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男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

女に容赦のない太公望③-妲己を、一刀両断。

封神演義という物語では、悪辣な殷と、それを倒す周、

という2大陣営を軸に、話がすすんでいく。

殷の事実上の総大将は、妲己(だっき)である。

周の事実上の総大将は、太公望こと、姜子牙である。

この2名は、とても対照的だ。

 

妲己は、女である。太公望は、男である。

妲己は、若い。太公望は、老人だ。

妲己は、妖怪である。太公望は、仙界で修業をつんだ人間だ。

妲己も、太公望も、尋常ではない知恵をもっている。

しかし、その知恵の種類がことなる。

 

妲己は、紂王をそそのかして、さまざまな悪事をはたらく。

たとえば、殷の都で、ある老人が川をわたろうとしていた。

見ていると、若者は躊躇なく川をわたっていくようにみえるのに、

老人は、川をわたるのに逡巡しているようにみえる。

妲己が紂王にささやく。

老人が冷たい川をわたるのに逡巡しているのは、

若者にくらべて、脛にある骨髄の量がすくないからで、

それで冷たさをより感じるからなんですよ、

老人の足を切断して観察してみればわかります、と。

紂王は、そのようにしてしまう。

また、殷の都を、妊婦が歩いていくのがみえた。

妲己が紂王にささやく。

あの妊婦のおなかにある胎児のあたまの向きは、

どちらを向いているか、わかりますか。

きっと、〇〇の方向です。

妊婦のおなかを割いて確認すれば、きっとわたしの言っていることが

正しいと、おわかりになるでしょう、と。

紂王は、そのようにしてしまう。

 

この話をきいて、どう思うだろうか。

妲己というやつは、なんて残酷で悪辣なことを思いつくやつなんだ、

というような感想を、ふつうは抱くだろうと思う。

しかし、この話をよくよく注意してみれば、

妲己のもっている知恵というのが、ある種の系統に属した知恵である

ことがわかる。

 

妲己が、ある種の知恵をもっていることは、たしかだ。

考えたこと、実行したことは残酷で悪辣なことだが、

老人の骨髄がすくないということと、胎児のあたまの向きに関しては、

真実をとらえているのである。

妲己の知恵の特徴は、人間の体という、物質にかかわる知恵だ、

ということだ。

この世界にある、存在、物質、現象、そういったものを支配している

法則にかかわる知恵が、妲己の持つ知恵なのである。

そして、妲己は、みずからの正しさを証明するために、

老人の足を切断し、妊婦の腹を割いて、実際にたしかめよ、という。

つまり、その知恵というのは、「証明」と親和的であって、

その証明のために、「観察や実験」を用いるものなのだ。

 

これに似た知恵を、わたしたちは、よく知っているのではないだろうか。

 

自然科学である。

自然科学というのは、この世界に実際に存在する物質にかかわる

知恵を追求する学問だ。

物理では、質量をもつ物体が登場する。

化学では、質量保存の法則や、物質が化学変化によってどのように

変化していくのかをあつかう。

生物では、この世界に存在する生物のしくみをしらべる。

地学では、天体という存在について考える。

 

物質。存在。

そういったものをはなれては、自然科学は存在しえない。

そして、その法則をあきらかにするために、

実験や観察をおこなう。

そうして明らかにされた法則は、証明されなければいけない。

それは、万人が納得できるようにするためだ。

 

しかし、この自然科学には、残忍な一面がある。

人間の病気の治療に役立つ新薬を開発するために、

どれだけの動物が残酷な方法で取り扱われているだろうか。

原子爆弾を広島、長崎に投下したその目的の中に、

データを得たかったという目的がなかったと、いいきれるだろうか。

 

