この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「異常者」たちの反逆。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

今回は、「異常者」たちの反逆、というテーマで、

現代の世の中の流れを見てみたいと思います。

(今回の記事 約4600字)

 

 

 

戦隊ヒーローもののテレビ番組とか、少年漫画とかでは、

たった1人の「悪役」がいて、

それを、多くの「仲間たち」が、友情をはぐくみながら、

みんなで倒していく、みたいなストーリーがあったりします。

 

あるいは、これは悪い例ですが、

学校とかでときどきある「いじめ」とかだと、

多数の生徒たちが、たった1人の生徒をみんなでやっつける、

みたいなこともありますよね。

 

こういった例であらわれてくる構図というのは、

「たった1人、あるいは、少数者」VS「多数者」

というパターンで、だいたいこういうパターンになったときというのは、

良くも悪くも、勝つのは「多数者」の側なのです。

 

これは、現実の世の中でもそうではないでしょうか。

数の多いほうが勝つ、というのは、よくあることです。

 

そして、圧倒的多数者というのが、ごくごく少数の「敵」や「異常者」を、

やすやすとやっつけていく、というのは、

これまでよくみられたパターンでもありました。

 

 

 

ところが最近、こういったパターンがあてはまらないような例が、

世の中にちらほらでてくるようになりました。

 

どうも、「圧倒的多数者」が「ごく一部の異常者」をやすやすとやっつけていく、

というパターンに、「変調」があらわれているのではないか?

という気がするのです。

 

 

 

例をみてみましょう。

 

 

 

2015年には、いわゆる「大阪都構想」の住民投票がありました。

 

この住民投票を仕掛けた橋下徹という人は、人気もあって、さわやかでした。

 

「都構想を実現しよう」なんていうCMもバンバンうったし、

大阪市役所の公務員連中や、各種の利権団体を「仮想敵」にして、

大阪市民を熱狂させて、やすやすと勝利をつかむはずでした。

 

対して、都構想反対派というのは、寄せ集めで、地味で暗いやつらばっかり

だったのです。

 

 

 

ところが、ふたをあけてみると、僅差で都構想反対派が勝ちました。

 

 

 

2016年にも、今度は世界で、同じようなことが起こりました。

 

まず6月に、EUから離脱するかどうかを問う国民投票が、

イギリスでおこなわれました。

 

EUからの離脱を当初からかかげていた、英国独立党の当時のファラージ党首

などは、頭のおかしなやつと見られていて、

その支持者も同様に見られていたのです。

 

世界中の、有力政治家や、巨大企業のリーダーたちは、こぞって、

EUからイギリスは離脱すべきではない、との論陣を張りました。

 

ヨーロッパの市民たちの中には、

イギリスに、EUに残って、と言わんばかりに、キスの輪をつくったり、

いろいろと明るいパフォーマンスをおこなった者たちもいたのです。

 

 

 

ところが、ふたをあけてみると、勝ったのは、EUからの独立を支持する

側でした。これも、僅差での決着でした。

 

 

 

同年におこなわれた、アメリカ大統領選挙もそうでした。

 

トランプ候補などは、当初は、すぐに消え去るだろうと思われていた

泡まつ候補だったのです。

 

それが、あれよあれよというままに、共和党の候補になり、

大統領選挙での一騎打ちも制して、アメリカ大統領になって、

いま、世界をかきまわしています。

 

このアメリカ大統領選挙も、やはり、僅差で決着しました。

 

 

 

この記事の最初のほうで、自分は、

「圧倒的多数者というのが、ごくごく少数の「異常者」を、

 やすやすとやっつけていく、という従来のパターンに、

 変調があらわれているのではないか?」

という問題提起をしました。

 

ここにあげた事例というのは、まさに、そういった変調をあらわすものに

なっています。

 

そして、そういった変調がなぜ発生するようになってきたかというと、それは、

これまでは、やすやすとやっつけられる側だった、ごくごく少数の「異常者」の

側に、味方する人がそれなりにでてきたために、

圧倒的多数者の側が、簡単には勝てなくなってきた、

からだろうと思うのです。

 

 

 

大阪都構想住民投票において、橋下徹など、都構想推進派が描きたかった

構図というのは、

「ごくごく少数の「異常者」としての、

 大阪市役所の公務員連中、あるいは利権団体」と、

「圧倒的多数者としての、大阪市民」の、対決の構図でした。

 

前者の側が異常な奴らなんだ、大多数の大阪市民の敵なんだぞ、

ということを、橋下徹などは訴えたかったのですが、どういうわけか、

笛吹けど踊らず、

心の中で前者の側に支持を決めた大阪市民は、想像以上に多かったのです。

 

 

 

海外の例も、そうです。

 

