この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【新春特大号】理とは何か? 理と時間の関係。

あけましておめでとうございます。

本年も、天機のブログ「この世界の不思議」を、

どうぞよろしくおねがいします。

 

 

 

 

こんばんわ。天機です。

 

 

 

自分は、ブログに書くネタに困ることは、あまりありません。

 

自分のブログは、基本的に、自分の頭の中で考えた思考が、

その内容となっております。

 

なので、日々なにか、新しい面白い体験をしなければ、

ブログを書けない、というわけでもないのです。

 

自分のへんな頭は、日々、いろんなことを思い付き、

いろんなことを考えています。

 

なので、基本的には、それをブログに書けばいいだけなんですね。

 

思いついたことを忘れないように、自分は、

つぎにブログに書こうと思っている項目を、

ノートにメモ書きしてあります。

 

ブログに書くときは、そこから引っ張ってきます。

 

でも、ときどきブログが滞るのは、

めんどくさい、と思ってしまうからなんですね。

 

困ったものです。

 

 

 

さて、きょうのブログ記事は、

「長期の時間と、理」の関係について、です。

 

天機は、理が好きなので、よく、理のことを考えます。

 

すると、理と、長期の時間には、関係があるのではないか、と思ったんですね。

 

 

 

時間や期間には、長いものと、短いものがあります。

理というのは、そのうちの、長い時間や期間に関係しているのではないか。

 

そんなふうに思いました。

 

では、具体的にみていきましょう。

 

 

 

※ちなみに、今回の記事は、非常にボリュームがあります。

字数は、17000字ほどあります。

新春特大号として、お楽しみください。

相当ひまなときにでもご笑覧ください。

 

 

 

たとえば、サイコロについて考えてみましょうか。

 

どの面が出ることも同様に確からしいサイコロ、つまり、

きちんと正確につくられていて、

1の目がやたら出やすいとか、そういったことのないサイコロでは、

各目が出る確率は、6分の1であるはずです。

 

この、各目の出る確率が6分の1である、というのが、

法則性であり、つまりは、理、なんですね。

 

この理は、短期的な時間や期間では、

かならずしも明らかになるとは、かぎりません。

 

たとえば、10回、20回程度、サイコロをふったくらいでは、

4の目が3割近い確率で出た、なんていうことも、ありうるわけです。

 

でも、これが、10万回、20万回という、きわめて多数の試行、

長期の時間軸でみていくと、

各目の出る確率は、ほぼ正確に、6分の1に収束していくのです。

 

これが、

長期の時間においては、理、が顕在化してくる、ということの、

1つの例です。

 

 

 

ほかの例でみてみましょうか。

 

たとえば、犯罪はどうでしょうか。

 

ぼくたちの心の中には、たとえば、自分の好きな食べ物を食べてしまいたい、

とか、気に入らないやつを殴ってしまいたい、とか、

そういう、感情の部分というか、なまなましい気持ちがあるわけなんですね。

 

もし、これをそのまま実現してしまったら、どうなるでしょう。

 

つまり、スーパーでおいしそうなパック寿司を見かけて、

ああ、うまそうだなあ、と思ったので、

レジを通さずに持ち帰って、ぱくついたり。

 

あるいは、気に入らないやつを街で見かけたので、

いきなり問答無用で殴りつけたり。

 

すると、どうなるかといえば、短期的には、

満足や快楽が得られるんですよね。

 

食べたかったおいしいお寿司が食べられる。

気に入らないやつを殴れてスッキリする。

それが、短期的な時間で実現する、すぐに実現する、満足や快適さ、

ということです。

 

でも、これが、長期的な時間になってくると、どうでしょうか。

 

美味しそうなお寿司をみつけて、レジを通さずに持ち帰って食べたひとも、

気に入らないやつを問答無用で殴りつけたひとも、いずれも、

場合によっては、警察に捕まって、さらには刑事裁判になり、

有罪判決を受け、罰を科されることがありますよね。

 

なぜ、そうなるのか、といえば、

美味しそうなお寿司をお金をはらわずに食べたり、

気に入らないやつをそのまま殴ったりするのは、

「正しくない」行為だからです。すくなくとも、法律的には。

 

つまり、

美味しそうなお寿司をお金をはらわずに食べたり、

気に入らないやつをそのままなぐったりすれば、

その瞬間は、短い時間のうちには、

食欲を満足できたり、スッキリできたりするのですが、

長期の時間になると、あとあと、警察に逮捕されたり、裁判になったり、

といったように、

「正しいのか、正しくないのか」という、理、が顕在化してくる、

というわけなのです。

 

これが、長期の時間や期間と、理が関係しているということの、

2つめの例です。

 

 

 

ほかの例ではどうでしょうか。

 

たとえば、経済取引なんかは、どうでしょう。

 

いまだったら、クラウドソーシング、というのが、一種のブームになっていたり

します。

 

発注側が仕事をネットを通じて発注し、受注側は、仕事の内容と報酬を見定めて、

その仕事を受注します。

 

このクラウドソーシングでは、発注側が、ひどいダンピングをすることも、

あるそうなんですよね。

 

そうすると、どうなるかといえば、

発注側は、短期的な時間においては、安く買いたたくことができて、

得をするわけです。

 

でも、長期的には、どうでしょうか。

 

いちど、そういう不当な扱いをされたことに憤った受注側としては、

もう二度と、そこからの仕事は受注しない、と思うかもしれません。

 

