この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

西洋占星術で、凶星とされる星。

こんばんわ。天機です。

 

 

 

きょうは、占いと昔話のお話を書いてみようと思います。

(この記事の字数 約2600字)

 

 

 

天機がはじめて西洋占星術に出会ったのは、大学生のころでした。

 

はじめて手に取った西洋占星術の本は、

ルル・ラブアさんという女性の書いた本だったと記憶しています。

 

 

 

西洋占星術で使用する星は10個です。

 

ルル・ラブアさんの本では、その10個の星を、

ざっくりと吉星と凶星に分けていました。

 

 

 

ここで、西洋占星術で使用する星について、

吉星には〇を、凶星には✕をつけると、以下のようになります。

 

 

 

太陽 〇

月 〇

水星 〇

金星 〇

火星 ✕

木星 〇

土星 ✕

天王星 ✕

海王星 ✕

冥王星 ✕

 

 

 

どうでしょうか。

 

 

 

非常にざっくりと言って、

 

 

 

地球に近い星はだいたい吉星が多くて、

地球から遠い星はだいたい凶星が多いなあ

 

 

 

というふうに自分は思ったのですが、いかがでしょうか。

 

 

 

じつは、西洋占星術において、地球に近い星、

たとえば、太陽や月、そして、土星までの惑星というのは、

西洋占星術においては、古くから使用されていた星たちなのです。

 

つまり、早くからその存在を知られていた、ということですね。

 

 

 

それに対して、地球から遠い星、とくに、

天王星海王星冥王星の3つを、

西洋占星術では「トランスサタニアン」と呼ぶのですが、

これらの星は、近代市民革命期以降になってはじめて発見されてきた

星たちなんですね。

 

つまり、あまりまだなじみのない星たち、ということなんです。

 

 

 

では、どうして西洋占星術では、おおざっぱに言って、

 

なじみのある、よく知っている星には吉星が多くて、

なじみのない、あまりよく知らない星には凶星が多いのでしょうか。

 

 

 

天機はここで、こんなことを考えました。

 

 

 

相手を、対象を、よく知っていれば、

その対象は、自分に対して、利益をもたらしてくれる。

しかし、

相手を、対象を、よく知らなければ、

その対象は、自分に対して、害をなしてくる。

 

 

 

と。

 

 

 

ほんとにそんなことって、あるのだろうか?

 

そんなふうに思われるのは、無理のないことだろうと思います。

 

 

 

ですが、じつは、

古くからの昔話や伝説の中には、

このことに言及しているものが、いくつかあるのですね。

 

その例をみていきましょう。

 

 

 

たとえば、古今のエンターテインメント作品の中では、

ときどき、

「相手の真の名を知ることができれば、相手を支配できる。

 逆に、相手に真の名を知られると、その相手に支配されてしまう。」

というテーマがでてくることがあります。

 

 

 

よく知られている作品では、千と千尋の神隠しなんかも、

このテーマが登場しています。

 

湯婆婆に名前を取り上げられてしまったために、

ハクは支配されてしまっていましたね。

 

 

 

これなんかは、「知る」ということによって自分が利益を得ることができる、

ということの、1つの例かと思います。

 

 

 

また、古代エジプトの、伝説に出てくるスフィンクスなんかも、

そんな例かもしれません。

 

 

 

スフィンクスは、自分の近くを通りかかる旅人になぞなぞを出し、

答えることができなければ、その旅人を食い殺していた、とされています。

 

 

 

これはつまりは、

「知ることができない場合には」「自分に害が及ぶ」ということですよね。

 

 

 

日本にも、このようなテーマでの昔話があります。

 

「大工と鬼六」というのがそうです。

 

 

 

あるところに、とても流れのはやい川があって、

大雨のたびに氾濫するので、ひとびとは困っていました。

 

そこでひとびとは、その川に橋をかけてくれるよう、

名工と言われていた大工に頼みます。

 

しかし、さすがの難工事なので、大工もほとほと困り果てていました。

 

 

 

そこへ、鬼が現れます。

 

鬼は、「おまえの目玉をくれるなら、わしが鬼の橋をかけてやろう。」

と、大工に条件を出します。

 

大工は、橋はかけてほしいが、目玉をとられるのは嫌なので、悩みました。

 

 

 

ところが、次の日に大工が川の所に行ってみると、

もう鬼の橋は半分できあがっていました。

 

驚いた大工。でも、目玉はとられたくない。

 

 

 

悩んでいる大工を見て、鬼が言いました。

 