EUからのイギリスの独立をかかげるやつなんて頭のおかしなやつなんだ、

トランプなんていうのは頭のおかしなやつで、

「ごくごく一部の」トランプ支持者などというのも、

やっぱり頭のおかしなやつらなんだ、

みんなでそういう「異常な奴ら」をやっつけようよ、

という呼びかけは、どういうわけか、笛吹けど踊らず、

想像以上に多くの人たちが、じつは、

EUからのイギリスの離脱を、そして、トランプが大統領になることを、

支持することを決めていたのです。

 

 

 

これまではなかったような、あたらしい時代の流れというのが、

生じてきているような気がします。

 

 

 

これまでは、圧倒的多数者が、たった1人や少数者を攻撃するときには、

その、たった1人や少数者の側に「異常者」であるというレッテルをかぶせ、

スケープゴートにして、

みんなでこの「異常者」をやっつけようよ、と掛け声をかけると、

ほぼほぼ多数者であるみんなは、それにならって、

たった1人や少数者をやっつけたのです。

 

 

 

でも、この方式が成功するためには、重要な前提が必要です。

 

 

 

それは、

「異常者」とされる側の人数が、十分に少ないこと、

という前提なのです。

 

 

 

こちらがこれから攻撃しようとしている「異常者」の側が、

人数的にだんだんふくらんでくると、

やすやすと倒せるはず、という目論見がくずれ、

逆に、こちらが倒されてしまうこともありうるのです。

 

 

 

大阪都構想を推進する側も、

EUからのイギリスの離脱を阻止したい側も、

トランプを非難する側も、

みな、

対立する相手側に「異常者」というレッテルを張ることで、

大多数をうごかせる、と考えていたふしがあります。

 

ところが、

「異常者」というレッテルを相手に張り付けて、

「圧倒的多数者」 VS 「ごく一部の異常者」

という構図に持ち込もうとする試みは、

あたらしい時代の流れの登場とともに、

じわりじわりと、オールドファッションなものになりつつあるのです。

 

「異常者」とされる側に、

表立っては自分の意見を表明しないかもしれないが、

心の中で静かに、断固として、支持をかためるひとびとが、

徐々に集結しつつあります。

 

そのために、たとえば、

イギリスのEUからの離脱を問う国民投票でも、

アメリカ大統領選挙でも、

事前の世論調査を裏切るような結果が続発しているのです。

 

 

 

「圧倒的多数者」の側が、対立する相手側に「異常者」のレッテルを張ることで

戦いにのぞむ、というのは、

1つの戦略としては、ありかもしれません。

 

しかし、その戦略をとる側が、自分自身でも、

敵はごく一部の「異常者」だけしかいないんだ、と盲信してしまうと、

足元をすくわれることになりえるのです。

 

自分がレッテルを張った「異常者」の側には、

じつは、予想外におおくの支持者が集結しているかもしれません。

 

彼らは、かならずしも表立って声高に、

自分の意見を主張するとはかぎりません。

 

かぎりませんが、心の中では、かたく決意を固めている可能性があるのです。

こういった、「かくれた背後者」の存在を見落とすと、

「多数者」といえども、思わぬ敗北を喫することがあるのです。

 

 

 

このような、「かくれた背後者」が「異常者」の背後で存在感を増すようになり、

世界中で、

賛成と反対が拮抗するような論点、僅差で決着する投票結果、

というのが続発するようになってきています。

 

この事実に、

「圧倒的多数」をもって、ごく一部の「異常者」を蹂躙してやろうという

動機をもつオールドファッションな連中は、困惑しています。

 

なので、

これまでのステレオタイプだった、

「圧倒的多数者」 VS 「ごく一部の異常者」

という「勝利の方程式」が、じょじょに神通力を失いつつある現状の中でも、

いまだにその構図にしがみつくのです。

 

このことは、日本のマスコミにおいても、

お昼のワイドショーとかのコメンテーターの言動などには、

顕著にあらわれています。

 

 

 

ですが、「異常者」の背後には、じょじょに、

「かくれた背後者」が存在感を増すようになってきています。

そのために、「異常者」だけをとりだして、それをたたくだけでは、

圧倒的多数を確保しにくくなっているのです。

 

 

 

最近の日本社会において、そういったことをしめす事例には、

女性専用車両に男性が乗り込んでトラブルになった問題、や、

漫画村などのいわゆる海賊版サイトに関する問題、などがあります。

 

 

 

女性専用車両に反対しているからといって、

実際に女性専用車両に乗り込んでまで反対の意思を表明する男性というのは、

すくなくとも現在の世の中では、依然として極めて少数派であるといえます。

 

