この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

ヘイトスピーチは規制すべきなのか?

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、いわゆるヘイトスピーチの問題について、

天機独自の立場から、考えてみたいと思います。

 

 

 

最近になって、

いわゆるヘイトスピーチというのが問題視されるようになり、

それを規制する条例や法律が整備されるようにもなってきました。

 

 

 

ヘイトスピーチ、と横文字の言葉ですから、

おそらく、もともとは欧米で言われるようになった問題なのでしょう。

 

 

 

天機の理解では、

ある特定の民族や宗教、国家に属している人について、

その属性をもとにして、一般的に、

明確な根拠に基づくことなく誹謗中傷を浴びせるような言動を、

ヘイトスピーチと呼んで規制しようとしているように思われます。

 

 

 

では、そもそも、なぜそのような言動が仮にあった場合に、

それが問題になるのでしょうか。

 

 

 

天機が思うに、それは一つには、

そのような言動を浴びせられることになる個々人への、

権利侵害という側面を持っているからだと思うのです。

 

 

 

ヘイトスピーチを浴びせられた人は、

おそらく、精神的に傷つき、嫌な思いをするでしょう。

 

また、それだけではなくて、

脅迫や暴行などの、具体的な加害行為も懸念されるかもしれません。

 

 

 

これが、個々人に対する権利侵害、ということです。

 

 

 

さらに、それだけではなくて、

ヘイトスピーチなどというものが、もし仮に実際に起これば、

それは、被害者個人への権利侵害になるだけではなくて、

国家や社会に対する悪影響をもたらすおそれもあるかもしれません。

 

 

 

たとえば、犯罪の中には、

賄賂の授受とか、売買春とか、麻薬の売買とか、

それを受け渡しする当人同士のあいだでは、

なんら、被害者の存在しないような犯罪類型というのがあります。

 

 

 

にもかかわらず、国家が、

それらを違法行為として法律の威嚇をもって禁圧しようとするのは、

それらの行為が社会に蔓延するようにでもなれば、

そのときには、国家や社会に重大な害悪が発生する、

と考えているからにほかなりません。

 

 

 

それはそうでしょう。

いくら当人同士が満足しているからといっても、

賄賂が横行するような社会、

売買春が横行するような社会、

麻薬や覚せい剤が蔓延しているような社会には、

あまり住みたいというようには、一般的には思えませんよね。

 

 

 

同様のことが、

ヘイトスピーチの問題に関しても、言えるのかもしれません。

 

 

 

単一民族だけが暮らしているような国家でもないかぎり、

こんにちの多くの国家では、

さまざまな民族や宗教、国家というバックグラウンドを持った人々が、

同じ国家のなかでともに暮らしていることは、

めずらしいことではありません。

 

 

 

それらの民族や宗教、国家といった属性だけにことさらに注目して、

それを誹謗中傷などでもって排斥するようなムーブメントが

社会の中に大々的に広がっていけば、

社会の中に広く軋轢や亀裂を生む可能性があります。

 

 

 

だけでなく、

気に入らない者は声高に誹謗中傷してそれを追い込んで構わないのだ、

といった風潮が社会に蔓延していけば、

それはやがて、

そういった民族や宗教、国家といった特定のバックグラウンドを持つ

人々への攻撃、といったところからさらに拡大して、

自分たち自身の社会の中の、

さまざまな気に入らない人への無秩序な攻撃へと発展していく

おそれもあるでしょう。

 

 

 

これが、

個々人に対する権利侵害、ということ以外に懸念される、

国家や社会への害悪、悪影響ということです。

 

 

 

このようにして見てくると、

ああ、やっぱりヘイトスピーチというものはいけないものなんだ、と、

天機という人物は、

ヘイトスピーチを規制することに賛成なのだな、

と思われるかもしれません。

 

 

 

ところが、

 

かならずしもそうではない

 

のです。

 

 

 

上で述べたようなことは、

いわゆるヘイトスピーチがもたらす害悪についてです。

 

 

 

そして、繰り返しになりますが、ヘイトスピーチというのは、

特定の民族や宗教、国家といった、バックグラウンド、属性を

持つような人々に対して、

ことさらにその属性のみに注目して、

その属性と関連付けるかたちで、

当該民族や宗教、国家に属するひとびとを一般的に、

なんらの理性的な明確な根拠に基づくことなく誹謗中傷し、

これを排斥しようとする言動なのでした。

 