「おまえも人の子、目玉をとられるのは嫌だろう。

 よし、俺の名前を言い当てることができたら、目玉は勘弁してやろう。」と。

 

 

 

大工は困りました。

 

鬼の名前なんか、簡単にわかるわけありません。

 

 

 

家で悩んでいると、隣で奥さんが、子供をあやす子守唄を歌っていました。

 

「ねんねこや ねんねこや 鬼にも名前はある

 鬼六 目玉をもってくるかな」

 

とかなんとか。

 

 

 

次の日、大工は川の所に行きました。

 

鬼は言いました。

 

「どうだ。わしの名前はわかったか?わからないなら、おまえの目玉をもらうぞ?」

 

 

 

大工はちょっとじらすように言いました。

 

「わかった。鬼平だろう!」

 

「違う!」

 

「ふむむ。じゃあ、鬼助か?」

 

「違う違う!どうせわしの名前なんか、だれも分からないんだ…。

 おまえの目玉をもらう!!」

 

「わかった、わかった!ちょっと待て。おまえは、鬼六だ!」

 

 

 

その瞬間、鬼の姿は川の中へと消えていきました。

 

 

 

日本のこの「大工と鬼六」の話は、

知ると利益が得られるけれど、知らなければ害が及ぶ、

ということが、非常にはっきりとあらわれている例ですね。

 

 

 

と、以上見てきたように、

相手を知る、対象を知ることで利益を得ることができる反面、

相手を知らない、対象を知らないことで自分に害がおよぶ、といったことが、

この世界では、あるのかもしれません。

 

 

 

そのために、西洋占星術では、

よく知っているだろう近くの星はおおむね吉星であり、

まだあまり知らないであろう遠くの星は、おおむね凶星なのかもしれませんね。

 

 

 

そして、このことを応用すれば。

 

 

 

たとえば、わたしたちの日常生活において、家族とか、

非常に険悪な関係にある相手方がいて、

その相手方によってとても迷惑をこうむっているとします。

 

 

 

そんな場合に、そのような相手方からの害をすこしでも少なくする、

その方策は、

もしかしたら、「相手をよく知る」ことなのかもしれません。

 

 

 

その「相手をよく知る」ための方法の1つは、手前みそになりますが、

たとえば、

占星術で相手のことを分析してみるのでもいいでしょうし、

あるいは、

相手のこれまでの言動を思い出してみて、

相手はどういう人間なのか、どういう哲学を持っているのか、

体系立てて考えてみるのでもいいでしょう。

 

 

 

知れば、利益をもたらす。

 

知らなければ、害がくる。

 

 

 

今回は、そんなお話でした。

札幌に出没したクマと、対艦弾道ミサイル。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、最近あったニュースを振り返りながら、

世の中の流れ的なものについて、

自分の思ったことを書いてみようと思います。

(この記事の字数 約1900字)

 

 

 

数日前、札幌市南区で、1週間にわたってクマが徘徊し、

とうとう猟友会によって射殺されるということがありました。

 

 

 

また、これも最近みたニュースなのですが、

南シナ海の勢力図が、だんだんと変化しつつあるようです。

 

 

 

南シナ海では、これまで、アメリカの空母機動部隊などが

比較的自由に展開することができていて、

中国などの勢力は、そのぶん、抑え込まれていたわけなのです。

 

 

 

ですが、近年になって、

展開する艦船をピンポイントで狙い撃ちすることのできる

「対艦弾道ミサイル」が中国によって開発、改良されていて、

米軍などが自由に展開できるのかどうか、危ぶまれているのです。

 

 

 

この2つのニュースにふれて、自分が感じたことというのが、

 

 

 

異常がムクムクとその姿をあらわしてきたな

 

 

 

ということなのです。

 

 

 

これだけだと、非常に唐突な感想だな、と思われるでしょう。

 

 

 

なので、天機がふだん、どのような思考の背景を持っているのか、

というところから、すこしお話ししましょう。

 

 

 

天機は、この世界は、

 

 

 

通常だけで構成されているわけではなくて、

通常と異常、2つが合わさって、

はじめてこの世界は成り立っている

 

 

 

と考えています。

 

 

 

普段の私たちの日常には、

異常というものは、なかなか顔をのぞかせないのですね。

 

 

 

なので、ともすれば私たちは、

この世界というのは、慣れ親しんでいる通常だけでできているんだ、

異常なんか存在しないんだ、と思ってしまいがちであるように、

天機は思うのです。

 

 

 

ですが、この広大な世界の果てには、おそらく辺境があるように、

自分たちの慣れ親しんでいるこの日常、通常の果てにも、

異常がひかえているような気がするんですね。

 

