この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

論説文と会話文

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、論説文と会話文、

というテーマで書いてみようと思います。

(この記事の字数は 約2600字)

 

 

 

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論説文と会話文。

 

 

 

文章の表現のかたちには、いろんなものがありますね。

 

 

 

小学校や中学校では国語があったし、

高校でも現代文があります。

 

これまでわたしたちは、

いろんなかたちの文章表現に接してきたと思います。

 

 

 

そのなかに、

論説文といわれる文章と、会話文といわれる文章があります。

 

 

 

論説文というのは、筆者になにか論じたいテーマがあって、

それを論理的な文章でもって書き、

読者を説得しようとする文章なのですね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

いっぽうで会話文というのは、おもに、

小説とかででてくる文章で、

おたがいの会話によって進められていく文章のことです。

 

 

 

じつは天機は、このうちの、

論説文を書くのは得意なのですが、

会話文をつくりだすのが、非常に苦手なのです(つд`)

 

 

 

天機は大学受験のときに、

論文形式の受験で合格したほど、

論説文については得意意識があります٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

 

いっぽうで、

会話文を主体にした小説を書け、と言われたら、

いったい何を書いていいのやら、

途方に暮れてしまう自信があるのですね(*゚▽゚)ノ

 

 

 

この原因はなんなのだろう。

 

 

 

天機は原因を考えていました。

 

 

 

1つ思いつく原因としては、

これまで天機があまり、そういった

小説などの創作活動になれていない、ということがあります。

 

また、普段からひとと会話することがすくないので、

会話を思いつきにくい、

ということもあるでしょう。

 

さらには、天機は自分を出すのをはばかるところがあるので、

創作しようとすると、

照れたり、恥ずかしがったりして、

うまく書けない、というのもあるかもしれません。

 

 

 

しかし。

 

 

 

単に会話文を主体とした小説を書けない、

ということではなくて、

 

 

 

論説文だと書けるのに、会話文だと書けない

 

 

 

という天機の性質を考えてみた時、

じつは、

 

 

 

他人を介在させるのを嫌っているのではないか?

 

 

 

という、天機の性格のおおきな欠点のような

ものを感じるのですねΣ(゚д゚;)

 

 

 

論説文というのは、基本的に、

自分の言いたいことをだーっと言ってしまって、

それでもって相手を論駁(ろんばく)してやろうという

性質をもっています。

 

言ってしまえば、1つのオナニーのようなものかもしれません。

 

 

 

論、という言葉からは、

甲論乙駁、討論、論争など、

戦いや争いに関係する言葉も、けっこうでてきます。

 

法廷であらそう弁護士なんかは、

さかんに論じ合いますよね。

 

 

 

自分が論理的な文章を書く時にも、じつは、

反論する相手を徹底的にやっつけてやろう、

という意識が、

どこかで働いているのかもしれません。

 

 

 

じじつ、

たとえば天機が、ブログでなにか論理的な文章をかくとき、

えてして、

文章が非常に長いものになりがちです。

 

 

 

それはつまりは、

相手側の反論も事前に考えて、

そんな反論をすら打ち破るような論理構成を

その文章中に盛り込もうとするから、

だんだんと文章のボリュームが大きくなってくるのかも

しれないのです((((;゚Д゚))))

 

 

 

これは、読む人にとっては、

ふむふむ、たしかに説得力があるなあ、とか、

きちんと反論の可能性についても目配りされているなあ、とか、

好意的に受け取ってもらえる可能性も、あるかもしれません。

 

 

 

しかし、じつは、それというのは、

天機の論理性や客観性が、

ポジティブなかたちで表出したものであるばかりでなく、

 

 

 

他人なんかいらないや

 

 

 

という、天機の性格のある種の病的な性質が、

漏れ出たものであるかもしれないのですね。

 

 

 

この、他人なんかいらないや、という考え方は、

1つの自己完結をうみだします。

 

なんでも自分1人で完結してしまい、

そこに他人の介在する余地がなくなる、ということです。

 

 

 

そうなると、どうなるかといえば、

他人といっしょに作り上げていくような、

いわば1つの、

 

 

 

共同作業

 

 

 

のようなものが、ことごとく苦手になっていく、

ということとして、あらわれてくるのですねΣ(゚д゚;)

 

 

 

たとえばそれは、

2人の会話で織り成していく、会話文を創作するのが

苦手、ということになってあらわれてきます。

 

また、

2人で愛情をつむいでいく恋愛とかも苦手になってきます。

 

さらには、

お互いが相手の出方を読みあい、はかりあう

ことが必須の呼吸となるような、

スポーツとか、囲碁将棋とか、

そういった勝負事全般も、弱くなってしまうのです((((;゚Д゚))))

 

というのも、戦いもまた、

それに勝利するためには、

自分の主張だけを通そうと思っては、

なかなか勝てないからです。

 

 

 

と、このように、

自分のブログの文章が長いこと、

やたら論理的すぎること、

論理的な文章を書くのは得意だけど、

会話文はてんで苦手であること、

などの深層にあるものを掘り下げていくと、

じつは、

 

 

 

自分1人で完結していればいいんだ

他人なんかいらない

 

 

 

というような、

広言するのをはばかられるような、

自分の性質があぶりだされてくるようにも思いました。

 

 

 

じゃあ、結局どうすればいいんだ?

ということなんですが。

 

 

 

いままでそうやって自己完結をなりわいとしてきた人間が、

いきなり他人と共同してわいわいやっていこう!

というのも、なんだか無理があるような気がします(>_<)

 

 

 

だから、一歩ずつ、すこしずつ、

すすめばいいと思うのですが、

その第1歩は、

 

 

 

他人を介在させる余地をすこしのこしてみる

 

 

 

ことかもしれません。

 

 

 

つまり、文章で言えば、

徹頭徹尾、自分の論だけで最後まで突っ走り、

やたら長い長文を書くのではなく、

相手を徹底的に論駁したい気持ちをすこし、

ひかえめにしておいて、

相手の反論の余地をすこしのこしておく、

ということです。

 

 

 

今回は、このように、自分の性質について分析してみました。

 

 

 

ところで、自分と似たような性質を持つ人間が、

世の中にどれだけいるのかは、わかりません。

 

 

 

ですが、

なんとなく自分は孤独だなあ、とか、

他人が寄ってきてくれないなあ、とか、

そういった孤独感を感じているひとというのは、じつは、

ある種の自己完結をなりわいとしているために、

他人が寄り付きにくいのかもしれない、

と自分なんかは思ったのです。

 

 

 

もし、そういった症状を改善したいのならば、

他人もまた息をつけるような余地を、

自分の中から消さないようにすることが

いいんじゃなかろうか、と、

天機は自戒をこめて思いました。

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