この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

負担を課すには、合理的な理由が必要だ。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約2400字)

 

 

 

天機はたまに、ある種の「思考実験」をしてみることがあります。

もし、次のような事例があったとしたら、

みなさんはどう思うでしょうか。

 

 

 

「日本国内における、いわゆる『きのこたけのこ戦争』の最終的な解決を

 はかるため、政府は、きのこの山に対して全面的な支援をおこなうことを

 決定した。

 そのための財源を確保するために、きのこの山にちなんで、

 K・Yのイニシャルをもつ日本国民に対して、1か月あたり10円の賦課金を

 徴収することを決定した」

 

 

 

このような決定が、もしかりになされたとしたら、

1か月あたり10円のお金がとられることになる、K・Yのイニシャルをもつ国民

からは、おそらく、かなりの反発がでるでしょう。

 

 

 

では、その反発は、おかしなものなのでしょうか。

 

「1か月あたり、たったの10円なんでしょ?

 けちくさいこと言わずに、みんなのために払えばいいじゃん」

という意見は、果たして、正しいものなのでしょうか。

 

 

 

天機は、そうは思いません。

 

そもそも、きのこたけのこ戦争などというマニアックな「紛争」に、

政府が介入する意味がわかりませんし、

そのなかの、きのこの山のほうだけに一方的に肩入れする理由も不明です。

その支援のために、どうして財源の確保が必要なのかもよくわかりませんし、

その財源確保のために、K・Yのイニシャルをもつ国民だけが狙い撃ちにされる

ことにも、正当性がありません。

 

 

 

つまり、この政府の決定というのは、いちじるしく合理性を欠いているために、

たとえ、1か月10円にすぎない、という、その金額の低さを考慮したとしても、

やはり、不合理なものである、という事情は、くつがえらないのです。

 

ふつうに考えて、そうではないでしょうか。

わけのわからない理由のために、ひとは、1円だって払いたくないでしょう。

 

 

 

この事例は、現実にはありそうもない事例かもしれません。

では、つぎのような事例だったら、どうでしょうか。

 

 

 

「マンションの5階で、火災が発生している。

 そこの室内には、若いお母さんと、幼い乳児がとりのこされていて、

 2人は、助けをもとめているのか、ベランダから顔をのぞかせている。

 お母さんは、下を通る通行人に、

 乳児を投げ落とすから受け止めてほしい、と訴えている。

 その乳児を通行人が受け止めた場合、乳児の命はたすかる。

 しかし、受け止めた通行人は、両腕を骨折し、全治1か月の重傷を

 負うことになる」

 

 

 

投げ落とされた乳児を受け止めることで得られる利益は、

乳児の命が助かるという、「人の生命」です。

 

他方で、それによって失われる利益というのは、

受け止めたひとが全治1か月の重傷を負うという、「人の身体」です。

 

なので、社会全体、というような、ぼんやりしたところに視点をおいて、

この件を眺めたならば、

「人の身体」を少々犠牲にするだけで「人の生命」が助かるのだから、

乳児を受け止めたほうがいいことになりそうです。

 

 

 

でも、実際に乳児を受け止めることになる、

当事者に視点をおいて考えてみたらどうでしょうか。

 

 

 

どこの馬の骨ともわからない、他人のガキを助けるために、

どうして自分が全治1か月もの重傷を負わなければならないのか?

と、疑問に思ったとしても、不思議ではないのではないでしょうか。

 

 

 

両腕を骨折したら、その痛みは相当なものになるでしょう。

 

1か月も入院していたら、入院代も相当になるでしょうし、

その期間働けないという逸失利益も発生するでしょう。

 

 

 

もちろん、

「子供の命を助けることは大切なことだ。

 たとえ自分が骨折の重傷を負うことになったとしても、

 自分はその子供を助けたい」

と考えてそれを実行するひとというのは、

とても気高く、素晴らしいひとだと思います。

 

 

 

ただ、

「おまえがちょっと腕を骨折するだけで、子供の命が助かるんだろ?

 だったらけちくさいこと言わずに、助けてやりなよ。

 社会全体の利益のことを考えなよ。」

と言って、

「自分が犠牲になるのではなく、他人に犠牲になることを要請する」

となると、

途端に醜さがあらわれてくるものだと思うんです。

 

 

 

自己犠牲というのは、

自己犠牲をおこなうかどうかの自由な選択肢があることを前提として、

自分の自由意思でそれを回避できるにもかかわらず、

あえて自己犠牲の道を選択するから、美しく素晴らしいのであって、

自分自身は犠牲にもならないのに、

他人に、おまえが犠牲になれよ、といって強要するようなことは、

逆に、非常に醜いことだと言わざるをえない、と思います。

 

 

 

以上の、「きのこたけのこ戦争への政府の介入の事例」と、

「マンションからの子供の投げ落としの事例」であきらかになるのは、

 

① 他者に負担や犠牲を課す場合には、合理的な理由に基づいている

  必要があるのであって、

  たとえ、その負担や犠牲がどんなに僅少なものであったとしても、

  合理的な理由がおよそみとめられないようなものは、

  やはり、そういった負担や犠牲を課すのは、

  おかしいということになる、ということ。

 

② たとえ、社会全体にとっては利益になるようなことであっても、

  特定の個人だけに、ほかのひとにはみられないような過重な負担や犠牲を

  もとめる場合には、

  「自己犠牲」が強要されてはならないということ。

 

だろうと思います。

 

 

 

うえにあげたような事例は、いずれも極端であって、

現実社会では、あまり見られないようなことだろうとは思います。

 

 

 

しかしながら、

犠牲や負担を課すこと、引き受けることに関して、

そこに正当性があるのか?

ということについて疑問に感じる人はけっして少なくはなく、

そのために、たとえば、

町内会が一律に赤い羽根募金のために金銭を徴収するといったことや、

お寺が寺院の改修のために檀家から一律に金銭を徴収するといったことにたいして、

疑問や不満の気持ちを表明するひとがあらわれてくるのだろう、

と思います。