 

 

この異常は、ふだんは顔をのぞかせないのですが、

なにかの拍子に、ふと、顔をのぞかせることがあります。

 

 

 

それがたとえば、

戦争であったり、革命であったり、犯罪であったり、事故であったりするのですね。

 

 

 

さて、先に述べた、札幌でのクマの出没と、対艦弾道ミサイルのニュースをみて、

天機は、

 

 

 

そろそろ、異常が顔をのぞかせるような、

「時代の季節」が始まってきたかな

 

 

 

と思ったのです。

 

 

 

クマの出没に関しては、最近、札幌だけではなくて、

全国各地で問題になっています。

 

おそらくはその背景の1つには、

日本における人口の減少と過疎化があると思います。

 

山林の奥地に、人間の監視がじゅうぶんに届かなくなっているわけです。

 

 

 

これまでは、クマなんかは人里に降りてくるなんてことはあまりなく、

人里の平和が保たれているのが「通常」であったわけです。

 

いま、その「通常」が、壊れつつあります。

 

 

 

対艦弾道ミサイルについていえば、

アメリカの圧倒的な軍事力でもって地域の海洋の平和が保たれている、

というのが「通常」であったわけなのですが、

ここでも、その「通常」が壊れつつあるのです。

 

 

 

そのように書くと、

たしかに通常は壊れつつあるかもしれないけれど、

札幌のクマと、対艦弾道ミサイルの、2つのお話だけだよね?

 

それで、異常が顔をのぞかせ始めた、っていうのは、

ちょっと論理の飛躍があるんじゃない?

と言われるかもしれません。

 

 

 

ところが、この、徐々に顔をのぞかせはじめている異常の兆候は、

これだけではないのです。

 

 

 

ベネズエラでは最近、アメリカが陰で糸をひいていたといわれる

クーデターが失敗に終わりました。

 

トルコでは、アメリカの警告にもかかわらず、

政権は、ロシア製の対空ミサイルS400の配備を決定しました。

 

ドイツをはじめとする欧州各国では、アメリカの警告にもかかわらず、

ロシアから天然ガスなどを移入するパイプラインを敷設しようとしています。

 

 

 

第二次大戦後から数十年にわたって、

アメリカによる平和」というものがこの地球上に現出していたのですが、

いま、

その慣れ親しんだ「通常」が変貌しようとしています。

 

 

 

日本国内においてもそうです。

 

 

 

ふつうは大人になったら結婚して家庭をもうけて、子供をつくるよね、

という「通常」が、

生涯未婚率の上昇と単身世帯の急増によって、すこし、挑戦を受けています。

 

 

 

新卒で就職したら、一生終身雇用で定年まで勤め続けるよね、

という「通常」も、最近、経団連の会長だかが、

もうそのような慣行は維持できないと述べて、否定しています。

 

 

 

このように、私たちの身の回りでは、

これまでの「通常」がつぎつぎと挑戦を受けていて、

「異常」がだんだんと立ち現れるようになってきています。

 

 

 

札幌に出現したクマも、

そんな「革命の季節の到来」を告げる号砲なのかもしれない。

 

 

 

天機は、そのようなことを思いました。

ガンジーの、非暴力不服従について考える。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、インドの独立運動を指導したガンジーによる、

非暴力不服従の運動と哲学について、天機なりに考えてみようと思います。

(約 1600字)

 

 

 

インドはかつて、大英帝国によって植民地支配され、

苛酷な統治のもとにおかれていました。

 

その状態から脱却しようと、インドの独立をめざした指導者がガンジーであり、

かれがかかげた抵抗運動の方針が、

 

非暴力不服従

 

だったのです。

 

 

 

みなさんは、この言葉を、歴史の授業かなにかで聞いたとき、

どのような印象をもったでしょうか?

 

 

 

なんとなく、

「簡単にはあきらめないで、粘り強く抵抗していく、という方針なのだな」

くらいの印象を持たれたかもしれません。

 

 

 

しかし、この非暴力不服従という運動方針は、

天機のみるところ、

非常に特異な哲学のもとに構成されたものであろう、と思うのです。

 

それは、「非暴力」に「不服従」を組み合わせた点にあります。

 

 

 

ふつうのひとは、たぶん一般に、次のように考えると思うのです。

 

 

 

相手になにかプラスになることをしてあげて、マイナスになるようなことはしない、

それがいいことなのだ、と。

 

また、

相手にマイナスになるようなことをして、プラスになることはしない、

それが悪いことなのだ、と。

 

 

 

つまり、一般人の通常の認識においては、

 