しかし、だからといって、

女性専用車両に乗り込んで反対活動をする、ごく一部の異常者」

VS

「圧倒的大多数の、女性専用車両の存在に賛成する男性」

という構図で把握することには、

事実をあやまってとらえる危険性があります。

 

実際に女性専用車両に乗り込んでまで反対活動をする「異常者」の背後には、

女性専用車両に乗り込むことまではしないけれども、

心の中で女性専用車両に反対している、あるいは、おもしろくなく思っている

男性たちという、「かくれた背後者」が存在している可能性があるからです。

 

実際、本音が生のかたちであらわれやすいインターネット上では、

女性専用車両に賛成する男性も、反対する男性も、おたがいに、

相手を圧倒できるほどの圧倒的多数派を構成するには至っていないのが実情です。

 

 

 

漫画村などの、いわゆる海賊版サイトに関する問題についてもそうです。

 

海賊版サイトを運営して収益をあげる、ごく一部の犯罪者集団という異常者」

VS

「正規版の漫画を読みたがっていて、海賊版サイトに怒っている大多数の読者」

という構図で把握することは、危険だと思います。

 

ごく一部の「異常者」である、海賊版サイトの運営業者の背後には、

「無料で漫画が読めるのならば、あわよくばその恩恵にあずかりたいと考える

 ずるい読者」

というのが、「かくれた背後者」として存在している可能性は、十分にあります。

 

 

 

「異常者」だけをとりだして、それをたたき、

「圧倒的な多数者」が順当に勝利をおさめる、という図式が、

成り立たない事例が増えてきています。

 

その背景には、ここまで述べてきたように、

「異常者」の背後に「かくれた背後者」が存在感を増すようになってきた

という事情が見え隠れしています。

この「かくれた背後者」の存在に十分に注意をはらわないと、

思わぬかたちで足元をすくわれることがあるのです。

 

そして、この「かくれた背後者」の行動原理を考える際には、

人間の心の中の、「明るくさわやかな部分」だけではなくて、

利己心や怒りといった、「暗くどろどろとした部分」についても、

そんなものは存在しない、とばかりに切り捨てるのではなくて、

十分に注意をはらっていく必要があるように思います。

楽しいことと、正しいことと。

こんにちわ。天機です。

(今回の記事 約2,500字)

 

 

 

天機が思うに、世の中には、楽しいことと、正しいことという、

おおきな2つの流れがあるように思います。

 

 

 

そして、世の中のひとびともまた、

どちらかといえば楽しいことのほうを追い求めるひとびとと、

どちらかといえば正しいことのほうを追い求めるひとびとの、

おおきく2種類にわかれるような、そんな気がするのです。

 

 

 

たとえば、政治の世界なんかにおいても、

そういった2種類の方向性をみることができるかもしれません。

 

 

 

安倍政権や、与党は、よく、経済が第一だ、なんていいます。 

景気が良くなって、経済が発展すれば、みんなが明るく、楽しくなります。

その意味で、安倍政権や与党は、

どちらかといえば、楽しいことのほうを追い求めているようにみえます。

 

 

 

野党は、それとは異なります。 

いま、野党の多くは、日報問題や、加計、森友の問題を追及していますね。

 すこし前には、安保法制の問題で、政権を批判していました。

 

どうしてそういった問題を追及したり、そういった件で政権を批判したり

するのかといえば、

そこに「正しくないこと」が存在すると、野党は考えているからです。

 

そういう意味で、野党というのは、

どちらかといえば、正しいことのほうを追い求めているようにみえます。

 

 

 

もちろん、楽しいことだけを追い求める、とか、

正しいことだけを追い求める、とかいったように、

なたで割ったように区別することは、妥当ではないでしょう。

 

与党であっても、正しいことも追い求めるでしょうし、

野党であっても、楽しいことも追い求めるでしょう。

 

ただ、どちらかといえば、

与党のほうは、正しいことよりも楽しいことのほうを追い求めるのに対して、

野党のほうは、楽しいことよりも正しいことのほうを追い求めるような、

そんな気がするのです。

 

 

 

楽しいことを追い求める、というのは、

楽しいかどうかということに、とてもこだわる傾向がある、ということです。

それに対して、正しいことを追い求める、というのは、

正しいかどうかということに、とてもこだわる傾向がある、ということです。

 

 

 

どちらかといえば、楽しいかどうかにこだわる与党。

どちらかといえば、正しいかどうかにこだわる野党。

その違いは、それぞれの支持層にもあらわれるような気がします。

 

与党支持層というのは、大企業に関連する層や、経営者などの層でしょうか。

基本的に、現状をよしとする層で、現状から恩恵をこうむっていて、

経済的にも豊かで、明るい考え方をする層、

といったイメージが、個人的にはあります。

彼らは、どちらかといえば、楽しいかどうかのほうにこだわっているように

感じます。

 

