この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

陰徳に陽報が返ってくるのは、いつなのか。

こんにちわ。天機です。

11日ぶりの更新になります。

(約2900字)

 

 

 

さて、今回は、「陰徳と陽報」について、

自分の考えたことを書いてみたいと思います。

 

 

 

情けは人のためならず、という言葉を聞いたりすることがあります。

 

ひとに親切にしてあげたり、なにか、人のためになることをやってあげたりすると、

それがまわりまわって、結局は自分に、良い影響となって返ってくる、

といった意味で使われることばですね。

 

 

 

このことを、仏教かなにかでは、

「陰徳陽報」といった言葉であらわすそうです。

 

「陰徳」というのが、

人に知られないで、陰ながら他人のために良いことをしてあげること、

「陽報」というのが、

その、自分がかつてしてあげた良いことが、

まわりまわって、自分に良い影響となって返ってくる、ということです。

 

 

 

また、こんなことが言われたりもします。

 

コメディアンの欽ちゃんが、その著書の中で言っていたことなのですが、

つらいことや、いやなことがある時というのは、

言わば、「運を貯めている」ときなのだ、と。

 

そして、その貯めておいた運を、将来、自分が使う時に、

ハッピーなことがおこるのだ、と。

 

だいたい、そんなことを言っていたような気がします。

 

 

 

自分が考えるに、人間や、世の中のことに関しては、

対(つい)や、セットで考えることができるものがあると思うんですよね。

 

うえの、陰徳陽報という例に関していうならば、

 

① 誰かほかの人のためになるような、良いことをやってあげたり、

  あるいは、自分がつらい目やいやな目に遭って、運を貯めている

 

ということと、

 

② そのことがまわりまわって、自分に良い影響となって返ってくる、

  あるいは、貯めておいた運を、今度は自分が使う番がまわってきて、  

  それでハッピーがやってくる

 

ということがあって、

①と②は、たがいにセットになっている。対になっている。

 

そして、はじめにあった①に対して、②が発生することで、

それで、一応の「清算」となる。

 

世の中のしくみというのは、1つには、そんなふうになっているのではないかな、

と、天機は考えたのですね。

 

 

 

では、その清算が発生する「時期」は、いったい、どうなっているのだろう。

陰徳があったとして、それに、陽報が返ってくるのは、

いったい、いつのことになるのだろう。

 

天機は、そんな、「時期」や「スパン」のことが、気になりました。

 

 

 

それで、これまでのいろいろな事例を見ていく中で、

天機なりに考えてみたのですが、

この「時期」については、大きく分けて、

2通りのタイプがあるように思うのです。

 

 

 

1つ目のタイプは、

 

Ⅰ 陰徳に対する陽報が、「世代を超えて」実現されるもの。

  たとえば、あるひとが陰徳を為したときに、それに対する陽報が、

  そのひとの来世で返ってきたり、あるいは、

  そのひとの子孫が、その陽報の果実にあずかったりする、というタイプ。

 

 

 

そして、2つ目のタイプは、

 

Ⅱ 陰徳に対する陽報が、同一人物における、その一生涯のうちで実現されるもの。

  たとえば、前半生において陰徳を為したひとが、

  後半生において、自分がかつて為した陰徳に対する、陽報の果実を受ける、

  というタイプ。

 

このような、2つのタイプがあるように、天機は思ったのですね。

 

 

 

Ⅰのタイプについて考えてみましょう。

 

 

 

このタイプは、たとえば、仏教でいうならば、

浄土真宗などの、来世での極楽往生を願う思想と親和的です。

 

現世においては、ひたすらに功徳を積んで、

その報いは、自分の来世で受け取ろう、というものですね。

 

 

 

また、陰徳と陽報とが、「世代を超えて」実現されるⅠのタイプには、

陽報を自分の子孫が受け取る、という類型が、たしかに存在します。

 

 

 

たとえば、自己啓発本のロングセラー「道は開ける」をあらわした、

アメリカの著名な作家であるデールカーネギーは、

その両親が敬虔なキリスト教徒で、生前、貧しい人をとても助けた

ひとでした。

 

男子ゴルフ界のスーパースターだった、タイガーウッズは、

たしか、お父さんかお母さんが、熱心な仏教徒でした。

 

報徳仕法」で有名な二宮金次郎は、家は貧しかったのですが、

その両親は生前、貧しい人をよく助けていました。

 

「最後の相場師」といわれて、住友金属鉱山の相場では200億円の

巨利を得たとされる是川銀蔵は、

まずしい漁村の出身でしたが、

その両親は生前、やはり貧しい人たちをとても助けていたのです。

 

 

 

つまり、両親が、貧しい人たちをとても助ける、といった「徳」を積んでいて、

その「徳」が、その両親の存命中には消費しきれずに残った場合、

その恩恵は、その子孫にまで持ち越されることになって、

その結果、その子孫が成功したり、有名になったりすることがある、

というように思うんですよね。

 

 

 

では次に、Ⅱのタイプについて考えてみましょう。

 

 

 

このタイプは、仏教でいうならば、

観音経などの、現世利益を願う信仰と親和的です。

 

観音に帰依することによって、

自分が現在生きているこの現世の中で、その報いを受け取りたい、

というものですね。

 

 

 

また、陰徳と陽報が、同一人物における、

たとえば、前半生と後半生のあいだでバランスされるとする

Ⅱのタイプを体現した人物として思いつくのは、

徳川家康です。

 

 

 

家康は、若いころは人質に取られたり、

また、長じてからも、秀吉のもとで忍従を強いられたりと、

前半生は不運と苦労の連続でした。

 

また、そのなかで、「あの律義者の家康が」と言われるほど、

他人に対しては義理を欠かないで、信頼を集めていったといいます。

 

 

 

ところが家康は、後半生において豹変します。

律儀だった前半生とはうってかわって狡猾になり、

悪謀のかぎりを尽くして豊臣家を追い詰めて、

やがては覇権をにぎるのです。

 

 

 

この家康の生き方をみていると、

前半生においてひたすら忍従の生活をおくるなかで、しっかりと運を蓄積し、

後半生において、それまで貯めこんだ膨大な運を、

一挙に使って成功したのかな、

なんて気が、天機はするんですね。

 

 

 

陰徳と陽報が、世代を超えて清算されるⅠのタイプと、

同一人物の一生涯のなかで清算されるⅡのタイプ。

 

 

 

「家」や「家系」といったものが、だんだんと隆盛に向かうことを目指すのなら、

Ⅰのタイプを目標にしたほうがよさそうです。

 

 

 

が、天機なんかは、

自分が前半生に蓄積した運は、自分自身が後半生においてその果実を味わいたい、

と考える人間なので、

どちらかというと、Ⅱのタイプにあこがれますね。

 

 

 

そして、前半生において、苦労をし、嫌な目にも遭い、

運を蓄積してきたひとが、

後半生において、それまで蓄積した運の果実を味わいたいのなら、

後半生にさしかかるときに、家康のように、

生き方を激変させる必要があると思うのです。

 

つまり、

「これからは、運を貯める生き方をするのではなく、

 貯めた運を使う生き方をするのだ」

ということを、

この世界に対して、明確に意思表示する必要があると、天機は思うのですね。

 

そのあたりのことは、こちらの記事でも書きました↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

きょうは、このへんで。