この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

潜在意識が行動の邪魔をする?

潜在意識について考えることがあります。

 

 

といっても、潜在意識について書かれた

ちまたのいろんな本を読んだりするわけでもないんですが。

 

 

関連するものとしては、

人間の意識の下には、無意識という領域が広がっているんだよ、

ということを説明した

深層心理学者のユングさんの本を読んだくらいですね。

 

 

あとは、自分でときどき考えたりするくらいです。

 

 

潜在意識というのは、潜在、というくらいだから、

自分では明瞭に意識できていない

自分の意識なんだろうと思うんですね。

 

 

意識が陸地だとすると、

広大に広がる海洋のようなもの、

それが潜在意識だと思うんです。

 

 

それで自分は思うのですが、

この、自分では明瞭に意識できていないということ、

つまり、自分の意識によって拘束できていない

ということのために、

自分では気づいていないその潜在意識が

自分の行動に大きな影響を与えているような

気がするんですよね。

 

 

昔、おばあちゃんに

「火っていうのは、人のいないところでは大きくなるものだから、

 火から離れるときは、気を付けるんだよ」

というようなことを言われた記憶があります。

 

 

それが本当かどうかはわかりませんが(;´∀`)

人間の無意識というのも、

人の意識による監督が十分はたらいていないために、

けっこう大きな影響をもつような気もするんですね。

 

 

それが、いい方向への影響ならいいのですが、

なかには、

自分の行動を邪魔するような、

そんな潜在意識もあるように思うんです。

 

 

たとえば。

 

 

ふつうはみんな、お金持ちになりたい、

って言いますよね。

 

 

お金持ちになりたいと思っている、

お金持ちになりたくないなんて、思うわけがない。

 

 

そう、当然のこととして

思っているように思うんですよ。

 

 

でも、もし潜在意識の中で

「もし、何億円とかいう大金持ちになってしまったら、

 家に強盗とか入って殺されてしまうんじゃないか」

という気持ちを持っていたら、どうでしょうか。

 

 

 

 

そのひとは、

自分はお金持ちになりたいと思っている、と

当然のように顕在意識では思っているのですが、

じつは潜在意識ではお金を恐怖、拒否しているので、

お金持ちになるような行動をとるのを

みずから避けてしまっているかもしれません。

 

 

彼女が欲しいなあ、と思っている男性も、

潜在意識で

「もし本当に彼女ができて、デートしている最中に、

 不良にからまれて厄介なことになったらどうしよう」

とか思っていると、

彼女ができるような行動を避けてしまうかもしれませんし、

結婚したいなあ、と思っているひとも、

潜在意識で

「もし結婚が決まって、結婚式をしている最中に

 うんこ行きたくなったらどうしよう」

とか思っていると、

結婚を遠ざけるような行動を

無意識にとってしまうかもしれないですよね。

 

 

つまり、どういうことかというと、

自分は当然それを願っているはずなのに、

なぜだかそれがなかなか実現しないなあ、

というような状況にあるときは、じつは、

潜在意識が、なんらかの「いやな事態」を想定していて、

それに対する恐怖感とか、拒否感から、

それが実現するのを先延ばしにしている可能性がある、

というふうに自分は思ったんですね。

 

 

これは、

お金持ちになるとか、彼女ができるとか、結婚するとか

いった遠い未来に関係することだけじゃなくて、

たとえば、

役所に提出する書類をそろえる、

なんてときにも生じてくる現象だと思うんです。

 

 

しなければならないタスクになかなか取り掛かれないのを

「先延ばし癖」と呼んで、

いまそれが問題視されています。

 

 

が、もしかしたら役所に提出する書類の事例でも、

潜在意識が、

その書類を作成するためにデータを集めることとか、

コンビニまでそれをコピーしに行く労力とかを想定して、

それを「いやなこと、しんどいこと」と

認識しているために、

自分がそのための行動に移るのを

潜在意識が妨害してきているかもしれないんですね((((;゚Д゚))))

 

 