このことは、クラウドソーシングにかぎったことではありません。

 

おおよそ、経済取引においては、

一方が他方に対して不当な搾取をおこなうならば、

長期的、永続的に良好な関係を築くことは、むずかしくなります。

 

不当な搾取、というのは、「正しくない」ことであり、

正しくないことは、長期の時間においては、排斥されていくからです。

 

飲食店だって、そうでしょう。

 

ステーキを提供するお店だって、肉質を落とせば、短期的には、

安くて粗悪な肉で高い売り上げをとるわけですから、

儲けは増えるでしょうね。

 

でも、そうやっていくと、口コミで、あそこのお店は高いくせにまずい、

といった評判が立つことになり、

時間がたてばたつほど、お客は減っていくことになります。

 

お客を裏切る、という、「正しくないこと」をしていると、

長期の時間においては、報いを受けるわけです。

 

これが、長期の時間や期間と、理が関係しているということの、

3つ目の例です。

 

 

 

ほかの例ではどうでしょうか。

 

老化という現象をみてみるのも、おもしろいかもしれません。

 

ものすごく残忍なことを他人に対しておこない、

ひどく他人を虐げたひと、たとえば、やくざのような人がいるとします。

 

そのひとが若いうちは、まわりのひとは、そのひとを恐れてしたがうかも

しれません。

 

しかし、やがて、そのひとも年をとります。

70、80、90と年をとっていくと、やがては、

体も以前のようには自由には動かせなくなり、

他人の助けを必要とするほど、よぼよぼになることが、ありえます。

 

そうなってくると、どうでしょうか。

 

わかいうちに、他人と助け合って、恩徳をほどこしていたひとならば、

他人から助けてもらえることもあるでしょうが、

自分が若くて力のあったころに、それをかさにきて、

他人を虐げたひとだったら、

老いて落ち目になったときに、

ここぞとばかりに痛めつけられることも、なきにしもあらず、でしょう。

 

老いる、というのは、時間軸が長期になる、ということです。

そして、時間軸が長期になると、

自分がこれまでしてきたことは、

正しいことだったのか、そうでなかったのか、ということの、

裁定がくだるわけです。

 

このことが、

長期の時間や期間が、理と関係しているということの、

4つ目の例です。

 

 

 

この、老化という現象は、人間だけでなく、動物にもみられます。

 

ライオンと、それに狩られる草食動物をみてみましょうか。

 

するどいツメやキバをもち、草食動物を狩って食べる百獣の王、ライオンは、

食物連鎖の頂点に君臨する、とされています。

 

が、それも、若いころだけです。

 

ライオンが獲物をしとめるには、そっと獲物に接近し、

十分に距離をつめてから、さっと一瞬で、

時速何百キロにもおよぶ高速で獲物を追跡し、捕獲する、

ということが必要になります。

 

これが、年老いると、難しくなるのです。

 

草食動物には、そのような心配はありません。

 

草食動物が食べるのは、草です。

草は、地面にあります。

草は、逃げたりしません。

若いうちも、年老いてからも、草食動物ならば、

地面にある草を、ゆっくり食べればいいだけです。

 

ライオンは、そうはいかないのです。

 

ライオンは、肉食です。

食べ物を得ようと思ったら、狩りをしなければいけません。

そして、その狩りの能力は、年老いると、だんだんおとろえてきます。

わかいころのようには、獲物をとらえることが、できなくなってきます。

結果、獲物をとらえることがむずかしくなった年老いたライオンは、

飢え死にするしかなくなるのです。

 

 

 

ほかの例はどうでしょうか。

 

たとえば、詰将棋なんかは、どうでしょう。

 

天機は、将棋が好きなので、そのつながりで、

詰将棋を解くこともあります。

詰将棋というのは、将棋のパズル、といってもいいかもしれません。

 

この詰将棋というのは、

最終的に相手玉を詰めるには、どういう手順をふめばいいのか、

ということが問われているわけなのですが、

きちんとつくられた詰将棋ならば、

正解手順は、1通りしかありません。

 

1手詰めや3手詰め、5手詰めくらいなら、まだいいでしょう。

でも、詰将棋の歴史は古くて、江戸時代から作られ続けています。

「詰むや詰まざるや」とか「図式百番」といった、

詰将棋の古典作品集には、それこそ、数百手詰め、といった作品が

ざらに出てくるわけなんですよね。

 

そうなってくると、最終的に詰むことのできない、

まちがった手順、というのは、膨大な数になるわけです。

そのなかで、詰みに至る正解手順は、たった1通りだけです。

 

ということは、どういうことかというと、

99.999999…%は、詰むことができない。

詰むことができるのは、0.000…0001%。

極端な表現をするならば、そういう世界になるわけです。

 

相手玉の側を持ったとすると、

とうてい、詰まされることはないだろう、と思うでしょう。

詰まされるのは0.000…0001%。

そんなもの、0と同じやん?