紂王が妲己のそそのかしに屈してしまったのは、

老人の骨髄の量を、胎児のあたまの向きを、

実際にこの目でみてみたい、という欲求に勝てなかったからである。

自然科学は、その真実の追求のために、

実験や観察を必要とする。

実験や観察というのは、ようするに、目で見る、ということだ。

そこには、真実であれば、それは目に見えるはずだ、

目に見えるものがすなわち真実なんだ、という信仰がある。

 

この世界に存在する、知恵の系統の1つが、ここであきらかになる。

その知恵とは、

目を中心とした感覚器官による観察によって把握される知恵。

その背後にあるのは、真実というのは感覚器官によって把握する

ことができるのだ、という確信。

それは、今日でいえば、自然科学の根本をなす知恵。

そして、妲己がもっていた知恵でもある。

 

これに対して、太公望がもっていた知恵とは、いったい、

どのようなものなのだろうか。

 

殷の都である朝歌が、周の軍勢によってついに陥落し、

殷の事実上の総大将である妲己が、周軍のまえに引き出されてきた。

が、しかし、周の将兵たちはみな、

妲己のあまりの妖艶さに、妲己を刀にかけることができない。

 

そこへあらわれたのが、周の事実上の総大将、太公望だった。

妲己は、妖艶さをふりまきながら、ひたすら弁明をする。

しかし、それは太公望には通用しなかった。

太公望は、妲己に不思議なことばをかける。

「人間は動物を食べてよいが、動物は人間を食べてはいけない

 ということを、知らなかったわけではあるまい」と。

それを聞いて妲己ははっとするのだが、太公望は容赦なく、

妲己を一刀のもとに斬りさげる。

 

太公望は、知恵をもっている。

しかし、その知恵は、妲己のもっている知恵とは、

種類がことなるようだ。

「人間は動物を食べてもいいが、動物は人間を食べてはいけない」

といったような法則は、

実験や観察でみちびけるような知恵では、とうていない。

 

太公望には、なにが見えていたのだろう。

そして、この2種類の知恵のうち、太公望の持つ知恵が勝つのだ、

としたのが、娯楽小説である封神演義であり、

その封神演義を支持してきたのが、中国民衆であり、

その中国民衆が生きてきたのが、ここ、東洋である。

その東洋にある中国を、自然科学の力でもって19世紀以降、徹底的に

痛めつけたのが、西洋だった。

 

自分はもういちど、東洋の知恵に復活してほしいな。

そして、東洋の知恵をもとにした東洋の真の力を、

あきらかにしてほしいと願う。

西洋は、自らの傲慢さに対して、報いを受ける必要がある。

【乃木坂46】橋本奈々未さんが村松氏との関係を否定。

週刊文春が、乃木坂46の元メンバーの橋本奈々未さんと、

ソニーミュージックの村松氏のあいだに、ただならぬ関係があると報じた。

それに対して橋本さんは、乃木坂46の公式ブログで、

そのような関係はない、と否定した。

 

ちまたでは、これをめぐって、さまざまな憶測がながれているようだ。

芸能界ではしばしば、枕疑惑というのが取りざたされることがある。

ことの真偽はわからなくても、面白半分にとりあげることもあるのだろう。

AKBグループや坂道グループについても、以前からその疑念はくすぶっていた。

アイドルには節操というものがないのか、などとして、

秋元氏を批判するような報道もあった。

 

こういった事件が発生するときに、いちばん問題になるのは、

どういったことだろう。

アイドルには節操がない、という、その芸能界のありかたなのだろうか。

 

自分は、ファンに対する裏切り、という面は、無視できないものだと思う。

今回の件に関しても、週刊文春は、村松氏による橋本奈々未

私物化

である、と報じているが、その言葉がまさに、問題の本質を描き出している

とおもわれる。

ファンであればだれもが、乃木坂メンバーとできることならやりたい、

と考えているだろう。

脳内では度重なる行為におよんでいるものも多いかもしれない。

にもかかわらず、一般のファンに対しては、握手会などという

おためごかしでごまかし、そのじつ、いちばん美味しいところは

業界関係者がかっさらっていたとなると、

その私的独占に対する一般のファンの怒りは、推して知るべしである。

いうなれば、

すき焼きを提供する飲食店が、お客にすき焼きを提供するまえに、

店長が肉の部分だけ全部食べてしまっているようなものだからだ。

 

