この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

好きか、嫌いか? その3

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「好きか、嫌いか?」という記事のシリーズの、

つづきを書いてみたいと思います。

(この記事の字数 約9000字)

 

 

 

前回に、このシリーズの記事の第2弾を書いてから、

ずいぶんと時間がたってしまいました。

 

過去記事は、こちらからどうぞ↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

簡単に、これまでの流れを整理し、そして、

これから書くことの概略を俯瞰すると、以下のようになります。

 

 

 

この世界には、「好きか、嫌いか?」ということが重要視される世界と

いうのが存在します。

 

代表的な、そういう世界の例としては、

恋愛の世界、商業の世界、民主主義での政治の世界、芸能界、

といった世界があげられます。

 

こういった世界は、今日の世界で非常におおきな影響力をもっているので、

ともすれば、

「好きか、嫌いか?」という原理だけが、この世界で唯一の至高の原理なの

ではないか?と思ってしまう人も、なかにはいるかもしれません。

 

 

 

しかしながら、この世界には、

「好きか、嫌いか?」という原理が、あまり重要ではない世界、

そういった原理がはたらきにくくなる世界、

というのが存在するのです。

 

代表的な、そういった世界としては、

 

① 法が関係する世界

② 軍事や戦争の世界

③ 科学や学問、頭脳の世界

 

といった世界があげられます。

 

そして、そういった、好きか、嫌いか?といった原理がはたらきにくくなる

世界においては、いくつかの特徴的な現象があらわれます。

 

その特徴的な現象を例示してみると、

 

ア 好きか、嫌いか?といった原理がはたらきにくくなる

イ 強制通用力、というものがあらわれてくる

※ ここでいう「強制通用力」は、日銀券のような貨幣にみられる

  強制通用力のことではなくて、

  相手の意思を制圧して強制的におこなう力、といったような

  独自の意味で使っています。

ウ 理性的思考、が関係してくる

 

といった現象があげられます。

 

 

 

つまり、この世界には、

好きか、嫌いか?という原理がおおきな力をもっている世界と、

好きか、嫌いか?という原理がさほど力をもっていない世界の、

2種類の世界が存在しているわけです。

 

そして、天機が現状を分析するに、

前者の、好きか、嫌いか?という原理がおおきな力をもっている世界というのは、

最近、その勢いに、かげりがでてきているようなのです。

 

 

 

前回までの記事においては、

好きか、嫌いか?という原理がさほど力をもたない世界の例として、

法が関係する世界についてのべました。

 

そのなかで、法が関係する世界においては、

好きか、嫌いか?という原理が力をもちにくくなる、

という現象の説明まで書きました。

つまり、①-アまで書いたことになります。

 

 

 

今日の記事は、法が関係する世界についての、説明のつづきから、

ペンをおこしたいと思います。

 

まず、書いていくのは、法が関係する世界においてあらわれてくる、

あと2つの特徴的な現象、すなわち、

強制通用力のあらわれ、と、理性的思考のかかわり、

の2点からです。

 

 

 

まず、法が関係する世界においては、「強制通用力」があらわれてくる、

ということについてです。(①-イ)

 

裁判で確定判決がだされると、通常は、強制的にその結果が実現される

ことになります。

民事裁判であれば、強制的に差し押さえがおこなわれることがあるし、

刑事裁判であれば、犯罪者を強制的に収監したりするわけです。

 

 

これが、「強制通用力」のあらわれ、ということです。

 

 

 

それでは次に、法の関係する世界であらわれる、3番目の特徴である、

「理性的思考とのかかわり」について見ていきましょう。(①-ウ)

 

裁判においては、対立する当事者が、おたがいに自分の主張をぶつけあう

わけですが、

その主張というのは、自分勝手にただ言いたいことを言えばいいのではなく、

裁判官を納得させるべく、論理的に展開される必要があります。

 

また、その当事者の主張を聞いた裁判官も、

過去の裁判例なども勘案しながら、基本的には、

論理的に整合性のとれたかたちで判決を書いていくわけです。

 

ここにまず、法が関係する世界と、理性的思考との関連がみられます。

 

 

 

また、裁判というのは、法にもとづいておこなわれますが、

その法そのものもまた、高度に理性的な思考の産物なのです。

 