「相手にプラスになることをする」と「相手にマイナスになることをしない」

というのは、分かちがたく結びついていて、

あわせて「善」を構成しているのです。

 

 

 

他方で、

「相手にマイナスになることをする」と「相手にプラスになることをしない」

というのも、同様に分かちがたく結びついていて、

あわせて「悪」を構成しているのです。

 

 

 

そして一般人というのは、ふつうは、

このような意味での「善」か「悪」かの、どちらかがあるだけだ、と考えていて、

その

 

 

 

あいだ

 

 

 

があるのだ、などとは、まず考えないのです。

 

 

 

では、ガンジーの、非暴力不服従の哲学は、どうでしょうか。

 

 

 

まず、非暴力というのは、相手に暴力をふるわない、ということですから、

つまりは、

 

「相手にマイナスになることをしない」

 

ということです。

 

 

 

ではつぎに、不服従というのは、どうでしょうか。

 

 

 

服従する、というのは、相手の言うことを聞いて、それに従い、協力する、

ということですから、

相手にプラスになることをする、ということです。

 

 

 

ということは、不服従というのは、そのような服従の反対になりますから、

つまりは、

 

「相手にプラスになることをしない」

 

ということになります。

 

 

 

以上をまとめると、ガンジーの非暴力不服従の思想というのは、

 

非暴力=相手にマイナスになることをしない

服従=相手にプラスになることをしない

 

が結合したものであることがわかります。

 

 

 

ここで、一般人が通常考えるところの「善」と「悪」、そして、

ガンジーの非暴力不服従について、

以下に整理してみましょう。

 

 

 

一般人が考える「善」

→「相手にプラスになることをする」+「相手にマイナスになることはしない」

 

一般人が考える「悪」

→「相手にマイナスになることをする」+「相手にプラスになることはしない」

 

 

 

ガンジーの非暴力不服従

→「相手にマイナスになることはしない」+「相手にプラスになることもしない」

 

 

 

どうですかね?

 

 

 

ガンジーの非暴力不服従の思想と哲学というのは、

一般人がそれだけしかない、と思い込んでいた「善」と「悪」の、

 

そのあいだに

 

第3の領域がある、と考えて、それを追求するものだったのです。

 

ちょうど、

「天」か「地」かの、どちらかしかない、と思っていた時に、

そのあいだの「地平線」が見いだされたように。

 

 

 

大英帝国の苛酷な植民地支配というのは、言ってみれば、「悪」でしょう。

 

では、それに対して粘り強く抵抗し、勝利を勝ち取ったガンジーの思想や哲学の、

拠って立ったところは「善」だったのか、というと、

そうではないのです。

 

 

 

「善」と「悪」のあいだには、あいだが存在する。

境界線のような、あいだが存在する。

 

 

 

そのように考えて、それを見出し、それを追求して、

はじめて、勝利を勝ち取ることができたのです。

【日韓】ホワイト国除外について思うこと。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、時事ニュースについて、書いてみようと思います。

(約 1300字)

 

 

 

さて、世間では、日本と韓国の対立が険悪化しているようです。

 

8月2日には、日本がこれまで韓国に対して適用していた、

ホワイト国という扱いを、

とりやめることを閣議決定するようですね。

 

 

 

この問題に関しては、いろんな見方があるだろうと思いますが、

ここでは、

天機理論に絡める形で、シンプルにこの問題を考えてみたいと思います。

 

 

 

さて、世の中ではしばしば、物事を論じるさいに、

それは、

 

いいことなのか、それとも、悪いことなのか

 

という、二項対立で考えることがあると思うんです。

 

 

 

物事は、いいことか、悪いことか、そのどちらかでしかない、

と考える考え方ですね。

 

 

 

しかし天機は、物事というのは、

 

いいことと、普通のことと、悪いこと

 

という、3つから成り立っている、と思っているんです。

 

 

 

つまり、いいことと、悪いことのあいだには、

 

普通のこと

 

という

 

あいだ

 

が存在しているんじゃないかな?

 

と思っているんです。

 

 

 

では、このことをもとにして、今回の、

日本政府による、ホワイト国除外の措置について考えてみましょう。

 

 

 

もし、この世の中に、いいことと、悪いことの、

2つしか存在しないのなら、

ホワイト国に指定することが「いいこと」ならば、

その反対の、ホワイト国に指定しないことは、すなわち、

「悪いこと」になってしまいます。

 

だって、世界には、

いいことか、悪いことかの、どちらかしかないのですから。

 

 

 

でも、もしこの世の中には、

いいことと、悪いことと、そのあいだの普通のことがあったとしたら、

どうでしょうか?