今回の件に関して、言われているような関係があるのかどうか、

真偽はわからない。

だが、一般的に、アイドルが不倫をおこなった場合、あるいは、

業界関係者と関係をもったばあいに、そのアイドルは、

はたして幸せになれるのだろうか。

 

答えはあきらかだ。

決して、幸せになることはないのである。

アイドルと関係を持とうとする業界関係者のオッサンの目的はなにか。

考えるまでもなく、あきらかだろう。

そのアイドルの若くみずみずしい肉体を、心ゆくまで味わいたいのだ。

アイドルにとっては、みずからの美貌や若い肉体というのが、

唯一の武器なのである。

しかし、残念なことに、その武器はかならず劣化するのだ。

いま、アイドルたちと関係を持とうとするオッサンがいるかもしれないが、

そのアイドルたちが、今後、30代、40代になったときにも、

かわらず関係を持とうとするオッサンたちは、はたして、いるだろうか。

自分には、どうもそうは思えないのだ。

その悲哀は、ちょうど、自分のもっともおいしい季節を金のためにささげて

しまった、風俗産業従事者の悲哀と重なるものがある。

そして、この悲劇の背後にはおそらく、

裏切られた一般のファンたちの怨嗟が、見え隠れしているのだ。

 

ひとの気持ちを踏みにじると、それ相応の報いがあるものなのである。

女に容赦のない太公望②-痴漢冤罪もあっさり撃破。

太公望は、女に容赦がない。

事例を封神演義からひろってみよう。

ちなみに、封神演義とは、昔の中国でかかれた小説だ。

以前に、藤崎竜が同名のマンガをジャンプで連載していたことがある。

中国古代において、周が殷をほろぼした。

その事績に、仙人同士の戦いという架空の設定をもくわえて

娯楽小説にしたのが、封神演義だ。

そうである以上、実際の史実とは異なる点が多々あると思われる。

ただ、その小説がひろく中国で受け入れられてきたという事実から、

中国大陸においては、ひとびとがどんな考え方をするのか、

ということを理解する手掛かりにはなる。

中国大陸、東洋における考え方は、西洋におけるそれとは異なる。

ときにそれは、女を容赦なくこきおろす。

 