じゃあ、どうすればいいのか、というと、

潜在意識は「潜在」だから大きな力を

持つことになっているので、

それを「潜在」ではなく「顕在意識」のもとに

置いてしまえばいい、ということになります٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

つまり、

自分がなかなか一歩を踏み出せないとか、

取り掛かれないことがあったときには、

潜在意識が妨害している可能性を考えて、

自分はそれが実現することで、

いったいどんな嫌なことがある、と恐れているのか、

と自問してみるんです。

 

 

そして、自分はこんなことを恐れている、嫌がっている

可能性があるなあ、と、

それを日の光の意識のもとに置いてみるんですね。

 

 

なにも、その嫌なこと、恐れていることが

完全に解決してしまう必要なんかはなくて、

自分が恐れている内容を意識下に置いてみるだけでも

意味があると思うんですよ。

 

 

あと、ほかには、

それが実現することで自分は嫌なことがあると考えているけど、

それが実現することでこんないいこともあるんじゃないか、

ということを想像して、

そのいいことを心の中で味わってみることですね。

 

 

そんなふうにすると、

潜在意識が行動の邪魔をしてくるのを

すこし改善できるんじゃないか、

なんてことを思いました。

2024年。新しい時代へ向けて。。。

あけましておめでとうございます。

 

本年もよろしくお願いします٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

 

2024年がスタートしましたね。

 

 

今年は、新しい時代への幕開けとなるようなイベントが

いくつかあります。

 

 

ことしの2月4日、立春をむかえますが

じつはそこから、

「第九運」という時代に突入するんですね。

 

 

風水では、三元九運という180年間で

時代を考えます。

 

 

20年間の1つの時代のかたまりが9つあって、

それで180年間ということなんですね。

 

 

2004年から2024年までの20年間は、

第八運、という時代だったんです。

 

 

それが今年切り替わり、

2024年から2044年までつづく

第九運という新しい時代になるんですね。

 

 

期せずして、

日本の紙幣のデザインというのも、

この三元九運の移り変わりと

歩調をそろえているようなところがあるんですよ٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

2004年に紙幣のデザインが一新され、

2004年から2024年までの20年間は、

野口英世さん、樋口一葉さん、福沢諭吉さん、

だったでしょう?

 

 

その時期は、ちょうど

第八運の20年間にもあたっているんですね。

 

 

それが今年、2024年にまた

紙幣のデザインは一新され、こんどは

北里柴三郎さん、津田梅子さん、渋沢栄一さん、

になります。

 

 

ちょうど、第九運がスタートする年に

紙幣のデザインがまた一新されるわけですね。

 

 

このなかでも、福沢諭吉さんは

1984年から2024年まで

じつに40年間も1万円札の肖像画として

君臨してきましたので、

これが変わるのは大きな変化になりそうです。

 

 

これまで、福沢諭吉さんには縁のなかった人も、

こんどの渋沢栄一さんには縁がでてくる、

なんてことも

もしかしたら、あるかもしれませんね( ´艸`)

 

 

以上は、東洋占術での

三元九運というお話でした。

 

 

それ以外にも、西洋占星術では

今年2024年からいよいよ本格的に

冥王星みずがめ座に移動する、

というイベントが起こります。

 

 

冥王星もほかの惑星とおなじように

西洋占星術では

各星座を移動していくと考えるんですね。

 

 

冥王星はこれまで15年近くにわたって

やぎ座に存在していました。

 

 

それが、去年2023年あたりから

行ったり来たりしながら

だんだんとみずがめ座に入りかけようと

していたんですよ。

 

 

やぎ座の次の星座が、水瓶座なんですね。

 

 

この冥王星が、

今年2024年の1月22日頃に

ふたたびみずがめ座へと突入します。

 

 

その後、

今年の9月頃にまたやぎ座へ戻ったりするのですが、

今年の11月20日にみずがめ座へ進入したあとは、

僕たちが生きているうちは

もう二度と、やぎ座へ戻ることはなくなるんですね。

 

 

つまり、今年2024年という年は、

冥王星が完全に水瓶座へと移動してしまうという、

そんな年なんです。

 

 

この冥王星は、

みずがめ座に2024年から2044年までの

おおよそ20年間にわたって滞在します。

 

 

ちょうど、東洋占術での

第九運の20年間とぴったり同じ時期ですね。

 

