この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

〇〇離れ、の背景にあるもの。

こんにちわ。天機です。

(約 1500字)

 

 

 

最近、世の中では、〇〇離れということが、さかんに言われるようになっていて、

その数や種類も、だんだんと増えています。

 

 

 

恋愛離れ、結婚離れ、ゲーム離れ、漫画離れ、小説離れ、本離れ、

テレビ離れ、新聞離れ、旅行離れ、海外離れ、クルマ離れ、

活字離れ、部活離れ、スポーツ離れ、スキー離れ、

 

いろいろです。

 

 

 

こういった、〇〇離れが起きる背景には、

いろんなものがあると思います。

 

 

 

単純に、可処分所得が少なくなった。

 

ネットで楽しいことがいろいろできるようになって、

興味の大半がそっちに移ってしまった。

 

人々が疲れてしまって、

いろんな行動をする元気がなくなってしまった。

 

 

 

いろいろ原因はあるでしょう。

 

 

 

しかし天機は、こういった〇〇離れの背景に、

共通してある原因として、人々が、

 

 

 

楽しいことがある、という「プラス」と、

苦しいことがある、という「マイナス」を検討して、

プラスがある、というだけでは、

動かなくなってきた

 

 

 

ということがあるのかも、と思ったのです。

 

 

 

たとえば。

 

 

 

登山というのは、

登山をする人からすれば、

登ってる最中は苦しくても、山頂に到達して、

山頂からの景色をながめれば、疲れなんかいっぺんに吹き飛ぶんだ、

なんて言うかもしれません。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

 

 

登山というのは、その大半は、登っている時間が占めていて、

それはとても苦しい時間です。

 

もしかしたら、

その登っている時間の苦しみと、

山頂に到達したときの喜びを比較した場合、

後者の喜びでペイできないくらい、

前者の苦しみの度合いは、大きいかもしれないのです。

 

 

 

部活もそうです。

 

 

 

全国大会に出場することを目指すような、

たとえば、サッカー部なんかの場合、

普段の練習とかは、

非常にハードなものになることが予想されます。

 

 

 

そういうときによく言われるのは、

辛く苦しい練習があったとしても、

大会で結果をだせれば、

そんな苦しさはいっぺんに吹き飛ぶんだ、といったことでしょう。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

 

 

普段の練習の時間というのがすごい長いのに比較して、

本番の試合なんて、ほんの一瞬みたいなもんです。

 

 

 

もしかしたら、

普段の練習の時間の長い苦しみというのは、

本番の試合に勝った喜びではペイできないくらいに、

はなはだしいものではないでしょうか。

 

 

 

よく、学校の運動部では、

いじめの問題がおこったりするのですが、あれなんかも、もしかしたら、

普段の練習が異常につらすぎるから起こっているのかもしれません。

 

 

 

それなのに、さも当然のように、

たとえ苦しくても頑張って結果をだすことは素晴らしいことなんだ、

と思考停止して、安直に結論をだしていいのでしょうか。

 

 

 

世間の〇〇離れと言われるものを見ていくと、

ほとんどが、

それをすることで得られる喜びの背後に、

たとえば、肉体的なしんどさだったり、手間暇だったり、

コストだったり、といった、

 

 

 

いやなこと

 

 

 

が隠れているんです。

 

 

 

これまでだったら、ひとびとは、

そうはいってもそれは楽しいものなんだ、

と、なんとなく思ってきたかもしれない。

 

そう思ったからこそ、それらをやってきたのかもしれない。

 

 

 

でも、最近になってひとびとは、

それをやることで味わう「いやなこと」は、

それをすることで得られる楽しみや喜びではペイできないんじゃないか、

と思い始めたんではないでしょうか。

 

 

 

それは、どういうことを意味しているかというと、

ひとびとが、

楽しみや喜びといった「プラス」よりも、

苦しみやいやなことといった「マイナス」に、

より敏感になってきた、ということだろうと思います。