封神演義の話。

太公望は、その当時、殷の都である朝歌にいた。

太公望は崑崙山で修業し、仙術の心得があったので、

それをもとに占いの店でも開いてみたらどうか、と知人にすすめられて、

朝歌の街中で占いをやっていた。けっこう繁盛していた。

その占い店の人気ぶりを目にして、自分も占ってもらおうか、

と思ったのが、三妖の1人である、玉石琵琶精である王貴人だ。

三妖というのは、九天玄女によって、殷を滅亡させるべく招集された

3匹の妖怪である。

そのうちの玉石琵琶精というのは、玉石でできた琵琶が、

長い年月の間、日月の精気を浴びて、ついには人間の姿をとることが

可能となった妖怪である。

王貴人となった玉石琵琶精は、妙齢の美しい女性の姿に化けていた。

ともあれ、その玉石琵琶精は、「ちょっと私も見てくださいな」

と言って、太公望のまえにあらわれた。

太公望は一目見て、これはただの人間ではない、ということを察した。

しかし、そんなことはおくびにもださず、

「どれ、見てあげましょう」と言うと、玉石琵琶精である王貴人の

腕をとり、その脈の部分をしっかりとおさえ、逃げられないようにした。

そして、その正体を暴くべく、じりじりと術をかけはじめた。

危険を察知した玉石琵琶精である王貴人は、

とっさに叫び声をあげた。

「ちょっと、みなさん、助けてください!この、いやらしい老人が、

 私の腕をつかんで、はなそうともしないんですよ!」と。

それを見たまわりの人びとは、口々に太公望をののしりはじめた。

「なんだ、いい年をして、美人に悪さをはたらくとは、けしからん

 野郎だ」などと言いながら。

いまでいうところの、痴漢冤罪である。

しかし、ここからが、太公望の容赦ないところである。

いま、もし仮に、太公望がその女の脈の部分から手をはなしてしまうと、

玉石琵琶精が逃げ去ってしまうおそれがあった。

太公望はその旨を述べ、かかるのちは、国王である紂王のまえで、

真偽を明らかにしたい、といって、その宮殿にむかった。

紂王の前にいたった太公望は、そのような事情をのべ、

この妖怪の正体を明らかにするためには、この女を薪の上にのせ、

火をかける必要がある、といった。

実際、そのようになった。

しかし、いくら燃やしても、正体があらわれなかった。

「妖怪の正体があらわれないではないか」と紂王はなじったが、

一方で、たしかにおかしなところもあった。

ふつうの人間であれば、燃やせば、しばらくののちには灰になってしまう

ところであろうが、この女は、いつまでたっても、もとの姿のままだった。

たしかに、ただ者ではなさそうだ。

太公望は法力を行使し、三昧火という特殊な火で焼きつづけた。

ついに、玉石琵琶精である女は、

太公望よ、おまえとわたしのあいだには、何の恨みもないはず

 なのに、どうしてそんなにわたしをいたぶるのか」と叫んだ。

そして、女は、正体をあらわした。

女の姿は消え、あとには、石でできた琵琶がのこった。

 

今日、痴漢冤罪というものが発生すると、

男性が一方的に不利な立場にたたされる。

おまえが痴漢をやったんだろう、あいつは最低な野郎だな、

なんて具合に、男性をおとしめることがおこなわれる。

しかし、太公望は、痴漢冤罪をしかけた相手を、逆に撃退してしまう。

そして、このような内容をもつ作品に、

中国民衆は、喝采をおくってきた、ということだ。

 

これが、東洋の、西洋とはちがうところである。

女に容赦のない太公望①-覆水盆に返らず。

覆水盆に返らず、という故事成語がある。

一般に、一度起こってしまったことは、もはや二度ととりかえしがつかない

のだ、ということを言い表すときに使われる言葉だ。

この言葉の、もとになった故事を、ご存じだろうか。

ググれば、それなりにでてくるが、あまり詳しい内容はないかもしれない。

今回はそれを、封神演義にさかのぼって、みてみよう。

 