 

まとめると、

2024年から2044年までの20年間というのは、

東洋占術では第九運と呼ばれる期間にあたっていて、

西洋占星術では冥王星みずがめ座に滞在する

期間にあたっていて、

今年2024年は、その新しい20年間が始まる

ちょうど入口にあたる年だ、ということなんですね。

 

 

世界情勢を見てみても、今年は

欧州では欧州議会議員選挙がおこなわれ、

アメリカでは大統領選挙がおこなわれます。

 

 

世界にいままでとは違った

新しい風が吹くようになるかもしれません。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

 

 

 

中心が存在する、ということ。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、中心が存在する、ということ、

というテーマで書いてみたいと思います。

 

 

ところでみなさんは、中学の理科の時間に

電流と磁石、電磁石とかの授業を受けた

ことはないでしょうか。

 

 

自分もあまり記憶がさだかではないのですが(;´∀`)、

そのときに、

その電磁石とか、コイルとかの

電流や磁石を強くする方法が

いくつかあったんですね。

 

 

その1つめは、流す電流を強くすること。

 

 

2つめは、コイルの巻き数を増やすこと。

 

 

そして3つめが、そのコイルのなかに

鉄芯を入れることだったんです。

 

 

コイルの中になにも通していないときよりも、

コイルの中に1本、

鉄の芯棒を通したときのほうが、

より強い電磁石になってくれるんですね。

 

 

つまり、中心になにかが存在することによって

全体が強化される、

というわけなんです٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

で、ここからが今回の記事、

中心が存在する、ということ

に関わってくるお話なのですが。

 

 

世の中に存在するいろんな組織、企業、団体、国家

といったものでも、

その中心に1人の非常に力のある人間、

たとえば創業者、創立者なんかが存在すると、

その組織とか団体のパワーも大きくなり、

逆に、そういった人間がいなくなってしまうと

組織とか団体のパワーが急速におとろえてしまうことが

あるんじゃないかなあ、なんて

思うんですよ。

 

 

 

 

そのような具体例をいくつかあげてみますと。

 

 

たとえば、イギリスには最近まで

エリザベス女王という

とても力のある君主がいました。

 

 

でも、この女王もすごく高齢になって

だんだんとその健康状態とかも悪くなってくると、

イギリスがEUから離脱するなど

おかしな動きを見せるようになり、

そして、エリザベス女王が亡くなって

チャールズ新国王へと変わるころから

イギリス国内の政治が混乱したり、

イギリス連邦に属しているいろんな国の国民が

だんだんとイギリス王室に対して

尊敬の念を抱かないようになってきたり、

といったことがあるわけなんですね。

 

 

日本国内ではどうでしょうか?

 

 

たとえば、つい最近まで日本には

ジャニーズという芸能事務所がありました。

 

 

ジャニーズは、平成時代にすごく大発展して

いくつもの有名なグループがそこから誕生したんですね。

 

 

でも、その創立者ジャニー喜多川さんも

だんだん高齢になってきて、

体力的に弱まってきたのかはわかりませんが

2016年頃にSMAPの解散騒動というのが起こります。

 

 

そこからだんだんとジャニーズから離脱する

アーティストが相次ぐようになって、

ついにジャニー喜多川さんが亡くなってしまうと、

性加害問題が激しい糾弾を受けるようになって

とうとうジャニーズ事務所は存続できなくなって

しまいました( ノД`)

 

 

また、同じ日本でいうと、

歴代最長の首相在任期間をほこる安倍晋三さんという

政治家がいたんですが、

彼は自民党内最大派閥の安倍派というのを

率いていたんですね。

 

 

まだまだ60代で、

ときどき胃腸の調子を崩したりはしていましたが

高齢で衰えるという感じには

まだなっていませんでした。

 

 

でも、2022年の夏に選挙の遊説中、

だれも予想だにできなかったことですが

狙撃されて亡くなってしまったのです((((;゚Д゚))))

 

 

すると、

それからしばらくは目立った動きもなかったのですが、

最近になって

安倍派の裏金問題がやり玉にあげられるようになり、

ついに今日、

安倍派の政治事務所に東京地検特捜部が

強制捜査に入るまでになってしまいました。

 

