この世界の不思議

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好返球は、かならずアウトを帰結するか?

こんにちわ!天機です。

(この記事 約2100字)

 

 

 

天機は、野球の実況中継を見ることはないのですが、

ニュース番組のスポーツコーナーとかで、たまに、野球の試合を見ることがあります。

 

そんなとき、たまに、「ファインプレー」を見ることがあるんですね。

 

 

 

たとえば、

外野から、レーザービームのような好返球がかえってくるとか、あるいは、

内野手が、走りこみながらゴロをキャッチし、

そのまま体勢をひねって送球する、とかいった、あれです。

 

そういう「ファインプレー」があるときというのは、どういうわけか、

塁審もいきおいこんで、

「アウトおおおーーーっ!!!」

なんて、オーバーリアクションで宣告する場面とか、あるんですよね。

 

 

 

でも、天機は思うんです。

天機は、ひねくれていますからね。

 

「ファインプレーのような好返球がかえってきたら、

 かならず、アウトになるんだろうか?

 場合によっては、

 ファインプレーのような好返球がかえってきているのに、

 それにもかかわらず、

 あと一歩、返球がおよばなくて、セーフになるケースもあるんじゃないかな?」

 

というふうに思うんですよ。

 

 

 

世の中には、スカッとする場面というのが、ありますよね。

いわゆる、「既定路線」というものがもたらす、

一種の心理的な「オーガズム」といってもいいかもしれません。

 

 

 

たとえば、

走れメロス」という作品であれば、

最後に、メロスが日没までに間に合って、暴君ディオニスのほうが間違っていた、

ということが明らかになるからこそ、

読者であるわれわれは、「スカッと」するんですよね。

 

また、「水戸黄門」という番組であれば、

最後に、黄門様の御一行が、ばっさばっさと悪を倒していくからこそ、

視聴者であるわれわれは、「スカッと」するのでしょう?

 

 

 

もしこれが、

走れメロスという作品で、最後に、メロスがやっぱり日没までには

間に合わなかった、という結末だったり、

水戸黄門という番組で、最後に、悪のほうが勝ってしまったりする

結末だったりすれば、

読み手や視聴者である我々の側には、

非常に「欲求不満」が生じてくるような気がするんですよね。

 

 

 

野球の「ファインプレー」においても、

これと同じような構図がひそんではいないだろうか?

と、天機なんかは、考えるんです。

 

外野からのレーザービームのような好返球、

内野手が体勢を瞬時にひねってする送球、

そういうのを目の当たりにした観衆の側には、

「これほどのファインプレーならば、アウトになるだろう」という「予想」、

「これだけのファインプレーなんだから、アウトになってほしい」という「期待」、

「当然、審判も空気を読んで、ここはアウトにすべきところだろ」という「圧力」、

といったものが生じて、そして、

実際にアウトが審判によって宣告されたときに、

「スカッと」した満足感が、絶頂をむかえるわけです。

 

 

 

でも、本来、「アウト」か「セーフ」かっていうのは、

なにによって決まるんでしょうか?

 

観衆を魅了するような「ファインプレー」が発生したら、

もはや無条件に「アウト」に決定になるのでしょうか。

 

あるいは、審判は、アウトを期待する観衆の暗黙の要求に、

こたえなければいけないのでしょうか。

 

さらには、「ファインプレー」の発生によって、

アウトになる蓋然性が高まったなら、

まるで、0.99999999999999…が、1、になってしまうかのように、

もはや、もうそれは、アウトになるしかないのでしょうか。

 

 

 

天機は、いずれの考えも、おかしいと思います。

 

アウトか、セーフか、というのは、

走者が塁に達するまでの間にボールによって刺されたか否か、

という、客観的な事実のみによって決せられるべきものです。

 

「ファインプレーの発生→かならずアウト」

なのではなくて、

「走者が塁に達するまでにボールで刺されたという事実→アウト」

のはずなのです。

 

 

 

「ファインプレー」が発生しているのに、

それにもかかわらず、その「ファインプレー」が実際には、

あと一歩、ごくごくわずかに及ばなくて、セーフになってしまったとしたら、

観衆の側には「欲求不満」がでてくるでしょうし、

その判定は、観衆の「感情」にさからうものであるかもしれません。

 

ですが、アウトか、セーフか、という判定が、

客観的な事実のみによって決せられるべきものである以上、

観衆の感情を満足させることを考えたり、

観衆の期待や圧力に審判が迎合したりするのは、

おかしいことだと思います。

 

 

 

もちろん、

ファインプレーが実際にも、走者を刺している客観的な事実があるのならば、

それは素晴らしい、観衆を魅了するプレーです。

 

が、天機は、

「ファインプレー」が生じたとしても、

残念ながら、観衆の感情には逆らうかもしれませんが、

あと一歩、じつは及ばなくて、

じつはセーフになっている、という、

「可能性はある」のではないか、と思うんです。

 

そんなときに、

球場の空気を読んで、審判がただ漫然と、既定路線のようにアウトを宣告する

ようなことがもしあるとするのならば、

それは、

ほんとうのファインプレーの価値をも、著しく低下させるものであると、

天機は考えます。