そう思うのも、無理はありません。

 

相手玉の側がたよりにするのは、数です。

その、圧倒的なまでに膨大な不正解手順、その膨大な数の、

不正解の石ころのなかでうずもれて死ね。

相手玉の側からすれば、詰まそうとする側に対して、

そういうような、嘲笑の気持ちを持つのかもしれません。

 

もしかりに、その詰将棋を見たときに、

瞬間的に解け、いますぐ詰めてみろ、と言われたなら、

降参するしかないかもしれませんね。

そこには、時間、がないのです。

 

ところが、詰将棋を解こうとする側には、通常、

時間が与えられています。

詰将棋を解こうとするものは、この時間をつかって、

じっくり、じっくり、考えていくわけなんですね。

 

やさしいものなら、10分程度で解けるかもしれません。

しかし、数百手にもおよぶような難解な詰将棋ならば、

1週間、2週間、場合によっては、1か月ほども、

考え続けるかもしれません。

将棋のプロ棋士になったようなひとのなかには、

こうしたプロセスを経験したひとも、少なくはないのです。

 

そうすると、どうなるかといえば、

だんだんと、「長期の時間」というのがあらわれてくるんですよね。

解くのに、1週間、2週間、1か月、2か月とかけていくと、

時間軸が長期になっていく。

 

すると、そのなかで、不正解手順というのが、

だんだんと却下されていきます。

ひらめきも、うまれてくるでしょう。

 

そうなってくると、あれほどの鉄壁の牙城のようにみえた、

相手玉の側の堅牢な守備が、

だんだんと、詰まそうとする側によって、くずされていくのです。

 

そして、ついに、たった1本の正解手順があぶりだされます。

0.0000…00001が、決して0などではなかった、

ということが、白日の下にさらされます。

そうすると、もう相手玉の側は、

いかに泣こうがわめこうが、詰まされてしまうわけです。

発見されたたった1つの正解手順、というのは、このように、

相手玉に対する、絶対的な強制通用力をもつのです。

 

詰将棋というものには、たった1つの正解手順があります。

その正解手順をみつけるのは、頭脳の働きであって、

頭脳の働きとは、つまるところ、理、にほかなりません。

そして、その理の働きは、

かける時間が長期になればなるほど、顕在化してくるということが、

詰将棋においても、やはり明らかになるのです。

 

これが、長期の時間や期間が、理と関係しているということの、

5つ目の例です。

 

 

 

文明も、そのような例のひとつかもしれませんね。

 

人間の歴史の最初のほうにおいては、その生活は、

狩猟や採集をもとにしていたわけです。

 

狩猟や採集であれば、狩りに行ったけれども獲物がとれなかった、だとか、

採集に行ったけれどもお目当ての木の実を回収できなかった、だとか、

そういったことが往々にしてありうるわけです。

 

つまり、成果があがるかどうかは、ひとえに運命の女神にほほえんでもらえるか

どうか、といったことに依存していて、生活の基盤は非常に不安定なものだった、

と考えることができます。

 

ところが、だんだんと時がたっていくにつれて人間は、

同じ狩猟をするにしても、わなを設けると成功しやすいだとか、

獲物の習性にはどういうものがあるか、といったことを学習するようになり、

あるいは、

木の実はただ拾ってくるだけではなくて、

それを種子として地面にまけば、もっと多くの収穫をえられるだとか、

そういったことも学習するようになるわけです。

 

上に述べたような「知識」というのは、

すぐに明らかになったり、はじめから明らかであったりするものではなくて、

長い時間をかけて、しかも、人間がその頭脳を使うことで、

徐々に明らかになってくるものだろうと思います。

 

この点で、ここでも、

長い時間や期間と、人間の頭脳の働きは、関係してくるのです。

 

このことは、人類の歴史の初期においてそうだったばかりではなく、

人間が今日にいたるまで、営々とその文明を発展させてきた、

その歴史全体においてもそうだといえます。

 

繰り返し、繰り返しの経験の中から、法則性を見つけ出し、

工夫をし、あるいは、実験や観察をおこない、

その結果を記録としてのこし、他者に伝え、後世に伝えて、

昨日よりは今日、今日よりは明日と、

人類の福利がおおきくなるように、文明を発展させてきたのです。

 

人間が、その頭脳をはたらかせて発展させてきた文明というものに関しても、

長い時間、期間をへて、だんだんと発展してきたものであるということ。

 

これが、長期の時間や期間が、理と関係しているということの、

6つ目の例です。

 

 

 

じつは、この、

長期の時間や期間が、理と関係しているということは、

人間のからだにも、かくれています。

 

天機は、このブログでのほかの記事で、

人間のからだには、2つある器官と1つしかない器官がある、

ということについて、考察したことがあります。

 

そして、そのなかで、

2つある器官というのは理の原理に関係していて、

1つしかない器官というのは生の原理に関係している、

ということを述べました。

 

この2つある器官のひとつに、肺があります。

肺は、呼吸のリズムをつくっていますね。

 

そして、1つしかない器官のひとつに、心臓があります。

心臓は、脈拍のリズムをつくっています。

 

通常、呼吸のリズムは、脈拍のリズムよりも、

ゆっくりとしているはずです。

言葉を換えれば、呼吸のリズムは、脈拍のリズムよりも、

周期が長い。長周期なのです。

 

つまり、呼吸のリズムは長周期なのですが、

その呼吸のリズムをつくっている肺、その肺の数は2つで、

それが2つであるということは、理の原理とのかかわりをしめしているのです。

 

このことが、

長期の時間や期間が、理と関係しているということの、

7つ目の例です。

 

 

 

 

人間のからだにおける例は、ほかにもあります。

 

これも、このブログのほかの記事で書いたかもしれませんが、

この世界がどのような順番でできたか、という、その成り立ちと、

人間のからだのかたちのあいだには、

関連性がある、と、天機は考えています。

 

