この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

世の中は、椅子取りゲームに似ている。

こんにちわ。天機です。

 

 

きょうは、椅子取りゲームについて、思うところをのべたいと思います。

 

 

天機が小学生だった頃、よく教室で、椅子取りゲームというのがおこなわれる

ことがありました。

 

 

教室の机を、うしろのほうにあつめて、真ん中に広い空間をつくります。

そして、椅子だけを円状にならべます。

 

椅子の数は、クラスの人数よりも、1つ少なくしておきます。

 

音楽をかけ、みんなが椅子の周りをぐるぐるとまわり、

音楽がストップすると、あらそって、空いている椅子に座ります。

 

椅子の数は、1つだけ少ないですから、1人、座れないひとがでます。

そのひとを省いて、さらに1つ椅子を少なくし、ゲームを同じように

すすめていくのです。

 

 

天機はおもうのですが、競争のある、この世の中というのは、

この、椅子取りゲームに似ているところがある、と思うのですね。

 

 

椅子取りゲームで無事に椅子に座るためには、

もともとの反射神経があるかどうか、とか、

音楽の流れによく注意していたか、とか、いろんな要素がからんできます。

 

同様に、この世の中でも、

競争から脱落せずに、世の中で勝っていくためには、

もともと運や実力をもっていたかどうか、とか、

努力をしたのかどうか、とか、

いろんな要素がからんでくるわけです。

 

 

ただ、忘れてはいけない基本的なことが、1つ、あります。

 

それは、

 

「椅子の数は、もともと1つだけ少ないんだ」

 

ということです。

 

よく、競争を中心とするこの世の中という椅子取りゲームで、

椅子がとれなかったひとがいると、

 

「そんなのは自己責任だろ」「椅子が取れないのは努力が足りないからだ」

などと言うひとがいるのですが、

そういうひとはもしかしたら、

 

「もともと椅子はひとつ足りないのだ」

 

ということには、あまり注意をはらっていないのかもしれません。

 

 

そうすると世の中には、

「椅子がひとつ足りないのがよくない」

「椅子が足りないのを社会や行政はなんとかすべきだ」

というひとびとがあらわれてくることがあるんですが、

それも、どうか、と思うところがありますね。

 

 

椅子取りゲームというのは、もともと、

椅子が1つ足りないゲームなんです。そういうゲームなのです。

 

そのゲームのルールそのものが不満だ、というひとは、

じゃあ、このゲームは、あなたはやらないでくださいね、

と言われてしまうのがオチでしょう。

 

 

 

人間の歴史の古い時代から、現在に至るまで、

人間は、いろんな社会をいとなんできました。

昔に比べれば、人間の福利は向上してきたかもしれません。

 

それでも、「椅子はいつも1つ足りないのだ」という、

その基本的なことじたいは、もしかしたら、

いかに時代や社会がかわったとしても、

そこに組み込まれている基本的なルールなのかもしれません。

 

 

だとするならば、どうすればよいのか。

 

それは、天機が思うに、

「すくなくとも自分は椅子に座れるように、ささやかながら頑張ってみること」

ではないか、と思うんですね。

 

 

 

脱落者がでるような椅子取りゲームより、もっと素晴らしい、

みんなが笑えるような、だれも泣かないような、

そんなゲームが開発される日が、もしかしたら、来るのかもしれません。

 

でも、椅子が1つ足りないことがデフォになっている、

この椅子取りゲームを自分はやるんだ、と思うなら、できることは、

自分が椅子に座れるように、頑張ってみることです。

 

 

 

天機が小学校のころにやっていた椅子取りゲームは、

もちろん、だれかは椅子に座れないわけですが、

その座れないだれかもふくめて、みなが笑っていました。

 

もちろん、それは、純粋に楽しみを目的としたゲームだったからかもしれません。

 

現実のこの世の中という椅子取りゲームは、

それにくらべると、いささかharshな面があるのかもしれませんが、

それでも、競争には、いやな面ばかりではなく、

ひとを熱中させるなにかも、あるのかもしれない、と、

天機は、思うこともあります。