 

 

 

この場合には、日本がホワイト国指定をやめたとしても、

それがただちに「悪いこと」には、ならないと思うんです。

 

というのも、この世界には、

いいことと、悪いことの間に、「普通のこと」があるのですから。

 

 

 

そして、今回の問題を現実的に考えてみたら、実際問題としても、

ホワイト国指定の解除は、悪いことにはならないと思います。

 

 

 

というのも、

日本によってホワイト国には指定されてはいない国は数多くあって、

ホワイト国に指定されない、というのは、

「普通のこと」に属すると考えられるからです。

 

 

 

つまり、

 

①ホワイト国に指定すること=相手にプラスを与える「いいこと」

 

②ホワイト国には特に指定しないこと=相手にプラスもマイナスも与えない「普通のこと」

 

③なんらかの経済制裁をくわえること=相手にマイナスを与える「悪いこと」

 

という分け方が、現実に即したものだろうと思うのです。

 

 

 

ところが韓国は、

「普通のこと」に属する「ホワイト国指定の解除」は、

韓国にダメージを与える「悪いこと」だ、と主張するのです。

 

 

 

でも、なぜそれが韓国にダメージを与えるのか、といえば、

それは、

輸出に大きく依存した、韓国の産業構造に問題があるわけであって、

そのような産業構造を選択した責任は韓国にあり、日本にはありません。

 

 

 

だから、たとえ仮に、

今回のホワイト国指定の解除が、韓国に「事実上の」ダメージを与えるもの

になったにせよ、

ホワイト国指定の解除という通商政策が、

一般に、他国を害するような意図ないし性質を持つものだということはできず、

その意味で、ホワイト国指定の解除そのものは、やはり、

「普通のこと」に属するものだと、天機は思います。

現代社会の問題と、必要性と公平性。

みなさんこんにちわ。天機です。

(約 2400字)

 

 

 

きょうは、現代社会の問題と、必要性と公平性、

という点について、すこし考えてみたいと思います。

 

 

 

現代社会においては、日々、マスコミなどでも報道されているように、

さまざまな問題があります。

 

 

 

なかには、問題が深刻化したり、

当事者の対立が泥沼におちいったりして、

解決が容易ではないようなものも、あるわけですね。

 

 

 

天機が、そういったニュースに接していて、

そういった問題がなかなかに深刻化、複雑化するのはなぜか?

と考えてみたのですが、

もしかしたら、それは、

 

 

 

必要性の問題ばかりを声高に主張するのに、

公平性の観点が欠けているからではないか?

 

 

 

と思ったのですね。

 

 

 

たとえば、最近のニュースから拾ってみましょうか。

 

 

 

スーパーの食品売り場とかでは、牛乳とかが売られている

わけなんですが、

お客さんが、新しい消費期限のものから商品を手に取る傾向がある

ために、

消費期限の迫った商品が売れ残ることになって、

それが結果として、食品ロスの問題につながっている、

と、こういうわけです。

 

なるほど、もっともなことだなあ、と思うかもしれませんね。

 

 

 

また、あるいはこうです。

 

 

 

自然災害とかが起こった時に、

(去年も西日本の豪雨災害とか、ありましたよね)

家屋の復旧作業とかにボランティアが必要だ、

でも、そのボランティアが不足していて、我々は困っている、

と、こういうふうに言うわけです。

 

これもまた、なるほど、もっともなことだなあ、と思うかもしれません。

 

 

 

さらにあるいはこうです。

 

 

 

相続における遺産分割に関して、

たとえば、旦那さんが亡くなった時に、

奥さんが、それまでの住宅を出て行かなければならないような

ことになったら、奥さんが困るから、

「配偶者居住権」という制度を特別に設けて、

奥さんを保護しよう、

とまあ、こういうふうに言うわけです。

 

これもまた、なるほど、もっともなことだなあ、

と思うかもしれませんね。

 

 

 

でも、ちょっと待ってください。

 

 

 

これら3つの事例では、いずれも、

利害関係のある

 

 

 

相手方

 

 

 

がいますよね?