具体的に言うと、この世界は、

はじめに矛盾があり、その矛盾が理という子供を産み、

その矛盾と理がまじわることで、2番目の子供である生が生まれた、

と考えています。

 

矛盾→理→生、という順番です。

 

そして、これは、人間のからだを上から順にみていったときの、

髪の毛→頭部(頭脳)→胴体(生殖器

に対応している、と考えているわけです。

 

すると、頭部というのは理の原理に、生殖器というのは生の原理に、

それぞれ関係していることがわかります。

 

ここで、頭部には頭髪がはえていて、生殖器のあたり、つまり陰部には、

陰毛がはえていますよね。

 

よくいわれるのは、

頭髪というのはまっすぐなのに、陰毛というのはちぢれている、

ということです。

 

しかし、このことをもっと深く考えてみましょう。

 

頭髪はまっすぐとはいうものの、

定規をあてたときにぴたーっと直線になるくらい、

それくらい、まっすぐというわけではありませんよね。

わずかに、湾曲しているはずです。

 

他方で、陰毛がちぢれている、というのは、より正確にみてみると、

細かく波打っている、ということになりそうです。

 

つまり、頭髪の湾曲は、それを延長すると、

より大きな円ができあがります。

それに対して、陰毛のちぢれを延長すると、

より小さな円ができあがるはずです。

 

頭髪はおおきく波をえがき、陰毛はちいさく波をえがいています。

その波の大きさは、波の周期性、と言い換えることができます。

つまり、おおきな波をえがく頭髪というのは、

陰毛に比べて、周期が長いのです。

 

整理しましょう。

 

生殖器というのが生の原理にかかわっているのに対して、

頭部というのは理の原理にかかわっています。

そして、その頭部には頭髪がはえていますが、その頭髪は、

陰毛に比べて周期が長い。長周期なのです。

 

これが、長期の時間や期間が、理と関係しているということの、

8つ目の例です。

 

 

 

長々と例をあげてきましたが、例については、つぎで最後の例になります。

 

人間のからだに関するその例には、ほかにもあります。

 

この世界がどのような順番でできたか、ということについては、

矛盾→理→生

という順番でできた、というお話をしました。

 

じつは、このそれぞれには、性別がある、と、天機はかんがえています。

 

はじめに、矛盾という女性、お母さんがいて、

その女性が、理という、はじめてとなる子供を産んだ。

この理という子供は、男性、男の子です。

その、女性である矛盾と、男性である理がまじわって、

2番目の子供である生がうまれた。

この生は、女性です。

 

つまり、男性は理という原理とかかわりがあり、

女性は生という原理とかかわりがあるのです。

 

ここで、男性、女性双方がだす、声の高さについて考えてみましょう。

 

男性の声は、一般的に低いです。

それに対して、女性の声は、一般的に高いですよね。

その区別があるので、声楽でも、

女性はソプラノを担当し、男性はバスを担当したりするわけです。

 

ここで、音の高さ、低さには、音の波長というものがかかわっています。

 

一般的に、高い音は波長が短く、低い音は波長が長い。

つまり、低い音は、波長が長周期になっているわけなのです。

 

整理しましょう。

 

男性というのは、理の原理と親和的な存在です。

そして、その男性は、一般的に女性よりも声が低いのですが、

その低い音というのは、波長が長周期なのです。

 

これが、

長期の時間や期間と、理が関係しているということの、

9つ目の例です。

 

 

 

以上の9つの例から、

長期の時間や期間と、理というもののあいだには、

とても強い関係が存在することが導かれました。

 

時間や期間が長期になる、ということは、

「時間」という要素が、より強まっていく、ということです。

そして、時間という要素が強まれば強まるほど、

理は顕在化してくるのです。

 

つまり、「時間」と「理」は、非常に仲良しなんですね。

 

 

 

では、どうして時間と理は、そんなにも仲良しなんでしょうか。

 

それについては、理というものは、いったい、どういうものであるのか、

ということにさかのぼって考えてみると、

ヒントが得られるかもしれません。

 

 

 

ここに、1枚の画用紙があるとします。

画用紙には、枠がありますよね。

 

そして、その画用紙の真ん中あたりに、

マジックで円を描いてみます。

 

すると、画用紙の中は、円の内側の部分と、円の外側の部分に分けられました。

 

 

 

ごくごく単純に言えば、このかたちが、理のかたちなのです。

 

理というのは、

「自分とは異なる他者が存在するということを認めて、それを尊重する原理」

です。

 

いま、画用紙の真ん中に円が描かれたことで、

円の内側にとっては、円の外側というのは他者になり、

円の外側にとっては、円の内側というのは他者になったわけです。

 

この、円の内側と円の外側というのは、

それぞれがそれぞれ存在し、融合したり、侵しあったりしていませんよね。

このかたちが、理です。

 

 

 

では、この理のかたちは、いったい、どのようにして生まれたのでしょうか。

 

 

 

それは、画用紙の真ん中に、円を描くことで生まれたのです。

 

円というのは、この場合、円の内側と円の外側を区別する、

「境界線」になっています。

境界線、というのを世界にもうけることで、はじめて、

理というかたちが誕生してくるわけなんですね。

 

 

 

ここで、理と対立するものである、「矛盾」について考えてみましょう。

 