 

 

であるならば、

特定の民族や宗教、国家といったバックグラウンドに対して

一定の注目はするものの、

なんらかの根拠に基づいて、

冷静に、論理的に批判するような行為についてまで、

これを一律にヘイトスピーチと同視して機械的に規制しようとするのは、

それはちょっと違うんじゃないか。

 

天機は、そう思ったのです。

 

 

 

天機は、このブログのほかの記事でも

ときどき書いていることなのですが、

ひとつの信条のようなものを持っています。

 

 

 

それは、

 

理の原理を大切にしたい

 

ということなのです。

 

 

 

一般的ではない考え方かもしれませんが、天機の考えでは、

この世界には、2つの原理が存在します。

 

 

 

他者を犠牲にすることになっても、この自分は生きるんだ、

という、自己の生存や利益を追求する原理が、生の原理です。

 

 

 

それに対して、

自分とは異なる他者が存在することを認め、

その他者と自己という両者によってこの世界は成り立っているんだ、

というところに価値を認める原理が、理の原理です。

 

 

 

そして天機という人間は、この両原理のうちの、

後者の理の原理のほうを大切にしたい人間なのだ、ということなのです。

 

 

 

この観点からヘイトスピーチの問題を見てみたとき、天機は、

特定の民族や宗教、国家を批判することを一律に禁じて、

理性的で論理的な批判という行為と誹謗中傷をおなじように封じてしまおう

とする考え方というのは、

この、理の原理に反する内容をもつのではないだろうか、

と考えたのです。

 

 

 

そのことを、具体的に見ていきましょう。

 

 

 

人間の歴史においては、今日に至るまで、

人間はその頭脳を使いながら、さまざまに文明を発達させてきました。

たとえば、科学なんかも、

そういった人間の頭脳のはたらきの1つの産物としてうまれてきたものです。

 

 

 

人間がその理性を行使し、頭脳を使う上で、

特徴的なことはいろいろあると思いますが、

そのなかの1つに、

 

抽象化

 

というものがあります。

 

 

 

たとえば、科学においては、

実験や観察が重視されますよね。

 

 

 

あるひとが、Aという時間と場所において観察したところ、

水は100度で沸騰しました。

 

またべつのひとが、Bという時間と場所において観察したところ、

やはり水は100度で沸騰しました。

 

そしてその後、さまざまな時間と場所で観察をつづけても、

どうやら、水というのはいつも100度で沸騰するのではないか、

ということがわかってきたのです。

 

 

 

このとき、

 

水は100度で沸騰する

 

という原理ないし原則は、

個別的なA、B、C、…といった、具体的な時間や場所からはなれて、

帰納的に抽象化された1つの法則として定立されることになります。

 

 

 

これが1つの、

 

抽象化

 

というものをあらわした例です。

 

 

 

人間は、この、

個別具体的な多数の事例を観察して、考えて、

そこから、それらのあいだに共通してみられる法則性のようなものを

導きだし、

帰納的に抽象化していくことで、

一般的に成り立つ原理や原則を定立する、

という、特徴的な能力をもっています。

 

この能力があるために、

物事や現象の背景にあってそれらを支配する、

かくれた法則性や原理を把握することができるようになり、

いったん、

それらの法則性や原理があきらかにされたならば、

こんどはその、法則性や原理のほうをスタート地点にして、

初見の問題や未知の問題にも、

方針をもって取り組むことができるようになったのです。

 

 

 

これが、

抽象化ということのもつ偉大な力であって、

理というものがもつ、1つの性質なのです。

 

 

 

では、このことと、ヘイトスピーチの間には、

どのような関連性があるのかについて、見ていきましょう。

 

 

 

どこの国であっても、たとえば、外国であっても、

その国、その国で、やはり、

他の国家や他の民族、他の宗教に対する、

ある種の「差別的な」見方というのは、一定程度、

存在するのかもしれません。

 

 

 

身近な例で考えるために、ここでは、

「中国人というのは、マナーが悪い」

という命題について考えてみましょう。

 