 

と、このように見てきましたように

いくつかの例を出してみましたが、

企業とか団体、組織とか国家のなかで

すごく力を持っていた有力者がいた場合に、

その人が亡くなってしまったりすると、

まるで空中分解でもするかのように

組織そのものが力を失ってしまう例が

ちらほらあるように思ったんですよ。

 

 

自分は思うのですが、それはたぶん、

その中心にいた有力な人物の

統制力がなくなってしまう、ということだけではなくて、

その人物がその組織を支える運のようなものを

持っていて、

その人物が亡くなることによって

その組織を支える運のようなものもなくなってしまい、

それで組織全体が弱体化したり

瓦解したりすることになってしまうんじゃないか、って

そんなふうに思うんですよね。

 

 

ところで、ことし、2023年という年は

じつは日本において

有力な巨大宗教団体の総帥が相次いで逝去するという

珍しい年でもあったんですね。

 

 

幸福の科学大川隆法さん、

顕正会のトップのかた、

そして、創価学会池田大作さん、

という御三方が亡くなられています。

 

 

もちろん、後継者を育てたり

組織づくりはしっかりとされていたとは思うのですが、

中心人物が持っていた運のようなものがなくなる

ことからすると、

少なからずその死去は組織に影響をもたらすのではないか

とも思うんですね。

 

 

これは宗教団体ですが、

もう1つ注目しているのは、読売新聞です。

 

 

読売新聞には長らく「ドン」「ナベツネ」の異名で知られる

渡辺恒雄さんという

非常に有力な社主がおられます。

 

 

また、読売新聞といえば

読売ジャイアンツが有名ですが

その読売ジャイアンツに栄光をもたらした

終身名誉監督長嶋茂雄さんがおられますね。

 

 

この、読売新聞の栄光を体現するかのようなお二方が、

現在、非常な高齢になられています。

 

 

もちろん、お二方はいまなお

かくしゃくとしておられて元気ですが、

人間ですから、誰もがいつかは

寿命を迎えることになります。

 

 

そうなったときに、

読売新聞の影響力がどうなるのか、

昨今の新聞離れのなかで発行部数が減少傾向にある

ことも合わせて、

今後がすこし気になるところではありますね。

 

 

今回はそんなお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

 

脂ののった部分。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、脂(あぶら)ののった部分、というテーマで

書いてみたいと思います。

 

 

物事にはなんでもそうですが、

脂ののった、いちばん美味しい部分というのが

あると思うんですね。

 

 

肉とか魚とかが典型ですが、

それ以外にもいろいろあります。

 

 

 

 

たとえば、なにかを学習するときにも、

脂ののった部分、というのがあるように思うんですよね。

 

 

高校数学なんかでいうと、

最初の式の計算あたりは、

やっててもあんまり楽しくない。

 

 

それからだいぶたって、

漸化式とか数学的帰納法微積とかが登場するようになって

はじめて、

高校数学の醍醐味みたいなものが味わえるんですね。

 

 

高校世界史とかもそうなんです。

 

 

最初の、人類の誕生とか古代オリエント、ローマ史の

あたりとかは、

あんまり面白くなくて退屈。

 

 

世界史が本当に面白くなってくるのは、

19世紀ぐらいになって、

世界をまたにかけてイギリスとロシアが対立していくころ。

 

 

近現代の激動の時代になってはじめて、

世界史は面白くなってくるんですね。

 

 

民法の勉強とかも、そんなところがあります。

 

 

民法では、まずはじめに「民法総則」というところを

学ぶことになるのですが、

これがあんまり面白くない(;´∀`)

 

 

なので、その無味乾燥さから

民法総則は躓き(つまずき)の石」

なんて言い方がされたりもするんですね。

 

 

でも、そこを通過して

債権各論、債権総論とかになってくると

ようやく面白さもでてくるのかなあ、なんて

思ったりもします。

 

 

つまり、なんでもそうなんですが、

最初のほうにはあんまり面白くない分野が

配置されているので、

そこであきらめて引き返してしまったりすると

面白さのある分野には

なかなかたどり着けないんですよね( ノД`)

