この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

法的安定性と処罰妥当性

みなさん天機です。

 

 

 

今回は、法律のお話を少ししてみようと思います。

 

 

 

天機は、大学は法学部でした。

 

法学部に進学するまえに、1、2年生では一般教養があるのですが、

その一般教養の授業に、

法律の基礎的な考え方をまなぶ法1、法2という授業がありました。

 

そこで教わったのが、法的安定性と処罰妥当性の考え方です。

 

 

 

法律を解釈したり、裁判官が判決を書いたりするさいには、

この、法的安定性と処罰妥当性の双方に目配りする必要があります。

 

 

 

法的安定性というのは、

法体系全体のなかでバランスのとれた判断になっているかどうか、

ということを問題にする視点です。

 

ほかの法律や条文、あるいは、過去に裁判所が下した類似の事例にたいする

判決を考えあわせながら、

それらと整合性がとれているのかどうかを、

いわば理によって論理的に考えていくものです。

 

 

 

いっぽうで、処罰妥当性というのは、

その事件限りの判断にかんするもので、

処罰を加えたほうがいいのかどうか、国民の処罰感情などにも留意しながら、

判断していくものです。

 

どちらかというと、感情がおおきな役割をはたす視点であるように、

天機には思えます。

 

 

 

この、法的安定性と処罰妥当性の2つの視点は、

実際に事件を解決するうえで法的な判断を下すさいに、

対立することがあるのです。

 

 

 

角を矯めて牛を殺す、という言葉があります。

 

小さな問題を解決しようとして、かえって大きな災いを生んでしまうことを言います。

 

 

 

法的安定性と処罰妥当性の問題に関しても、

この危険性があるのですね。

 

 

 

ひどい事件が起こったりすると、

犯人を死刑にしろ、厳罰化を、といった意見がネット上やメディアにあふれる

ことがあります。

 

 

 

犯人を死刑にしたり、厳罰化したりといったことは、

いわば、感情的な処罰感情に由来する意見で、

処罰妥当性にかかわるものです。

 

 

 

ところが、これを実際に実行して、

犯人を安易に死刑にしたり、厳罰を規定したりすると、

法体系そのものが危殆に瀕することがありうるのです。

 

 

 

刑法典の中に、刑法第39条という条文があります。

 

心神喪失者や心神耗弱者のおこなった犯罪行為について刑罰を科す

さいには、刑を必要的に減軽することが定められている条文です。

 

 

 

この条項は、ニュースでもときどき話題になります。

 

 

 

すごくひどい殺人事件、ひとが何人も死んでいるような凄惨な事件において、

たとえば犯人が、統合失調症などの精神障害を負っているために、

この刑法第39条の条項によって、刑が軽くされたり、

場合によっては罰せられなかったりすると、

国民の間に、憤りや怒り、不満が巻き起こることがあります。

 

 

 

そういうとき、ともすればひとは、

いかにも刑法第39条という条項は、社会的な正義を実現するうえで

邪魔な存在のように思えてくるのです。

 

 

 

ひとがひとを殺したりしてるんだろ?

何人もひとが死んでる凄惨な事件なんだろ?

 

なのに、精神障害があるだけで刑を免除されるって、おかしくない?

刑法第39条って、なんか意味なくね?

 

そう考える人も、少なくはないのかもしれません。

 

 

 

たしかに、実際に起こした事件の重大性との均衡で考えると、

犯人にはすべからく重罪でもって臨むほうが、

常識的でもあり、国民の処罰感情にも沿うでしょう。

 

 

 

ところが、刑法第39条というのは、

刑法、さらにいえば、近代市民革命以降に制定されることになる

かずかずの近代法の、

根幹をなすような基本原理と、切っても切り離せない関係にあるものなのです。

 

けっして、

精神障害者というのは、事理弁識能力がないかわいそうなやつだから、

お情けで刑を免除してあげようよ、

とかいった単純な考え方で規定された条項ではないのです。

 

 

 

では、刑法代39条と切っても切り離せない関係にある、

近代法の基本原理とは、いったい、なんなのでしょうか。

 

 

 

それは、

 

人間の自由な意思や理性といったものを、

すべての中心にして物事を考えていく思想

 

です。

 

 

 

近代のヨーロッパで、市民革命が発生するその前後には、

さまざまな近代的な思想が生まれました。

 

たとえば、

われ思うゆえにわれあり

と言って、人間の理性を出発点にして哲学を打ち立てた

デカルトなんかもそうです。

 

 

 

この世界のさまざまなことを把握するのには、

いろんな方法があって、いろんなことを考えなければならず、

関係してくる要素は、かならずしも人間の自由意思や理性だけではない

かもしれません。

 

しかし、近代法を生み出した、近代ヨーロッパというのは、

さまざまな要素をいわば切り捨てて、

人間の自由意思や理性といった、わかりやすいものを

よりどころにしたのです。

 

 

 

その意味で、近代法というのは、

ある意味で人工的で、どことなく奇怪な側面ももっています。

 

 

 

最近はテレビでもあまり時代劇をやらなくなりましたが、

以前は、

大岡越前や遠山の金さんといった番組が、お茶の間で愛されてきました。

 

 

 

人情や市井の状況につうじた名判事が、

状況に応じた血の通った判決をくだす。

 

そういった「大岡裁き」は、ここ日本ではとくに人気があって、

できたら現代の裁判にも、

そういった人間的ななにかを求める気持ちは、強いのかもしれません。

 

 

 

しかし、社会が拡大発展するにつれて、

紛争の数も種類も飛躍的に増大、多様化するようになって、

もはや単純な大岡裁きだけでは、

社会の諸問題を解決することはむずかしくなってきたのです。

 

 

 

そういった、社会の大きな変化が西洋にも、また、

近代法を受容した近代日本にもあって、

それで、ある意味で合理的な近代法の体系が、

近代社会に受け入れられるようになっていきました。

 

 

 

その近代法の体系は、

人間の自由意思や理性といったものを根幹にすえた人工的なものです。

 

この思想や哲学が近代法には流れていて、

それは、

刑法においては責任無能力者を罰しなかったり

故意犯処罰を原則にしたりといったことにあらわれてきます。

 

また、民法においては、契約においてなによりも

自由意思の存在を重視する、意思主義となってあらわれてくるのです。

 

 

 

このように、近代法には、

人間の自由意思や理性をなによりも重視し、

すべてはそこを出発点にして考えていくという姿勢、哲学のようなものがあって、

責任無能力者を処罰しないという原則に関わる刑法第39条は、

その哲学のあらわれなのです。

 

 

 

なので、

近代法の法体系全体にダメージをなんらあたえることなく、

刑法第39条を単体で刑法の体系から取り除くことは、

原理的に不可能です。

 

何度も繰り返しているように、刑法第39条は、

人間の自由意思を根幹にして考えるという、

近代法の基本原理と不可分な条項だからです。

 

処罰の根拠が人間の自由意思にある、とするのならば、

自由意思の存在が認められない者を処罰できないのは、

論理的な帰結になります。

 

 

 

ジェンガというおもちゃがあって、

1つの木片を引っこ抜くと、木でできた塔全体がくずれてしまう

可能性のあるおもちゃなのですが、

近代的な刑法の体系から刑法第39条だけを取り除こうとすることは、

あたかもジェンガで木片を抜くように危険なことになるでしょう。

 

 

 

ジェンガならば塔が崩れないこともありますが、

刑法第39条だけを取り除こうとするこころみは、

法体系全体に非常に深刻なダメージをあたえることになると、

天機は思います。