 

 

ただし、注意してほしいのは、ここで天機は、

「中国人というのは本当にマナーが悪いなあ!許せない!」

という立場から論じているわけでは、

かならずしもない、ということなのです。

 

 

 

中国人というのが、他の国の人々とくらべた場合に、

本当にマナーが悪いのかどうか、という点については留保して、

つまり、

「中国人というのは、マナーが悪い」

という命題の真偽については保留したうえで論をすすめていこうと

しているということを、ご了承ください。

 

 

 

さて、日本においては、とりわけ、

ネット界隈やテレビなどでは、ときどき、この

「中国人というのは、マナーが悪い」

ということが言われることが、あると思うんですね。

 

 

 

では、そもそも、なんでそんなことが言われるようになってきたのでしょうか。

 

ある種の都市伝説のように、

実際にはなんの客観的な根拠もないにもかかわらず、

自然発生的に、ひとびとの口伝えで広がっていったデマのたぐいなのでしょうか。

 

 

 

天機は、かならずしも、そうではないと思います。

 

 

 

おそらくは、

観光のために日本を訪れる中国人も数多くなってきた昨今の情勢のなかで、

ある観光地Aにおいて、たとえば、

中国人が列に並ばない、などのマナー違反の行為が目撃され、

また、ある住宅街Bにおいては、

中国人がゴミ出しの曜日や場所を守らない、

などのマナー違反が目撃された。

 

 

 

そういった事例が積み重なって、積み重なって、

だんだんと多数の事例が集積していったときに、

多くの日本人の中で、

そういった個別の事例から帰納的に抽象化されるかたちで、

 

「中国人というのは、もしかしたら一般的に、

 マナーの悪いひとたちなのではないか?」

 

という認識が形作られていった可能性がある、と思うんですよね。

 

 

 

そして、このような認識の形成にも、

いま述べたように、

 

抽象化

 

という、理の持つ働きの1つがかかわっているわけです。

 

 

 

そういうわけであるので、

ここで、

たとえ中国人がマナーの悪い事例があったとしても、

それは個々の中国人の個別の問題であって、

それらの個々の事象の間には相互の関連はなく、

それらの個々の事象から帰納的に、

中国人が全体としてマナーの悪い人間なのだ、という「法則性」

を導き出すことは、ヘイトスピーチとして許されない、

と考えることは、

 

帰納的に抽象化して物事を把握する

という、理の原理そのものを否定する

 

傾向性を、一定程度、含んでいるかもしれないのです。

 

 

 

これが、

なんでもかんでもヘイトスピーチであるとして、

理性的な根拠に基づいた批判をも機械的に封じてしまおうとする

考え方が、

理の原理に反していて危険なのではないか?

と天機が考える、1つの理由です。

 

簡単にいうと、

抽象化というものを一律に否定するような考え方はおかしいのではないか、

と天機は思っている、ということです。

 

 

 

なんでもかんでもヘイトスピーチであるとして、

理性的かつ建設的な批判をも一律に禁じてしまうことが、

理の原理に反していて危険なのではないか、

と天機が考える理由は、ほかにもあります。

 

 

 

ここで少し、「生と死」というものについて考えてみましょうか。

 

 

 

よくドラマとかで、

いまにも死にそうな人が病床に横たわっている場面というのが

映し出されることがあります。

 

その傍らには、

心拍でしょうか、心臓の鼓動の様子でしょうか、

そういうものを計測している機械が置かれてあって、

緑色の光の線が波をえがいています。

 

 

 

だんだんとその波長の間隔が長くなっていって、

そのひとがついに臨終をむかえると、

ぴーーーーっと音が鳴って、

その緑色の光の線は、波打つことをやめて、一直線の平坦な線になる。

 

そんな場面がありますよね。

 

 

 

この緑色の光の線の波打つ様子に特徴的なのですが、

人間が生きているとき、つまり、「生」の場面では、

変化があります。動きがあります。

 

 

 

言ってしまえば、

「楽しいこともあれば、苦しいこともある。

 うれしいこともあれば、いやなこともある。」

それが、生ということなのです。

 

 

 

ところが、ひとが死んだときは違います。

 

