この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

不快なニュースは、見る必要はないのでは。

こんにちわ。天機です。

(約 2400字)

 

 

 

きょうは、世の中にあふれる、ニュースについて

書いてみたいと思います。

 

 

 

天機は最近、パソコンのブックマークから、

ヤフーニュースをはずしました。

 

 

 

これまでは、ブックマークにヤフーニュースがあって、

日々のニュースといえば、

ヤフーニュースのヘッドラインをチェックするのが、

いわば習慣になっていたのです。

 

 

 

でも、最近思ったんですよね。

 

 

 

なんか、ヤフーニュースの記事の掲載基準というか、

扱う内容というか、

特集記事とかが、

自分の考え方や価値観とは合わず、

不快な気持ちになることが多いな、って。

 

 

 

これは、人それぞれなんだろうと思います。

 

 

 

あるひとは、

ヤフーニュースの記事にとても共感するかもしれませんし、

またあるひとは、

べつのニュースサイトとか、べつの新聞とかを読んだときに、

不快な気持ちになるかもしれません。

 

 

 

たまたま自分の場合は、

ずーーっとヤフーニュースに親しんできたなかで、

なんか不快な思いをすることが多いな、

ということに気づいただけなのです。

 

 

 

日々生活していると、いろんなニュースにふれます。

 

楽しい、明るいニュースもあれば、

暗く、いやなニュースもあるでしょう。

 

 

 

また、一般人基準ではなくて、

自分個人にとって、個人的に、

楽しい気持ちになるようなニュースもあれば、

いやな気持ちになるようなニュースもあるでしょう。

 

 

 

そんななかで、天機は最近、思ったのです。

 

 

 

人生、生きていく中で、

不快なニュースを見て、

わざわざ不快な気持ちになるって、

それって、意味あるのかな?

 

 

 

って。

 

 

 

たとえば、日々のニュースには、

どこどこの政治家が不正に利益を受け取っていた、とか、

政府が国民の反対にもかかわらず〇〇を強行した、とか、

どこどこの家では親が子供を虐待した、とか、

どこどこの学校ではひどいいじめがあった、とか、

まあ、いろいろあるわけですよ。

 

 

 

でも、考えてもみてください。

 

 

 

そのニュースを僕らが見たからっていって、

不正な利益を受け取った政治家にお仕置きできますか?

 

国民の意見を無視して〇〇を強行するのを、政府にやめさせることができますか?

 

子供を虐待した親を、ボコボコにできますか?

 

いじめをおこなったやつらに報復できますか?

 

 

 

自分はたぶん、できない、と思うんですよね。

 

 

 

そして、それができないということは、つまるところ、

どういうことかというと、

 

 

 

不快な気持ちは味わわされるのに、

なにもできないという無力感だけが増幅される

 

 

 

ことになるだろうと、天機は思うのです。

 

 

 

そして、この近代民主主義社会においては、

気をつけていないと、この、

 

 

 

無力感増幅装置

 

 

 

みたいなものは、あらゆるところに仕掛けられているんです。

 

 

 

たとえば、選挙なんかもそうでしょう。

 

国民の権利を行使しよう、1票を投じよう、

なんて言うかもしれませんが、

所詮は、1票は1票に過ぎないわけですよ。

 

 

 

そりゃ、候補者の当落が、すごい接戦にでもなっていれば、

自分の1票の価値も、だんだん大きくなってくるかもしれません。

 

 

 

でも、

当選した候補が100万票、

次点の候補が40万票、とかいった選挙だと、

はっきりいって、

自分の1票なんて、

あろうがなかろうが、大勢には関係ないわけですよね。

 

 

 

世界の富豪ランキングなんかも、そう。

 

何兆円という金額を持っている富豪に、

一瞬は心が騒ぐかもしれませんが、

その反面でたぶん、心は、

自分が無力であること、そんな富豪に比べたら、

取るに足らない存在であることを、都度、認識してるような気がするんですよね。

 

 

 

ヤフーニュースにはコメント機能もついていますが、

そのコメントに、そう思う、そう思わない、

っていうボタンをクリックしても、

何千クリック、何万クリックのうちの、1つにすぎない。

 

 

 

YouTubeの動画に、

いいね、というボタンを押しても、やっぱり、

何百万、何千万のクリックの1つにすぎないわけです。

 

 

 

この広い広い宇宙には、

それこそ、無数の星があるわけです。

 

そんな、数えきれない星のことを前提として考えるなら、

太陽も、

ただのそんな星の1つにすぎないわけです。

 

 

 

太陽は、あきらかにこの宇宙に存在する無数の星とはちがって、

この地球に暮らすものにとっては、

なくてはならない、唯一の存在です。

 

 

 

でも、数、ということに立脚して考えるならば、

「1」というのは、とたんに、

もっとも無力な存在になってしまうのです。

 

 

 

話がそれてきたので、すこし整理します。

 

 

 

世の中には、不快なニュースがあるけれど、

それら不快なニュースというのは、

不快であるだけで、

そこで起こっていることについて、

僕らは、基本的には、なにもできない。

 

そこに僕らは、自分たちの影響力を行使できない。

 

そのために、無力感を感じる。

 

つまり、不快さの背景には、無力感というものがひそんでいる。

 

そして、近代民主主義社会には、

この「無力感」を増幅させる「装置」がいくつもあって、

新聞やテレビなどといった、

ニュースを配信してくるメディアもまた、

そんな「無力感増幅装置」の1つである。

 

そして、その無力感は、いったいどこからやってくるのだろう?

といえば、それは根源的には、

 

 

 

数の論理、数の体系を重視する価値観においては、

多いほど素晴らしく、

「1」などは、

もっとも無力で弱い存在になりさがってしまう

 

 

 

ということから来るものなんだろうと思います。

 

 

 

だからこそ、

ただ惰性のように、

流れてくる圧倒的な量の不快なニュースにこの身が曝露されることを拒否して、

つまり、

不快だなあ、と思ったら、

そのニュースをはなから見ない、ということも選択肢の1つにおいて、

自分でじっくり考えることのできるニュースをえらび、

たとえば、

特定のニュースのテーマについては、

自分の考えをブログやその他のSNSで表明、共有することで深めるなど、

 

 

 

自己の影響力を保持、回復するような

 

 

 

そんなスタンスも大切なんじゃないかな、と、

そんなふうに思いました。