対して、野党支持層というのは、労働組合とかに関連する層とかでしょうか。

基本的に、現状に不満が多くて、現状からは恩恵を得ていなくて、

経済的には貧しく、暗い考え方をする層、

といったイメージが、個人的にはあります。

彼らは、どちらかといえば、正しいかどうかのほうにこだわっているように

感じられ、

その正しさを実現するために、デモや住民訴訟市民運動といった活動を

よくおこないます。

 

 

 

このことは、べつに、

与党支持層は楽しいことばかり追い求めるからダメだ、というわけでもないし、

野党支持層は正しいことばかり追い求めていて素晴らしい、

というわけでもないのです。

 

また、

与党支持層は経済的にも豊かで明るい考え方をするから素晴らしい、

というわけでもないし、

野党支持層はどこか貧乏くさくてデモや市民運動ばかりするからダメだ、

というわけでもありません。

 

おおざっぱにいって、

与党支持層と野党支持層には、それぞれ、

うえにあげたような傾向があるのではなかろうか、というだけのことで、

そのそれぞれの傾向性が、いいか悪いか、というのは、

また別の問題です。

 

 

 

環境が人間を規定する、といったのは、マルクスだったでしょうか。

たしかに、

経済的に豊かなのかどうか、といったことや、

現状から恩恵をえられているのかどうか、といったことは、

そのひとが、与党支持層になるのか、それとも野党支持層になるのか、

といったことを、一定程度、規定する因子になっているような気がします。

 

が、それだけではなくて、

そのひとの、もともとの性格的な傾向として、

どちらかといえば、正しいことよりも楽しいことを追求する傾向があるのか、

それとも、

どちらかといえば、楽しいことよりも正しいことを追求する傾向があるのか、

といったこともまた、

支持政党を形成するうえで、おおきな因子になっているような気がするんですね。

 

 

 

そして、この性格的な傾向性のちがいというのは、じつは、

どういった政党を支持するのかという、

政治的な態度を決定する要因になるばかりでなく、

そのひとのまえに、どういった人生がひらけてくるのか、

といったことにも、おおきく関わっているような気がするんです。

 

楽しいことを追い求めるひとのまわりには、おそらく、

同じく楽しいことを追い求めるようなひとが集まってくるでしょう。

正しいことにこだわるひとのまわりには、おそらく、

同じく正しいことにこだわるようなひとが集まってくるのではないでしょうか。

 

そして、さらにいえば、

楽しいことを追い求めるひとの人生には、

ワクワクするようなイベントがつぎつぎに発生する傾向があるのにたいして、

正しいことにこだわるひとの人生には、

理不尽や不条理といった、正邪の判定を必要とするような出来事が

つぎつぎに発生する傾向があるような、そんな気がするのです。

やや、極端ですかね。

 

 

 

自分は、どちらかといえば、

楽しいことよりも正しいことのほうに心惹かれる人間です。

 

なので、自分のブログの記事でも、

正しいことはなにか、と論じるような内容が多くなっているような気がします。

 

もっとも、はてなブログというところは、

まじめになにかを論じるような記事がそれなりに多いところのようなので、

それはそれでいいとも思うのですが。

 

とはいえ、自分がふだん読者になっている、ほかのひとのブログを読んでいると、

そこには、明るく楽しい世界がひろがっていることもよくあって、

そういうとき、なんだかまぶしいものを目にするような、

あこがれを感じることもありますね。

負担を課すには、合理的な理由が必要だ。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約2400字)

 

 

 

天機はたまに、ある種の「思考実験」をしてみることがあります。

もし、次のような事例があったとしたら、

みなさんはどう思うでしょうか。

 

 

 

「日本国内における、いわゆる『きのこたけのこ戦争』の最終的な解決を

 はかるため、政府は、きのこの山に対して全面的な支援をおこなうことを

 決定した。

 そのための財源を確保するために、きのこの山にちなんで、

 K・Yのイニシャルをもつ日本国民に対して、1か月あたり10円の賦課金を

 徴収することを決定した」

 

 

 

このような決定が、もしかりになされたとしたら、

1か月あたり10円のお金がとられることになる、K・Yのイニシャルをもつ国民

からは、おそらく、かなりの反発がでるでしょう。

 

 

 

では、その反発は、おかしなものなのでしょうか。

 

「1か月あたり、たったの10円なんでしょ?