矛盾というのは、どういうものであるか、というと、

「Aと、Aの否定が、同時に成立していること」

というふうにあらわすことができます。

 

矛盾の代表例としては、矛盾、という言葉の語源にもなった、

矛盾の故事がありますよね。

 

どんな矛でもつらぬけない盾と、どんな盾でもつらぬいてしまう矛。

この両者は、おたがいがおたがいの否定という関係になっています。

なので、この両者が「同時に」成立するとすると、

それは、理に反するかたち、すなわち、矛盾、ということになります。

 

 

 

天機は、この、矛盾の定義のなかにある、

「同時に」という文言、要素に、非常に関心をもちました。

 

矛盾を定義するさいには、この、「同時に」という文言は、

けっしてはずせない要素になります。

矛盾が、おかしいよね、と言われるときにはかならず、

「同時に成立するとしたらおかしいよね」という意味になっているはずです。

 

同時に、というのは、同じ時間軸で、ということです。

つまり、場を規定する単一の時間軸が世界に設けられたならば、

そのとき以降は、

Aと、Aの否定が、融合して存在することは、矛盾、つまり、

理に反する、ということになるのです。

 

 

 

 

 

もし、この世界に、時間なんかなかったら。

場を規定するような、単一の時間軸なんか設けられなかったら。

 

そのときは、AとAの否定は、なかよく融合したままでいられたかもしれない

のです。

ちょうど、母の胎内にいる、双子のように。

 

でも、この世界に、同一時間軸というものが挿入された結果、

AとAの否定が融合しているのはおかしいよね?

ということになったのです。

 

 

 

なにもなかった画用紙に、真ん中に円という「境界線」を挿入すると、

はじめてそこに、理というかたちが生まれました。

 

なにもなかった世界に、「同一時間軸」というものを挿入すると、

はじめて、

AとAの否定が融合しているのはおかしいよね、矛盾だよね、

AとAの否定は、わかれて独立に存在しているのが正しいよね、

ということになりました。

 

ついでにいうと、旧約聖書の世界において、

それまで平和だったエデンの園に、

「蛇」というキャラクターが登場することで、

アダムとイブには理性の目がひらけ、エデンから結果的に放逐されることに

なったのです。

 

 

 

これらの例にみえる、「境界線」「同一時間軸」「蛇」というものは、みな、

やがて「理」というものを導き、「理」を生み出すもとになったもの、

という点で共通しています。

 

つまり、時間というものは、理というものをうみだす、

決定的な要因のひとつになっているのです。

 

おそらくは、そのために、

「理」と「時間」は、さきにみたように、

あれほど仲良しになっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

そして、理と時間がこのように仲良しであるところから、

「理でもって戦おうとする者」について、

その戦い方に関する示唆がえられます。

 

その戦い方とは、

「時間を味方につけて、長期の時間で長期戦を戦うこと」

というものです。

 

 

 

では、そもそも、「理でもって戦おうとする者」とは、いったい、

どんな人々なんでしょうか。

 

ほんとうに、そんな人々がいるのでしょうか。

 

いるとしたら、なぜ彼らは、理でもって戦うことを選択しなければいけない

のでしょうか。

 

 

 

自分が思うに、この世界には、

運命の女神や、他の人々に愛され、好意を持ってもらえて、

華やかに発展するようなひともいれば、

なにかと運命にいじめられ、他の人々に好きになってもらえず、

理不尽な目にあって泣くことの多いひともいます。

 

後者のようなひとについて、よく言われるのは、

それは本人に責任があるからだ、

状況を変えるには、本人が変わるしかない、

といったようなことではないでしょうか。

 

 

 

自分は、この発言は、

一面で真実をついてはいるものの、一面では真実をとらえきれてはいない

ように思います。

 

 

 

この世界には、生の原理と理の原理という、2つの原理があります。

 

そして、自分は思うのですが、人間にもまた、

生の原理とともに生きて発展するひとと、

理の原理とともに生きて発達するひとの、

2種類の人間が存在するような気がしてならないのです。

 

生の原理とともに生きるべきひとが、

理の原理ばかりを追求すれば、それはやっぱり、

あまりうまくはいかないでしょう。

 

それと同様に、理の原理とともに生きるように宿命づけられたひとが、

人生の困難や障害につきあたったときに、

生の原理という観点からそれを解決しようとしても、

やはり、うまくいかないのではないでしょうか。

 

そういうふうに思うのです。

 

 

 

生の原理と、理の原理には、

それぞれ、味方をしてくれる存在がいます。

 

生の原理にとっての味方とは、それは、

運命や神、あるいは他者といったものの、好意や支持です。

 

理の原理にとっての味方とは、それは、

時間であり、時間による蓄積なのです。

 

 

 

いまはお正月ですね。

 

お正月には、昔ならば、コマをまわすような遊びをするひともいたでしょう。

 

コマ、というのは、おもしろいかたちをしています。

中心に、細い棒のような、まっすぐな金属の軸の部分がありますね。

そして、そのまわりを、円盤状の木の部分がとりまいています。

 

 

 

生の原理と、それに味方をする他者の好意といったようなものは、

コマでいうと、この円盤状の木の部分、

「平らな面」のようなものだと思うんですね。

 

平らな面というものを、つきつめてみると、「高さ」や「深さ」がなくなります。

上下方向への延長がない、ということが、つまりは、

「時間を一定にした場合に」、という条件をあらわしているように思えます。

 

