この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

重力が存在する理由について考えてみた。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、引力や重力について、考えていきたいと思います。

 

 

 

地球には重力があって、

地球上のいろんなものは、地球に引っ張られて、重さを持っています。

 

また、太陽なんかも重力をもっているので、

それにひきつけられるかたちで、

地球をふくめた太陽系の惑星は、

太陽の周りを公転しています。

 

 

 

こういった、引力や重力なのですが、

現代物理学においても、

この宇宙における基本的な力の1つとして、

重力や引力が存在していることはわかっていても、

いったいなぜ、そのような重力や引力のようなものが

発生するのか、といったことや、

引力の正体は何なのだろう、重力の正体は何なのだろう、

といったことなど、

その根本的な原理や理由については、

十分に明らかにはされていない、といいます。

 

 

 

もちろん、こういった重力や引力の発生原理についても、

現代物理学の専門家たちが、日夜、研究に励んでいることでしょう。

 

ですがここでは、天機は、例によって、

そういった専門的な知見や、科学的な学説を

ばっさばっさと無視しながら、

引力や重力の発生原理について、独自説をたててみたいと思います。

 

 

 

天機の重力理論というのは、

天機の理論においてよく登場する、

「生の原理」と「理の原理」から、はじまります。

 

 

 

ほかでもない、この自分自身が生きるためには、

他者を犠牲にしてもいいのだ、とする、

自己の生存や利益を追求する原理が、生の原理です。

 

 

 

それに対して、

この世界には、自分と他者の、両者があって、

他者が他者として存在することを認めて尊重する原理が、

理の原理です。

 

 

 

このように、この世界には、

生の原理と、理の原理の、

あわせて2つが存在する、というのが、天機の考えです。

 

 

 

さて、つぎにここで、

体(たい)と心(しん)というものについても、考えてみましょう。

 

 

 

人間にも、男性と女性がいますが、

男性も女性も、カラダとココロをもちます。

 

肉体と、精神です。

肉体にあたるのが体(たい)で、精神にあたるのが心(しん)です。

 

 

 

なんでわざわざ、

体(たい)と心(しん)なんていう、もったいぶった言い方を

しているのかというと、

天機は、人間の肉体や精神からはなれて、

 

物事の外側に在って大きなものを体(たい)という言葉で、

物事の内側に在って小さなものを心(しん)という言葉で、

それぞれ、あらわしてみようと考えているからです。

 

 

 

では、ここまで述べてきたことを、整理してみましょう。

 

この世界には、生の原理と、理の原理があります。

また、この世界には、体(たい)と心(しん)があります。

 

 

 

天機はここで、

この、生の原理と理の原理、というものと、

体(たい)と心(しん)というものについて、

相互の結びつきのありようについて、考えてみました。

 

すると、それぞれが結びつく結びつき方には、

以下のようなパターンがあるように思えます。

 

 

 

①理の原理と、体(たい)が結びついたもの

②理の原理と、心(しん)が結びついたもの

③生の原理と、体(たい)が結びついたもの

④生の原理と、心(しん)が結びついたもの

 

この、4パターンです。

 

 

 

天機はここからさらに、

人間の男女について、

男性の体と男性の心、女性の体と女性の心、

というふうにわけて、考察をすすめていきました。

 

そうして天機が考えた、人間の男女の、

心と体のありようというのが、以下のようになります。

 

 

 

男性の体=生の原理と体(たい)が結びついたもの

男性の心=理の原理と心(しん)が結びついたもの

女性の体=理の原理と体(たい)が結びついたもの

女性の心=生の原理と心(しん)が結びついたもの

 

 

 

それぞれについて、具体的にくわしく見ていきましょう。

 

 

 

男性の体というのは、

自己が生きるためならば他者を犠牲にしてもかまわない、

という生の原理が体(たい)と結合したものです。

 

したがって男性は、

気に入らないことがあれば、まずもって肉体的な暴力に訴えやすく、

また、性的衝動にかられて、

その肉体が女性を攻撃することがあるのです。

 

 

 

男性の心というのは、

他者の存在をみとめ尊重するという理の原理が心(しん)

と結合したものです。

 

したがって、男性は、

自己と他者を区別したり、なにかとなにかを判別して、

違いを重視して分析しながら思考する傾向があり、

つまりは、自分の中で思考するのを好み、

論理的なものを愛します。

 

 

 

男性がいついかなるときでも論理的で理性的だ、

と言っているのではありません。

 

男性は先に述べたように、

その肉体が生の原理と結合した体なので、

暴力に訴えやすく、性的な暴力にもでやすいのです。

 

そうなのですが、あくまでも頭脳の中だけのことをいえば、

男性の心は、理の原理と心が結合したものであるために、

思考重視、論理重視に傾きやすい、ということがいえるでしょう。

 

そういった傾向は、たとえば、

男性のほうがどちらかといえば、

囲碁や将棋、チェスといった頭脳ゲームを選好しやすい、

といったことや、

口論になったときなどに、理詰めで相手に迫る傾向がある、

といったことなどにあらわれているかもしれません。

 

 

 

女性の体というのは、

他者の存在をみとめて尊重するという理の原理が体(たい)

と結合したものです。

 

このことは、女性の体が、

他者を育むという性質をもつことにあらわれているように思われます。

 

 

 

たとえば、女性には、男性にはないおっぱいがありますが、

そのおっぱいは、乳幼児を養います。

 

また、女性のからだは、妊娠、出産をつうじて、

胎児という「他者」をこの世界へと送り出すのです。

 

 

 

こういった、他者をはぐくみ、他者をやしなうという、

女性の体のもつ特徴は、

他者の存在をみとめてそれを尊重するという理の原理が

体(たい)と結びついたものが女性の体であるからこそ、

生じてきた特徴なのだろうと、天機は考えています。

 

 

 

女性の心というのは、

自己の利益や生存のためならば他者を犠牲にしてもかまわないのだ、

という生の原理が心(しん)と結合したものです。

 

なので、女性というのは自己中心的な考え方をする傾向があるのだ

…と言ってしまいそうになるのですが、

そうすると、女性陣からの猛反発を喰らいそうですよね。

 

自分勝手なのは女性ばかりじゃない、

男性にだって、自分勝手なひとはたくさんいる、と。

 

 

 

なので、この点については、慎重に考えてみる必要がありそうです。

 

 

 

言い方をかえてみると、

女性の心というのは、どちらかというと、

自分の欲望に正直であり、自分の欲望に忠実である、

ということが言えるかもしれません。

 

 

 

男性は、自分のためなら他者を犠牲にしてもかまわないのだ、

という生の原理が、先に見たように、

肉体と結合しています。

 

なので、男性は気に入らないことがあると、

肉体的な暴力にうったえやすく、また、

古来から、戦争を頻繁におこなってきたのも、男性です。

 

 

 

女性は、自分のためならば他者を犠牲にしてもかまわないのだ、

という原理が、その肉体とは結びついていません。

 

なので、どちらかといえば、男性に比べて、

肉体的な暴力にうったえる傾向はすくないかもしれない。

 

 

 

