みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و
というテーマで書いてみたいと思います
(この記事の字数 約3300字)
人間の心というのは、つまるところ、
善が基本になっているのだろうか。
それとも、悪が基本になっているのだろうか。
そんな哲学的なことを考えたひとが、
古代中国にはいたのですね(´∀`*)
人間の心の基本は善にある、という考え方を
性善説(せいぜんせつ)、と呼ぶことがあります。
いっぽうで、
人間の心の基本は悪なのだ、という考え方のほうは
性悪説(せいあくせつ)、と呼ばれることがあるんですね。
まずは、古代中国において展開された
あらましを、
GoogleのAIであるGeminiに
以下で説明してもらうことにしましょう。
人間の本性(生まれつきの性質)に関する主張です。
性善説:
人間の本性は生まれつき善であるという考え方です。
悪は、後天的な環境や教育の欠如によって生じると考えます。
性悪説:
人間の本性は生まれつき悪(利己的)であるという考え方です。
善は、後天的な努力や教育、礼儀規範によって習得されるとします。
孟子(もうし)は、
人間の本性には生まれつき「善なる心(四端の心)」が
備わっていると主張しました。
この「四端の心」とは、以下の4つの感情を指します。
惻隠の心(そくいんのこころ): 他者の不幸を見過ごせない憐れみの心。
羞悪の心(しゅうおのこころ): 自分の不善を恥じ、他者の不善を憎む心。
辞譲の心(じじょうのこころ): 謙遜し、他者に譲る心。
是非の心(ぜひのこころ): 物事の善悪を判断する心。
これらの心が養われ、広げられることで、
人は仁・義・礼・智といった道徳を確立できると考えました。
**「井戸に落ちそうな幼児」**の例です。
たとえ話:
「人がいきなり井戸に落ちようとしている幼児を見れば、
誰でもとっさに助けようとするだろう。
それは、その幼児の親に恩を売ろうとするからでも、
村人からの評判を気にするからでもなく、
ただ純粋に、幼児が危険な目に遭うのを見過ごせない
『惻隠の情』が働くからである。」
主張:
このように、人間には生まれつき他者を思いやる善の心が
備わっており、それが道徳の源であると孟子は説きました。
また、「牛山(ぎゅうざん)」のたとえ話も挙げられます。
たとえ話:
「都の近くにある牛山は、伐採され、
牛羊が放牧されたために木々が失われてハゲ山のようになっている。
しかし、静かな夜にはそこに芽が息吹いている。
これは、たとえ人為的に破壊されても、
山の本質的な生命力は失われていないことを示す。
人間の善なる本性も同様で、悪に染まっているように見えても、
本来の善性が失われたわけではない。
ただ覆い隠されているだけなのだ。」
主張:
人間の善なる本性は、後天的な要因によって一時的に
見えなくなったり、歪められたりするものの、
決して失われることはなく、努力によって回復できると訴えました。
荀子(じゅんし)は、
人間の本性は生まれつき「利己的」であり、
欲望のままに振る舞えば争いが生じると主張しました。
そのため、善い行いをするためには、
外部からの教え(礼義)や規範、教育が不可欠であると考えました。
直接的な具体的な物語というよりは、
人間の利己的な本性から生じる社会の混乱を説明するものです。
たとえ話:
「人の性は悪である。生まれつき利益を好み、
欲望に従えば争いと奪い合いが生じ、譲り合う心は失われる。
生まれつき妬み憎む心があり、これに従えば傷つけ合い、
真心がなくなる。
生まれつき目や耳の欲望があり、
これに従えば道に外れた行いが起こり、礼儀や秩序がなくなる。
もし人が本性と感情のままに振る舞えば、
必ず争いと奪い合いが生じ、秩序は乱れ、混乱に陥るだろう。」
主張:
このように、人間の生まれつきの性質は放置すれば悪に傾くため、
社会の秩序を保ち、善を実現するためには、
聖人の教えや礼儀規範といった「人為(教育や修養)」が