この事件ではこういう判断をするけれども、

あの事件ではああいう判断をする、といったように、

行き当たりばったりの、その場限りの判断をするのならば、

ひとびとは、

自分の行動が果たしてどういう法的評価を受けるのかがわからず、

そこに法的な、安定的な基準を見出すことができないので、

安心して社会生活をおくることができなくなるかもしれません。

 

法というのは、そういったことが生じないように、

この事件にも、あの事件にも、適用できるような、

統一的な基準をたてることも、その役割のなかにあるのです。

そして、統一的な基準をたてるためには、

個別具体的な、いろいろな場合から抽象して考えていく必要があるのですが、

この、抽象化という作用は、

理性的思考と深く結びついている、といえます。

 

この意味で、法そのものと、理性的思考は、つよく結びついているのだと、

天機は考えます。

 

 

 

さらに、法をあつかう職業人には、裁判官、検察官、弁護士という、

いわゆる法曹三者といわれるひとがいますが、

この法曹三者になるためには、司法試験に合格しなければいけません。

 

そして、その司法試験は、最難関の国家試験のひとつに分類されるもの

であって、

それに合格するためには、高度に理性的な思考が必要になるのです。

 

 

 

裁判の場において、理性的思考がもとめられるということ。

法そのものが、理性的思考の産物であるといえること。

法曹の選抜においても、理性的思考がとくに重要視されること。

 

これらが、法という世界と、理性的思考のかかわりをしめしていると、

天機は考えます。

 

 

 

 

では、つぎに、

好きか、嫌いか?という原理が働きにくくなる世界の、

2番目の例として、

「軍事や戦争の世界」を見ていくことにしましょう。

 

まずは、軍事や戦争の世界において、

好きか、嫌いか?という原理がはたらきにくくなる、ということについてです。

(②-ア)

 

戦争においては、ふつうは、同盟国や友軍のことは「好き」で、

敵国や敵軍のことは「非常に嫌い」だと思います。

このことだけをみれば、軍事や戦争の世界においても、

好きか、嫌いか、という原理は、はたらいているのではないか?

という気にもなります。

 

でも、軍事や戦争においては、

装備をととのえ、作戦を立案し、部隊を統合運用して、

最終的な勝利に向けて、有機的に活動していく必要があります。

そして、その活動において、行動方針となるのは、

「好きか、嫌いか」といった「感情」ではなくて、

冷徹な判断や計算といった「思考」なのではないでしょうか。

 

感情にもとづいて軍を動かした者が無残に敗北する例は、歴史上、

枚挙にいとまがありません。

「あいつは河川を背にして陣をしいた。兵法を知らないんだ。」

と、相手をあなどり、馬鹿にした軍は、大敗してしまいました。

 

戦争というのは、敗北すれば、自国に甚大な被害がもたらされます。

であるからこそ、戦争をおこなうならば、

なんとしても勝たなければならず、そして、勝つためには、

感情ではなく、思考によって方針を決めなければいけないのです。

 

その意味で、軍事や戦争の世界においては、

好きか、嫌いか?という原理は、はたらきにくくなっていると、天機は考えます。

 

 

 

つぎに、軍事や戦争の世界においては、強制通用力というものが

あらわれてくる、ということについて、考えてみましょう。(②-イ)

 

恋愛の世界であれば、あの人は嫌い、と思えば、

そのひとと付き合う必要はありません。

商業の世界でも、あの会社の商品は嫌いだな、と思えば、

その会社の商品を買わなくてもいいわけです。

 

軍事や戦争の世界は違います。

 

戦争に負ければ、たとえどんなに嫌がっても、

敵国の軍隊が自国の領内に進駐してきて、占領され、

いろいろと上から命令されてしまうことがあるわけです。

場合によっては、人民が殺害されたり、家屋が破壊されたり、

婦女子が暴行されたり、といったこともあるわけです。

反面、戦争に勝てば、相手国に対して、そのようなことをおこなうわけです。

 

どんなに嫌がっても、

強制的に相手をしたがわせたり、あるいは、相手にしたがわせられたりする。

 

ここに、軍事や戦争の世界における、

強制通用力の存在をみることができます。

 

 

 

軍事や戦争の世界に関連することで、最後に、

理性的思考とのかかわり、ということについて、みていきましょう。(②-ウ)

 

たとえば、将棋や囲碁といったゲームは、娯楽の一種ですが、

それらは、擬似戦争という性質をもっています。

そして、この擬似戦争という性質をもつ将棋や囲碁で勝利するうえでは、

理性的思考をおこなう能力にたけていたほうが有利です。

 

