可能性があるのです。

 

そのことが、世の中においてどういう現象になってあらわれるかというと、

苦労ばっかりしていて全然報われない人がいる一方で、

やたら幸福に恵まれてハッピーな人がいる、

という現象になってあらわれることになるのです。

 

 

 

世の中の、幸福に恵まれたひとをみると、ふつうは、

あのひとは努力したから、とか、あのひとは人のためになることをしたから、

とかいった感想をもつことがあると思います。

 

逆に、不運に見舞われているひとをみると、

それはやっぱり本人に原因があるんじゃないか、とか、

ひとを傷つけるようなことをしたからだ、とかいった感想をもつことも

あると思うんです。

 

 

 

でも、もしかしたら、そういった評価は、

現実を正しくとらえては、いないのかもしれない。

 

あるひとが幸福に恵まれているのは、

ほかのひとが貯めた運の貸し出しを受けているからかもしれず、

また、あるひとが不運に見舞われているのは、

自分が貯めた運を、自分で使えずに、

ほかのひとに貸し出されてしまっているからかもしれない。

 

天機は、そう思うのです。

 

 

 

だからこそ大切になってくるのは、

この広域的宇宙銀行システムにおいて、

宇宙預金をすること、預け入れをすることだけが素晴らしいのだ、

と盲目的に信じ込むこと、ではなくて、

自分がためた運が、ほかのひとに意図せずに貸し出されそうになっている場合には、

それをきっぱりと拒絶し、

預け入れをする側から、貸し付けや払い戻しを受ける側へと、

自分の立ち位置を変更することだろうと、思うのです。

 

ソファーで、はかどる。

こんにちわ。天機です。

(約1100字)

 

 

 

最近、ニトリでソファーを買いました。

買ったのは、フィルン2とかいうやつだったと思います。

3万円ほどでした。

 

 

 

これまで自分は、

ソファーというのは、気持ちよさそうだけれど場所をとるなあ、

とか、

お値段も高いよなあ、

とか考えて、買うのに二の足を踏んでいました。

 

自分がふだん、机に向かう時は、学習椅子にすわっています。

が、それはすこしかたいので、

しかたがない、お安い座椅子でも買おうか、なんて、

いつもは思っていました。

 

 

 

ところが最近、なんの気の迷いか、

ソファーを買ってみよう、と思い立ったのです。

 

ひとつには、

ふだん購読しているはてなブログに、ねこのおしごと、

というブログがあるのですが、

そこの猫月さんというかたが、ソファーを買われた、

という記事を書かれたことがあって、

それに触発されました。

 

もうひとつは、

実際にニトリの店舗に行って、座ってみて、

とても気持ちがよかったのと、

お値段もそれほどには高くないな、

と思ったからでした。

 

 

 

実際に家にソファーがとどいて、もう1週間ほど腰かけているのですが、

素晴らしく快適です。

 

ニトリの宣伝になるとあれなので、ニトリのソファーだから素晴らしい、

とは言いませんが、

たぶん、ソファーというものが、一般的に、多かれ少なかれ持っている

快適さなのだろうと思います。

 

 

 

このソファーに座っていると、読書がはかどります。

 

大学受験のときなんかは、浪人したりすると、ふつうは、

予備校にお金を払って通うと思います。

浪人生のコースだと、年間70万円くらいはするでしょうか。

 

 

 

でも、このソファーが届いて思います。

 

自分がもし、浪人時代に戻れるなら、

予備校や通信添削にお金を払うのではなくて、

このソファーを買うのにお金を払って、

このソファーに座って、自分で参考書を読んで勉強したことでしょう。

 

そうすれば、きっと、勉強がすごくはかどったと思います。

それくらい、このソファーは快適です。

 

 

 

ニトリは、とても人気のあるブランドです。

安いものが多いので、品質に疑問をもたれる向きもありますが、

これまで30年間ほど、増収増益をつづけています。

 

もっとも、ソファーに関しても、

ニトリのソファーは腰痛になるとか、中からキクイムシがでてくるとか、

ネットでは、そういった評価を目にします。

 

そういった評価を目にすると、たしかに、多少は心配になります。

もしそうなったら、5年保証で言ってみるか、

おとなしく捨てることになるでしょう。

 

いつまで快適に座れるかはわかりませんが、

いまのところは、快適です。

 

 

 

たまたまニトリのソファーを自分が買ったというだけであって、

メーカーは、別にどこでもいいと思います。

 

ソファーというのは、読書がはかどる可能性をもっています。

3万円出してよかったと思いました。