この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

フグのお話。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約3000字)

 

 

 

今回は、「フグ」のお話をしてみようと思います。

 

あの、食べるフグ、毒のあるフグです。

 

 

 

天機が学生時代に、卒業間近の社会科の最後の授業で、

先生が、フグのお話をしてくれました。

 

だいたい、以下のような話だったと思います。

 

 

 

フグっていうのは、毒があって、普通は食べられない。

 

 

 

大昔に、だれかが、フグを食べてみようと思い立った。

 

そのひとは、毒にあたって、死んだ。

 

 

 

そののちも、何人ものひとが、フグの毒にあたって、死んだ。

 

 

 

そのうち、いろんな食べ方を試してみるひとが、あらわれた。

 

 

 

あるひとは、フグのある場所だけ食べてみた。

 

残念ながら、毒にあたって死んだ。

 

 

 

また、べつのひとは、べつのところを食べてみた。

 

やっぱり、毒にあたって、死んだ。

 

 

 

そんなことを、営々と、何十年、何百年と繰り返すうちに、

 

人間は、やがて、

 

フグの毒にあたらないで、フグを食べることができるようになった。

 

 

 

とまあ、だいたいこんな感じのお話です。

 

 

 

これが、社会科の先生が、卒業間近の、

最後の社会科の授業で、僕たちにしてくれたお話なんですね。

 

 

 

その先生がしてくれた社会科という教科の授業は、

いまではほとんど忘れてしまったのですが、

なぜか、このお話だけは、

あれから25年ほどもたつのに、いまだに記憶に残っているんです。

 

 

 

その社会科の先生は、巣立っていく僕たちに、

1つのはなむけの言葉として、

このお話をしてくれました。

 

 

 

このお話の含意するところとか、教訓とかには、

いっさい、ふれることはなく。

 

 

 

 

 

 

先生は、いったい、このお話で、

ぼくたちに何を伝えたかったのだろう?

 

 

 

 

 

 

ぼくは人生で、ときどき、

このお話を思い返して、考えたりしていました。

 

 

 

それで、天機が考え付いた、このお話の教訓というのが、

じつは、このお話は、

 

 

 

人間の歴史

 

 

 

をあらわしているんじゃないだろうか?

 

というものだったのです。

 

 

 

人間は、狩猟や採集からはじまって、農耕、牧畜へとすすみ、

地域社会が誕生していきました。

 

 

 

そこから国家がうまれ、人間の歴史の多くの期間において、

血で血を洗うような征服戦争が繰り返されてきたわけです。

 

 

 

そんななか、人間は、人間の社会は、

いったい、どうしたら幸せになるんだろう、という思索から、

微妙な権力均衡のうえに成り立つ近代民主主義社会がうまれ、

第二次大戦後は、

特定の国を追い詰めすぎるとよくない、という反省から、

国連を中心とした国際秩序や、安保体制、自由貿易体制がうまれてきたのです。

 

 

 

人間が、こんにち、

当然のように享受している1つの「幸福」も、

じつは、長い長い先人の苦闘と、

それに対する反省や思索のうえに、ようやく築かれたものなんだ。

 

 

 

このことを、

何回も試行錯誤して食べようとしては死んでいった、

フグに挑んだ先人たちと、

ぼくたちが、こんにちでは、フグを普通に味わうことができている、

という事実になぞらえて、

伝えたかったんじゃないだろうか?

 

 

 

天機は、社会科は、歴史もその内容の1つにあるところから、

そんなふうに考えたんですね。

 

 

 

 

 

 

ところが、最近になって天機は、

世の中の背後に隠れた原理とか、森羅万象のこととかを、

よく考えるようになりました。

 

 

 

そんななかで、天機は、

社会科の先生が教えてくれた、あのフグのお話というのは、

じつは、

 

 

 

理に拠って立つ、

人間という生き物そのもの

 

 

 

のことも、あらわしているんじゃないだろうか、

と思えてきたのです。

 

 

 

 

 

 

フグというのは、毒がある生き物です。

 

そのフグは、海の中で生きています。

 

 

 