人間の歴史においては、古来、西洋においても、東洋においても、

戦争において、「名将」といわれるひとがでました。

かれらが名将であるとされるゆえんは、その作戦の妙にあったといえますが、

巧妙な作戦を立案するうえにおいて必要なのもまた、

個人の理性的思考なのです。

 

現代においては、科学技術の発達によって、

兵器が高度に洗練されるようになり、

純粋に個人的な作戦立案能力によって勝敗の帰趨が決せられることが少なくなり、

「名将」の生じる余地は少なくなったといえますが、

それでも、戦争計画をたてて、勝利に向かっていくうえでは、

単なる軍事力の優越ばかりでなく、きちんとした作戦計画を立案することも

必要なのであって、

そこには、理性的思考が求められるものであろうと、天機は考えます。

 

以上のように、軍事や戦争の世界には、理性的思考との深いかかわりがあります。

 

 

 

 

では最後に、

好きか、嫌いか?という原理がはたらきにくくなる世界の3番目の例として、

「科学や学問、頭脳の世界」をみていくことにしましょう。

 

 

 

まずは、科学や学問、頭脳の世界において、

好きか、嫌いか?といった原理がはたらきにくくなる、

ということについてです。(③-ア)

 

科学や学問というのは、基本的に、

この世界にはなんらかの法則性がある、と考えて、その法則性について、

実権や観察なども場合によっては用いながら、基本的には、

思考によって、明らかにしていこうとする試みです。

 

たとえば、水は100度で沸騰する、という性質があります。

これは、ひとつの法則性です。

太郎君が、「自分は、80度で沸騰したほうが、好きだな。」

と言っても、この法則はくつがえりません。

花子さんが、「自分は、100度で沸騰するなんて、嫌いだな。」

と言っても、やはりこの法則は、くつがえらないのです。

 

だけでなく、多数決によっても、この法則は、動かすことができません。

地球上の人口のうち、40億人が、

水が100度で沸騰することに異を唱えたとしても、

この法則は、びくともしません。

 

法則性というのは、真理、と言い換えてもいいかもしれません。

そして、この真理というのは、

ひとの好きか、嫌いか、といった感情によっては、

左右することができないものなのです。

 

これが、科学や学問、頭脳の世界においては、

好きか、嫌いか?といった原理がはたらきにくくなる、ということの、

1つの、基本的な例です。

 

 

 

ではつぎに、

科学や学問、頭脳の世界においては、強制通用力があらわれてくる、

ということについて、見ていきましょう。(③-イ)

 

科学や学問、頭脳の世界の背後には、

この世界の真理、あるいは、法則性、といったものの存在があります。

 

いまここで、

ナイフを手の甲にあてて、ぐっと力を加えていったとすると、

やがて皮膚がやぶれて、出血に至るだろうと思います。

 

どうして、ナイフのような鋭利な刃物には、そうやって、

皮膚をやぶって出血にいたらしめるような力があるのかといえば、

ナイフの刃先の部分というのは、面積が非常に小さくなっており、

圧力というのは、かかった力を、力のかかった部分の面積で割って

もとめられるので、

ナイフの刃先から皮膚が受ける圧力が非常におおきくなる、

と、こういうような、法則性、原理が、背後ではたらいているからなのです。

 

そして、この法則性や原理といったものは、

どんなに人が嫌がったとしても、その内容に変更をくわえることは、できません。

ナイフを手の甲にあてられたひとが、

ナイフで切られるのは嫌だ、嫌だ、とどんなに叫んだとしても、

圧力が一定以上になれば、

その嫌だという気持ちとは関係なく、皮膚は裂けます。

 

これが、法則性や真理といったものが背後に存在するところの、

科学や学問、頭脳の世界においてあらわれる、

強制通用力の1つの例です。

 

 

 

では、科学や学問、頭脳の世界に関連することがらの最後として、

理性的思考とのかかわりについて、見ていきましょう。(③-ウ)

 

科学や学問の世界においては、真理や法則性といったものを探求していく

わけですが、

その探求はなにによっておこなうのかといえば、

それは、自分自身の理性的思考を駆使しておこなっていくわけです。

 

学問や頭脳の世界、といえば、

今日の世界では、大学における学問研究をイメージするかもしれませんが、

小学校、中学校、高校といった、初等教育の場においても、

たとえば、試験問題を解くのにも、理性的思考は必要になってきます。

 