 

 

 

たとえば、スーパーの食品ロスの問題であれば、

できるだけ新鮮な食品を購入したい、

とくに値引きされているわけでもなければ、

「古い」商品を買うことを強要されたくはない、

消費者という「相手方」がいます。

 

 

 

ボランティア不足の問題であれば、

自分で交通費や宿泊費の負担までして、

けっこうな重労働に従事することになる、

ボランティアさんという「相手方」がいます。

 

 

 

さらには、遺産分割の問題であれば、

亡くなった旦那さんの奥さんに、

特別に「配偶者居住権」という権利を認めることによって、

民法で2分の1と定められているはずの、

遺産分割における取り分が、

事実上目減りしてしまうことになる、

他の相続人という「相手方」がいるわけです。

 

 

 

ところが、最近のニュースの報道の仕方とかをみていると、

「食品ロスの問題がある、これは問題だ、解決の必要がある」

「ボランティアが不足している、これは問題だ、解決の必要がある」

「亡くなった旦那さんの奥さんが困っている、これは問題だ、

 解決の必要がある」

というふうに、全部、そこで思考が止まっちゃってるんですよね。

 

 

 

現実には、

食品ロスの問題で事実上、商売をしていくうえで困っているのは、

食品スーパーの側なのですが、

そこには、できるだけ新鮮なほうの食品を手に入れたい消費者、

という、「利害の相反する相手方」がいるわけです。

 

 

 

ボランティア不足の問題で困っているのは、

被災地の自治体や被災地住民なのですが、そこには、

交通費や宿泊費を負担し、さらには重労働まで負担する

ことになるのなら、なかなかやる気が起きないなあ、

という、これまたやはり、

「利害の相反する相手方」がいるわけです。

 

 

 

遺産分割の問題であれば、

それまでの住宅に住めなくなって困るのは、

旦那さんをなくした奥さんなのですが、そこにもやはり、

自分の側の遺産の取り分が実質的に目減りしてしまうことになる

他の相続人という、

「利害の相反する相手方」がいるわけです。

 

 

 

であるならば、問題をきちんと解決するにあたっては、

「自分はこんな問題で困っている、この問題を解決する必要がある」

と主張する一方当事者の意見だけを聴くのではなくて、

その人とは利害が相反する関係にある、

他方当事者のことも考慮にいれたうえで、

その両当事者の利害や主張の、

「あいだをとるような」、そんな公平な解決策が求められている

のではないでしょうか。

 

 

 

天機が思うに、最近は、世の中のあちらでもこちらでも、

「こんな問題があって困っている、これを解決してほしい!」

と、

 

一方当事者が「必要性」を主張しただけで

 

はいはいそうですか、と、

あたかもその当事者の利益や主張を実現することだけが

当然の正義ででもあるかのように、

一種の「思考停止」をしてしまっているような例が、

数多くあるように思うのですね。

 

 

 

天機は、この世の中には、

自分の利益を主張する一方当事者がいるのなら、

たぶん、そこにはかならず、

その当事者とは利害を異にする他方当事者が存在するような

気がするのです。

 

 

 

そして、問題をきちんと解決し、

泥沼化させたり深刻化させたりしないためには、

一方当事者の意見だけを一方的にとりあげて、

そのひとの利益や主張を実現しようとするのではなくて、

互いに対立関係にある両当事者の存在をみとめたうえで、

その「中間」にあるような、

そんな解決策を模索すること、

すごく単純に言ってしまえば、この世界は、

一方当事者だけが場に存在するような、そんな

 

 

 

 

 

 

ではなくて、

対立する両当事者が、ともに折り合い、すごすことを目指すような

 

 

 

 

 

 

こそが、その基調となるキーナンバーになっているのだ、ということ、

そういうふうなことを認めて問題の解決をはかっていくこと、

それこそが、たいせつなことなのだろうと思います。

不快なニュースは、見る必要はないのでは。

こんにちわ。天機です。

(約 2400字)

 

 

 

きょうは、世の中にあふれる、ニュースについて

書いてみたいと思います。

 

 

 

天機は最近、パソコンのブックマークから、

ヤフーニュースをはずしました。

 

 

 

これまでは、ブックマークにヤフーニュースがあって、

日々のニュースといえば、

ヤフーニュースのヘッドラインをチェックするのが、

いわば習慣になっていたのです。

 

 

 

でも、最近思ったんですよね。

 

 

 

なんか、ヤフーニュースの記事の掲載基準というか、

扱う内容というか、

特集記事とかが、

自分の考え方や価値観とは合わず、

不快な気持ちになることが多いな、って。

 

 

 

これは、人それぞれなんだろうと思います。

 

 

 

あるひとは、

ヤフーニュースの記事にとても共感するかもしれませんし、

またあるひとは、

べつのニュースサイトとか、べつの新聞とかを読んだときに、

不快な気持ちになるかもしれません。

 

 

 

たまたま自分の場合は、

ずーーっとヤフーニュースに親しんできたなかで、

なんか不快な思いをすることが多いな、

ということに気づいただけなのです。

 

 

 

日々生活していると、いろんなニュースにふれます。

 

楽しい、明るいニュースもあれば、

暗く、いやなニュースもあるでしょう。

 

 

 

また、一般人基準ではなくて、

自分個人にとって、個人的に、

楽しい気持ちになるようなニュースもあれば、

いやな気持ちになるようなニュースもあるでしょう。

 

 

 

そんななかで、天機は最近、思ったのです。

 

 

 

人生、生きていく中で、

不快なニュースを見て、

わざわざ不快な気持ちになるって、

それって、意味あるのかな?