ある特定の時間、と規定した場合に、問題になるのは、あとは、

面の広さしか残っていません。

つまり、空間的なひろがりです。

他者からの好意や支持を獲得すればするほど、イメージ的にいえば、

その面がどんどんひろがっていくような感じなんですね。

 

このような、生の原理に生きて、他者からの好意や支持を味方にするような

ひとというのは、したがって、

たぶん、時間の経過というのが、嫌いなはずです。

おそらくは、時間の経過を憎むでしょう。

彼らにとってたいせつなのは、面の広さであり、

ある特定の時間を規定した場合に、その場で、

どれだけの他者からの好意や支持がえられるか、ということなのです。

したがって、彼らはまた、「数」というものに、

重きをおくでしょう。

 

 

 

それに対して、理の原理と、それに味方をする時間の経過、

といったようなものは、コマでいうと、

中心を構成している、細長い金属製の軸の部分、

「細長い、線状のもの、棒状のもの」だと思うんですね。

 

細長い線状のものには、面の広がりがありません。

 

コマでいうと、中心を構成する細長い金属製の軸と、

そのまわりをとりかこんでいる円盤状の木製の部分は、

交錯しているわけですが、一般に、

ある平面があって、その平面に、垂直に1本の直線がまじわっている場合、

その交差する部分というのは、

平面上の「一点」になるはずです。「点」になる。

面のひろがりをもたないわけです。

 

線状のものには、このように、面の広がりをもたない、という特質があります。

 

さきほど、生の原理やそれに味方する他者の好意をあらわすものは、

高さや深さといったものがない平面であって、

高さや深さといったものをもたないということは、

ある特定の時間、というふうに、時間のほうを固定したものだ、といいました。

ある特定の時間において、他者からの好意をえて力をのばしていけばいくほど、

その面がどんどん広がっていくイメージです。

 

対照的に、理の原理やそれに味方する時間、時間による蓄積といったものを

あらわすのは、

広がりといったものをもたない1本の直線であって、

広がりといったものをもたないということは、

ある特定の空間、というふうに、空間のほうを固定したものなのです。

 

空間のほうを固定、というふうに言いましたが、ありていにいえば、

空間が極限まで「限定」されてしまっているわけです。

なにしろ、「一点」であって、まったく面としての広がりがないのですから。

 

そして、他者からの好意や支持を得られれば得られるほど、

面がひろがっていくという、先に述べたことをあわせて考えてみれば、

線状のものであって、面としての広がりをまったくもたない、ということは、

つまりは、他者からの好意や支持には、まったく期待できない、ということを

あらわしていることになるのです。

 

ここに、理の原理に拠って生きていこうとするひとが、

往々にして「孤独」になりやすい、その原因がひそんでいる、

と自分は考えます。

 

面としての広がりが極限まで限定されて、ついには一点にまでなった、

そのかたちというのは、人間でいえば、

「たった1人」ということです。

生の原理に拠って生きるひとたちが、多くの仲間にかこまれて、

楽しそうに繁栄を謳歌しているときに、

理の原理に拠っていきるひとは、

ひとりで、世界に対峙しなければいけない。

 

 

 

では、そんな、理の原理に拠って生きるひと、つまり、

「理でもって戦おうとする者」には、

まったくなんの救いもないのか、といえば、それが、あるのです。

 

それが、「時間」です。

 

線状のもの、というのは、面としてのひろがりがないかわりに、

上下方向へは、どこまでもまっすぐに、どんどんとのびていくことができます。

 

この、延長、というのが、時間の経過をあらわしているのです。

 

したがって、理でもって戦おうとする者は、

すぐに勝利を得よう、とか、短時間、短期間でなにかをやってやろう、

とすると、敗北する可能性が高くなります。

 

 

 

 

 

旧約聖書の創世記では、カインとアベルという、兄弟のお話がでてきます。

 

カインは畑を耕作する者で、アベルは羊飼いでした。

 

あるとき、カインとアベルは、そろって、神様のもとに感謝を捧げに訪れました。

カインは、畑で採れた農作物を持って。

アベルは、羊の初子を持って。

 

すると神様は、アベルの羊の初子については、よしとされましたが、

カインの農作物については、かえりみられなかったのです。

 

その仕打ちに怒ったカインは、その怒りから、弟のアベルを殺害してしまいました。

すると、神によってしるしをつけられ、呪われた者として生きることに

なってしまったのです。

 

 

 

また、ドストエフスキーの書いた小説、「罪と罰」には、

主人公のラスコーリニコフという貧しい青年が、強欲であくどい金貸しの

老婆を、社会正義のためとして、殺害する場面がでてきます。

 

この殺人の結果、ラスコーリニコフは結局、逮捕されることになってしまい

ました。

 

 

 

また日本においても、秋葉原殺傷事件をおこした加藤智大という、

犯行当時まだ20代だった青年がいます。

 

彼のおかした犯罪は、当然、強い非難に値するものですが、彼の生い立ちは、

理不尽な虐待をおこなってくる母親の存在など、

苦渋に満ち、幸運に見放されたものでした。

 

 

 

カインとアベルのお話では、殺人の遠因はあきらかに、

理不尽な依怙贔屓をおこなった、神にあります。

 

ドストエフスキー罪と罰においても、

老婆殺害の遠因はあきらかに、老婆自身の強欲と邪悪にあります。

 