 けちくさいこと言わずに、みんなのために払えばいいじゃん」

という意見は、果たして、正しいものなのでしょうか。

 

 

 

天機は、そうは思いません。

 

そもそも、きのこたけのこ戦争などというマニアックな「紛争」に、

政府が介入する意味がわかりませんし、

そのなかの、きのこの山のほうだけに一方的に肩入れする理由も不明です。

その支援のために、どうして財源の確保が必要なのかもよくわかりませんし、

その財源確保のために、K・Yのイニシャルをもつ国民だけが狙い撃ちにされる

ことにも、正当性がありません。

 

 

 

つまり、この政府の決定というのは、いちじるしく合理性を欠いているために、

たとえ、1か月10円にすぎない、という、その金額の低さを考慮したとしても、

やはり、不合理なものである、という事情は、くつがえらないのです。

 

ふつうに考えて、そうではないでしょうか。

わけのわからない理由のために、ひとは、1円だって払いたくないでしょう。

 

 

 

この事例は、現実にはありそうもない事例かもしれません。

では、つぎのような事例だったら、どうでしょうか。

 

 

 

「マンションの5階で、火災が発生している。

 そこの室内には、若いお母さんと、幼い乳児がとりのこされていて、

 2人は、助けをもとめているのか、ベランダから顔をのぞかせている。

 お母さんは、下を通る通行人に、

 乳児を投げ落とすから受け止めてほしい、と訴えている。

 その乳児を通行人が受け止めた場合、乳児の命はたすかる。

 しかし、受け止めた通行人は、両腕を骨折し、全治1か月の重傷を

 負うことになる」

 

 

 

投げ落とされた乳児を受け止めることで得られる利益は、

乳児の命が助かるという、「人の生命」です。

 

他方で、それによって失われる利益というのは、

受け止めたひとが全治1か月の重傷を負うという、「人の身体」です。

 

なので、社会全体、というような、ぼんやりしたところに視点をおいて、

この件を眺めたならば、

「人の身体」を少々犠牲にするだけで「人の生命」が助かるのだから、

乳児を受け止めたほうがいいことになりそうです。

 

 

 

でも、実際に乳児を受け止めることになる、

当事者に視点をおいて考えてみたらどうでしょうか。

 

 

 

どこの馬の骨ともわからない、他人のガキを助けるために、

どうして自分が全治1か月もの重傷を負わなければならないのか?

と、疑問に思ったとしても、不思議ではないのではないでしょうか。

 

 

 

両腕を骨折したら、その痛みは相当なものになるでしょう。

 

1か月も入院していたら、入院代も相当になるでしょうし、

その期間働けないという逸失利益も発生するでしょう。

 

 

 

もちろん、

「子供の命を助けることは大切なことだ。

 たとえ自分が骨折の重傷を負うことになったとしても、

 自分はその子供を助けたい」

と考えてそれを実行するひとというのは、

とても気高く、素晴らしいひとだと思います。

 

 

 

ただ、

「おまえがちょっと腕を骨折するだけで、子供の命が助かるんだろ?

 だったらけちくさいこと言わずに、助けてやりなよ。

 社会全体の利益のことを考えなよ。」

と言って、

「自分が犠牲になるのではなく、他人に犠牲になることを要請する」

となると、

途端に醜さがあらわれてくるものだと思うんです。

 

 

 

自己犠牲というのは、

自己犠牲をおこなうかどうかの自由な選択肢があることを前提として、

自分の自由意思でそれを回避できるにもかかわらず、

あえて自己犠牲の道を選択するから、美しく素晴らしいのであって、

自分自身は犠牲にもならないのに、

他人に、おまえが犠牲になれよ、といって強要するようなことは、

逆に、非常に醜いことだと言わざるをえない、と思います。

 

 

 

以上の、「きのこたけのこ戦争への政府の介入の事例」と、

「マンションからの子供の投げ落としの事例」であきらかになるのは、

 

① 他者に負担や犠牲を課す場合には、合理的な理由に基づいている

  必要があるのであって、

  たとえ、その負担や犠牲がどんなに僅少なものであったとしても、

  合理的な理由がおよそみとめられないようなものは、

  やはり、そういった負担や犠牲を課すのは、

  おかしいということになる、ということ。

 

② たとえ、社会全体にとっては利益になるようなことであっても、

  特定の個人だけに、ほかのひとにはみられないような過重な負担や犠牲を

  もとめる場合には、

  「自己犠牲」が強要されてはならないということ。

 

だろうと思います。

 

 

 

うえにあげたような事例は、いずれも極端であって、

現実社会では、あまり見られないようなことだろうとは思います。

 

 

 

しかしながら、

犠牲や負担を課すこと、引き受けることに関して、

そこに正当性があるのか?

ということについて疑問に感じる人はけっして少なくはなく、

そのために、たとえば、

町内会が一律に赤い羽根募金のために金銭を徴収するといったことや、

お寺が寺院の改修のために檀家から一律に金銭を徴収するといったことにたいして、

疑問や不満の気持ちを表明するひとがあらわれてくるのだろう、

と思います。

 

 

反対するなら対案をだせ?