 

 

 

って。

 

 

 

たとえば、日々のニュースには、

どこどこの政治家が不正に利益を受け取っていた、とか、

政府が国民の反対にもかかわらず〇〇を強行した、とか、

どこどこの家では親が子供を虐待した、とか、

どこどこの学校ではひどいいじめがあった、とか、

まあ、いろいろあるわけですよ。

 

 

 

でも、考えてもみてください。

 

 

 

そのニュースを僕らが見たからっていって、

不正な利益を受け取った政治家にお仕置きできますか?

 

国民の意見を無視して〇〇を強行するのを、政府にやめさせることができますか?

 

子供を虐待した親を、ボコボコにできますか?

 

いじめをおこなったやつらに報復できますか?

 

 

 

自分はたぶん、できない、と思うんですよね。

 

 

 

そして、それができないということは、つまるところ、

どういうことかというと、

 

 

 

不快な気持ちは味わわされるのに、

なにもできないという無力感だけが増幅される

 

 

 

ことになるだろうと、天機は思うのです。

 

 

 

そして、この近代民主主義社会においては、

気をつけていないと、この、

 

 

 

無力感増幅装置

 

 

 

みたいなものは、あらゆるところに仕掛けられているんです。

 

 

 

たとえば、選挙なんかもそうでしょう。

 

国民の権利を行使しよう、1票を投じよう、

なんて言うかもしれませんが、

所詮は、1票は1票に過ぎないわけですよ。

 

 

 

そりゃ、候補者の当落が、すごい接戦にでもなっていれば、

自分の1票の価値も、だんだん大きくなってくるかもしれません。

 

 

 

でも、

当選した候補が100万票、

次点の候補が40万票、とかいった選挙だと、

はっきりいって、

自分の1票なんて、

あろうがなかろうが、大勢には関係ないわけですよね。

 

 

 

世界の富豪ランキングなんかも、そう。

 

何兆円という金額を持っている富豪に、

一瞬は心が騒ぐかもしれませんが、

その反面でたぶん、心は、

自分が無力であること、そんな富豪に比べたら、

取るに足らない存在であることを、都度、認識してるような気がするんですよね。

 

 

 

ヤフーニュースにはコメント機能もついていますが、

そのコメントに、そう思う、そう思わない、

っていうボタンをクリックしても、

何千クリック、何万クリックのうちの、1つにすぎない。

 

 

 

YouTubeの動画に、

いいね、というボタンを押しても、やっぱり、

何百万、何千万のクリックの1つにすぎないわけです。

 

 

 

この広い広い宇宙には、

それこそ、無数の星があるわけです。

 

そんな、数えきれない星のことを前提として考えるなら、

太陽も、

ただのそんな星の1つにすぎないわけです。

 

 

 

太陽は、あきらかにこの宇宙に存在する無数の星とはちがって、

この地球に暮らすものにとっては、

なくてはならない、唯一の存在です。

 

 

 

でも、数、ということに立脚して考えるならば、

「1」というのは、とたんに、

もっとも無力な存在になってしまうのです。

 

 

 

話がそれてきたので、すこし整理します。

 

 

 

世の中には、不快なニュースがあるけれど、

それら不快なニュースというのは、

不快であるだけで、

そこで起こっていることについて、

僕らは、基本的には、なにもできない。

 

そこに僕らは、自分たちの影響力を行使できない。

 

そのために、無力感を感じる。

 

つまり、不快さの背景には、無力感というものがひそんでいる。

 

そして、近代民主主義社会には、

この「無力感」を増幅させる「装置」がいくつもあって、

新聞やテレビなどといった、

ニュースを配信してくるメディアもまた、

そんな「無力感増幅装置」の1つである。

 

そして、その無力感は、いったいどこからやってくるのだろう?

