この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

犬を含む漢字について。

こんにちわ。天機です。

 

今回の記事は、とても気が引けるのですが、大作です。

字数は、約10400字あります。

 

 

 

きょうは、ひさしぶりに漢字論について語ってみようと思います。

 

ただし、いつものことなのですが、

天機が独自説をとなえるときというのは、いつも、

自分の思い付きを「論理的に見えるように」説明したものになります。

 

漢字を専門的に研究している大学の先生などには、

学問的なトレーニングというバックボーンがありますが、

天機には、それがありません。

 

なので、あまり、正しいことを言っている、とは思いこまないで、

エッセーのようなたぐいだと思って、読み進めてください。

 

では、いきます。

 

 

 

漢字の中には、「犬」という部分を含む漢字が、いくつかあります。

 

本場の中国では、それはもう漢字の数がすごく多いですから、

犬を含む漢字も多数に上るのですが、

ここは日本ですから、常用漢字にしぼって考えることにしましょう。

 

そのなかでも、「犬」なのか、「大」なのかについて、

争いのある漢字については省くことにします。

 

すると、

日本の常用漢字において、あきらかに「犬」という部分をふくむ漢字は、

以下の8つになります。

 

 

 

伏 然 犬 状 献 獄 獣 黙

 

 

 

天機は、うえにあげた「犬」をふくむ漢字の字源について気になったので、

ネットで調べてみました。

 

以下に記載する、それぞれの漢字の字源については、基本的には、

ウィクショナリーというサイトを参考にし、

ウィクショナリーに字源の記載がない場合は、

その他のサイトを参考にしました。

 

では、字源について、見ていきましょう。

 

 

 

この漢字は、会意文字とされています。会意文字とはなんであるのか、

天機にはよくわかりません。

人が、犬のように伏せたり、はいつくばったりするところからできた漢字だ、

とされているようです。

 

 

 

この漢字も、会意文字とされています。

犬の肉をあぶるところからきた漢字で、燃焼の燃の原字だという説明ですね。

 

 

 

この漢字の説明はシンプルでした。

象形文字です。

犬が、このように見えた、ということなのでしょう。

 

 

 

この漢字は、右側の「犬」という部分と、左側の部分とからなっていますが、

左側の部分は、もともと、寝台を意味する部分で、

音のみを借りた形声文字だという説明がされていました(説文解字)。

形声文字がなんなのか、天機にはよくわかりません。

 

 

 

この漢字は、左側に「南」という部分がみえますが、ここはもともと、

「南」ではなく、

物を煮炊きする意味をもつ、べつの原字があったようです。

そこからこの漢字は、

犬を煮炊きして神にささげる、という意味を持つようになった、

という説明がされています。

 

 

 

この漢字は、いちばん左側にあるけものへんと、いちばん右側にある「犬」とが、

あわせて2匹の犬をあらわしていて、

その2匹の犬がお互いに吠えて争うところから、

原告と被告をあらわし、裁判に関係し、服役、刑務所に関係する、という説と、

もう1つ、

2匹の犬がお互いに吠え争うところから、

そのような、人間にとっては危険な場所をあらわすようになった、

という説があります。

 

 

 

この漢字の左側の部分は、狩猟の道具をあらわしていて、

右側の「犬」は、狩猟の際に連れて行く猟犬をあらわしており、

あわせて「狩猟」というのがもともとの意味なのだ、という説明がされています。

 

 

 

犬を犠牲として埋めて、だまって喪に服する、

という説明が、白川静さんによってなされています。

「字統」や「字訓」といった大著のある白川先生は、

漢字学においておおきな影響力をもつことになりましたが、

正統派の漢字学者からは、批判されることがあります。

 

 

 

以上が、ネットを参考にしてまとめてみた、

「犬」という部分をふくむ漢字の字源です。

 

こうしてみてくると、明らかなことなのですが、

これらの字源の説明において、

なぜ、「犬」という部分がふくまれているのかについて説明するにあたっては、

ことごとく、

 

実際に吠えたり走り回ったりするところの、

動物の犬をもとに思考をすすめている

 

のです。

 

 

 

天機はなにを言ってるんだ?

そんなの、あたりまえやん。

動物の犬以外に、「犬」になにがあるっていうんだよ!