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約1500字)

 

 

 

よく、ちまたでは、「反対するなら対案をだせ」などと言われることがあります。

 

国会の論戦とかでは、

野党が反対ばっかりしていて、なんら建設的な議論になっていないように

見えることもあってか、

このように言われることもあると思うのです。

 

 

 

しかしながら、この「反対するなら対案をだせ」という言葉は、

たしかに、一見したところ、もっともなことのように聞こえるのですが、

いつもいつも、正しいことを言っているわけではない、と思うんです。

 

 

 

たとえば、つぎのような仮定の例をみてみましょうか。

 

 

 

あるところに、老夫婦でやっている、昔から続いているお蕎麦屋さんがありました。

そのお蕎麦屋さんは、繁盛していて、人気があり、儲かっていました。

 

 

 

その老夫婦には、1人息子がいたのですが、

中年になっても定職にもつかず、ギャンブルに明け暮れていて、

いつも、夢見がちな話ばかりをしていました。

 

 

 

あるとき、その1人息子が、どのようにたきつけられたのか、

老夫婦のところにやってきて、

「この蕎麦屋をたたんで、パチンコ屋に改装しよう。

 そうすれば、絶対儲かるから!」

と言い出したのです。

 

 

 

パチンコ屋を出店する計画は、ずさんなもので、

失敗することはだれの目にも明らかでした。

 

他方で、お蕎麦屋さんの経営は、順調に利益をあげていました。

 

 

 

そこで老夫婦は、パチンコ屋などに改装する気はない、と伝えると、

その1人息子は、

「反対するなら対案をだせよ」

と言い出したのです。

 

 

 

これは、おかしなことではないかな、と、天機は思います。

 

では、そのおかしさは、どこからくるのでしょうか?

 

 

 

それは、この1人息子の頭の中では、

蕎麦屋をたたむこと」というのが、隠れた自明の前提になってしまっている

という点なのです。

 

 

 

この1人息子は、「蕎麦屋をたたんでパチンコ屋にする」という意見を持っています。

 

そして、この1人息子の頭の中では、

蕎麦屋をたたむこと」というのは、すでに前提になってしまっているのです。

 

だから、反対するひとがいる、となると、

「じゃあ、おまえは、蕎麦屋をたたんでなににするというのだ?対案をだしてみろ」

となるわけなのですね。

 

 

 

それが、そもそもおかしいのです。

 

 

 

このお蕎麦屋さんは、繁盛していて、順調に利益をあげています。

 

いまのこの状態、つまり、蕎麦屋を経営して利益をあげている状態、

というものに、わざわざ変化をくわえる必要は、

どこにもないのです。

 

なので、「蕎麦屋をたたむこと」という前提が、

この1人息子の思考の中では、勝手に出来上がってしまっているようですが、

そもそも、その前提からして、おかしいのです。

 

 

 

この老夫婦としては、

蕎麦屋をたたんで〇〇にする」という「対案」をだす必要など、

どこにもありません。

 

「このまま蕎麦屋をひきつづき経営する。現状に変更をくわえない。」

というのが、それだけで、立派な「対案」になっているといえます。

 

 

 

以上の仮定の例からわかるのは、

「反対するなら対案をだせ」という発言の裏には、

「現状は変更すべきである」という隠れた前提がひそんでいることがある、

ということなのです。

 

そして、妥当な判断をするためには、

そもそも、現状は変更すべきである、というその前提そのものが

正しいのかどうか、

そもそも、現状を変更する必要はべつにないのではないか、

というところまでさかのぼって、

厳密に考えていく必要がある、ということです。

 

そのうえで、

現状を変更する必要はべつにない、むしろ、現状を変更などしないほうがよい、

ということならば、

「現状を変更せずに、このまま維持継続する。」

というのは、そのままで立派な「対案」である、と天機は考えます。

 

となりのガラケー。

こんばんわ。天機です。

(この記事の字数 約400字)

 

 

 

世の中は、スマホを使っている人がほとんどになってきたと思いますが、

天機は依然として、ガラケーを使っています。

 

そもそも、あまり外出しないので、

ネットは基本的にパソコンでやっているし、

スマホは高い、というイメージがどうしてもあるんですよね。

 

 

 

きょう、天機はバスに乗っていました。

 

すると、となりに乗ってきたおっさんが、

なにか、ぴこぴこ、ぴこぴこ、音をさせるわけです。

 

見てみると、ケータイをいじっているようでした。

 

 

 

「音を切ってやってくれよー」

天機はそう思いました。

 

 

 