じゃあ、女性の中には、

自分のためならば他者を犠牲にしてもかまわないのだ、

といった要素はまったくないのか、といえば、

その原理は、肉体ではなく、心と結びついているのです。

 

なので、たとえば、

口げんかになったときなどは、男性は女性には容易には勝てない、

といった傾向となって、あらわれてくるようにも思うのです。

 

 

 

理の原理が心と結びついていれば、それは、「いい心」、

生の原理が心と結びついていれば、それは、「悪い心」、

と、単純に考えてしまいそうにもなりますが、

それは真実ではないのかもしれません。

 

 

 

天機の考えでは、

理の原理が人間の心と結びついた場合には、

それは分析的な「思考」になってあらわれるような気がします。

 

思考というのは、なにかとなにかは違うのだ、

とする「判別」が基礎になっていますから、そのあらわす数字は「2」です。

 

そして、2というのは、理の数字でもあります。

そういった、理の原理に基づいた、分析的な思考を特徴とするのが、

男性の心というわけです。

 

 

 

一方で、

生の原理が人間の心と結びついた場合には、

それは共感的な「感情」になってあらわれるような気がします。

 

共感というのは、

誰かと一緒の気持ちを味わいたい、といったことや、

対象の中にみずから没入したい、といったことを基礎としていますから、

そのあらわす数字は、同一性をあらわす「1」です。

 

そして、1というのは、生の数字でもあります。

そういった、生の原理に基づいた、共感的な感情を特徴とするのが、

女性の心というわけです。

 

 

 

もう一度、整理してみましょう。

 

 

 

男性の体=生の原理と体(たい)が結合したもの

男性の心=理の原理と心(しん)が結合したもの

女性の体=理の原理と体(たい)が結合したもの

女性の心=生の原理と心(しん)が結合したもの

 

 

 

このように、天機は考えています。

以上が、理の原理と生の原理、体(たい)と心(しん)の、

 

人間における

 

あらわれです。

 

 

 

天機はここからさらに、こんなことを考えました。

 

「この理の原理と生の原理、そして、体(たい)と心(しん)の

 相関関係というのは、

 人間においてばかりではなくて、

 

 天地自然の中にも

 

 あらわれるんじゃないだろうか?」と。

 

 

 

天地自然。

 

天機はこれについて、ばっさりと考えてみました。

 

 

 

世界に1本の線をひくと、天と地があらわれます。

 

天には、天空と太陽(火)があります。

地には、大地と水があります。

 

 

 

こういうふうにざっくり分けることに対しては、

もちろん、当然予想される反論があることでしょう。

 

 

 

天って言ったって、宇宙にはそれこそ無数の星があって、

太陽だけじゃないぞ、とか。

 

太陽はわかるけど、月はどうするんだ、とか。

 

大地って言ったって、なかには金属だのなんだの、

いろんなものが埋まってるぞ、とか。

 

大地の上にある木々とか、動物とか、ビル群とか、

そんなものは無視していいの、とか。

 

水って言ったって、H2Oっていうひとつの物質じゃん、

それに注目するのなら、

周期表に載っているほかの元素には注目しなくていいの、とか。

 

たくさんの反論がありそうなんです。

 

 

 

でも、天機がうえのようにザックリわけたのには、

天機なりの基準があるのです。

 

 

 

1つは、

 

人間にとって重要な意味があるのかどうか。

人間にとって、無ければ困るものなのか、どうか。

 

という基準です。

 

 

 

この基準は、科学とかが基準とするものとは、異なります。

 

 

 

科学は、べつに人間を中心には、考えていません。

製薬なんかについてみてみても、

物質に関する研究がまずあって、そのなかで、

ああ、これは人間の病気にも役立ちそうだなあ、というものが、

薬になっているだけのことです。

人間が、人間が、と思わないのが、科学です。

 

 

 

こう言うと、科学は人間の福利向上のために研究されているんだ、

という反駁があるでしょうから、付言すると、

たしかに、

「科学研究の動機」には人間存在がありますが、

その、具体的に人間に効用をもたらすところの科学法則は、

べつに、人間に限って適用されるものではなく、

普遍的な汎用性があるのであって、

たまたま、「人間にも使える」というだけのことです。

 

 

 

天機の理論はちがいます。

天機の理論は、「人間が」というものと、切り離せないのです。

 

 

 

人間にとって重要な意味があるのか、

人間にとって無ければ困るのか、といった基準に照らして考えてみると、

この宇宙に、太陽以外にも、

何光年も離れたところに星があっても、

人間の生活には直接かかわらないので、どうでもいいです。

 

同様に、地球に関わるものとしては、

太陽以外に月もありますが、

もし、月がなくなったとしても、潮汐などには影響があるかもしれませんが、

その影響の大きさは、

太陽がなくなったときに受ける影響の大きさとは、

くらべものにならないでしょう。

なので、月もどうでもいいです。

 

 

 

天機がうえのようにざっくりわけるにあたって、

もう1つ基準にしたのは、

 

この人間世界において大を占めるものであるのか

 

ということです。

 

 

 

この世界では、天空というのは、めちゃくちゃ大きいでしょう。

太陽も、でっかい。

 

地球は、それに比べるとすこしは小さいですが、

それでも大きい。

 

そして、水というのは、

地表の表面面積の7割も占めているということで、

地球そのものにくらべたら小さくても、それなりに大きい。

 

 

 

すごく大きな部分を占めているのかどうか、

という基準があるので、

水はH2Oというひとつの物質にすぎないのですが、

ほかの周期表にのっているような元素は、

水ほどの容量がおそらくないだろうので、却下されます。

 

同様に、

大地の上にある木々とか、生き物とか、ビル群とかも、

太陽や天空、地球や水にくらべると、

くらべものにならないほど小さいので、却下されます。

 

 

 

以上のように考えるので、天機は、

この人間世界における天地自然を、おおまかに、

 

天=天空+太陽(火)

地=大地+水

 

というように分けたのです。

 

 

 

いまでこそ科学というものが、

宇宙の果てのことからさまざまな元素に至るまで、

「細かく、細かく」研究して成果をあげているので、

現代人というのは、分析するというのは細かく分析するということなのだ、

という思考パターンに慣れているかもしれません。

 

 

 

しかしながら、人間のその長い歴史においては、

今日では誤りとされてはいるものの、

「万物の根源は火だ」とか、

「万物の根源は水だ」とか、

「万物の根源は数だ」とか、

非常に「ザックリとした」世界観を提示した人は、

それなりにいたわけです。

 

 

 

そんななかで、

古代ギリシャローマの時代から、イスラーム世界、

そして、18、19世紀くらいまでの西洋において存在していた

基本的な考え方に、

 

四元素説

 

というものがあります。

 

 

 

これは、万物の生成流転の背景には、

 

火 土 空気 

 

という4つのものがある、とする考え方なのですが、

天機がうえでのべた天地自然の4分類も、

 

天空(空気)

太陽(火)

大地(土)

 

というふうに分けるものであるので、

西洋の四元素説とのあいだに、一定の類似性のようなものを見出すことも、

もしかしたら、できるかもしれません。

 

 

 

さて、このように天機は、この天地自然を、

天空、太陽、大地、水、

というふうに分けたわけなのですが、ここで天機は、

これら4つのものと、

理の原理と生の原理、体(たい)と心(しん)、

それぞれの相関について考えてみました。

 

そうして天機が考えたモデルというのが、以下のようになります。

 

 

 

天空=生の原理と体(たい)が結合したもの

太陽=理の原理と心(しん)が結合したもの

大地=理の原理と体(たい)が結合したもの

水=生の原理と心(しん)が結合したもの

 

 

 

天地自然もまた、このように、

理の原理や生の原理、体(たい)や心(しん)との相関を考えて

モデル化できるというのが、天機の考えなのです。

 

 

 

ここで、人間の男女と天地自然について、

あわせて考えてみると、以下のようになることがわかります。

 

 

 

男性=天

男性の体(天空)男性の心(太陽、火)

 

女性=地

女性の体(大地)女性の心(水)

 

 

 

非常に突拍子もない考え方だとは思いますし、

天機も、これが正しいのだ!