 

そんな、お叱りの声も聞こえてきそうです。

 

 

 

でも、頭のおかしい天機は、こんなことを考えてみたのです。

 

 

 

犬という部分を含む漢字における犬は、

実際の動物の犬ではなくて、

犬という動物に象徴されるような、

背後にあるなんらかの隠れた原理のことを指してるんじゃないか?

 

と。

 

 

 

では、この天機の妄想をもとに、論をすすめていきましょう。

 

ここから、天機の独自説を開陳していきますが、

独自説を展開するにあたっては、

古今の碩学の学説などといったものは、ことごとく無視していきます。

 

では、いきましょう。

 

 

 

漢字というものが、どうやってできたのか。

そんなことを考えていると、そこにおおきなロマンを感じることがあります。

 

漢字学者といったような、漢字について専門的に考えることを

職業にしているひとたちも、漢字について、日々考えていることでしょう。

 

 

 

ですが天機が思うに、

漢字学者といったようなひとたちは、

古代の人たちが漢字をつくりだすにあたって持っていた理性というものを、

すこし軽く考えるくせがあるのではないかな?

と思うのです。

 

つまり、現代というのは文明が開けた世界であって、

人間の歴史というのは、時代が新しくなればなるほど、どんどん進歩していく。

逆に言えば、

はるかな古い古い時代というのは、文明もまだ開けていなくて、

迷信もはびこっており、

ということは当然、古代人の持つ理性などといったものもたいしたことはなく、

なにかのもののかたちを見たままに象形文字にしたり、

あるいは、呪術的な要素も、濃厚に作字のプロセスには存在したであろう。

 

そんなふうに、現代の漢字学者は考えているのではないかな、

と、天機なんかは、思うことがあるのです。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

天機は、この世界にかたちをとってあらわれた、

個別具体的な存在や現象の背後には、

それらのおおもとになったような、かくれた原理が存在する、

と考えています。

 

漢字は一見したところ、それらの個別具体的なもののほうを参考にして

つくられたように見えるかもしれませんが、

じつは、漢字というのは、

背後に隠れたおおもとにある原理のほうに言及して生まれてきたものなのではないか。

 

そして、

そういった隠れた原理を洞察して、それに言及し、

広範な漢字の体系の中で相互に矛盾のないしくみとして組み上げていく

ことができた古代人の理性というのは、

じつは、むしろ、

現代人などが逆立ちしてもかなわないような、

神がかり的なレベルにあったのではないか。

 

そんなふうに天機なんかは考えたりするのです。

 

 

 

では、今回とりあげた、

「犬」という部分をふくむ漢字に話をもどして考えてみると、

どういったことがいえるでしょうか。

 

天機の想像は、こうです。

 

 

 

人間について、すこし考えてみましょう。

 

人間には、「体」と「心」があります。

 

体というのは、見ることができる。

体から発せられる声などは、聞くことができる。

愛するひとの体に、触れることもできる。

 

ようするに、感覚器官でもってその対象である体を把握することができるというのが、

「体」というものがもっている1つの性質です。

 

 

 

また同時に、体というものは、変化しにくい、という性質をもっているとも、

ある程度はいうことができるかもしれません。

 

もちろん、女性は化粧をすれば変身することができるでしょうし、

交通事故などに遭えば、

たちどころに重傷を負うようなこともありうるでしょう。

 

ですが、

昨日会った友人が、今日見てみると、身長が2倍に伸びていた、とか、

1年前に会った親戚の伯父さんに、ひさしぶりに再会したら牙が生えていた、

といったことは、通常はないわけです。

 

へんなたとえをだしましたが、

体というのは、だいたいにおいて、変化はしにくいものだと、天機は思うのです。

 

 

 

それに対して、心はどうでしょうか。

 

ひとは、話したり、手紙を書いたりすることで、

自分の心の内を、他者に伝えることはできます。

 

ですが、その伝えた内容が、つねに真実である保証はありません。

人というのは、嘘をついたり、冗談を言ったりすることがあるからです。

 

拷問にかけて、ひとに一定の「情報」を吐かせることはできるかもしれませんし、

キリシタンに踏絵をふませて、「忠誠」をあきらかにさせることも

できるかもしれませんが、

そのじつ、内心ではなにを思い、なにを考えているかまでは、

通常は、分かりにくいものでしょう。

 