 

 

そして、これはもしかしたら

人生そのものについても

言えることなんじゃないかな、って

そんなふうに思ったんです。

 

 

人生が始まってまだ間もないころ、

そんな若い頃というのは、

人生の前半に幸運が用意されている人であれば

楽しいことが多い時期でしょうし、

人生の前半には幸運が用意されていない人であれば

けっこう辛いことの多い時期かもしれませんが、

そのいずれの人であっても、

人生の本当の醍醐味を味わえるようになるのは

30代後半から40代前半ごろからなのかもしれないなあ、

なんて、

そんなふうにも思ったりするんですね。

 

 

自己啓発分野で有名な本に、

ナポレオン・ヒルという人の書いた

「思考は現実化する」という本がありますが、

この本の中では、

多数の成功者について調べた結果、

その成功のほとんどは

その人が40歳を過ぎてからはじめて達成されたものだ、

ということが明らかになっているらしいです。

 

 

また、運命学の分野でも

まだ若い頃の人間の運命というのは

両親の影響とか家系の影響とかがあるらしく、

その人自身の運命(自分自身の本当の実力)が

明らかになってくるのは

後半生になってからのことだ、

とする見解もあるようです٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

なので、

まだ若い時分のときに

自分の人生はつまらないなあ、とか、平凡だなあ、とか、

あるいは、

辛いことばっかりで嫌な人生だ!

とかいうふうに思っていたとしても、

もう少し生きてみると

人生の本当に脂ののった部分を味わえる

ときがやってくるかもしれない。

 

 

そんなふうにも思うのです。

 

 

今回は、こんな感じのお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

目に映る範囲のもの。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、目に映る範囲のもの、というテーマで

記事を書いてみようと思います。

 

 

僕たちは日常で、いろんなものを見ています。

 

 

目を通して外界のいろんな情報を受け取って、

それで判断したり、考えたりしているんですね。

 

 

そういう意味で、

目はとても大切な器官です。

 

 

でも、目はたまに、僕たちに

嘘を見せてくる

ことがあるようにも思うんですよね(;´∀`)

 

 

たとえば、

21世紀に生きている僕たちのほとんどは、

地球は自転していることを知識として知っています。

 

 

なので、太陽と地球についていえば

動いているのがじつは地球のほうで

止まっているのが太陽なんだ、

ということも知っているわけなんですね。

 

 

でも、人類はけっこう長い期間、

それとは逆のことを思っていました。

 

 

つまり、

太陽のほうが動いていて地球のほうが止まっている、

と考えていたんですね。

 

 

人間がそう考えてしまうのも無理はないことで、

目で見ていると、

太陽はいかにも動いているように見えてしまうし、

大地は全然動いてなんかいないように

見えてしまうんですよね。

 

 

そういう意味では、

目は僕たちに「嘘」を見せてくることがあるように

思うんです。

 

 

動いているのがじつは地球のほうで、

止まっているのがじつは太陽のほうなんだ、ということを

理解するためには、

目ではなくて、心とか頭で考えていく

必要があるということなんですね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

こんなふうに、

目で見えている範囲のことだけで判断すると

じつは誤った結論にたどりついてしまうことがある、

というのは、

日常にもちょくちょくあるんですよね。

 

 

たとえば、

うちの家族は、うちの住宅の同じ階の玄関ドアにある

郵便受けをいつも通るときに目にしていて、

「新聞をとってはる家は多いわあ~」って

言うんですよ。

 

 

たしかに、うちの住宅の同じ階のひとの玄関ポストには

新聞が刺さっていることが多いので、

それだけを見ると、

まだまだ新聞をとっている家は多いんだなあ、

という印象を持つと思います。

 

 

これが、自分の目に映る範囲、なんですね。

 

 

でも、新聞各紙の発行部数については

日本ABC協会とかいうところが調査しているらしくて、

それによると、

新聞各紙とも1年間に数十万部のペースで

発行部数が減少し続けていることが明らかになっています。

 

 

 

 

自分の住んでいる住宅の玄関ポストに

どれくらい新聞が刺さっているか、というのは

自分の目に映る範囲のものです。

 

 