これが、

科学や学問、頭脳の世界においては、理性的思考との関連がみられる、

ということです。

 

 

 

以上の例証によって、この世界には、

好きか、嫌いか、といった原理がはたらきにくくなる世界というのがあり、

その代表例として、

①法が関係する世界 ②軍事や戦争の世界 ③科学や学問、頭脳の世界

があるということ。

そして、そういった世界においては、

ア 好きか嫌いか、といった原理がはたらきにくくなる

イ 強制通用力があらわれてくる

ウ 理性的思考との関連がある

といった特徴があること、などをみてきました。

 

 

 

じつは、

Ⅰ 好きか嫌いか、といった原理が、大きな影響力を持っている世界

と、

Ⅱ 好きか嫌いか、といった原理が、働きにくくなる世界

のうち、

わたしたちの、普段の生活に身近な世界というのは、

前者のⅠのほうなんです。

 

 

 

好きか嫌いか、といった原理が、大きな影響力を持っている世界には、

恋愛の世界、商業の世界、民主主義での政治の世界、芸能界、

などがありましたね。

 

わたしたちは、普段、恋愛をして、パートナーシップをはぐくみ、

結婚して、伴侶とともに、家族を構成していきます。

 

日々、いろんな商品やサービスを購入するとともに、

みずからも企業の一員として、生産活動に従事し、お給料をもらっています。

 

選挙になれば投票をおこない、その政治によって決まることが、

私たちの普段の生活にもおおきな影響をおよぼし、

やれ、税金が高い、などと、政治的な不満が酒の肴になることもあるわけです。

 

テレビをつければ、いろんな芸能人がきょうもにぎやかにさわいでいて、

それに関する話題を、多くの人が日々、追っかけているわけです。

 

 

 

以上のような意味で、

恋愛の世界、商業の世界、民主主義での政治の世界、芸能界、

といった世界はみな、わたしたちが慣れ親しんでいる、非常に身近な世界であって、

それらの世界はみな、

好きか嫌いか、といった原理が、おおきな影響力を持つ世界なのです。

 

 

 

一方の、好きか嫌いか、といった原理がはたらきにくくなる世界、というのは、

これとは事情が異なります。

 

それは、自分たちの日常の世界からは、やや、距離のある世界なのです。

 

 

 

好きか嫌いか、といった原理がはたらきにくくなる世界には、

法が関係する世界、軍事や戦争にかかわる世界、科学や学問、頭脳の世界、

といった世界がありました。

 

わたしたちは、日常生活において、

おおきな法律問題をかかえたり、紛争にまきこまれたりしないかぎりは、

弁護士に相談したりはしません。

また、刑事事件をおこして罰を受ける、というような事態も、

普通の生活においては、あまりないことでしょう。

 

世界には、今日でも、紛争が絶えない地域というのがたしかに存在し、

少なくない犠牲がでているわけなのですが、

先進国を中心とする多くの国においては、

日常生活のその中にまで、戦争や軍隊の足音が迫っている、

という状態には、ありませんよね。

テレビや新聞などで報道される紛争のニュースなどに接しても、

どこか他人事のようにとらえてしまう気持ちは、たしかにあるでしょう。

 

現代の生活においては、たしかに、

さまざまな文明の利器というのが、生活を豊かにしてくれています。

しかし、そういった機器を発明したり、開発したり、

また、そういったものの背後にある科学的な知識を探求したりするのは、

一部の限られた、専門的な役割をもつひとたちであって、

一般のひとびとが、日常、そういった科学研究に従事しなければいけない、

といったような状況にはないはずです。

 

 

 

以上のことからわかるのは、

好きか嫌いかといった原理がはたらきにくくなる世界には、

法が関係する世界、軍事や戦争にかかわる世界、科学や学問、頭脳の世界、

といった世界があるけれども、

そういった世界はどれもみな、

わたしたちの普段の日常生活からは、やや、距離がある、ということなのです。

 

 

 

好きか嫌いか、といった原理がおおきな影響力を持つ世界、

というのは、

わたしたちが普段から慣れ親しんでいる、身近な世界です。

 

それに対して、

好きか嫌いか、といった原理がはたらきにくくなる世界、

というのは、

わたしたちの日常生活からは、距離がある世界なのです。

 

なので、ともすると、わたしたちは、

「この世界には、わたしたちが慣れ親しんだ、

 好きか嫌いか、といった原理が大きな影響力を持つ世界、

 しかないのだ。それですべてなんだ。」

と思ってしまうかもしれません。

 