一直線になってしまって、ついに波打つことをやめてしまった

その緑色の光の線に特徴的なのですが、

ひとが死んだとき、つまり「死」の場面では、

動きがありません。変化がありません。

 

 

 

言ってしまえば、

「楽しいこともなければ、苦しいこともない。

 うれしいこともなければ、いやなこともない。」

それが、死ということなのです。

 

 

 

そして、

楽しいこともあれば苦しいこともある「生」と、

楽しいこともなければ苦しいこともない「死」は、

それぞれがたがいに対極的な位置に位置していますよね。

 

それが、生と死の関係です。

 

 

 

ここで、天機がその理論においてよく展開するところの、

生の原理と理の原理についても考えてみましょう。

 

 

 

自分が生きるためには他者を犠牲にしてもかまわない、

というのが生の原理です。

 

それに対して、

この世界には自分と他者の両者が両者ながら存在しているのであって、

そういった他者の存在を認め尊重する原理が、

理の原理なのでした。

 

 

 

その、生の原理と理の原理の両者もまた、

たがいに対極的な位置に位置しているといえるでしょう。

 

 

 

とするならば、

先に見てきたように、

生と死はたがいに対極的な位置関係にあり、また、

生の原理と理の原理もまたたがいに対極的な位置関係にあるということなので、

生や、生の原理とは、反対の方向に存在するという点において、

死と、理の原理には、共通性があると考えることができます。

 

 

 

したがって、

楽しいことも苦しいこともあるのが生の原理ならば、

楽しいことも苦しいこともないのが理の原理である、

ということができるかもしれません。

 

 

 

では、そういった性質をそれぞれ持つ、

生の原理と理の原理が、

ここでかりに、自分の原理がもつ優位性や素晴らしさを主張するとしたら、

いったい、

どのような主張を展開するでしょうか。

 

 

 

生の原理について考えてみましょう。

 

生の原理は、「楽しいことも苦しいこともある」

という性質を持つ原理です。

 

このうち、楽しいことがある、というのは素晴らしいことで魅力的ですが、

苦しいことがあるというのは、あまり訴求できないマイナス面です。

 

 

 

なので、生の原理は、こう主張するでしょう。

 

「この世界にはね、そもそも、苦しいことは存在しないんだ。

 苦なんてものは、この世には初めから存在しないんだ。

 この世で大切なのは、楽しいかどうかだけ。

 そして、自分のこの生の原理は、その楽しさを持っている原理なんだよ。」

と。

 

 

 

では反対に、理の原理はどのような主張をするでしょうか。

 

理の原理は、「楽しいことも苦しいこともない」

という性質を持つ原理です。

 

このうち、苦しいことがないというのは、素晴らしく魅力的なものなのですが、

楽しいことがないというのは、あまり訴求できないマイナス面です。

 

 

 

なので、理の原理は、こう主張するでしょう。

 

「この世界には、楽しいこともあるかもしれないけれど、

 苦しいことだってあるんだ。

 苦は存在しないわけじゃなくて、苦はあるんだよ。

 そして、自分のこの理の原理を選択すれば、

 その苦を減らしたり、なくしたりできるんだよ。」

と。

 

 

 

このようにみてくると、1つのことがわかります。

 

つまり、

生の原理というのは、

この世界には苦が存在するということ、つまり、

嫌なことやマイナスも存在するのがこの世界だということを

承認しない原理だということです。

 

他方で、

理の原理というのは、

この世界には苦が存在するということ、つまり、

嫌なことやマイナスも存在するのがこの世界だということを

承認する原理だということです。

 

 

 

これらのことをふまえたうえで、

ヘイトスピーチの問題に戻って考えてみましょう。

 

 

 

ヘイトスピーチを規制しようとする論者というのは、

往々にして、

根拠に基づいた理性的な批判をも一律に封じようとするきらいがあり、

それは危険だと天機は考えたのでした。

 

 

 

ここで、

ある民族や宗教、国家に対する論評というのを考えてみたときに、

それには2つの種類があるといえます。

 

 

 

1つは、

「〇〇の民族や宗教、国家に属するひとびとは、

 △△という素晴らしい点があって、ほんとうに素晴らしい人たちだなあ。」

と、プラスの評価をするもの。

 

