この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

逆境にどう立ち向かうべきか。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約4000字)

 

 

 

新幹線での殺傷事件が、依然として社会に波紋を投げかけています。

 

 

 

世の中では、時として、こういった、

社会の不特定多数へ向けての、むきだしの敵意が表明されるような

事件が発生することがあります。

 

今回の、新幹線での殺傷事件もそうでしたし、

かつての、大阪教育大付属池田小学校の殺傷事件、秋葉原の殺傷事件も

そうでした。

 

 

 

そうした事件においては、犯人はたいてい、まだ若くて、

幼少期からの生育環境に問題があり、

人生の前半期において運命の女神に微笑んでもらえず、

自分のその苦境を、世の中全体のせいだ、という気持ちをつのらせたあげくに、

犯行に及んでいる例が多いような気がします。

 

 

 

こういった犯行は、言うまでもないことですが、許されるものではなく、

強い非難に値するものです。

 

犯人がそのような犯行に及ぶことがなければ、

被害者は、その後の人生を平穏にあゆむことができたのです。

 

 

 

だけでなく、犯人自身にとっても、なんらいいことはありません。

そんな犯行を犯さなければ、

警察に逮捕されることも、裁判で裁かれることも、

人生に深刻な汚点をのこすことも、さらには、死刑囚になるようなことも、

みな、なかったはずなのですから。

 

つまり、犯人がこのような犯行を思いとどまることさえできていれば、

まわりのひとも、犯人自身も、苦しい思いをせずにすんだかもしれない。

天機は、そう思います。

 

 

 

こういった事件において、犯人が犯行に及んでしまう背景には、

犯人自身の原因と、環境や運命に関する原因の、

2つがあるだろうと思います。

 

 

 

ひとが人生を生きていくうえでは、

自分の自由意思でどのように人生を形作っていくのか、という側面と、

まわりの環境や運命によってどのように影響されるのか、という側面の、

2つの側面があるだろうと思います。

 

なので、

人間は環境や運命の奴隷であって、自分ではなんにも決められないのだ、

とする考え方が、一方的であって真実をとらえていないのと同様に、

人間は自由意思で自分の人生をなんとでも決められる、

環境や運命の影響など受けないのだ、

とする考え方も、やはり、一面的であっておかしなものだろう、と思うのです。

 

環境や運命の影響を受けながらも、そのなかで、

自分の自由意思によって決定できる部分も有している。

それが、人間だろうと思います。

 

 

 

社会の不特定多数に牙をむくような犯罪を犯した犯人についても、

そのことは妥当します。

 

幼少期からの不幸な生い立ちという、環境や運命の影響がたしかにあるいっぽうで、

凶行に及ぶのかどうかということを、最終的に自分自身で決定することもできる、

自由意思もたしかに持っているのです。

 

その自由意思の側面がたしかにあるからこそ、

実際に凶行に及んでしまった人間に対しては、

その身勝手な動機がきびしく非難されることがあるのでしょう。

 

 

 

とはいうものの、

自分をとりまく環境や運命が、自分に優しく微笑んでくれるようなひとにくらべて、

自分をとりまく環境や運命が、やたらと自分に厳しくあたってくるような

ひとというのは、やはり、

その人生が破たんしやすくなるような傾向というのが、

たしかにあると思うのです。

 

 

 

よく人はいいます。

環境や運命のせいにするのは間違っている。結局は、本人の責任だろ、と。

 

 

 

天機は、それは半面で真実ですが、半面で誤りだろうと思います。

 

考えてもみれば明らかなことですが、

自分がどのような親の元に生まれてくるのか、

幼少期にどういった家庭環境で過ごすのか、

はたまた、うまれながらの重篤な持病をかかえているのかどうか、

優秀な遺伝子が自分を組成しているのかどうか、

両親からいかほどの経済的なバックアップがえられるのか、

といったことなどは、自分で選択できることではなく、したがって、

自分には責任のないことです。

 

そして、そういった、自分には責任のない事柄が、

自分の人生に、おおきな暗い影を当初から落としている、といったようなことは、

めずらしいことではないはずです。

 

 

 

そうすると、このように言う人もいます。

 

たしかに環境や運命はつらかったかもしれない。

でも、世の中には、もっとたいへんな目に遭っているひとだって、

いっぱいいるんだ。

みんな、そのなかで頑張っている。おまえだけ、たいへんなわけじゃないんだ、と。

 

 

 

天機は、これについても、半面で真実ですが、半面で誤りだろうと思います。

 

世の中には、たしかに、たいへんでつらい目に遭っているひとは、たくさんいます。

しかしそのいっぽうで、

楽しい目に際会し、美味しい思いをしているひとも、それなりにいるのです。

 

であるのに、

世の中に存在する、大変で苦しい思いをしているひとのことだけを考慮に入れて、

楽しく美味しい思いをしているひとのことをあえて考慮からはずすのは、

公平で客観的なものの見方であるようには、思えません。

 

 

 

さらにいえば、ひとが人生で遭遇する苦しみや不幸というのは、

その内容や性質も、その量も、ひとによって異なるはずです。

 