ということは、心というのは、体とはちがって、

感覚器官による把握がむずかしい、ということが、一定程度、

言えるのではないか、と思います。

 

 

 

また同時に、心というものは、からだにくらべて、

変化しやすい、という性質ももっています。

 

女心と秋の空、というたとえがありますが、べつに女性の心にかぎらなくても、

さっきまで気分良く過ごしていたのに、

急に電話がかかってきて、仕事で呼び出された、とかいったことがあると、

とたんに不快な気分になる、

というのが、人間の心です。

 

その意味で、人間の心は、からだにくらべると、変化しやすいものだと思うのです。

 

 

 

以上を整理すると、

人間には「体」と「心」があって、

体というものは、感覚器官で把握しやすく、また、変化しにくい。

他方で、心というものは、感覚器官で把握しにくく、また、変化しやすい。

 

おおざっぱにいって、うえのような区別をたてることが可能ではないだろうか、

と思います。

 

 

 

うえでみたような、体と心の区別というのは、

「人間」に対象をしぼって考えてみたものでした。

 

では、これを、

この宇宙とか、この世界とかに、範囲をひろげて考えてみたら、

どうなるでしょう。

 

 

 

天機が、このように考えてきたときに、

漢字の成り立ちとの関連で考え付いたのが、

 

という漢字と、

という漢字です。

 

 

 

大も、小も、いずれも小学校で習うような、基本的な漢字ですよね。

 

大は大きいということであり、小は小さいということである。

いずれの意味も、日本人にとっては基本的なもので、

さらにいえば、

大という漢字と小という漢字から、これ以外の意味を導き出すようなことは、

通常はあまりないといってもいいでしょう。

 

 

 

ですが、天機は、さまざまな漢字の中の一部として、

この「大」や「小」がふくまれている場合をずーっと見てきた中で、

ひと言で言えば、

 

大という漢字は「フェーズ」を

小という漢字は「遷移」を

 

それぞれあらわすのではないだろうか?

と思ったんです。

 

 

 

さらに、もっと突っ込んで言えば、

大という漢字の中には横線が入っていますが、

 

漢字における横線はフェーズをあらわし

 

また、小という漢字の中には縦線が入っていますが、

 

漢字における縦線は遷移をあらわす

 

のではないだろうか、と、例によって天機は、

「勝手に」考えたんです。

 

 

 

ここで、「フェーズ」だの、「遷移」だのといった、

もともとの用語からしてあまりなじみがないうえに、

さらには、おそらく天機はここにおいて、

自分独自の用語法でこれらの言葉を使用してるであろうために、

さらに混乱を招きかねない、

これら2つの言葉について、くわしく見ていきたいと思います。

 

 

 

まず、フェーズについて。

このフェーズという言葉によって、天機がここで言い表そうとしている内容は、

 

「存在や現象。それはなんなのか?と問われたときに、それは〇〇だ、というふうに

 かちっと定義できるようななにか。目に見えたり、耳で聞こえたり、感覚器官

 で把握しやすいもの。人間の、体と心でいうならば、体にあたるもの。

 かちっとしていて、比較的明確で、空間性のあるもの。変化があまりないもの。

 確定的であって、そこに立脚して、つぎに積み重ねていくことができる基盤に

 あたるようななにか。場。姿。外面。ある局面。静と動でいえば、静。」

 

と、おおよそ天機の頭の中では、こういうふうなものをフェーズという言葉で

あらわそうとしています。

 

 

 

ではつぎに、遷移について。

この遷移という言葉によって、天機がここで言い表そうとしている内容というのは、

 

「精神や法則性、理法といったような、物事の表面からは見えない、背後に隠れた

 なにか。人間の、体と心で言うならば、心にあたるほう。フェーズというのが、

 電車が停まる駅だとすると、遷移というのは、その間をつなぐ線路みたいなもの。

 かちっとした確定的な感じはなくて、変化変動しようとするのが、遷移。

 感覚器官ではとらえにくく、変化しやすい。いま、どうであるのか、いま、なんで

 あるのか、を問題にするのがフェーズの議論であるならば、

 これから先、どのような方向へと変化していくのか、ということを問題にするのが

 遷移の議論。静と動でいえば、動。内面。変化とかかわりがあるので、

 時間性と関連があるのが、遷移。物質がフェーズだとすると、エネルギーが遷移。

 エネルギーが遷移とかかわりがあって、エネルギーというのは、他のものに力や

 作用を及ぼすものであるところから、この遷移は、作用、変化、適用、といったもの

 とも関連する。」

 