もう1つは、

「✕✕の民族や宗教、国家に属するひとびとは、

 ◇◇という醜い点があって、ほんとうに嫌な人たちだなあ。」

と、マイナスの評価をするものです。

 

 

 

ヘイトスピーチと、

他の民族や宗教、国家に属するひとに対する理性的、論理的な批判を

同視して一律に禁じようとするひとたちというのは、

上で述べた2つの評価のうち、

プラスの評価だけを認めて、マイナスの評価を認めないのです。

 

 

 

でも、これって、

考えてみたらおかしなことではないでしょうか。

 

どのような人間であれ、また、どのような団体であれ、

優れているところもあれば、劣っているところもあるだろうし、

素晴らしい部分もあれば、嫌な部分もあるでしょう。

 

 

 

にもかかわらず、

あたかも、劣っているところや嫌な部分などは、

はなからこの世界には存在しないとでも言わんばかりに、

それらの点に言及してマイナスの評価をすることを封じるというのは、

事実をありのままに冷静にとらえていないばかりではなく、

 

この世界には苦や嫌なことが存在する

という事実から目をそむけているところが、

理の原理に反する

 

と天機などは思うのですね。

 

というのも、さきに述べてきたように、

この世界には苦や嫌なことも存在するということを

承認する原理が、理の原理だからです。

 

 

 

これが、

ヘイトスピーチと、

根拠に基づいた理性的で論理的な、他民族、他宗教、他国民への

批判を一律に同視して封じてしまおうとすることが、

理の原理に反していて危険だと天機が考える、2つめの理由です。

 

 

 

では最後に、

ヘイトスピーチとそれに類するものを一律に安易に封じてしまおうと

することが、

理の原理に反していて危険だと天機が考える、

3番目の理由をしめして、この稿を終わりにしようと思います。

 

 

 

天機理論においては、

この世界が生成してきたところの、

世界生成理論について考えることがあります。

 

 

 

天機の理論では、こうです。

 

 

 

まず、この世界のはじまりに、「矛盾」という母がいました。

 

その「矛盾」という母が、第1子となる男子を出産します。

その男の子が、「理」です。

 

生まれた男の子の「理」は、

自分をうんだ母親の「矛盾」とまじわります。

 

すると、この世界に2番目の子供が誕生します。

 

その2番目のこどもが、女の子である「生」です。

 

 

 

つまり、この世界は、

矛盾(母)→理(男の子)→生(女の子)

という順番で生成してきた、

と天機は考えているのです。

 

 

 

そしてこの順番は、

こんにちにいたるまで、この世界の具体的な事物や現象で

「なぞる」ことができるとも、

天機は考えています。

 

 

 

具体的に言うと、

矛盾(母ー夜が明ける前の暗闇の黒ー髪の毛)

理(男の子ー日の光の白ー頭、頭脳)

生(女の子ー夕焼けの赤ー生殖器をふくむ胴体部)

 

と考えているのです。

 

 

 

ここで、この生成プロセスの真ん中にある、

 

 

について考えてみましょう。

 

 

 

夜が明ける前というのは、真っ暗な闇につつまれています。

どこを見渡しても、漆黒の暗闇です。

もっとも、都会ではなかなかそんなふうには感じられないかもしれませんが。

 

 

 

ところが、太陽が東の空に近づいてくると、

まず、地平線という「線」が、この世界にあらわれてきます。

 

つづいて、それまではなんの区別もなく闇の中に沈んでいた

個々の事物が、「輪郭」を生じて、

他者とは異なる自己というものを主張し始めるのです。

 

山々があらわれ、木々があらわれ、ビル群がすがたをあらわし、

鳥や虫たちがうごきはじめます。

 

 

 

暗闇の黒の中に沈んでいたときは、

自己と他者の区別もなく「溶け合って」、

言ってみれば、すべてが1つ、すべてが同じ、だったのに、

日の光の白があらわれてくると、

それぞれのものが、輪郭を以て、

 

違い

 

を主張するようになってくるのです。

 

 

 

日の光の白を担当していたのは、

矛盾ー理ー生という世界生成プロセスの中の「理」の原理ですが、

このように、理の原理もまた、

「違い」というものを大切にするのです。

 