芸能界のご意見番、あるいは、芸能界の重鎮、といったひとは、よく、

自分も若いころは苦労したんだ、なんてことを言いますが、

その内容をよく聞いてみると、たいていは、

貧乏で経済的に苦労した、というものであることがほとんどなのです。

 

ところが実際には、世の中にある苦労や悩みは、

けして、貧乏だけではない。

 

家庭環境が複雑で、氷室のような家庭で育ったために、

本人が成人してから、他人と健全な人間関係を取り結んでいくのに難渋している、

といったような例もあります。

 

また、数万人に1人しかいないような難病にかかっているために、

生まれながらに日常生活に支障をきたしているような例もあるはずなのです。

 

 

 

トルストイだったか、ドストエフスキーだったか、

たしか、ロシアの文豪が言ったはずなのですが、

苦しみの数、悲しみの数、というのは、家庭の数だけあるのであって、

けして一様ではないのです。

 

貧乏のような、「わかりやすい」苦しみや不幸だけがあるのではない。

だからこそ、

ひとがなんらかの苦しみや不幸をかかえているときに、

そんな苦しみや不幸なんて、誰しもが抱えている、

でも、みんな頑張っているんだ、

というように、

自分の状況を直線的に延長したその先に他者の状況があるかのように、

安直に「理解」することは、

誤りを生むものだろうと、天機は思うのです。

 

 

 

とはいうものの、たしかに実際のこの世の中では、

世の中をうらんだあげくに凶悪な犯罪行為に及んでしまうようなひとというのは、

まれな存在です。

 

ほとんどのひとは、過酷な環境や運命にかりに遭遇したとしても、

そのなかで必死に抗いながら、日々を生きていくことのほうが多いのです。

 

 

 

では、どうして、凶悪な犯罪行為にあえてでた犯人たちは、

そのような行為にでてしまったのでしょうか。

 

原因はいくつかあるとは思いますが、天機は、

過酷な環境や運命という、ひとつの「逆境」に遭遇した時の、

彼らの、短慮にもとづく対処のまずさ、があるように思います。

 

 

 

まず第一に、

こういった事件の犯人たちは、ほぼ共通して、みな、

その「若い時に」凶悪犯罪を実行するに至っている、ということがあります。

 

生まれながらに運命の女神に微笑んでもらえないような人というのは、

だいたいにおいて、

その幼少期から青年期にかけて、つまり、人生のまだ早い段階において、

過酷な運命におかれることが多いのです。

 

ということは、時を待てば、人生の中盤から後半へとさしかかるころまで、

時期を待てば、

もしかしたら、状況は、すこしは変わっていったかもしれないのです。

 

 

 

第二に、

かれらは、自分の運命を呪い、世の中をうらむなかで、

自分が戦う相手を「世の中全体」に設定した、ということがあります。

 

戦いや戦争というのは、基本的に、

自分がたたかう相手を、細かく、小さく分けたうえで、

その一を撃つようにしなければ、なかなか勝てないものです。

 

敵が大きくまとまって強大になればなるほど、戦いは勝ちにくくなります。

世の中全体や、世界全体を敵に回して戦おうとするならば、

どんなひとでも破滅してしまうでしょう。

 

 

 

第三に、

かれらは過酷な環境や運命に対峙するときに、

「状況を一挙に変えてしまおうとした」ということがあります。

 

追い詰められ、窮迫した時には、

状況を一挙に好転させようとすると、たいてい、失敗します。

 

かつて、会社の金か何かを横領し、それがばれそうになったかなにかで、

多額の金を、競馬で1頭の馬につぎこんで最後の大博打をうった男が、

お目当ての馬が来ずに、破綻したことがありました。

 

追い詰められた者が、最後の大博打と思って大勝負に出ると、

どういうわけか、

幸運の女神の美意識に反するのかどうか、

敗北して破綻を決定づけられることが、よくあるのです。

 

なので、自分がいま逆境にあるなあ、過酷な環境と運命のもとにあるなあ、

と思ったら、

いちかばちかの大勝負は避けるべきです。

 

ボクシングのことはよくわかりませんが、

ボクシングでも、一撃必殺のアッパーばかりを狙うのではなくて、

ボディーへの攻撃を細かく繰り出しながら、相手の体力をそいでいくでしょう?

 

将棋でも、劣勢に立たされたなら、

状況を一挙に好転させるような、会心の一手を狙うのではなくて、

徐々に、徐々に、差をつめていくことを狙います。

 

逆境におかれたときは、長期戦の構えで、

その運命としっかり組んで、わたりあっていったほうがいいと思います。

 

 

 

世の中に牙をむくような凶悪犯罪を実行してしまえば、

犯人も、被害者も、みなが不幸になるだけで、

結局、なんのいいこともありません。

 

そのような事態になるのを防ぐ一つの方法は、

犯人の側に、不満に思うような境遇があるにせよ、

そこから一歩引いてみて、自分の人生を俯瞰し、

粘り強く、しぶとく、ある意味で狡猾に、

自分の人生と長期戦でわたりあっていくことだと思うのです。