その昔、中国に、太公望というひとがいた。

太公望は、若いころ、うだつがあがらず、頭角をあらわしはじめたのは

80歳になってからで、その後160歳まで生きた、という伝説がある。

その太公望に、嫁を世話したひとがいた。

嫁の名を、馬千金という。

もうほとんど老女といっていい年齢の女で、容貌は醜怪、そして、

その年齢でいまだに処女だった。

太公望は、若いころ、運がすごく悪かった。

外へ塩を売りに出かければ、大雨が降って塩は流されてしまい、

小麦を売りに出かければ、大風が吹いて小麦は飛ばされてしまった。

生計をたてるためには、懸命に働かなければならなかったのだろうが、

太公望は、焦るふうでもなく、読書をして過ごしていた。

嫁である馬千金は、

こんな厄病神と暮らしていては一生悲惨だわ、とばかりに、

離縁を申し入れた。

太公望は、自分はいまはこんな状態だが、将来、きっと高位にのぼる、

いま離縁をしてしまうと、将来、後悔することになるぞ、と言って

諌めたのだが、馬千金は聞く耳をもたず、離縁を急いだ。

そののち、太公望は文王の知遇をえて、周の軍師となり、高位にのぼった。

馬千金は恥知らずにも、太公望のもとに舞い戻って、復縁を願い出た。

太公望は静かに、盆にある水を地面にこぼし、この水を盆に戻すことが

できたら、願いをかなえよう、と言った。

馬千金は、地面をすくってみた。しかし、つかめたのは泥だった。

馬千金は、必死に地面をさらった。

馬千金の爪のあいだからは、血がにじみ出た。

しかし、ついに水をもどすことは、できなかった。

絶望した馬千金は、木に縄をくくりつけ、首を吊って死んでしまった。

そののち、周の軍師として殷を倒すことに功のあった太公望は、

斉の太祖になった。

そこではじめて太公望は、若くて美人の嫁を多数はべらせ、

楽しく余生をすごした。

 

「トロッコ問題」に、あらたな仮定を付け加えてみた。

トロッコ問題、といわれる問題がある。

詳しい内容はググってもらうとして、自分は、以下のように、

あたらしい仮定を加えてみることにした。

 

ある線路で、制御不能な列車が暴走している。

その列車がすすんでいく線路の先には、100人の作業員が

保線作業をしている。

このまま暴走列車がすすんでいけば、その100人がまきこまれて、

全員が命を落としてしまうことは確実だ。

ただ、その暴走列車と、100人がいる地点のあいだには、

線路を切り替えるポイントがある。

そのポイントで線路を切り替えれば、暴走列車は、

100人のいる地点へは向かわず、べつの経路をとることになって、

100人の命は、すくわれる。

ただ、その場合、あらたに暴走列車が向かうことになる線路の先には、

1人が存在する。

線路を切り替えることにすれば、今度は、その1人のほうが、

犠牲になることになるだろう。

ただし、その1人というのは、

この国の王様

である。

 

この問題、どのように考えるだろうか。

近代市民革命が発生したあと、みんなは当然のように、

人間はみな平等で、1人1人の価値は同等だと思っている。

1人1人の価値が同等だという前提に立つからこそ、

1人1票を原則とした選挙制度による民主主義も、

多数決による決定を原則とする民主主義もなりたつ。

数、というのは、同じ、を前提にして成り立つシステムだ。

3個のリンゴと4個のリンゴをあわせれば、7個のリンゴになる

という。

それが、数の論理だ。

そのうちのいくつかのリンゴは青くて、いくつかのリンゴは赤い

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは小さくて、いくつかのリンゴは大きい

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは腐っていて、いくつかのリンゴは新鮮

かもしれない。

にもかかわらず、そういった事情にもかかわらず、

3個と4個を足せば7個になると言えるのは、

リンゴというくくりでいえば同一だろう、という、

その同一性に着目するからだ。

同一性の前提がくずれれば、数の論理は、その正当性の根拠をうしなう。

1人1人の価値が同等だとする近代民主主義の基本思想は、

この、数の論理と、分かちがたく結びついている。

 

が、その考え方は、かならずしも当然のものではない。

フランス人権宣言などが高らかにある理想をのべたからといって、

それ以前の伝統的な社会が、はたして、

間違っていたことになるんだろうか。

近代市民革命が発生するまで、人間は間違った社会で暮らしていて、

近代市民革命後は、人間は正しい社会で暮らすことになったのか。

そこに、ある種の民主主義の傲慢さを見て取るのは、

変な考え方なのだろうか。

 

本来のトロッコ問題を前にしたとき、なぜ悩むのかといえば、

100人と1人という、数の違いが存在するからだ。

100人と1人なら、当然数の多い100人のほうを助けたほうが

いいような気がする。

しかし、そこには、1人1人の価値は平等であるという、

近代市民革命後にはじめて成立した、ある特定のイデオロギー

ひそんでいる。

このトロッコ問題を考える際には、そのイデオロギーそのものの

正当性も問い直されるべきだ。

つまり、数の違いという量的な違いだけを問題にしていいのだろうか。

その人間の個性、質的な違いは、問題を検討するさいに問題とは

ならないのか。

 