というつもりで、このようなモデルを押し付けるつもりはありません。

 

天機という変わった人間が思いついた、

ひとつのモデルにすぎないのです。

 

 

 

 

ただ、天機がどういった考えをもとにして、

このように考えたのかについて説明することも、

あながち、意味のないことでもありますまい。

 

天機の考えというのは、以下のようになります。

 

 

 

まず、人間の女性の体というのは、

乳を出したり、子供を出産したりと、

命を産み出し、それをやしなうところがあります。

 

そして、大地にも、

そこに種をまけば、やがては農作物などが育ってきて実る、

という性質があります。

 

 

 

なので、大地というのは、女性の体との対応関係があるのではないか、

と思ったのですね。

 

 

 

地球においては、

おおきな大地の中から、それとくらべると「小さな」水が湧いて来たり、

「水たまり」と言ってもいいかもしれない、海や湖がありますよね。

 

人間の体でも、

外側のおおきなカラダがあって、その内側にちいさなココロがあります。

 

 

 

なので、

大地というのがおおきな女性のカラダに相当するのなら、

水というのは、そのなかにある女性のココロだろうと、

あたりをつけたわけです。

 

 

 

男性の体というのは、女性の体にくらべると、

一般的に大きいことが多いです。

 

おおきな大地というのが女性の体だとするならば、じゃあ、

それよりももっともっと大きな、

男性の体にあたるのはなんだろな、と考えたときに、

それは、天空ではないだろかな、と思ったのですね。

 

 

 

そして、

おおきな男性のカラダの内側には、ちいさな男性のココロが

蔵されていることを考えると、

天空というのがおおきな男性の体に相当するものならば、

その天空の「中に」ぽっかりと存在する太陽というのは、

男性の心に相当するものなんじゃないだろか、と、

まあ、こんなふうに考えてきたのですね。

 

 

 

こういったことから、

 

天空=男性の体=生の原理と体が結合したもの

太陽=男性の心=理の原理と心が結合したもの

大地=女性の体=理の原理と体が結合したもの

水=女性の心=生の原理と心が結合したもの

 

というふうに考えた、というわけなのです。

 

 

 

 

 

 

このことについては、もう少し詳しく見ていくこともできそうです。

 

 

 

人間の、心と体について考えてみましょうか。

 

 

 

人間の心と体については、どちらかといえば、

 

心は容易に変化する傾向があるが、

体はあまり変化しない性質がある

 

というように思います。

 

 

 

もちろん、

生まれてからだんだんと大きくなり、やがては年老いて腰も曲がってくる、

といったように、

とても長いスパンでみれば、

体も変化するものであることは間違いないです。

 

 

 

ですが、

昨日会った友達に今日会ってみれば頭に角が生えていたとか、

学校から家に帰ってみれば妹の腕が3本になっていたとか、

そういうことはありえないわけです。

 

 

 

でも、心はちがいます。

 

さっきまで怒っていたと思えば、

美味しいケーキを食べたので機嫌がなおったとか、

楽しくサッカーをしていたのに雨が降ってきて

うんざりした気分になったりとか、

すごく「短期の時間軸において」変化しやすいのです。

 

 

 

心には、体とちがって、このような

 

易変化性

 

があるように、天機なんかは思うのですね。

 

 

 

では、天地自然においては、どうでしょうか。

 

天地自然において、「体」にあたるのは、

天空=男性の体=生の原理と結合した体、と、

大地=女性の体=理の原理と結合した体、です。

 

人間の体というのは、どちらかといえば変化しにくいものだという

お話をしましたが、

天地自然のなかでの「体」についても、

この変化のしにくさというのは、あると思うのですね。

 

 

 

天空が落ちるといったことはまずありませんし、

地震はたまにはありますが頻繁ではなく、

大地が裂けるといったことも、めったにおこらないわけです。

 

 

 

つまり、

人間においては体というものが容易に変化しないのと同様に、

天地自然のなかにおいて体(たい)にあたるものを考えてみても、

天空=男性の体=生の原理と体が結合したもの、も、

大地=女性の体=理の原理と体が結合したもの、も、

容易には変化しないわけです。

 

ということなので、

人間と天地自然の双方において、

体(たい)にあたるものは、変化しにくい、という性質があるようです。

 

 

 

では、心についてはどうでしょうか。

 

 

 

さきに見たように、人間においては、

気分というものはころころと変わりやすく、

人間の心というものは、短期の時間軸において変化しやすい、

ということが明らかになりました。

 

 

 

では、天地自然における、心(しん)にあたるものは、どうでしょうか。

 

 

 

天地自然においては、

太陽(火)=男性の心=理の原理と心が結合したもの、と、

水=女性の心=生の原理と心が結合したもの、が、

心にあたるものです。

 

 

 

これについては、考えてみたらあきらかなように、

太陽には、東の空からのぼって西に沈んでいく、という、

「動き」があります。

 

また、ふつうの「火」についても、

炎はゆらゆらとゆらめいていますし、また、火というものは、

小さな火種からだんだんと大きくなっていき、

火種が尽きると消失してしまうという性質をもっていて、

やはり、変化する性質があります。

 

 

 

水はどうかといえば、

コップの中の水はコップを倒せば流れだしますし、

山奥に端を発した水の流れは、小川になり、大河になり、

海にそそぎ、また蒸発し、天に昇って雲になり、

ふたたび雨になって降ってくる、というように、

「変化や動き」があるのです。

 

 

 

このように見てくると、

人間において心が変化しやすく移ろいやすいというばかりではなくて、

天地自然において心(しん)にあたる太陽(火)や水も変化しやすいものである

ことがわかり、

体にくらべた場合の易変化性というのは、

人間と天地自然双方をつらぬく、心(しん)の共通原理である、

といえそうです。

 

 

 

他方で、体(たい)というのは、

人間と天地自然双方をつらぬいて、

容易には変化しにくいという性質を、体の共通原理として

持っている、といえそうです。

 

 

 

以上、体(たい)のもつ性質と、心(しん)のもつ性質について、

共通点をさぐりながら、

天地自然と人間の双方をつらぬくものを見てきました。

 

 

 

では、理の原理と生の原理については、

人間と天地自然の双方をつらぬくような、

そんな共通項を考えることができるのでしょうか。

 

 

 