 

 

とまあ、このように、

天機の頭の中は、おもちゃ箱がひっくり返ったような感じで混乱しているのですが、

「フェーズ」という言葉と、「遷移」という言葉で、

天機が脳内でイメージしている事柄というのは、

だいたい、上で述べたような感じになります。

 

そして、繰り返しになりますが、

漢字の「大」は「フェーズ」に、漢字の「小」は「遷移」に、

それぞれ関連している、と考えているわけです。

 

 

 

では、「犬」という漢字は、いったい、どのように考えたらいいのでしょうか。

 

 

 

ネットにのっている字源解説では、この「犬」という漢字は象形文字だと、

つまりは、犬を見たらそういうふうに見えたと、解説されていました。

 

 

 

が、天機はそのようには考えませんでした。

 

天機は、この「犬」という漢字は、

「大」という漢字がもともとあって、その右上に点をひとつ加えたものだと

思ったのです。

 

つまり、漢字の「大」があらわすような性質がまずあって、

それを前提にして、右上に1つ点を加えることで、

その性質にある種の制限をかけた、と考えたのです。

 

 

 

それが意味するところはなにか、というと、

 

存在や現象といった、外から見てわかるなにか、体と心で言えば、体、

そして外面、

そういったものに、一定の拘束や制限がかかっている状態

 

その状態を指して、

「犬」という漢字で表現したのではないだろうか、と考えたのです。

 

 

 

犬を象形文字だとする考え方というのは、ようするに、

そのへんを走り回っている、個別具体的な動物の犬の姿を見て漢字をつくったのだ、

とする考え方なのです。

 

それに対して、天機の考え方というのは、

そのへんを走り回っている、個別具体的な犬の背後には、

じつは、

大という漢字があらわす存在や現象といったものに一定の拘束や制限がかかっている

状態、

というひとつの原理があって、

犬という漢字は、個別具体的な動物の犬から着想を得てできた漢字ではなく、

そのおおもとになった、ひとつの原理のほうに言及してできた漢字なのだ、

というものなのです。

 

 

 

そして、非常に狂気じみたことに、

漢字というのは、日常の意思疎通のために便宜的に記号のようなものを

人間がこしらえた、というわけではなくて、

ふつうは見えないような、この世界の隠れた原理、

さらには、それら原理相互間の関係、そして、その関係の集大成である体系まで、

洞察したうえでつくられたものである、と、

天機は考えているのです。

 

 

 

「犬」という漢字に話をもどしましょう。

 

ふつうは、この世界に犬という動物がいて、それを見て、

ひとは「犬」という漢字をつくったのだ、と考えるかもしれません。

 

 

 

ですが、天機は頭がおかしいので、そのようには考えません。

 

この世界には、個別具体的な存在物に先立って、なんらかの「原理」があった、

と考えます。

そして、その「原理」が、具体的なかたちをとって、

この世界にあらわれ出でたのが、個別具体的な存在物である、と考えるのです。

 

「犬」についていうならば、

存在や現象といった外面に、なんらかの一定の拘束や制限がかかっている状態、

というひとつの「原理」がまずはじめにあって、

その「原理」が、この世界に具体的なかたちをとってあらわれたのが、

動物の「犬」なのだ、というふうに天機は考えています。

 

 

 

そして、犬はこのような背景をもってこの世に生まれてきているので、

この原理をあらわすような性質を、

実際の動物としての「犬」も、持つようになります。

 

 

 

たとえば、この世界を見渡してみると、いろんな動物がいますよね。

 

牛も、豚も、鶏も、魚も、人間に獲って食べられることも多く、

その意味では、人間の支配に服している、と見ることもできるかもしれません。

 

が、だからといって、それらの生き物は、

人間に対して従順であるという姿勢を、外面的に表したりはしませんよね。

服従の姿勢をしめすことは、ないんです。

 

 

