この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

千本釈迦堂の「大根炊き」は、無料ではない。

こんにちわ。天機です。

(約1800字)

 

 

 

今回の記事は、たまたまヤフーニュースに上がっていた

ニュース記事を読んで、

ちょっと思ったことを書いてみようかな、と思った、

まあ、言ってみれば、臨時の記事のような感じです。

 

 

 

さて、きょうのヤフーニュースに、

こんな記事が上がっていました。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 

 

無病息災を祈って、

このお寺の参拝客に、大根とおあげを炊いた煮物を提供するようです。

 

 

 

ただ、気になったのは、この記事の本文中で、

大根とおあげの炊いたのが、

 

ふるまわれる

 

と表現されていることなんですね。

 

 

 

ふつう、「ふるまわれる」という言葉から思うのは、

その料理などが、

 

無料で

 

提供される、ということでしょう。

 

 

 

「ふるまわれる」という日本語の中には、通常、

この「無料性」というものが含意されているので、

それゆえ、たとえば、

晦日に神社へ行ったところ、甘酒が無料で提供されたような場合には、

「甘酒がふるまわれた」

というのは自然な表現になりますが、

吉野家に行って牛丼並盛を料金を支払って食べた場合、

吉野家が牛丼を「ふるまった」とは、通常は言わないでしょう。

 

 

 

この、ヤフーニュースの記事にあがっている、

千本釈迦堂で「ふるまわれる」と表現されているところの、

大根とおあげの炊いたのは、どうなのかといいますと、

 

タダではない

 

んです。

 

 

 

この、大根とおあげの炊いた煮物、まあ、たぶん、お椀1杯ほどのもの

だと思うんですが、

 

1杯1000円

 

という料金をちゃんととって、販売されているものなんです。

 

 

 

大根とおあげだけしか具が入っていなくて、

しかもお椀1杯ほどしかないのに、1杯1000円というのは、

かなり強気な値段設定だと、自分なんかは思いますが、

まあ、値段はお寺が勝手に決めることができるものですから、

それについては、文句はいいますまい。

 

 

 

また、材料費も、労働力もかかっているのに、

それをタダでもらおうなんて、あさましい!

というお叱りがあるとすれば、それももっともなことでしょう。

 

 

 

そんなことは、わかっているのです。

 

自分が主張したいのは、

その煮物をタダでよこせ、ということではないのです。

 

 

 

タダではないのなら、そのタダではない、という現実に即した表現を

すべきであって、

あたかも、お寺の側が一方的に、参拝客に対して奉仕をしているかのような、

誤った表現をすべきではない、と言っているのです。

 

 

 

この、千本釈迦堂での、大根とおあげの煮物の提供というのは、

冬の風物詩のようで、

毎年、この頃になると、ニュース記事にあがることがあるようです。

 

 

 

そのなかで、この「ふるまわれる」という表現に違和感を感じて

ブログ記事にしているひとも、自分のほかにもいて、

少なくとも2015年の段階から、

新聞では、この千本釈迦堂での飲食物の提供を「ふるまわれる」

と表現しているものがあることが、わかります。

 

 

 

「お寺のひとがせっかく作ってくれてるんだろ?

 だったら、そんな細かいこと言うなよ。」

 

というひとも、なかにはいるかもしれません。

 

 

 

ですが、自分は思うのです。

 

この世界には、自分がいれば、他者がいます。

他者がいれば、自分がいます。

 

自分だけがいる、とか、他者だけがいる、とかいうわけでは、ないのです。

 

 

 

お寺の人がせっかく作ってくれている、というのは、なるほど、そうでしょう。

 

ですが、それは、お寺の側に立脚した視点です。

 

そして、煮物を作ってくれるお寺という存在があるいっぽうで、

それに相対するものとして、

その煮物に対価を支払う参拝客の存在があるわけです。

 

 

 

対価をとっていわば「商売」をしている、千本釈迦堂の煮物に対して、

それを「ふるまう」と表現するのは、

煮物の提供者、販売者である千本釈迦堂の側にやや、かたよりすぎた

視点の持ち方であって、

それに対して対価を支払っている参拝客の側をなおざりにした

視点の持ち方だと思うのです。

 

 

 

おたがいに、相対する関係にあるような両者、

利害が対立する可能性があるような両者、

そのような両者が存在する場合には、

いっぽうだけの言い分とか、必要性とか、利益とかに言及するだけでは、

不十分だと思うのです。

 

そこにはやはり、両者それぞれに目配りするような、

「公平性」が求められるものだと、自分なんかは思います。