秋葉原殺傷事件においても、事件の遠因には、

犯人自身の理不尽な苦境と不運があるのです。

 

 

 

神による理不尽な依怙贔屓も、老婆の強欲や邪悪も、

運命による加藤への理不尽な仕打ちも、みな、

 

「理にあわない」

 

ことなのです。

 

ところが、カインはアベルを殺害するという、

ラスコーリニコフは老婆を殺害するという、

加藤智大は歩行者天国に自動車で突っ込むという、

 

「極端な行動」

 

にでたことで、そんな「極端な」行動に出るやつこそが、

すなわち悪いやつなのだ、ということになり、

当初の原因を構成していた、

神の理不尽な依怙贔屓、老婆自身の強欲と邪悪、運命の加藤への非常な仕打ち、

という、

 

「公平でなく、公正でもない、理に反すること」

 

は、なぜだか不問に付されてしまっているのです。

 

 

 

これは、おかしなことではないでしょうか。

 

自分は、そもそもの原因をつくった、当初の理不尽もまた、

正当な裁きに服するべきだと考えます。

 

 

 

ただ、どうしてこのように、

カインも、ラスコーリニコフも、加藤智大も、

一種の「正しさ」をもちながら、理不尽な運命という敵の軍門に下る

ことになってしまったのか、といえば、それは、

 

「短兵急な行動に出てしまったから」

 

ということが、非常に大きいのです。

 

 

 

カインは神に対して、

「どうしてアベルばっかりかえりみるの?どうして自分の贈り物は無視するの?」

と問いただすことのできる、「正しさ」を持っています。

 

ラスコーリニコフは老婆や社会に対して、

「金貸しの老婆のやっていることは、正義に反することじゃないの?」

と反問することのできる、「正しさ」を持っています。

 

加藤智大は自分の運命に対して、

「どうして自分ばかりにそういう過酷な運命や仕打ちをもたらすの?」

と問いただすことのできる、「正しさ」を持っています。

 

そして、ここでいう「正しさ」というのは、

ある種の「理」にほかなりません。

この3人は、「理でもって戦おうとする者」たちなのです。

 

その「理」が、本来の力を発揮するためには、さきにみてきたように、

「時間」の応援を受ける必要があります。

 

ところが、この3人はいずれも、

短兵急な行動にでてしまいました。

つまりは、「時間」という最大の味方を、みずから放棄してしまったのです。

 

これが、3人が敗北することになった原因です。

 

 

 

生の原理というのは、だれを好きになるのか、だれから好きになってもらえるのか、

という、好意や支持といったものと、

わかちがたく結びついています。

 

そして、その生の原理にも、ある種の「狡猾さ」があるのです。

 

ふつう、人間というのはだれでも、

理不尽な目にあって怒りを感じれば、怒りにまかせて、

その怒りを解消するような直截的な行動にでてしまうという傾向を、

多かれすくなかれ、持っています。

 

そして、これこそが、

生の原理のねらいとするところなのです。

 

人間の心のなかには、好きか嫌いかということや、喜び、かなしみ、怒り、

といった感情をつかさどる、

生の原理が心に投影された部分、というのがあります。

 

他方で、人間の心のなかには、

何が正しくて何が間違っているのかを判断したり、

自分にとって適切な行動はなにかを判断したりして、

自分の行動をそれによって規律しようとする、

理の原理が心に投影された部分、というのもあります。

 

怒りにまかせて、その怒りを解消するような短兵急な行動に出る、

というのは、つまりは、

生の原理が心に投影された部分が、理の原理が心に投影された部分を凌駕し、

生の原理が心に投影された部分が、そのひとの行動の最終決定権を勝ち取る、

ということにほかならないのです。

 

つまり、その時点で、心の中において、

理の原理は、生の原理に敗北しているわけです。

 

怒りにまかせて短兵急な行動に出た、さきの3人が、

理でもって戦おうとしたのに結局は敗北したのも、無理からぬことです。

 

 

 

では、どうすればよかったのでしょうか。

理でもって戦おうとする者は、

どういった戦い方をすればよかったのでしょうか。

 

自分が思うにそれは、やはり、

生の原理に自己の行動の最終決定権を引き渡さないということと、

短兵急な行動にはでずに、

時間を味方につけて、長期の時間で戦う、ということだろうと思います。

 

先の例でいうならば、カインには、

神の態度についてその後何年、何十年にもわたって弟アベルと議論したり、

あるいは、今後、神への感謝のたびごとに、

神に対して、さきのえこひいきの真意を問いただしたり、

といった選択肢もあったのではないでしょうか。

 

ラスコーリニコフについていえば、

法律の勉強をしっかりとして、司法官吏にでもなって、

老婆を法網にかける、という手も考えられたでしょうし、あるいは、

みずから手をくださずとも、相手はすでに老婆なのですから、

その死を待って、死後に、その社会的評価をおとしめるような風説を

流布する、といった選択肢もあったことでしょう。

 

加藤智大についても、自分の不幸と苦境の遠因の1つとなった母親にかんしては、

いまはなにごともなく親子関係を継続しながらも、

将来、母親が老いと病気によって衰弱したさいに、はじめて、

介護などの処置をおこなわない、あるいは、

手のひらをかえしたように冷たくあしらう、

といった選択肢もあったはずなのです。

 

 

 

上に述べたような、天機が考案したような選択肢をとれば、

すくなくとも、簡単には敗北しないですむのではないでしょうか。

 