 

犬と並んで、人間がペットとして飼うことも多い猫とかも、

そうではないでしょうか。

 

自分はペットには詳しくはないのであれなんですが、

猫がリードをつけて散歩されてたり、

猫が「お手!」とか「おすわり!」とかいったことをやらされてる場面

というのは、

犬に比べると、想像しにくいんですよね。

 

 

 

ところが、犬はちがいます。

 

犬というのは、ほかのいろんな生き物がいるなかでも、

あきらかにほかとは異なって特徴的なことに、

人間に対する「服従」の姿勢を、「外面的に」表現するのです。

 

もちろん、犬だって生き物ですから、

その気持ちの中では、「この飼い主きらいだな」と思っているかもしれませんよ。

 

でも、ここで問題にするのは、そういった内面ではなく、

外面なのです。

 

そして、その外面というのは、漢字の「大」が象徴するものでした。

 

 

 

つまり、

「犬」という生き物は、その漢字の成り立ちからわかるように、

存在や現象といった、姿、外面に一定の拘束や制限がかかっている状態、

という、1つの原理を背景として生まれてきている生き物なので、

なので、

実際の動物としての犬も、

飼い主に対する「忠誠」の姿勢を、他の生き物たちとは異なって、

外面的に表現するという性質をそなえるにいたったのではないか、

ということなのです。

 

 

 

そして、ここからがいよいよ、

今回のブログ記事のメインテーマなのですが、

最初のほうにあげたような、「犬」という部分をふくむいろいろな漢字についても、

個別具体的な動物の犬をもとにしてその字源を考えるのではなくて、

外面に対して制限や拘束がかかっているというかたち、

という、1つの原理をもとにして字源を考えてみたら、

統一的に解釈することができるのではないか、

というのが、天機の考えたことなのです。

 

では、1つ1つの漢字について、見ていきましょう。

 

 

 

これは、「犬のように」ふせたり、はいつくばったりするからではなく、

人間が伏せるという姿勢が、

外から見たときの人間の態度や姿勢、つまり、外面に抑制がかかっている

ところから、

このような字ができたと考えられます。

 

 

 

この漢字は、動作としては、自分の側から相手の側へと、

なんらかのものを受け渡すということなのですが、

通常は、たとえば、身分の低いものから目上の者へといった、

渡す側の「へりくだり」を含意する動作です。

 

単に、あげる、とか、わたす、とかいった、単純な「give」ではないのです。

 

そこにふくまれる「へりくだり」が、

わたすひとの外面への抑制や制約になっているところから、

この字には「犬」がふくまれると考えられます。

 

 

 

だまっている、沈黙している、ということと対比されるもの、

それとは反対になるもの、といえば、通常は、

話している、声を出している、自分の意見を表明している、

ということでしょう。

 

自分の意見を表明するということは、発話によって、

自己表現をおこなう、自己主張をおこなう、自分というものを押し出していく、

ということです。

 

沈黙しているということは、話すのか話さないのかということに関して、

自分というものを積極的に外へと押し出していく姿勢に

一定の拘束や制限がかかっているということができます。

 

なので、この漢字にも「犬」がはいります。

 

 

 

この漢字は、現代でいえば、刑務所のことをさすでしょうか。

 

刑務所に入った受刑者、服役囚は、

基本的には、看守やその他の人間の規律に服して、おとなしくしている必要が

あります。

 

たとえ、どんなに心の中(内面)において、

「この看守、気に入らねえなあ。殺してやりてえ。」

と思ったとしても、その気持ちを態度(外面)にあらわせば、

袋叩きにあいますよね。

 

なので、「獄」に収監されている者は、みずからの態度(外面)を抑制的に

している必要があり、

その限度で外面に制約がかかっているといえるので、

やはり、この文字にも「犬」がはいります。

 

 

 

この世界には、いろんな生き物がいます。

 

草原にも、海の中にも、ジャングルの奥地にも、それは多数の生き物が

いますから、

たとえ人間と言えども、それらの生き物のすべてを24時間コントロールしたり、

支配したりは、できないわけです。

 

しかしながら、この「獣」という文字は、おそらくは、

たんに中立的な立場から生き物たち、動物たちを指してうまれた文字ではなく、

人間に対する者、いざとなれば人間によって支配される、人間とは異なった

生き物、という意味で、動物たちを指してつくられた文字だという気がするのです。

 