ではまず、生の原理というものを考えてみましょう。

 

 

 

先にのべたように、生の原理というのは、

自己の生存のためならば、他者を犠牲にしてもかまわない、

という原理でした。

 

 

 

この原理が、もっとも色濃く反映されているのは、

この自然界において、「食べて食べられる」ことで成立しているところの、

食物連鎖の関係が1つあると思うのですね。

 

 

 

草木は大地から栄養分を得て、自己の生存をはかります。

草食動物は、それらの草木を食べて、自己の生存をはかります。

肉食動物は、それらの草食動物を食べて、自己の生存をはかります。

 

 

 

食べるというのは、このように、

自己の生存をはかるということと不可分な関係にあって、

その自己の生存をはかるということは、

生の原理とかかわりがあるわけです。

 

簡単に言うと、

食べるということと、生の原理には、関係がある、ということですね。

 

 

 

では、つぎに、この「食べる」ということについて、

見ていきましょう。

 

 

 

人間も、また、ほかのいろんな生き物も、

いろんなものを食べたり、口から摂取して体内に取り入れたりしています。

 

 

 

ただ、その食べ物というのは、

どんなものでも食べられる、というわけでは、ありませんよね。

 

基本的には、生き物が食べるところの、その食べ物というのは、

その食べ物自身もまた、

食物連鎖のプロセスの1つを構成しているところの、

有機物である必要があるわけです。

 

 

 

なので、鉄や岩石といった、

食物連鎖のプロセスを構成していないような無機物は、

基本的には、生き物はこれを食べることができません。

 

 

 

もちろん、有機物であるとはいっても、

たとえば人間ならば、

腐ったものは食べられないでしょうし、

樹木になった果物は食べられても、樹木の幹の部分は食べられないでしょうし、

魚は食べられても、骨はのこす必要があるでしょう。

 

 

 

なので、食べようとする対象が、

食物連鎖のプロセスを構成している有機物である、ということは、

それを食べることができるための「十分条件」ではないわけです。

 

有機物であれば、かならず食べられる、というわけではない。

 

 

 

でも、鉄や岩石を食べることができないように、

そもそもが有機物でないのならば、

食べることはまったく考えることができません。

 

だから、すくなくとも、

食べるためには最低限、有機物であることが必要なのであって、

食べようとする対象が、

食物連鎖のプロセスを構成している有機物である、ということは、

それを食べることができるための「必要条件」ではあるわけです。

 

 

 

以上、見てきたことをおおまかにまとめると、

「食べる」ということは、自己の生存をはかる行為であり、

したがって、生の原理とかかわりがある。

 

そして、

食べようとする「食べ物」は、最低限、

食物連鎖のプロセスを構成している有機物であることが、

食べるうえでの「必要条件」であって、

簡単に言うと、

食べようとするものもまた生の原理にかかわっているものである

必要がある、ということでした。

 

 

 

では、ここで、この生の原理、そして、食べるということを、

天地自然のなかから考えてみましょう。

 

 

 

天地自然は、天機の4分類によれば、

 

天空 太陽(火) 大地 

 

の4つにわけることができたわけです。

 

 

 

では、変な話ですが、

この天地自然の4要素のなかで、

 

食べることができるものって

なんですかね?

 

 

 

いやいや、天地自然なんて食べれるわけないだろ、

と思われるかもしれないので、言い換えると、

これら天地自然の4つのなかで、

経口摂取して体内に取り入れることができるのは、なんでしょうか?

 

 

 

順に見ていきましょうか。

 

 

 

まず、天空。

 

これはようするに空気のことです。

空気は日々、呼吸によって肺に取り入れていますから、

これは、経口摂取ができるものです。

 

 

 

つぎに、太陽(火)。

 

火は、口に入れたりすれば、火傷してしまいますよね。

とても熱くて、体内に経口摂取できるものではありません。

 

 

 

つぎに、大地。

 

これはようするに、土のことです。

土はじゃりじゃりして、口から体内に取り入れることは、できません。

これは、経口摂取ができないものです。

 

 

 

最後に、水。

 

水は日々、飲んだりしていますよね。

だから水は、経口摂取ができるものです。

 

 

 

以上、見てきたことを整理してみましょう。

 

天地自然のなかで食べることができるものは何か、

言葉をかえると、経口摂取できるものは何か、

というのを見てきました。

 

 

 

経口摂取できるものは、天空と水です。

経口摂取できないものは、火と大地です。

 

 

 

経口摂取できる天空と水は、

 

天空=男性の体=生の原理と体(たい)が結合したもの

水=女性の心=生の原理と心(しん)が結合したもの

 

でした。

 

 

 

もういちど、見てみますよ?

 

 

 

経口摂取できる天空と水は、

 

天空=男性の体=生の原理と体(たい)が結合したもの

水=女性の心=生の原理と心(しん)が結合したもの

 

なのです。

 

 

 

天地自然の4分類のなかで、

生の原理と結合しているのは、このように、天空と水の2つだけです。

 

そして、天地自然の4分類のなかで、

経口摂取できるのも、この2つだけなのです。

 

 

 

さきに、人間において、食べ物と生の原理、

さらには食物連鎖について話すなかで、

食べようとするものそのものもまた生の原理に関わっていなければ、

それを食べることはできない、というお話をしました。

 

 

 

そしてこのことは、いま見たように、

天地自然においてもつらぬかれている原理であり、

生の原理に関わるものでなければ、経口摂取ができない、

ということになっているのです。

 

 

 

以上が、人間と、天地自然の双方においてつらぬかれている、

生の原理の共通性についてのお話でした。

 

 

 

では最後に、

人間と天地自然の双方をつらぬく原理について見るラストとして、

理の原理について考えてみましょう。

 

 

 

まずはじめに、

理と、理の原理について、じっくりと考えてみましょう。

 

 

 

理の原理というのは、

自分と、自分とは異なる他者という、

2者がこの世界には存在するのであって、

自分とは異なる他者がこの世界には存在するということ、

自分と他者の両者によってこの世界は成立しているということ、

そんなことを認めて尊重しようというのが、理の原理なのでした。

 

 

 

つまり、理の原理においては、

相対する両者、相対する2者、というものを観念することができるわけです。

 

その意味で、理の原理を象徴する数字は、「2」になります。

 

 

 

たとえば、善と悪。たとえば、静と動。たとえば、明と暗。

 

そういった、対照的な、対極にあるような2者を、

理の原理では考えることができ、

それはたとえていうならば、

1本のまっすぐな線分でしょうか、

1本のまっすぐな直線でしょうか、

そういったものをぴーーーっと引いて、

その両端のところに、たとえば善と悪とか、静と動とか、

そういった対極の性質をもつものを、

それぞれ配したような様子、

そんなものをイメージすることができるかもしれません。

 

 

 

そのようなところから、

理の原理と、まっすぐな直線の、

その両者のあいだにもまた、関連性がでてきます。

 

 

 

ただ、直線が、

普遍的にまっすぐな直線である、というためには、

それをどこまで伸ばしていっても、

その終端部分でじつは曲がっていた、とか、

その終端部分でじつは折れていた、とかいったことがあってもらっては、

困るわけです。

 

