この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「ミニマリスト」が増える背景には。

こんばんわ。天機です。

(この記事の字数 約900字)

 

 

 

世の中には、「ミニマリスト」といわれる人たちがいます。

 

持たない暮らし、買わない暮らし、消費しない暮らし、

そういった暮らしに価値を感じ、それを実践していく人たちのことです。

 

ネットをみても、最近、こういった人たちが増えてきたのを感じます。

 

 

 

その理由のひとつとしては、

そもそも、可処分所得が少なくなってきて、

質素に暮らさざるを得なくなってきた、という事情もあるかもしれません。

 

でも、それだけでしょうか。

 

 

 

最近、大きな書店に行く機会があったのですが、そこで思ったのは、

「うわー、馬鹿みたいにたくさんの本があるなぁ」

ということでした。

 

実際、本屋さんには、一生かかってもとうてい読み切れないほどの本が

ならんでいます。

 

 

 

そして、こういったことは、本だけにかぎったことではないのです。

 

この世の中には、

本も、小説も、マンガも、アニメも、ドラマも、音楽も、映画も、ゲームソフトも、

数限りなく、すでに存在しています。

 

それらは、ひと1人が、一生かかっても、とうてい、

読みつくせない、見つくせない、聴きつくせない、やりつくせないほどの量で、

しかも、なおも日々、量産されていっています。

 

そういう作品群をまえにして、自分の気に入った作品をちょっとばかし

かじってみたところで、それは、いうならば、

 

大海をまえにしてコップで1杯の水をすくってみた、

 

だけのような感じかもしれません。

 

 

 

そこに生まれてくるのが、

1つの「無力感」のようなものではないでしょうか。

 

あまりにも膨大な作品群。

そのなかで、自分の気に入った作品に、すこしばかり、

自分の「痕跡」をつけてみても、

世の中には、はるかに多くの自分の知らない作品の山があって、

それらを知るには、

時間もエネルギーも、なにもかも足りない。

 

あまりにも膨大な作品群というのは、

人間に、ある種の残酷な「無力感」を刻印してくるものだと思うのです。

 

 

 

そこで、そういった現状への、ささやかな「抵抗」の一種として、

この世界に満ち満ちて、氾濫するさまざまなものをシャットアウトし、

一個の人間である自分と、その領域を守ろうとする試み。

 

それが、「ミニマリスト」とよばれるひとたちが、

ふえていくことの背景にあるものなのでは、と、天機は思います。