禽獣ですね。

 

サーカスで鞭打たれるライオンも、鉄砲におびえる山奥の熊も、

心の中(内面)では、人間に対して激しい怒りを持っているのかもしれませんが、

そういったこととは関係なく、

実際の事象(外面)としては、人間によって支配、馴致されるわけです。

 

なので、そういった外面において、人間に対する関係においては抑制され、

制約を受けているという事実に着目して、

この「獣」という文字にも、やはり、「犬」がはいるのではないでしょうか。

 

 

 

状、然

これら2つの文字に犬がはいる理由は、一見したところ、判然としません。

これらの文字になぜ犬がはいるのかは、じっくりと考える必要があるのです。

 

そこで、熟語にして考えてみましょう。

 

「状」という漢字をふくむ熟語には、たとえば、

状態、状況、状勢、逮捕状、書状、樹状突起、斑状組織、症状、現状、

といったものがあります。

 

「然」という漢字をふくむ熟語には、たとえば、

悠然、自然、天然、泰然自若、公然、

といったものがあります。

 

 

 

たとえば、こんな状況を考えてみましょう。

 

大規模な自動車事故、交通事故、あるいは、鉄道事故などが発生し、

警察や消防、救急などへ通報があいついだとします。

けが人も多数出ています。

 

そういった報を受けた、警察や消防、救急の側には、

おそらく、その事案に応じて対処するために、指揮命令系統というのが

存在すると思うのですが、

総合的な判断をくだす、そういった管轄の上司、リーダーとしては、

「現場の「状」況は?」

と、たずねると思うんですね。

 

すると、実際に事故の現場で対応にあたっている、警察官、消防隊員、

救急隊員などは、どういった応答をしますか?

 

 

 

「おばあちゃんが、ねぎの入った買い物かごをさげてて、

 そのかごから、しょうゆのボトルがころがりでて、おばあちゃんメガネも

 割れてて…」

とか、

「車が、大きいのと、小さいの、赤いのやら黄色いのやらが、ぶつかってて、

 ドアがへこんでて…」

とかいったような、わけのわからない報告は、まずしないと思います。

 

こんな報告の仕方をしていたら、警察官失格、救急隊員失格になってしまうかも

しれませんよね。

 

そうではなくて、通常は、

「〇〇時〇〇分、現着。傷病者合計7名、現場にて多数の散乱物あり。」

とかいった報告の形態になると思うんですよね。

 

 

 

さっきの報告と、今回の報告と、なにがちがうんでしょうか。

 

 

 

それは、さっきの報告というのは、「生の(なまの)事実」をそのまま、

脈絡なく伝えているのに対して、

今回の報告は、上司が判断をしやすいように、必要な情報だけを咀嚼し、

整理したかたちで伝えている、ということなのです。

 

そして、ひとが、「状」況、「状」態、「状」勢、現「状」というふうに認識

ができるためには、

このように、

外面にあらわれた、表面にあらわれた、生の(なまの)事実をそのまま取り扱う

だけでは足りず、

そこに思考や判断によって、

評価、解釈、分析をくわえていく必要があるのです。

 

「然」という漢字についても、同じようなことが言えます。

 

悠然という表現であるならば、ひとがある様子を見たときに、

ああ、これはゆったりした様子だなあ、と感じて、

その様子全体に対して、「ゆったりしている」という観点からの

評価をくわえています。

 

公然というのも、人がある様子をみて、

はっきりしているなあ、隠し事がないようだなあ、という観点から、

全体を「公然」という一言のもとにまとめているわけです。

 

 

 

ということを整理すると、

「状」の字と「然」の字は、ともに、

表面的、外面的にあらわれた事実に対して、

観察者である人間の側が、評価や分析、解釈や批評をくわえるという意味において、

その外面的な事実に対して、ある種のワクをはめ、拘束をくわえている、

とみることができます。

 

おそらく、こういった背景があるために、やはり、

「状」の字にも、「然」の字にも、

「犬」がはいってくるのだろうと、天機は思います。

 

 

 

漢字についての、それ以外の独自考察については、こちら。

 

reasongomainstream.hatenablog.com