もしそうであるならば、

その直線は一時的には直線であるかもしれないけれど、

その直線性には普遍性が欠けている、ということになりかねません。

 

 

 

たとえば、

私たちが生きているこの地球上の平面というのは、

どこまでいっても、平らな面が広がっています。

 

この地球上の大地の果てまで旅をつづけていくと、

その最果てのところで崖になって落ち込んでいるとか、

滝になっているとかいったことは、ないわけです。

 

古代の人なんかは、そういった地球を想像したようですけれどね。

 

 

 

では、なぜそのように、

この地球上の大地は、どこまでいっても平らだという意味での、

平面であることの「普遍性」を実現することに成功しているのかといえば、

それは、

 

全体としては球状をなしているから

 

にほかなりません。

 

 

 

よく言いますよね。

「地球は平面になっているっていうけど、ほんとは丸いよね」って。

 

 

 

天機は、それは一面の真実である、と思っています。

たしかに地球というのは、はるかかなたなどから写した

衛星写真などを見ると明らかに丸いものであるし、

地球が球面であるというのは、1つの事実です。

 

 

 

ですが、地球は、

その「全体としては球面である」ということによって、

「地球上のどの部分においても、

 地の果てにおいて崖になったり滝になったりしないように、

 平面であることが普遍的に実現される」

ということを逆説的に可能にしているのです。

 

 

 

平面がただ平面であるというだけでは、

それが平面であることには、もしかしたら、

普遍性が欠けているかもしれません。

 

その普遍性を補完するのが、全体として球面状の構成を

とるということなのです。

 

 

 

こういうことから考えてくると、

さきに、理の原理はまっすぐな直線というイメージと関連がある、

というお話をしてきて、

また、ただしその直線性というのも、

どこかで、たとえば終端部分とかで折れ曲がったりして「破綻」していれば、

普遍的な直線性を持つとは言えないのだ、

というお話をしてきたわけなのですが、

たとえば、

地球表面のような平面が、普遍的にその「平面性」を実現するために

全体として球面状の構成をとっていたことから考えると、

理の原理とかかわりのある直線というのも、

その「直線性」を普遍的に実現するためには、その直線が、

 

全体として円環状の構成をとればいいのではないか

 

ということに思い至ります。

 

 

 

以上のことから、

理の原理というのは直線性と関わりがあるものなのですが、

円や球といったものは、

それらの直線性、あるいは平面性といったものを、

普遍的に実現することを可能にしているという点において、

やはり理の原理と関わりがあるものだ、と天機は考えます。

 

 

 

円や球といったものが、理の原理と関わりがある、

ということは、別の観点からもながめてみることができます。

 

 

 

ここで、理の原理というものを、別の角度から考えてみましょう。

 

 

 

ここに1枚の画用紙がある、とします。

 

黒マジックで、その画用紙のなかに、1つの円を描きます。

 

すると、画用紙の中は、円の内側の部分と、円の外側の部分に、

二分されると思います。

 

 

 

この状態が、たとえていうならば、

1つの理のかたちです。

 

円の内側と円の外側というのは、互いが互いに対して、

他者になっています。

 

そして、お互いがお互いをおかすことなく、

両者がともに存在することができている、という状態は、

自己と他者がともに存在することを認める理の原理とぴったり合うのです。

 

 

 

さて、このように画用紙の中を円の外側と円の内側に二分したとき、

その両者のあいだには、

黒マジックで描いた円周という、「境界線」が存在します。

 

 

 

この境界線について考えてみます。

 

 

 

この境界線は、まったくなにもない、という意味での、

「無」や「ゼロ」ではありえません。

 

もし、「無」や「ゼロ」であったのならば、

そんな境界線はないことになってしまい、

自己と他者、この画用紙の場合だと、円の内側と円の外側を隔てるものが

なくなってしまって、

自己と他者が並立するという、理のかたちは、くずれてしまうでしょう。

 

だから、境界線の性質は、「無」や「ゼロ」ではない。

 

 

 

では逆に、境界線というのは、

なんらかの実体的な「大きさ」を持つものなのか、というと、

それも違うのです。

 

もしかりに、ここでこの境界線自体が、

なんらかの具体的な「大きさ」を持つものであったとすると、

画用紙の例で言うならば、

円の内側と円の外側の、その両者のあいだに、

なんらかの大きさをもつ「第3の領域」が誕生することになってしまいます。

 

なので、境界線自体は、

なんらかの具体的な「大きさ」を持つわけにはいかないのです。

 

 

 

まとめると、

境界線というのは、「無」や「ゼロ」でもないし、

なんらかの具体的な「大きさ」を持つものでもない。

 

 

 

とすると、境界線というのは、

「無」や「ゼロ」といったものと、

なんらかの「大きさ」を持つものの、

そのあいだにあるような「なにか」でなければいけない、

ということになりそうです。

 

 

 

天機はそこから、境界線というのは、天機の用語でいうところの、

 

 

の性質をもつものではないか、と思いました。

 

 

 

数字で表すことは、かならずしも正しくはないかもしれませんが、

「無」や「ゼロ」といったものが

 

 

であるならば、境界線の性質である「寸」というのは、

 

 

0.00000000000000…1

 

のようなものではないか、

間違っているかもしれないけれど(たぶんまちがっている)、

無限小のようなものではないか、

と思ったのです。

 

 

 

無やゼロといったものと、かぎりなくよく似てはいるけれども、

それとは、ほんの少しだけちがうもの、

それが「寸」なのです。

 

 

 

理の原理をイメージとしてあらわすなら、

それはたとえば、画用紙の中に1つの円を描き、

画用紙内部が、円の外側の領域と、円の内側の領域とに二分されて、

その2つの領域は、互いに侵しあうことなく、並立している状態、

そんな状態としてイメージすることができます。

 

そして、その2つの領域をへだてているのが、

1本の境界線であって、その境界線の持つ性質というのは、

無やゼロに限りなく近いけれども、それとはわずかに異なる

「寸」というものなのでした。

 

とすると、理の原理というのは、その内部に、

「寸」という存在を内包しているものだ、ということができそうです。

 

 

 

他方で、円や球といったものについて考えてみると、

じつは、円や球といったものもまた、

「寸」という存在を内包しているのではないか、と考えられるのです。

 

 

 

たとえば、円というものについて考えてみましょう。

 

 

 

円は、円周から成り立っていますが、もしかりに、この円周が、

どこまでいっても完全にまっすぐな直線であって、

ほんのわずかな「湾曲」でさえも、けっしてどこにも存在しないのならば、

おそらくそれは、円弧をえがくことができずに、

この宇宙の果てから果てまでをつらぬく、

壮大な無限の、真にまっすぐな直線になることでしょう。

 

 

 

円周が円周として成立するためには、したがって、

かりにそれが非常に大きな円であったとしても、

ほとんど知覚できるかできないかくらいの、ほんのかすかな

「湾曲」が内包されているからこそ、

その湾曲が積み重なって、積み重なったときには、

やがては巨大な円弧として顕在化してくる、といったような、

構造が不可欠なのです。

 

 

 

もし、そういった「湾曲」が、まったくないのならば、

その「湾曲」は、無でありゼロであって、

そのようなところに「円」が成立するような余地はありません。

 