いっぽうで、

全国で毎年どれくらい新聞の発行部数が減っているか

というのは、

ふつうは一覧して実際に自分の目で確認することは難しい

現象で、

統計をとってはじめて明らかになるものなんですね。

 

 

で、おそらくなんですが、

日本の新聞が置かれている状況を確認したいときとか

これからどうなっていくかという予測をしたいときに、

真実に近い情報を教えてくれるのは、

目に見える住宅の玄関ポストの状況のほうではなく

統計データのほうだと思うんですよ。

 

 

同じようなことは、

結婚についてもありますよね。

 

 

がるちゃん、という

女性向けの掲示板みたいなサイトがあります。

 

 

そこで、結婚に関するスレッドの中とかで、

会社員の女性とかが、

最近自分のまわりで結婚ラッシュが続いてる、

とか言うわけなんですね。

 

 

これが、

自分のまわり、という目に見える範囲のことなんです。

 

 

そうすると、その女性のコメントに対して、

なんだかんだでみんな結婚するんだよね~、

とか、べつのコメントがつくんですね(;´∀`)

 

 

でも、日本における結婚の状況については、

国立社会保障人口問題研究所というところが調査していて、

それによると、直近においては

男性の生涯未婚率は28.3%にもなっているんです。

 

 

なので、近い将来には

男性の3人に1人は結婚しなくなる可能性が

現実のものとしてあるんですよね。

 

 

もちろん、そうはいっても

男性の3人に2人は結婚するわけですから、

結婚する人間のほうが多数派であるというのは

たしかに事実です。

 

 

でも、この男性の生涯未婚率は

30年ほど前にはほんの5%くらいしかなくて、

その後30年間ほどかけて一貫して上昇を続け、

現在3割近くにまでなってきた、

という事情があるんですね。

 

 

結婚しない人間が5%くらいなら

圧倒的多数の人間は結婚するのだ、ということも

言えたのかもしれませんが、

結婚しない人間が3割近くにもなってくると、

多数の人間は結婚するとは言えても、

圧倒的多数の人間は結婚するのだ、とは

もはや言えないような気もします。

 

 

このように、結婚にかんする事情についても、

自分の身の回りだけ見ていたのでは

見えてこない事情が

統計データにあたることで見えてきたりすることが

あるわけなんですね。

 

 

新聞の購読状況とか、日本における結婚状況とかを

例に出しましたが、

自分の目に映る範囲、身の回りの出来事というのは

どうしても誤差とか、偏りとかが

生じてしまうことがあると思うんです。

 

 

なので、全体の正確な状況を知りたいと思ったら、

やっぱり統計データにあたったり、

頭で考えたりする必要がありそうだ、という

お話なのでした。。。

 

 

今回は、こんな感じのお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

図書館と、損切り。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、図書館と、損切り、というテーマで

お話ししようかと思います。

 

 

損切り、というのは

株式投資とかでよくでてくる言葉で、

自分の買った株が下がってしまったりしたときに

そのまま持ち続けていてはどんどんと下がって

損失が拡大してしまう可能性があるため、

早めに売却して損失を限定してしまう、

という作戦のことを指します。

 

 

この損切りというのは、

株式投資とかにかぎったことではなく

人生全般で大切な戦略になると思うのですね。

 

 

自分がなにかに取り組んでいて

どうもなかなか成果があがらないなあ、と思ったときは、

もう少し頑張ってみる

というのも1つの作戦になりますが、

そこから早めに撤退して

別の活路をさがしてみるというのも

大切な戦略になりそうな気がします。

 

 

さて、

自分は以前にも

図書館にかんするブログ記事を書いたことがあるのですが、

いまでもよく図書館を利用しています。

 

 

 

 

そんななかで、

図書館の1つの利点として

損切り」ができることが大きいなあ、

と、ときどき思うんですね。

 

 

本というのは、

手にとって読んでみるまでは

その本がどんな本なのか、

どんなことが書いてあるのかは

なかなかわかりませんよね(;´∀`)

 

 

なので、

実際に読んでみたら、たまに

ものすごく難解な本だった!とか、

日本語の文章として接続詞の使い方とかおかしくて

頭に入ってこない。。。とか、

どうも主人公に共感できなくて

読んでてイライラしてくる、とかいったことが

あるわけなんです。

 