海の中で、フグに遭遇した生き物、つまり、

人間以外の生き物がとりうる選択肢は、2つです。

 

 

 

① フグに毒があることを知らずに食べて死ぬ

 

か、

 

② フグには毒があるから、と、食べるのをやめておく

 

か、の、いずれかです。

 

 

 

フグが、その身に毒を宿しているのは、その生存戦略上、

ほかの生き物が①の過程をへて、だんだんと②に向かっていくように、

と期待してのことだろうと思います。

 

 

 

実際、海の中にいるほかの生き物には、事実上、

①か②かの選択肢しかなく、

その「あいだ」はないのです。

 

 

 

 

 

 

ところが、人間はちがいました。

 

 

 

人間は、①と②のあいだには、

 

 

 

あいだがあるんじゃないか?

 

 

 

と思ったのです。

 

 

 

フグをそのまま食べて毒にあたって死ぬ、のでもなく、

フグの毒にあたらないかわりにその身も食べることができない、のでもなく。

 

 

 

「フグは食べられる」のでも、「フグは食べられない」のでもなくて、

 

 

 

フグには、食べられる「部分」と、

食べられない「部分」があって、

食べられる「部分」は、

食べることができるのだ

 

 

 

ということを見出したのです。

 

 

 

「あいだ」に着目するということ、

本当にそうなのかな?と常識をうたがうこと、

細かく対象を分析していくこと。

 

 

 

それが、人間に特徴的な「理」であって、

その「理」を用いるからこそ、そして、その「理」を用いてはじめて、

人間は、

他の生き物が成し遂げることができなかった、

 

 

 

みずからは死ぬことなく、フグの美味を味わうこと

 

 

 

を、可能にしたのです。

 

 

 

 

 

 

人間に特徴的な「理」は、もう1つ、

べつな側面にもあらわれています。

 

 

 

それは、

 

 

 

フグのどの部分が食べられて、どの部分が食べられないか、

という「知識」を、

時をこえて、

後世につたえていくことができたこと

 

 

 

です。

 

 

 

人間も、その他の生き物も、日々、いろんなことをします。

 

 

 

ほかの生き物を食べたり、眠ったり、生殖活動をしたり、といったこと、

つまり、

 

 

 

「生」にかかわること

 

 

 

は、人間ならずとも、ほかの生き物でもやっていることです。

 

 

 

しかし、この、「生」にかかわることというのは、

百年一日とでも言いましょうか、

おなじところを小さくぐるぐる回る円のように、あるいは、

寄せては返す波うち際の波のように、

変化のないものです。

 

 

 

こんにちの、人間も、ほかの生き物も、

なにかを食べ、眠り、生殖活動をしていますが、

千年前、一万年前、百万年前の人間も、ほかの生き物も、やっぱり、

なにかを食べ、眠り、生殖活動をしていたでしょう。

 

 

 

ところが、時代を超えてなされる知識の伝達は、これとは違います。

 

 

 

人間の「理」の発現である、時代を超えての知識の伝達は、

「蓄積」を可能にする、

不可逆な直線のような性質をもっています。

 

 

 

いったん、

フグのある部位は毒にあたって死ぬのだ、ということが、

後世の人間に伝達されたならば、

後世の人間は、こんどは、

その部位はもはや最初から検討することなく、

次の部位から試していけます。

 

 

 

この意味で、

時代を超えての知識の伝達というのは、

おなじところを百年一日のごとく、ぐるぐる回るだけの円ではなく、

宇宙をまっすぐにつらぬく1本の直線のように、

不可逆な、蓄積を可能にする性質をもっていて、

これこそが、

人間の「理」の発現なのです。

 

 

 

まとめると、以下のようになります。

 

 

 

社会科の最後の授業で、先生が教えてくれた「フグのお話」

というのは、

二重の意味で、

理に拠って立つ人間そのもののことを、言い表わしていたのではないだろうか。

 

 

 

1つは、

物事にはあいだがある、と考えて、

常識にとらわれることなく、対象を細かく分析していくという姿勢において。

 

 

 

もう1つは、

人間が得た知識を、時代を超えて後世に伝えていくということにおいて。