 

 

この「理」は、人間の体のなかでいえば頭脳ですが、

この頭脳もおなじく、「違い」を大切にします。

 

物事や現象の、それぞれのあいだにある共通点だけではなくて、

相違点は相違点として認識し、はっきりと区別することで、

人間はその理性を発達させてきて、

この世界に対峙してきたのです。

 

 

 

つまり、

 

私とあなたは違うんだ、という、

違いを大切にするということこそ、

理の原理の持つ重要な性質の1つ

 

なのです。

 

 

 

そして、この「私とあなたは違うんだ」という、

違いのあらわれというのは、

個々の人間と人間のあいだで生じるばかりではなくて、

いろんなレベルで生じうるものであるはずです。

 

 

 

私の組織とあなたの組織はちがうんだ。

私の会社とあなたの会社はちがうんだ。

私の家庭とあなたの家庭はちがうんだ。

私の民族とあなたの民族はちがうんだ。

私の宗教とあなたの宗教はちがうんだ。

私の国家とあなたの国家はちがうんだ。

 

いろいろです。

 

 

 

違いというのは、1つには、

「輪郭」というか、「枠」のようなものを設定して

考える思考とかかわりがあります。

 

 

 

あなたの民族とわたしの民族は違う、というときは、

自分の民族というものに、ひとつの「輪郭」を見出し、

それの内か外かで考えているのかもしれません。

 

あなたの国家とわたしの国家は違う、というときは、

もっと明白な、国境線という「輪郭」の存在があります。

 

 

 

ヘイトスピーチや、それに類する、

他民族や他宗教、他国家への理性的で論理的な批判をも一律に禁じようとする

論者の考え方というのは、

こういった、

民族という輪郭や、宗教という輪郭、あるいは、

国家という輪郭を意識し、それを設定し、それに立脚して論を展開する

ことを、異様に嫌う傾向性があるのです。

 

 

 

というのも、

民族や宗教、国家といった輪郭を設定して、

それに基づいて論を展開する姿勢というのは、

ようするに、この世界における「違い」に力点をおいた主張になるからであり、

そのような主張を、

ヘイトスピーチのたぐいを規制しようとする側が嫌うというのは、

端的に言えば、

彼らが「違い」というものの存在から目を背けたいからにほかなりません。

 

 

 

そして、このことこそが、

違いというものを大切にしている理の原理にとっては、

ヘイトスピーチやそれに類するものを安易に一律に規制しようとする

人間というのが非常に危険な存在である、

ということを、よく示しているように思われるのです。

 

 

 

ヘイトスピーチを規制しようとする側には、

おなじような思想を持った、仲間になる存在がいます。

 

 

 

国境などといった枠にとらわれず、

地球温暖化といった、地球全体の問題に取り組もう。

 

国境などといったものは廃して、

EUのような、単一市場、単一政府をめざそう。

 

移民を受け入れよう。

移民に関するマイナスのステートメントは許さない。

 

グローバリゼーションを拡大しよう。

国と国との間に壁を設けるトランプなんかは、悪の権化だ。

 

それらの流れの中の1つに、

ヘイトスピーチ規制論者がいるのです。

 

 

 

このように、

理の原理がたいせつにしているところの、

「違い」というものの存在を認めず、

できることなら、「違い」というものを亡き者にしてしまいたい、

という傾向をもっているところが、

天機が、

ヘイトスピーチとそれに類するものを安易に一律に規制しようとする

勢力が、

理の原理に反していて危険なのではないか、と考える、3番目の理由です。

 

 

 

以上の3つの理由であげたように、

ヘイトスピーチとそれに類するものを安易に一律に規制しようとする

勢力には、

理の原理に反するという傾向があるように思われます。

 

 

 

天機は、

明確で理性的な根拠もなく、

特定の民族や宗教、国家に属するひとたちを、一般的に、

その属性に関連付けるかたちで誹謗中傷する行為や言動には反対ですが、

明確で理性的な根拠にもとづいたうえで、

ある特定の民族や宗教、国家に属していることに一定の注目をし、

論理的、建設的な提言や批判をすることまでが、

安易に一律に封殺されるべきではない、と考えます。