だから、自分は、あらたな仮定をおいた。

もし、その1人のほうが、

この国の王様

だったらどうするのか、と。

 

壁をなくすことは、ほんとうにいいことか。

アメリカでトランプ政権が、メキシコとの国境沿いに壁を建設しようとしている。

トランプ政権に批判的なひとたちは、これを批判し、

壁ではなく橋を、などとプラカードで訴えたりしている。

 

限界を突破することは、しばしば、壁をこえる、などといわれる。

相手との間に壁をかまえるというのも、しばしば、

マイナスのイメージでとらえられがちだ。

でも、壁ってそんなに悪いものなのだろうか。

 

自分は、それは違うと思う。

もし、自分の家の周りや部屋の周りに、いっさいの壁がなかったら、

とても安心して暮らすことなどできないだろう。

人間の歴史では、しばしば戦争というものが発生したが、

城の周りや都市の周りにまったく壁がなかったら、

侵略軍に対して抵抗することも、容易ではなかったにちがいない。

津波に対して防潮堤、防波堤という名の壁がなかったり、

河川の氾濫にそなえる堤防という名の壁がなかったりしたら、

きっと、被害はもっと甚大なものになるだろう。

 

壁というのは、自分たちを守ってくれる大切なものなんだ。

 

橋があれば、違う人たちと交流することができる。

壁がなければ、違う人たちと交流することができる。

そして、交流や交易は一般的に、利益をもたらすものだ。

利益がある、というのは、プラスが手に入る、ということだ。

 

壁の役割は、それとはすこし異なる。

壁は、自分たちを攻撃する邪悪なもの、自分たちに被害をもたらすものから、

自分たちを堅固に守ってくれるものだ。

つまり、マイナスを防ぐ、というのが、壁の大切な役割なんだ。

 

人間がしあわせに暮らしていくためには、

プラスを手に入れることだけではなくて、マイナスを防ぐことも

しっかり考えておかないといけない。

壁はそのために大切な役割をはたすものだ。

 

そして、その壁は、目に見えるものばかりではない。

他人と付き合う際に、ことさらに他人との間に壁をもうけないひとは、

気の置けないひととして、人から好かれる傾向にある。

そこには、人と付き合ううえでの、楽しさがある。

でも、自分のいいたいこともはっきりと主張し、

理不尽な要求に対してはきっぱりとはねつける壁をもたなければ、

ひととの付き合いのなかで、しなくてもいいような損をしたり、

他人に利用されたり、他人のせいで迷惑をこうむったりすることがありうる。

他人との間に健全な壁を築くことができる人は、

そういった苦しみにあう可能性を減らすことができるのではないだろうか。

 

壁には壁の、たいせつな役割がある。

無条件に壁をなくして、自らを外界に対して無防備に開け放つことは、

邪悪に道をひらくことにもなると思う。

矛盾の、その前。

このブログで、自分はしばしば、

世界のはじまりには矛盾という名の女性がいた、と述べている。

はじまりに矛盾があった。

その矛盾が、理を産んだ。

矛盾と、その理が、まじわった。

2番目の子供である、生がうまれた。

こんな順番で世界は生成した、と、このブログの主は、

勝手に考えている。

本当かどうかは、わからない。

 

順序でいうと、

矛盾→理→生。

そして、このそれぞれは、人間の体の各箇所に対応している。

矛盾は髪の毛。理は頭脳(頭部)。生は生殖器(胴体)。

矛盾→理→生という世界生成の順番と同じように、

人間の体も、上から順に、髪の毛→頭→胴体の順でならんでいるよね。

下から逆に上に向かって見ていくと、胴体→頭→髪の毛。

ああ、矛盾は世界のはじまりだから、矛盾をあらわす髪の毛も、

いちばん高いところにあるんだね、と思うひとも、いるかもしれない。

 