 

 

他方で、地球のような巨大な円(球)においては、

その「湾曲」というのは、知覚できるほどのものではありません

(もしかりに知覚できるのならば、大地は平らだとは思えないことでしょう)

が、ほんのかすかな「湾曲」が、

現実には存在するからこそ、たとえば、衛星写真とかで見ればあきらかな

ように、地球は、

全体としては、球面上の構造を実現できているのです。

 

 

 

つまり、円や球が成立するためには、

「湾曲」というものが不可欠な要素としてあるのですが、

その「湾曲」というものの性質は、

まったくないという意味での無やゼロではあり得ず、また他方で、

知覚できるほどはっきりしたものでもないのです。

 

円や球に不可欠な要素としての「湾曲」のもつ性質は、

無やゼロといったものと、はっきりと知覚できるほどの具体的なものの、

ちょうどその間にあるようなものであって、

つまりは、「寸」のようにほんのかすかな存在であるのが、

円や球を成立させているところの、「湾曲」がもつ性質なのです。

 

その意味で、円や球もまた、「寸」を内包している、

ということができます。

 

 

 

ものすごく込み入った論理展開をしてきて、また、

この論述の筆者の頭もよく整理されていないために、

読者のみなさまを混乱のるつぼにたたきこんでいるかもしれません。

 

なので、ここでばさっと、整理しましょう。

 

 

 

論者がここのところの記述で言いたい最大の結論は、

 

理の原理と、円や球とのあいだには、

関連性がある

 

ということです。

 

 

 

そして、この最大の結論をささえる論拠が2点、あります。

 

それは、

 

① 理の原理は直線性とかかわりがあるが、

  その直線性を普遍的に実現しうるのが円環構造である

 

ということと、

 

② 理の原理には境界線という「寸」があり、

  円環構造には湾曲という「寸」があって、

  ともに「寸」を内包している点で、

  理の原理と円環構造は共通する

 

ということなのです。

 

 

 

では、このように、

理の原理と、円や球とのあいだには、関連性がある、ということを、

人間と、天地自然において、見ていきましょう。

 

 

 

まずは、人間です。

 

 

 

人間においては、

 

男性の心=思考=理の原理と心がむすびついたもの

女性の体=理の原理と体がむすびついたもの

 

の2つが、理の原理がかかわっているものです。

 

 

 

このうち、まず男性の心というのは、ようするに思考のことですが、

思考は目には見えませんから、思考をつかさどっている人間の体の部位

で考えると、それは、頭です。

 

 

 

もちろん、感情(=女性の心)も頭の中の作用だよ、

というのも、なるほど、もっともなことなのですが、

人間が他の動物とはちがって、

人間を人間ならしめている特有の精神的な働きはなにか、となると、

それはやはり、思考ということになり、また、

体をおおきく分けたときに、

胴体部分の「上部」に、ちょこんと頭の部分が鎮座しているような

体の構造をもつのも、

二足歩行をする人間ならではのものでしょう。

 

 

 

つまり、

理の原理と心がむすびついたもの、というのは、人間の思考のことであり、

その人間の思考がおこなわれる場所はどこか、というと、

それは、人間の頭だ、というわけなのです。

 

そして、外から見てみればあきらかなように、

人間の体については、首から下の胴体部分というのは、

いろいろな出っ張りがあったりして、比較的でこぼこしているものなのですが、

首から上の頭の部分というのは、比較的まるいでしょう。

 

 

 

このことから、

「理の原理」とむすびついた心である人間の思考は、

人間の頭でおこなわれる精神作用であるけれども、

その人間の頭というのは、比較的まるい形をしている、ということになり、

ここにひとつ、

理の原理と、円や球とのかかわりを、見て取ることができます。

 

これが、

人間における理の原理のあらわれの1つである、

理の原理とむすびついた心、つまり、人間の思考と、

円や球とのかかわりです。

 

 

 

では、

人間における、もう1つの理の原理のあらわれであるところの、

理の原理とむすびついた体、つまり、女性の体については、

どうでしょうか。

 

 

 

人間の体を外からながめてみたときに、男性と女性では、

同じようなところもあれば、違うところもあります。

 

背中とか、お尻とかを見ただけでは、男女の区別は、

容易ではないかもしれませんね。

 

 

 

しかしながら、

男性の体を外から見た時には、女性にはないような「でっぱり」が存在し、

また、

女性の体を外から見た時にも、男性にはないような「でっぱり」が存在します。

 

 

 

言うまでもないことですが、

男性の体におけるでっぱりとは、おちんちんのことであり、

女性の体におけるでっぱりとは、おっぱいのことです。

 

 

 

この2種類の異なるでっぱりこそが、

男性の体と女性の体を外から眺めてみて、その違いについて非常に

シンプルに考えてみたときに、

もっとも特徴的な違いであろうと思うのです。

 

そして、女性の体を特徴づけるでっぱりであるところの「おっぱい」は、

大ざっぱに言えば、

「まるい」かたちをしています。

 

 

 

以上を整理すると、

人間における理の原理のあらわれの1つとしては、

理の原理とむすびついた体、つまり、女性の体というものがあるわけなのですが、

その女性の体を特徴づけるおっぱいは、まるいものなのであって、

それゆえ、ここにおいて、

理の原理と、円や球とのあいだに、

1つのかかわりを見て取ることができます。

 

 

 

このように、

理の原理と円や球とのかかわりについては、

理の原理と結びついた心である人間の思考については、

人間の頭がだいたい球形をしているということ、

また、

理の原理と結びついた体である女性の体については、

女性のおっぱいがだいたいまるいかたちをしているということ、

から、

理の原理と円や球とのかかわりが、人間においてあらわれている

ことが示されました。

 

 

 

では、

理の原理と円や球とのかかわりは、天地自然においては

しめされているのでしょうか。

 

 

 

天地自然において、理の原理とかかわるものは、

 

太陽=理の原理と心がむすびついたもの

大地=理の原理と体がむすびついたもの

 

この2つです。

 

 

 

ここで、太陽というのは、天体写真で見ても、

また、遮光版を通して肉眼で見てみても明らかなように、

まるい形をしています。

 

また、大地というのは、つまるところ、

地球そのものと考えることができ、こちらもやはり、

まるい形をしていると言えます。

 

 

 

天地自然においては、理の原理とかかわりがないものとして、

天空=生の原理と体がむすびついたもの、と、

水=生の原理と心がむすびついたもの、がありますが、

天空も水も、それぞれともに、べつにまるい形をしているとは、言えませんよね。

 

まるい形をしているのは、

理の原理とかかわりのある、太陽と大地だけなのです。

 

 

 

というわけなので、

天地自然においてもやはり、理の原理と円や球とのあいだには、

関連性があるということが示されました。

 

 

 

長々とここの部分で述べてきたことをまとめると、

理の原理と円や球との間に関連性がある、ということは、

人間においても、天地自然においても、

共通してみられる現実だ、ということです。

 

 

 

以上、長々と見てきたわけなのですが、

この世界に、生の原理と理の原理があり、また、体(たい)と心(しん)がある、

それぞれの結びつきのありようについては、

それが、人間においてあらわれたものと、

天地自然においてあらわれたものがある、ということを踏まえたうえで、

 