といえば、それは根源的には、

 

 

 

数の論理、数の体系を重視する価値観においては、

多いほど素晴らしく、

「1」などは、

もっとも無力で弱い存在になりさがってしまう

 

 

 

ということから来るものなんだろうと思います。

 

 

 

だからこそ、

ただ惰性のように、

流れてくる圧倒的な量の不快なニュースにこの身が曝露されることを拒否して、

つまり、

不快だなあ、と思ったら、

そのニュースをはなから見ない、ということも選択肢の1つにおいて、

自分でじっくり考えることのできるニュースをえらび、

たとえば、

特定のニュースのテーマについては、

自分の考えをブログやその他のSNSで表明、共有することで深めるなど、

 

 

 

自己の影響力を保持、回復するような

 

 

 

そんなスタンスも大切なんじゃないかな、と、

そんなふうに思いました。

この世界は、「勝手口」が開いている。

こんにちわ。天機です。

(約 1400字)

 

 

 

きょうは、天機の人生を振り返って、

感じたことを書いてみたい、と思います。

 

 

 

世の中で生きていくと、

いろんな壁にぶつかることがあるかと思います。

 

 

 

そんなとき、

「正面玄関」から突破しようと奮闘することもいいですが、

どこかに「勝手口」のようなものが開いていないかなあ?

と思って、

「とんち」を働かせるのも、いいと思うんですね。

 

 

 

たとえば。

 

 

 

天機は小さいころから、顔に1つのほくろがあり、

長いことそれが気になっていました。

 

 

 

大学入学後のある時、天機は、

そうだ、大学に併設されている病院でとってもらおう、

と思いつき、

大学の、そういう医療関係の受付へ行きました。

 

 

 

ところが受付の人は、

大学病院というのは、

そういった、いわゆる美容外科のようなことはやっていないので、

民間のクリニックにでも行ってみたら?

と言うのです。

 

 

 

天機は、なるほど、それもそうだな、

と、いったんは思いました。

 

 

 

でも、自分は大学生で、

その大学病院の形成外科でほくろをとると、

安く上がりそうでした。

 

 

 

そこで天機は、もう1度その受付へ行き、

自分は顔にほくろがあるのだけれど、

これはもしかしたら、悪性腫瘍である可能性もある。

ついては、摘出手術をしたうえで、

この腫瘍が良性なのか、悪性なのかの、

病理検査もあわせておこなってほしい、と申し出たのです。

 

 

 

天機はただ、顔のほくろが、見栄えが悪くて嫌なだけでした。

ほくろが悪性腫瘍かどうかとかは、とくに心配していなかったのです。

 

 

 

ところが、このように申し出の方法を変更してみると、

今度はすんなりと通り、

大学病院の形成外科で、保険適用で数千円で

ほくろをとることに成功しました。

 

 

 

また、たとえば。

 

 

 

天機は大学卒業後も、しばらく東京にいたのですが、

あるとき、

国立国会図書館に行ってみようと思い、出かけました。

 

 

 

国会図書館には、当時、いろんなコーナーがあって興味深かったのですが、

そのなかに、

「視聴覚ルーム」のようなところがあり、

どうやらそこでは、

いろんなアニメ作品も含めた映像作品が視聴できるようでした。

 

 

 

そこで、その視聴覚ルームの受付へ行き、

アニメ作品を視聴したいのだ、と申し込むと、

どういった研究目的ですか?

ここは、研究者が研究目的で映像を視聴することができるところで、

視聴にあたっては、

研究目的等を記載した申請用紙を提出していただく必要があります、

とかなんとかいうのです。

 

 

 

天機は、なるほど、そうなんだ、

と、一瞬はがっかりして引き下がろうと思いました。

 

 

 

が、しばらく図書館内をぶらぶらしているうちに、

そうだ、適当なことを申請用紙に書いて提出したら、

どうなるんだろう?

と思い返し、

「日本独自のジャパニメーションが有する特質と、その国際的展開における

今後の課題について」

とかなんとかかんとか、

文章をこしらえて申請用紙に書いてみたところ、

なんと、視聴が許可されることになったのです。

(そういう「研究」目的がまったくの「ゼロ」だったわけではないので、

うそを書いたわけではない)

 

 

 

天機はそれで、夏の間国会図書館に通いつめ、

アニメ作品を何本か、全話視聴しました。

 

 

 

この世の中というのは、

得てして、「正面玄関」から突破しようとすると、

にべもなく跳ね返されるときがあります。

 

 

 

でも、そこであきらめないで、

とはいっても、やたらに努力奮闘するのではなく、

ちょっと「とんち」を使うと、

「勝手口」がすーーっと開くときがあるのです。

 

 

 

世の中なんて、だいたいそういうものかもしれません。

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。