そのおっさんは、ずーっとぴこぴこやり続けているので、

気になってもう一度見てみると、

なんだか、ガラケーでゲームをやっているみたいでした。

 

 

 

ガラケーか、いまどき珍しいな。ま、自分もガラケーだけど。

 ガラケーでできるゲームなんか、いまだにあるんだ。」

 

 

 

そう思いながら、じっとよく見てみると、

そのおっさんのガラケーは、

天機の持っているガラケーと、同じ機種で、同じ色でした。

 

 

 

奇遇って、あるものですね。

「本が売れない」原因について考える。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「本が売れない」原因について、自分なりに考えてみたいと思います。

(この記事の字数 約1500字)

 

 

 

ちまたでは、最近よく、本が売れない、なんて言われています。

 

では、本が売れないとしたら、その原因はなんなのでしょうか?

 

 

 

まず第一に、インターネットの発達があると思います。

 

みんな、パソコンやスマホから情報を得るようになって、

わざわざ本を買う必要が少なくなりました。

 

家庭の医学、なんて本を買わなくても、

自分の症状で検索すれば、それなりの医学情報がえられます。

 

知恵蔵とか、現代用語の基礎知識とか、広辞苑とかいった本を買わなくても、

グーグル先生やウィキペディアが大活躍してくれます。

 

情報をインターネットから得ることができるので、

わざわざ本を買う必要が少なくなった、ということが、まず考えられるでしょう。

 

 

 

第二に、このインターネットの発達というのが、

「文章を読みたい」という人間の欲求を、それなりに満たしてしまう、

ということがあります。

 

食欲、性欲、睡眠欲といえば、人間の三大欲求といわれていますが、

「文章を読みたい」というのも、

人間に備わった基本的な欲求の1つだと思うんです。

 

戦後、出版物がよく売れて、政治的な議論などもよくおこなわれるようになった

時期がありましたが、

それも、戦時中に抑圧されていた、

「文章を読みたい」「本を読みたい」という人間の欲求が、

一挙にほとばしったからだ、という見方もできると思います。

 

本というのも文章で書かれていますが、

インターネットのいろんなサイトも、基本的には文章で書かれています。

 

インターネットで文字情報を得ると、

「文章を読みたい」という人間の欲求がそれなりに満足できてしまうので、

やはり、わざわざ本を買って文章を読もう、

というところまでは、なかなかいかないのかもしれません。

 

 

 

第三に、お金の問題があります。

 

もしかしたら、非正規雇用の拡大とかもあって、

ひとびとの可処分所得が、じつは減っているのかもしれません。

 

そのいっぽうで、インターネット上には、

Youtubeその他の、「無料で」手に入る娯楽があふれています。

 

となるとやはり、本というものを「わざわざお金をだして」

手に入れようという気持ちが、少なくなるのかもしれません。

 

 

 

第四に、ひとびとが本というもの自体に、

あまり価値を見出さなくなったか、あるいは、

本の質が劣化している、ということもあるのかもしれません。

 

本というのは、基本的に、ある程度の分厚さが必要です。

パンフレットのような薄さだったら、

あんまり重要なことが書いてあるようにも思えないでしょう。

 

本には、伝えたい情報があります。

読者が知りたい情報があります。

 

ところが、その情報というのは、おそらく、

要点を箇条書きにすれば、もっと短くなるはずなのです。

 

にもかかわらず、本がなぜ、あれほど分厚いかというと、

自説を補強する部分、言い換えれば、

読者を説得しようとするための文章がおおくて、

それで、あれほど分厚くなってしまっているのです。

 

読者は、ほんとうは、役立つ情報の部分だけが欲しくて、

それ以外の余計な文章はいらないのです。

 

こういった読者のニーズがあるので、最近は、ネット上でも、

まとめサイト」という簡便なサイトが隆盛したり、

あるいは、ネット上の何らかの記事でも、

「この記事は3分で読めます」といった注釈がついたりするのです。

 

 

 

以上、

 

① 情報がネットでえられる

② 文章を読みたい、という欲求も、ネットで満足される

③ お金がない、無料があたりまえの時代

④ 分厚い本を読むより、要点をまとめたまとめサイト

 

といったことが、

「本が売れない」ということの背景にあるのではないか、

と考えます。

 

自分の意見も受け入れてもらうには。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「自分の意見も受け入れてもらうには、どうしたらいいんだろう?」

というテーマで、書いてみようと思います。

(この記事の字数 約2100字)

 

 

 

人間、生きていると、いろんな「自分の意見」というものを持つことが

あると思います。

 

そういった自分の意見をひとに言ったときに、

賛同してもらえることもあれば、反対されることもあると思います。

 

人間、自分の意見に賛同してもらえれば、なんだか嬉しくもなりますし、

反対されれば、悲しくなることだって、ありますよね。

 

