この世界の不思議

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反対するなら対案をだせ?

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約1500字)

 

 

 

よく、ちまたでは、「反対するなら対案をだせ」などと言われることがあります。

 

国会の論戦とかでは、

野党が反対ばっかりしていて、なんら建設的な議論になっていないように

見えることもあってか、

このように言われることもあると思うのです。

 

 

 

しかしながら、この「反対するなら対案をだせ」という言葉は、

たしかに、一見したところ、もっともなことのように聞こえるのですが、

いつもいつも、正しいことを言っているわけではない、と思うんです。

 

 

 

たとえば、つぎのような仮定の例をみてみましょうか。

 

 

 

あるところに、老夫婦でやっている、昔から続いているお蕎麦屋さんがありました。

そのお蕎麦屋さんは、繁盛していて、人気があり、儲かっていました。

 

 

 

その老夫婦には、1人息子がいたのですが、

中年になっても定職にもつかず、ギャンブルに明け暮れていて、

いつも、夢見がちな話ばかりをしていました。

 

 

 

あるとき、その1人息子が、どのようにたきつけられたのか、

老夫婦のところにやってきて、

「この蕎麦屋をたたんで、パチンコ屋に改装しよう。

 そうすれば、絶対儲かるから!」

と言い出したのです。

 

 

 

パチンコ屋を出店する計画は、ずさんなもので、

失敗することはだれの目にも明らかでした。

 

他方で、お蕎麦屋さんの経営は、順調に利益をあげていました。

 

 

 

そこで老夫婦は、パチンコ屋などに改装する気はない、と伝えると、

その1人息子は、

「反対するなら対案をだせよ」

と言い出したのです。

 

 

 

これは、おかしなことではないかな、と、天機は思います。

 

では、そのおかしさは、どこからくるのでしょうか?

 

 

 

それは、この1人息子の頭の中では、

蕎麦屋をたたむこと」というのが、隠れた自明の前提になってしまっている

という点なのです。

 

 

 

この1人息子は、「蕎麦屋をたたんでパチンコ屋にする」という意見を持っています。

 

そして、この1人息子の頭の中では、

蕎麦屋をたたむこと」というのは、すでに前提になってしまっているのです。

 

だから、反対するひとがいる、となると、

「じゃあ、おまえは、蕎麦屋をたたんでなににするというのだ?対案をだしてみろ」

となるわけなのですね。

 

 

 

それが、そもそもおかしいのです。

 

 

 

このお蕎麦屋さんは、繁盛していて、順調に利益をあげています。

 

いまのこの状態、つまり、蕎麦屋を経営して利益をあげている状態、

というものに、わざわざ変化をくわえる必要は、

どこにもないのです。

 

なので、「蕎麦屋をたたむこと」という前提が、

この1人息子の思考の中では、勝手に出来上がってしまっているようですが、

そもそも、その前提からして、おかしいのです。

 

 

 

この老夫婦としては、

蕎麦屋をたたんで〇〇にする」という「対案」をだす必要など、

どこにもありません。

 

「このまま蕎麦屋をひきつづき経営する。現状に変更をくわえない。」

というのが、それだけで、立派な「対案」になっているといえます。

 

 

 

以上の仮定の例からわかるのは、

「反対するなら対案をだせ」という発言の裏には、

「現状は変更すべきである」という隠れた前提がひそんでいることがある、

ということなのです。

 

そして、妥当な判断をするためには、

そもそも、現状は変更すべきである、というその前提そのものが

正しいのかどうか、

そもそも、現状を変更する必要はべつにないのではないか、

というところまでさかのぼって、

厳密に考えていく必要がある、ということです。

 

そのうえで、

現状を変更する必要はべつにない、むしろ、現状を変更などしないほうがよい、

ということならば、

「現状を変更せずに、このまま維持継続する。」

というのは、そのままで立派な「対案」である、と天機は考えます。