 

そんなとき、

もしその本が

自分でお金を出して書店で手に入れた本だったとしたら、

なんとかして出したお金の元を取ろうとして

多少不快でも我慢して読み続けてしまうかも

しれませんよね。

 

 

でも、それが図書館で借りた本だったら

自分はお金を出していないので、

不快な本だなあ、と思ったら

途中で読むのをやめて

そのまま返してしまうことができるんですね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

その意味で、

不快な本を読み続けるという「損失」を

限定できるという意味で、

図書館で本を借りた場合には「損切り」ができるのです。

 

 

自分も、

図書館で本を借りるようになって

もう1年くらいになりますが、

読むのを途中でやめて返却した本が

何冊かあります。

 

 

ある1つのテーマについて

勉強しようと思ったときに、

難解で不親切な1つの本を我慢して読み続けるよりも、

同じテーマについての

べつの本を探して読んでいったほうが

効率がいいこともあるんですよね。

 

 

そういうことができるのが

図書館の1つのいいところだと思います。

 

 

今回は、そんなお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

死について、ふと思ったこと。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、死について、ふと思ったこと、

というテーマで記事を書いてみたいと思います。

 

 

人間は生きていますが、

寿命が来れば、いつかは死んでしまいます。

 

 

それは、みんな同じですね。

 

 

自分は40代になりますが、これくらい生きていると、

近親者を看取ったり、葬式に参列したりする機会が訪れます。

 

 

葬式があると、葬儀業者は、

葬式のときに飾る遺影が必要なので

親族に故人の写真の提供を求めることがあると思います。

 

 

そんなとき、通常は

故人のどんな写真が遺影として飾られますか?

 

 

 

 

通常は、故人の子供時代の写真なんて飾られないし、

あんまり若すぎるときの写真も選択されません。

 

 

だいたいは、50代を過ぎて

60代、70代の落ち着いた風貌の写真が

選ばれることが多いと思うんですよね。

 

 

ところで。

 

 

人生のゴールっていうのは、

いったい、いつのことだと思いますか?

 

 

一代で事業を築き上げて、富も名声も得た人が

亡くなるとします。

 

 

葬式のとき、その人の遺影が飾られると思うのですが、

その遺影は先に述べたとおり、

60代、70代くらいの写真だと思うんですよね。

 

 

たとえば、松下幸之助さん、と聞いて、

私達は黒縁の眼鏡をかけた温厚そうな彼の顔を

思い浮かべるわけですが、

あの写真はおそらく、

60代か70代くらいに撮影されたものでしょう。

 

 

つまり、成功者としての人生が確定した、

ちょうどそのくらいの時期の写真、ということになります。

 

 

私達が葬儀とかで目にすることの多い故人の写真は、

ちょうどそのくらいの年齢のときの写真なんですね。

 

 

その60代、70代というのは、

人生で築き上げてきたものが確定するような、

そんな時期です。

 

 

あるひとは、

事業で成功するなどして、富も名声も獲得し、

多くのひとに囲まれているかもしれません。

 

 

またべつのあるひとは、

人生があまりうまくいかず、

失意の老年を迎えているかもしれません。

 

 

極端な言い方をすれば、

そういう人生の「成功者」とか、「敗残者」とかいったことが

はっきりしてくるのが

60代、70代くらいの年齢で、

その年齢の写真が葬儀の遺影として飾られるわけです。

 

 

そうすると、です。

 

 

その年齢の写真が葬儀で飾られているのを目撃するという

象徴的な体験もあいまって、私達は、

ちょうどその、60代、70代くらいの

人生がおおむね「確定」したときが

人生のゴールだと、

 

 

誤解

 

 

してしまうことが、あると思うんですよ。

 

 

葬儀のときに、故人の遺影を目にするでしょう。

 

 

その60代、70代くらいの故人の姿を目にして

私達は、

故人はこんなひとだった、

故人の最期はこんな感じだった、

故人の人生は~

なんてことを思うわけなんですね。

 

 

でも、ちょっと待ってほしいのです。

 