 

 

だいたい、どういうときには賛同され、どういうときには反対されるのか、

というと、

ごくごくおおまかにいえば、

自分の利益や主張ではなく、他のひとやみんなの利益や主張を伝えるときには

賛同されることが多くて、

自分の利益や主張を一方的に伝えるときには反対されることが多い、

ような気がします。

 

 

 

たとえば。

 

「困っている人のために自分はボランティアをします」

と自分が言ったとしたら、たぶん、多くの人から歓迎されるでしょう。

およそ、反対されることなど、ないかもしれません。

 

それは、その意見が、みんなの利益にかなっているからです。

 

 

 

いっぽうで、

「自分は旅行に行きたいので、ぼくに10万円ください」

と自分が言ったとしたら、おそらく、否定的な反応がかえってくることのほうが、

多いかもしれません。

 

それは、その意見が、自分だけを一方的に利するものだからです。

 

 

 

みんなの利益にかなう意見は受け入れられやすく、

自分を一方的に利する意見は排斥されやすいのです。

 

 

 

では、この世の中に生きている人間の選択肢としては、

「みんなの利益にかなうような意見ばっかり言ってみんなから歓迎される人生」

か、

「自分の利益ばかり主張してみんなから排斥され、孤立して頑固になる人生」

か、

その2つに1つしかないのでしょうか。

 

 

 

そうではない、と、天機は考えます。

 

 

 

天機は以前、「7つの習慣」という自己啓発本を読んだことがあるのですが、

上に挙げた2つの生き方というのは、

前者がLOSE-WINの関係、後者がWINーLOSEの関係をあらわしているようです。

 

自分ばかり敗者になって相手ばかり勝者になるのも、

自分ばかり勝者になって相手ばかり敗者になるのも、

どちらも不完全なのだ、と、その本では述べられていました。

 

 

 

自分も、その通りだと思います。

 

全面的に相手の利益ばかりを考えるのか、それとも、

全面的に自分の利益ばかりを考えるのか。

 

世の中は、その2つの選択肢しかないわけでは、ないはずです。

 

 

 

自分がなんらかの主張をして、それが受け入れられないのならば、

相手に対して全面的に折れるのでもなく、

受け入れられない自分の意見や利益に固執して、

世の中に背を向けるのでもなく、

受け入れられやすいように、「微調整」をしていけばいいと思うんです。

 

 

 

熟しすぎて消費期限が近づいたいちごでも、

きれいに包装して「完熟いちご」として売り出せば、

買ってくれる人がいるかもしれませんし、

ジャムにつくりかえれば、やはり買ってくれる人がでてくるかもしれません。

 

古い仏像で、錆だらけになって朽ち果てているようなものでも、

綺麗に磨きなおして錆をおとせば、ぴかぴかの金色の仏像になって、

高値の骨董品として取引されるようになるかもしれません。

 

自分のもっている、なんらかの意見が、

そのままではどうも、ひとびとに受け入れられそうにないな、と思ったら、

ひとつは、

その意見の「パッケージング」を変えてみるのも、手です。

 

 

 

あるいは、スーパーにならんでいる商品で、

「栗」とか「ウニ」がならんでいることもありますよね。

 

栗にもウニにも、イガイガやトゲトゲが、もともとはあるのですが、

販売する側は、それをそのまま売ったりはしませんよね。

 

たいていのひとは、栗の中身や、ウニの中身は好きですが、

外側のイガイガやトゲトゲは嫌いなのです。

 

だから販売する側は、たいてい、

イガイガやトゲトゲは、あらかじめ取り除いてから販売しますよね。

 

 

 

自分の意見の中にも、もしかしたら、

他人の神経に触るような、イガイガやトゲトゲにあたるような、

先鋭的な部分があるのかもしれません。

 

そういうときは、そういったカドの部分を、

あらかじめ少し丸くしておいてから、

自分の意見を提示するのも、ひとつの手だと思います。

 

 

 

さらには、こういうことも考えられるでしょう。

 

みんなの利益ばかりを考えるというのは、単純化していえば、

みんなは笑って自分は泣く、ということです。

 

自分の利益ばかりを考えるというのは、単純化していえば、

自分は笑ってみんなは泣く、ということです。

 

そういう両極端ばかりではなくて、

「みんなが笑って自分も笑う」

「みんなと自分がともに楽しめる」

そういった意見を提示してみるのも、いいのではないでしょうか。

 

そして、そういった意見を提示するためには、もしかしたら、

「みんなか、自分か、どちらかは犠牲にならなければいけないのだ」

という、自分の中に潜んでいる、

この世界についてのパラダイムを、転換する必要があるのかもしれません。