でも、ほんとうに、いちばん高いところだろうか。

人間の体でいえば、たしかに髪の毛は、いちばん高いところだ。

が、その上がある。

頭のさらに上には、空間がひろがっている。

手を伸ばしたり、移動したりすることのできる、空間がひろがっている。

この空間は、一見したところ、なにもないように見える。

 

では、この空間は、なにもないという意味での、無、なのだろうか。

たぶん、それはちがう。

この空間は、空気でみたされている。

空気は80%が窒素、20%が酸素という組成になっているといわれていて、

窒素も酸素も、物質だ。

つまり、この頭上にひろがる空間は、

一見したところ無のようにみえるが、無とはわずかに違うもの、

ということになりそうだ。

完全な無のようにみえて、無とは異なるもの。

それを、とても小さいが、なにかが存在する、という意味をこめて、

「寸」と名付けてみよう。

人間の頭上には、寸がひろがっている。

 

では、この寸で、行き止まりであろうか。

いや、まだ上がある。

この空間をさらに上に向かってすすんでいくと、やがて、

大気圏を抜ける。

成層圏だの、熱圏だの、電離層だの、詳しくないのでよくわかんないけど、

そういったもろもろのなにかを抜けて、

ついには、宇宙空間にいたる。

この宇宙空間は、基本的には真空であるといわれている。

ここに至ってはじめて、無があらわれてくる。

なにもない、という意味での無だ。

 

つまり、人間の足元から順番に上のほうに向かって見ていくと、

胴体→頭→髪の毛→大気圏などの空間→真空を基調とする宇宙空間、

という順番でならんでいる。

抽象的な原理になおして考えると、

生→理→矛盾→寸→無、という順番になる。

これを上から逆にみていくと、

無→寸→矛盾→理→生という順番になる。

 

つまり、はじまりは矛盾だよ、って言ってきたけれど、

その矛盾よりさらに前に、無→寸っていうプロセスがあるんじゃないかな。

そして、矛盾→理→生のプロセスにおいては、

矛盾が理を産み、その理と矛盾が交合し、あらたに生がうまれる、

と考えてきた。

この、AがBを産み、そのBとAが交合し、あらたにCがうまれる、

という生成プロセスは、

矛盾以前にも、もしかしたら、適用されるんじゃないか。

つまり、

無がそもそもの根本のはじまりにあって、

その無が寸をうむ。

うまれた寸は無と交合し、あらたに矛盾がうまれる、という具合だ。

 

整理すると、以下のようになる。

そもそものはじまりに、無があった。

その無は、寸をうんだ。

うまれた寸と、寸をうんだ無がまじわった。

すると、矛盾がうまれた。

矛盾は、理をうんだ。

うまれた理と、理をうんだ矛盾がまじわった。

すると、生がうまれた。

こんな感じだ。

 

ここで、生のつぎには死がくることを考え合わせれば、

無→寸→矛盾→理→生→死、という感じになるのではないだろうか。

この流れを2系統に分割すると、

無、矛盾、生が女性原理系統、

寸、理、死が男性原理系統、

そんなふうに分かれると、個人的には考えている。

 

矛盾というのは世界のはじまりと言ってきたが、

こうしてみてみると、

無と寸がまじわった形態であることがわかった。

べつのブログ記事で、

存在の根本をなす原子というのは、陽子と中性子のまわりを

電子が周回しているが、それは、

母である矛盾のまわりを、はるかかなたから帰ってきた子供である

理が周回している姿なのではないか、ということを示唆した。

ということは、陽子と中性子からなる原子核が、矛盾ということになる。

そして、矛盾をあらわす原子核がなぜ、陽子と中性子という2つのもの

から成るのかといえば、

それは、矛盾というものがそもそも、

無と寸という2つのものから成っているからなのではないか。

こんな、とりとめもないことを考えるのが、自分は好きだ。