 

それは、故人の最期では、ありません。

 

 

人間の、人生のゴールは、

人生がおおむね確定した60代、70代にあるのではなく、

「その先」があります。

 

 

60代、70代を過ぎると、

80代、90代に向かっていきます。

 

 

健康だったひとも、だんだんと病気がちになり、

杖とか車椅子を必要とするようになったり、

介護を要するようになったりします。

 

 

そして、ついに亡くなるというその瞬間は、

おそらく多くの人の場合は病院のベッドの上でしょうが、

たいてい、寿命で亡くなる死に際の人間は、

口元は干からびた梅干しのようになっていて、

身体は元気なときとは比べ物にならないくらい

小さく、骨ばった枯れ木のようになっていて、

身体を丸めて死んでいきます。

 

 

それが、死ぬということであり、

人生の本当のゴールなのです。

 

 

ところが、

この本当に人間が死ぬ瞬間の姿は

葬儀で飾られる写真にはなりません。

 

 

葬儀で飾られる故人の写真は、

先ほどから何度も述べているように、

60代、70代の人生が「確定」したかのように見える時期、

つまり、

本当の死、本当の人生のゴールの

「少し前」の姿なんですね。

 

 

自分は思うのですが、

ひとは、

人間が本当に死ぬ瞬間、人生の本当の意味でのゴール、

というものを直視したくなくて、

あえてピントをずらして

60代、70代の人生が「確定」したかのように見える時期を

人生のゴールだと思い込むことで、

本当の死の現実に蓋をしているのではないでしょうか。

 

 

60代、70代の人生が確定したかのように見える時期には、

あるひとは成功者としての人生が「確定」し、

またべつのあるひとは失意の人生だったということが「確定」し、

言わば、

「勝ち組」と「負け組」に分かれるわけです。

 

 

そうして、少なくないひとは、

その「勝ち組」と「負け組」に分かれた時点が

人生の終局だと、そう思っているのですが、

じつは死、人生の本当のゴールというのは

そこよりもほんの少し「先」に存在していて、

そこではどんなに「勝ち組」だったひとも、

どんなに「負け組」だったひとも、

みんな等しく枯れ木のような肉体ただ1つに

変えられてしまうんですよね。

 

 

簡単に言うと、

勝ち組だったひとも、負け組だったひとも、

死の瞬間、人生の本当のゴールのときには

「同じ」になってしまう、ということです。

 

 

たとえて言うなら、

勝ち組のひとが60代、70代くらいで

地上30階くらいの位置にあり、

負け組のひとが60代、70代くらいで

地下30階くらいの位置にあったとしても、

死の瞬間、枯れ木のような肉体になってしまうその瞬間には、

両者ともおなじ地上1階にいる、ということです。

 

 

それを都合が悪い、と考える人間がいるのか、

それとも、

そんなことは見たくないんだ、と考える人間がいるのかは

わかりませんが、

この世の中では、なんとかしてその事実を見えなくするように

工夫がなされることがあります。

 

 

たとえば、

先ほどから述べているように、

葬式における故人の遺影として、

死の瞬間の写真は使用しないで、あえて60代とか70代とかの

死の瞬間の少し前の時期の写真を用いることで

60代、70代の人生が確定したかのように見える時期こそが

人生の終局なのだ、と思わせたり、

梅干しのように干からびた棺桶のなかの故人の表情を隠すために

エンバーミングを施したり、

あるいは、お金をかけてすごく立派な戒名をつけてもらったり、

何千人もの参列者を集める告別式とかお別れの会とかを

催したり、といったことがあるわけなのですが、

そういったことはみんな、

本当の死の瞬間のときには枯れ木のようなただ1つの肉体、

同じ地点に還元されてしまう、ということから

なんとかして視点をそらして、

その少し前、60代とか70代とかの

人生が確定したように見える時期こそが人生の終局なんだ、

と思い込むための、

壮大な舞台装置のようにも思えるのですね。

 

 

人間は、たった1人でこの世に生まれてきたんだから、

死ぬときも、たった1人

なんにも持たずに死んでいく。

 

 

それでいいんじゃないかな、なんて

自分は思うのです。