 

 

しかし、それは事実ではないのです。

 

円というのをコンパスで描くとします。

すると、円の中心にぽつんとあいた小さな穴から、

周囲に向けてだんだんと目をうつしていくと、やがては、

円周という線につきあたります。

 

この世界にも、

わたしたちが普段慣れ親しんでいる日常の世界というのがありますが、

その日常の世界は、どこまでも永遠に広がっているわけではなくて、

その「辺境」「周縁」というのが存在します。

 

日常というのが通常を管轄しているとすれば、

それらの辺境や周縁というのは、異常を管轄しています。

 

そして、この世界は、通常と異常があわさってはじめてひとつの世界となっており、

好きか嫌いかといった原理がおおきな影響力を持つ世界、

というのが通常を担当しているのだとするのならば、

好きか嫌いかといった原理がはたらきにくくなる世界、

というのは異常を担当しているのです。

 

 

 

ここで大切なのは、

通常だから素晴らしい、異常はなくさなければいけない、

といったことではなくて、

通常も異常も存在する、それが現実であり、それがこの世界の真実だ、

ということなのです。

 

 

 

実際のところ、

好きか嫌いかといった原理が働きにくくなる世界、異常な世界というのは、

ふだん、わたしたちの意識にはのぼりにくい、

辺境、周縁をなしているのですが、

それは、わたしたちの日常が日常であるための、

重要な前提をなしてもいるのです。

 

 

 

わたしたちは普段、おだやかな日常をおくっているかもしれませんが、

もし、法と司法制度というものがなければ、犯罪者が跳梁跋扈することともなり、

とても安心して暮らすことなどできないでしょう。

 

一国においても、国民は、平和で安定した生活をおくれているかもしれませんが、

軍事力による防衛体制、という前提を欠けば、

容易に、他国による侵略の脅威にさらされることになるでしょう。

 

スマホだの、パソコンだの、エアコンだの、航空機だの、

いろんな科学の所産が、わたしたちの日常生活をゆたかにいろどって

くれていますが、

科学研究に従事するひとたちがもし、いなかったなら、

そういった快適な日常生活は、すべて、夢物語となっていたことでしょう。

 

 

 

つまり、

好きか嫌いか、といった原理がおおきな影響力をもつような世界、

というのは、

わたしたちの日常を構成しているわけなのですが、

その日常が日常として成立できているのは、

けっして、あたりまえのことなどではない、ということなのです。

それは最初から、当然のようにそこに存在していたものなどではないのです。

 

 

 

それが日常として成立している背景には、

好きか嫌いかといった原理がはたらきにくくなる世界、

という、別の世界が、日常をささえているという、

重要な前提の存在があるわけなのです。

もし、この前提をとっぱらってしまえば、

日常の世界など、たちどころに崩壊してしまうでしょう。

 

その意味で、

この世界というのは、通常と異常があり、

通常と異常があわさってはじめてこの世界は成立しているのであって、

異常は、消そうと思っても消せるものではなく、

異常は、通常が成立するための前提になっている、ということなのです。

 

 

 

さて、このような、

好きか嫌いかといった原理がおおきな影響力を持つ世界、と、

好きか嫌いかといった原理がはたらきにくくなる世界、という、

2つの異なった世界があるわけなのですが、

最近、このうちの前者の世界に、

やや、そのいきおいにかげりがみられるような事象が生じてきています。

 

 

 

若者を中心として、

恋愛離れ、さらには、結婚離れ、というのが、

最近、ニュースになるようになってきています。

 

ミニマリスト、というひとたちが注目をあつめるようになり、

消費離れ、ということが言われています。

消費離れ、だけでなく、最近は「〇〇離れ」というのが多数みられる

ようになっていて、その多くが、

商業の世界からの、ひとびとの逃走を示唆しています。

 

選挙における投票率には、一部で低下がみられるようになっていて、

ひとびとは、あきらめの気持ちとともに、

政治と政治家をながめています。

 

テレビというのが、だんだんと「面白くない」といわれるようになり、

視聴率が低迷しつつあります。

ひとびとは徐々に、ネットへとシフトしつつあるようにもみえます。

 

 

 

こういった流れをみていると、近年、わずかな兆候なのですが、

好きか嫌いか、といった原理がおおきな影響力を持つ世界、

というのが、かすかな凋落のきざしをみせているような、

そんな気がしないでもありません。