 

 

① 容易には変化しにくいという「体(たい)」のもつ性質

②容易に変化しやすいという「心(しん)」のもつ性質

③経口摂取できるものにふくまれる「生(せい)」の性質

④円環状、球状と関連がある「理(り)」の性質

 

 

 

以上4つの性質に関して、

それが、人間における場合と、天地自然における場合に、

共通してつらぬかれているということを見てきました。

 

 

 

なんで、引力とは何か、重力とは何か、という本題からは、

一見遠ざかるようでもあり、また、回り道をしているようでもある、

これらの性質にとくに言及したのか、というと、

自分のたてた、人間と天地自然に関するモデルである、

 

 

 

天空=男性の体=生の原理と体がむすびついたもの

太陽(火)=男性の心=理の原理と心がむすびついたもの

大地=女性の体=理の原理と体がむすびついたもの

水=女性の心=生の原理と心がむすびついたもの

 

 

 

という突飛なモデルの構造を、すこしでも納得してほしいために、

その論拠を補強したかったからです。

 

①~④のような性質が、人間と天地自然において共通して

つらぬかれるためには、上記のようなモデルの構造をとらざるを

得ないのではないか?

というのが、天機の1つの考えなのです。

 

 

 

というのも、

①の「体(たい)」の性質を共有するのは、天空と大地であり、

②の「心(しん)」の性質を共有するのは、太陽(火)と水であり、

③の「生」の性質を共有するのは、天空と水であり、

④の「理」の性質を共有するのは、太陽と大地である、

ということから考えて、

こんどは、天空、太陽(火)、大地、水、

のそれぞれについて、共有された性質をあげてみると、

天空→体の性質と生の性質

太陽(火)→心の性質と理の性質

大地→体の性質と理の性質

水→心の性質と生の性質

が、それぞれ共有されている性質ということになり、

天機の想定したモデルと、ぴったり符合するからです。

 

 

 

この記事のはじめから、ここまで、

およそ18000字にわたって書いてきたことが、

引力とは何か、重力とは何か、ということについて、

自説を展開するための、前提となる、天機の練り上げた「理論」です。

 

ここからいよいよ、

引力や重力について、この理論とモデルをもとにして考えていくことになります。

 

 

 

えーっ、これからもっともっと長い話がつづくの!?

と不安になった方、ご安心を。

 

ここまででおそらく、この記事全体の8割くらいは書けたはずです。

結末までは、あと少しです。

もうしばらく、おつきあいください(*´∀`*)

 

 

 

さて、物理学の世界では、

引力や重力について考える際に、引力や重力をもつ「主体」として

想定されているのは、おそらく、

巨大な質量をもつ、いわゆる「天体」だろうと思うのですね。

 

 

 

ですが、天機の理論というのは、

この世界の天地自然だけでなく、人間をも視野に入れようとするものなのです。

 

というよりもむしろ、

人間を出発点にして考えたい、とか、

人間との関わりで物事を考えていきたい、といった動機が、

天機とその理論には、あります。

 

 

 

そこで、重力や引力について考える際にも、

天体、といった、天地自然に存在するものばかりではなくて、

人間に関するものも視野に入れて、考えていきたいと思っています。

 

そのなかで、

天地自然においても、人間においても、

あたかも引力や重力のように、引っ張る力、吸引する作用があるものの、

その性質のことを、

 

引力性がある

 

と、ここではかりに、呼称することにしましょう。

 

 

 

ではまず、天地自然において、引力性のあるものから、

検討していきましょう。

 

 

 

天地自然には、

天空、太陽(火)、大地、水、の4つがありました。

 

 

 

このうち、天空と水には、考えてみれば明らかなことですが、

引力性はない、と言えそうです。

 

大地に存在するものが、大地から引き離されて、

天空の「中心」に向かってひきつけられて飛び去っていく、とか、

太平洋のような巨大な「水」には「中心」があって、

船とか魚とかは、みな、そっちに引っ張られてしまうーーー

 

とかいったことは、ありませんよね。

 

 

 

というわけなので、天地自然の中の、

天空と水には、引力性がありません。

 

 

 

ところが、太陽(火)と大地は、違います。

 

太陽というのは、あきらかでしょうし、

大地というのも地球のことで、これもあきらかでしょう。

 

 

 

この、太陽と地球の2種類の「天体」は、

それぞれが巨大な質量をもつもので、おおきな重力を周囲に対して

およぼしています。

 

太陽の重力は、太陽系の惑星を公転させる原動力となっていて、

地球の重力は、地球の周囲を月に周回させる原動力となるほか、

地上のさまざまなものを地球上にひきつけて留めています。

 

 

 

以上をまとめると、天地自然の4分類のなかでは、

太陽(火)と大地の2つだけが、引力性を有しています。

 

 

 

ではつぎに、人間については、どうでしょうか。

 

 

 

人間に引力なんてあるわけないやん、と思われるのは承知のうえで、

考えていきましょう。

 

 

 

人間には、

男性の体、女性の体、男性の心、女性の心、があります。

 

これらのなかで、引力性をもつものは、あるでしょうか。

 

 

 

まず、体について考えてみましょう。

 

 

 

一般的に、女性の体というのは、男性の体に対して、

ある種の引力性をもつといえます。

 

 

 

思春期にもなれば、男性というのは、

女性のことを考えて悶々とすることもあるでしょうが、

なぜ、そうなるのかといえば、

たいていは、女性の肉体と結合したいという欲望が根底にあるからです。

 

男性のこの欲望は非常に強く、

電車で痴漢をしたり、種々の性犯罪をおかしたりするのも、

大半は男性なのです。

 

 

 

もちろん、女性にも、男性の肉体とくっつきたいという気持ちとか、

性欲のようなものも、ないとは言えないでしょう。

 

ですが、ほとんどの女性は、

あえて法を破って性犯罪をおかすことまでは、しないのがふつうです。

 

 

 

ということは、

女性の肉体が男性の肉体をひきつけるという意味での引力性は、

男性の肉体が女性の肉体をひきつけるという意味での引力性にくらべて、

相対的にはきわめて強いものだということができ、

その限度において、

女性の肉体は引力性をもつものだ、ということができると思います。

 

 

 

ちなみに、日本には、久米仙人の伝説があります。

 

久米仙人という、神通力を獲得した仙人が、

空を飛翔していたところ、

眼下の地上で、若い女性が洗濯をしているのが目に入り、

その女性のあらわになった太ももに、仙人が心を動かされたとたん、

神通力をうしなって、地上へと落下してしまった、というものです。

 

 

 

仙人の心をひきつけたものは、女性の体です。

その結果、具体的に仙人がひきつけられてしまったところは、大地です。

 

そして、天機理論においては、

大地=女性の体=理の原理と体がむすびついたもの

なのです。

 

昔話のなかには、ときどき、

この世界の真実が、それとは分からないような形で隠されているなあ、

とか、天機は思ったりしますね。

 

 

 

話をもどしましょう。

 

 

 

人間における、引力性のあらわれとしては、

1つは、女性の体というものに引力性があるなあ、ということを見てみました。

 