そして、これらの選択肢は、みな、

長期の時間を味方につけることで、生きてくるものなのです。

 

 

 

実際には、この世の中には、

人生の初めのほうで理不尽な不運にあえぎながらも、

理でもって戦い、勝利を確保したひとたちがいます。

 

 

 

太公望は、若いころ、すごく不運でした。

外に塩を売りに出かければ、大雨が降って塩は流されてしまい、

小麦を売りに出かければ、大風が吹いて小麦は吹き飛ばされてしまいました。

 

運命そのものから非常に嫌われていたかにもみえる太公望でしたが、

かれは、ひたすら自分の頭脳を鍛え上げ、

森羅万象に通じる尋常ではない知恵を手に入れて、

周の軍師として殷を滅亡させ、斉の大祖となって、

そこではじめて若くて美人の嫁を多数はべらせ、

余生を楽しく暮らしたのです。

 

 

 

徳川家康も、若いころは運に恵まれませんでした。

かれの父親も、父親の父親も、なぜか20代で亡くなってしまうという、

呪われた家系に生を享けました。

家康自身も、幼少期に人質にとられ、しかも、

自分が人質として移送されている最中に、べつのやつに人質である自分が

強奪されてしまいました。

長じてからも、いろんな制限を受け、

豊臣の家臣として実権をもつようになったあとも、

秀吉に嫌がらせをされて、関東に移封されました。

 

しかし、家康はけっしてあきらめませんでした。

運命からは非常にきらわれているようにみえながらも、彼は、

ぜいたくを断ち、吝嗇なくらいに質素倹約につとめ、欲望をおさえ、

食事も粗末なものばかりを食べ、養生につとめ、運動をし、

セックスも年増の女性としかせずに、

好きか嫌いかという気持ちや、人間の欲望を燃料として肥え太るところの

生の原理が、家康の運命に手出しができないようにしてしまったのです。

 

そうしておいて、関ヶ原の戦いも終え、大坂冬の陣大坂夏の陣も終えて、

ようやく徳川の世が盤石となり、

生の原理がどんなにあがいても、もはや家康を掣肘することができないように

なったことを確認したうえで、はじめて、

鯛の天ぷらで茶漬けをしたり、

孫娘のような若い女の子とセックスしてロリコン趣味を全開にするなど、

欲望のひもをゆるめたのでした。

 

 

 

生の原理というのは、好きか嫌いかという、他者からの好意、支持、といったものと

深く関係しています。

 

しかし、家康は、そういった、他者からの好意や支持には、いっさい頓着もしませんでした。

 

後年、ある大名が、家康になにかを嘆願しに行った時のこと。

家康は、

「文句があるなら塀を高くして堀を深くし、郷国で待っておれ。

 いつでも江戸から兵を送り、戦争してやるから、そのつもりで。」

と言い放ったそうです。

 

 

 

時間の蓄積を味方に付けた理の力が、ここにはあります。

 

 

 

「理でもって戦おうとする者」が、最終的な勝利に近づくために、

留意しておいたほうがいいポイントは、以下のようになります。

 

① 理でもって戦おうとする者は、往々にして、生の原理からの攻撃を

  受けることになりがちです。

  運命にいじめられたり、他者から好意や支持を得られなかったりして、

  感情を害されるのです。

  そのときに、一時の怒りに我を忘れて、短兵急な行動にでるのは、

  生の原理の思うつぼです。

  感情に、自分の行動の最終決定権を与えないでください。

  ゆっくりと呼吸をすることは、感情をしずめるのに有効です。

  そうしておいてから、ゆっくりと考えて、状況を判断し、

  理性によって行動を選択してください。

 

② 頭脳をきたえることです。

  簡単に言えば、よく学習して、知識をふやし、思考力を高めるのです。

  生の原理の徒は、他人からの好意や支持が、その力の源泉です。

  つまりは、生の原理の徒は、自分の願いをかなえるのに、

  他人の力によってかなえてもらおうとするのです。

  理の原理に生きるひとは、それとは異なります。

  理の原理に生きる者は、自分の願いを、自分自身の力で、

  みずからつかみにいくのです。

  そのために、頭脳が役立ちます。

 

③ 長期戦を志向することです。

  短い時間で状況を変えてやろうとか、短期決戦で、すぐに事を決しよう、

  とするのではなく、

  できるだけ、長期の時間軸でたたかうようにしてください。

  時間は、理の原理の味方です。

  人生の前半、若いころに、理の原理に生きるひとは、

  困難や苦境にあいがちです。

  そこで腐らずに、人生の後半に至るのを待つべきです。

  理想をいえば、学習をかさねて知識を増やし、頭脳をきたえながら

  人生の後半まで待つのがいいです。 

  しかし、そうでなくても、ただ人生の後半を待つというだけでもいいです。

  自分の人生の破綻を決定づけるような愚かな行動を、

  人生の前半で、感情にまかせてしてしまわないことがポイントです。

 

④ あきらめないことです。

  理の原理とともに生きようとする者のまえには、

  高い高い、絶望を呼び起こすような壁がそそりたってきます。

  目の前の、99.9999%は、そんな絶望の壁かもしれません。

  しかし、0.0001%の、細い細い、希望の抜け道がかならずあります。

  その希望の道は、理の原理とともに歩む者に見つけてもらえるのを、

  待っているのです。