必要不可欠であると説きました。
例えば、兄弟が財産を分ける際に、
もし生まれつきの利己的な本性に従うならば、
互いに奪い合い、争いが生じるだろう。
しかし、礼義の教えに従えば、
その財産を他人に譲ることすらできる、と説明しています。
まとめると、孟子は内なる善性を、
荀子は外からの規範と教育の重要性を強調した点で対照的です。
しかし、両者ともに、
人間がより良い存在になるための「教育」の重要性を
説いた点は共通しています。
以上のように、
Geminiは説明してくれました。
ここから、この説明をもとにして、
自分なりに考えてみたいと思います。
この2つの考え方というのは
それなりに影響力を獲得したようなのですが、
性善説のほうは
やや理想論に傾くきらいがあって
時の政権にはあまり採用されず、
人間の本質というのは悪であって
礼教によってしつける必要があるのだ、
と説いた性悪説のほうは
その後、法家思想ともむすびついて
時の政権に採用されるようになっていった、と
そのように自分は記憶しているんですね。
刑法などの法律をさだめて
罪となることがらと
それに対応した刑罰をしめし、
国民を威嚇しながら社会の秩序維持をはかる
という方針は、
21世紀の現代になっても
世界の多くの国で採用されている
やり方になっています。
なので、
どちらが現実的な力を持っていたかというと
自分は、性悪説のほうだったんではないか
というようにも思うんですよ。
でも、よくよく考えてみると。。。
人間の本質は善なのだ、いや、悪なのだ、と
二元論でどちらかだけに決定してしまうというのが、
そもそも
あまり正確ではないんじゃなかろうか?
そんな気もしてくるんですよね(;´∀`)
天機は、人間の心の中には
善にかたむく部分と、悪にかたむく部分、
その両方がもともと
並立して存在しているんじゃないか、
つまり、
善とか、悪とかだけの
「1つだけ」があるんじゃなくて、
善と悪の両方、つまり「2つ」があるのが
人間の心なんじゃないかって、
そんなふうに思うんですよ。
そして、具体的に人間の心の中の動きと
人間の行動がどのようになっているかと言いますと。。。
まず、感情の部分では、
誰かを助けてあげたい、とか、親切にしてあげたい、とかいった
善の感情が生まれることも、
反対に、
誰かをやっつけたい、とか、思い通りに欲を満たしたい、とかいった
悪の感情が生まれることも、
どちらもありうると思うんですね。
そして、その心の根っこのところで生まれた感情は、
そのまま外界に行動としてあらわれるんじゃなくて、
自分の行動をどうするか
ということを判断する、
理のふるいにかけられます。
善意が生まれて、それを実際に実行しようという
判断がなされると、
善行となって外界にあらわれます。
善意が生まれても、
べつに今実行しなくてもいいか。。。なんていう
判断がなされると、
善行となって実現することはない、
ということになりますね。
反対に、
悪意が生まれたとしても、
やっぱり法律に反したり、人を傷つけたりすることは
よくないことだよ、という判断がなされると、
悪意は現実の加害行動となっては
現実化しないことになります。
いっぽうで、
心の深い感情の部分で悪意が生まれ、
理のふるいによってもそれが阻止されないとなると、
実際に他者を傷つける加害行動となって
外界に現実化するということになりますね。
人間の心の中の深い部分でぽつんと生まれる感情、
そして、その感情を外界に表出するかどうかを
判断する理、
それらがあいまって、外界にあらわれる人間の行動。
そういった一連の流れには
以上のような背景が存在しているんじゃないかと
自分は思うんですね。
なので、人間の本質というのは
善でも悪でもなく、
善と悪の両方の性質がともに
人間の心の中には併存していると、
自分はそのように考えています。
今回は、そんな感じのお話でした。
以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