 

 

では、人間の心はどうでしょうか。

 

 

 

人間の心は2つあって、

男性の心=思考と、女性の心=感情、でした。

 

 

 

このうち、感情のほうには、とくに引力性があるようには思えません。

 

嬉しい気持ち、楽しい気持ち、悲しい気持ち、悔しい気持ち。

人間が生きていれば、日々、それこそいろんな感情が自分の心の中を

過ぎ去っていくものですが、

たいてい、それらの感情は一過性のもので、

時間がたつと、水のように流れ去っていくものです。

 

 

 

もちろん、

悔しい「事象」がつぎつぎと発生すれば、

自分の中で悔しい気持ちは高まっていくかもしれませんし、

楽しいイベントが連続すれば、だんだん楽しくなってくるかもしれません。

 

 

 

しかし、それらは、具体的な外的事実が感情のトリガーになっている、

というだけのことであって、

たとえば、うれしい気持ちを心の中に抱けば、

外的事実の応援を必要とすることなく、

その心の中のうれしいという気持ちのみで、つぎつぎとあたらしい

うれしい気持ちを引き寄せてくる、

といったようなことは、ふつうはないでしょう。

 

その意味で、感情というものには、通常は、

引力性はないものと、考えることができそうです。

 

 

 

ところが、思考は、これとは異なります。

 

 

 

思考というのは、ある思考対象について、

これはなぜなんだろう?とか、

どういうしくみになっているのかな?とかいったことを、

えんえんと考え続けていく精神作用なのです。

 

その過程では、

自分が現在考えている対象とかかわりのある、

ほかの事象を想起、連想し、

それらの事象と、自分の思考対象とのあいだに、

論理的整合性のとれた関係を、頭脳の中で構築していくことになります。

 

それは、単純なもので言えば、

自分1人で考察し続けていく中でも起こることですし、また、

本やその他のメディアを通して、

外的な情報を取り入れる中でも展開するものでしょう。

 

 

 

そうすると、だんだんどうなっていくかといえば、

当初は、ほんのかすかな、単純な想念だったものが、

だんだんと自分の頭脳の中で、体系だって構築されてくることになります。

 

古今東西の、たとえば哲学、あるいは科学といった学問などはみな、

そういった頭脳内部の思考の働きが、外部に表出したものであるわけです。

 

 

 

このように、思考という精神作用には、

自分が現在向き合っている考察対象に、関連のあるべつな事象や概念を

引っ張ってきて、あつめて、

全体として論理的整合性のとれた巨大な体系へと深化させていく、

というはたらきがあります。

 

この、関連のある事象や概念を引っ張ってきて結合させるという

性質があるので、

思考には、ある種の引力性がある、と、天機は考えます。

 

 

 

以上をまとめると、人間においては、

男性の体、女性の体、男性の心(思考)、女性の心(感情)

という4分類がありますが、

このうち、引力性があるのは、

女性の体と、男性の心(思考)だ、ということになりそうです。

 

 

 

というわけで、天地自然と人間において、

引力性があるものを総括すると、

 

太陽(火)、大地、女性の体、男性の心(思考)、

ということになります。

 

 

 

この引力性のあるものを、

天機の、天地自然と人間のモデルに沿って、ならべてみますね。

 

 

 

引力性のあるもの→

 

太陽(火)=理の原理と心がむすびついたもの

大地=理の原理と体がむすびついたもの

女性の体=理の原理と体がむすびついたもの

男性の心(思考)=理の原理と心がむすびついたもの

 

 

 

もう一度、引力性のあるものを、ならべてみますよ?

 

 

 

引力性のあるもの→

 

太陽(火)=理の原理と心がむすびついたもの

大地=理の原理と体がむすびついたもの

女性の体=理の原理と体がむすびついたもの

男性の心(思考)=理の原理と心がむすびついたもの

 

 

 

どうですかね?

 

 

 

引力性のあるところには、

かならず、理の原理がある。

 

 

 

ということが言えるのではなかろうか、と天機は思ったのですが、

どうでしょうか。

 

 

 

つまり、物理学における天体の重力、というところに縛られずに、

もっと大きく、

天地自然にも人間にも共通して言えるような原理を探求したそのさきには、

引力や重力といったものの背後に、

理の原理の存在を考えることができるのではないか?

 

と、天機は考えたのです。

 

 

 

いよいよ、最後です。

 

 

 

ではなぜ、理の原理というものは、

引力性を持つことになるのでしょうか?

 

 

 

ここで、さきにあげた、画用紙の中を円が分割するという、

理の原理のイメージにおいて、

理の原理の内部には、その内部を分割する境界線というのがあって、

その境界線の性質は、

無やゼロといったものととてもよく似てはいるけれども、

無やゼロとはかすかに違う、

 

寸=0.0000000…00000001

 

なのだ、という話をしました。

 

 

 

この寸というのは、自分は数学に詳しくないので、

たぶん、間違えているとは思うのですが、

無限小のようなものだと思うのです。

 

ただし、無限小というのは結局のところ無なのだ、

というのが、おそらくは数学の立場でしょうから、

そうであるならば、寸は無限小とは違うのだ、

ということを申し添えておきます。

 

 

 

天機が「寸」という言葉で表現したいのは、あくまで、

無やゼロと限りなく近いけれども、

無やゼロとはイコールではない、という存在なのです。

 

 

 

そのような寸について、考えてみましょう。

 

 

 

0.00001、これは、寸でしょうか?

 

 

 

いやいや、寸ではないでしょう。寸はもっと小さいのだから。

 

 

 

では、0.0000000000000000000000001、

これは、寸でしょうか?

 

 

 

いやいや、言ったように、それくらいでは、寸とは言えないでしょう。

 

 

 

では、

0.0000000000000000000000000000000

000000000000000000000000000000000

000000000000000000000000000000000

000000000000000000000000000000001、

これは?

 

 

 

いやいや、どこまでいったって、寸にはならないでしょう。

 

 

 

無限大というものが、普通の数字ではなくて、

どこまでも大きくなろう、大きくなろうとする、

ひとつの「概念」のようなものであるのと似て、

無限小というものが、

仮に天機の考えるように、

無やゼロととてもよく似てはいるけれども、それらとはイコールではない、

限りなく小さななにか、なら、

それは、

どこまでも小さくなろう、小さくなろうとする、

ひとつの「概念」のようなものだと思うのです。

 

 

 

そして、この「寸」のもつ、

どこまでも小さくなろう、小さくなろうとする性質こそは、

その周囲に対して、

中心へと向かってかぎりなく収束、収縮していく、

ある種の吸引力や、引力性の源泉になっているのではないか、

と天機は思うのです。

 

 

 

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

この記事のはじめからの論旨をまとめると、

以下のようになります。

 

 

 

引力や重力はなぜあるのか、といえば、

それは、

それらの引力性の背後には理の原理があり、

その理の原理を内部分割する境界線には、

ゼロや無とよく似てはいるけれどもそれとは

かすかに違うという意味での、

寸(無限小)の性質があって、

その寸(無限小)の、

中心へ向かって限りなく収束、収縮していく

性質こそが、

引力性の源泉になっているから。