この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「アリとキリギリス」のお話の教訓。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、イソップの寓話にある、「アリとキリギリス」というお話の、

教訓について考えてみたいと思います。

 

 

 

アリとキリギリス、というお話については、

ご存知のかたも多いと思います。

 

お話の概要は、以下のような感じです。

 

 

 

あるところに、アリとキリギリスがいました。

夏の暑い間、アリはせっせ、せっせと働いて、食料を貯めこんでいました。

その間、キリギリスは、バイオリンをひいて、歌って暮らしていました。

 

やがて、寒い冬がやってきました。

キリギリスは、食料を探し回りましたが、どこにもありません。

しかたなく、アリのところへ行って、食料を分けてくれるように頼みましたが、

アリは、「夏の間に歌っていたんなら、冬には踊ったらどうだい?」

と言って、追い返しました。

キリギリスは、飢え死んでしまいました。

 

 

 

ざっと、こんな感じのお話です。

 

 

 

このお話の教訓として、一般に語られていることというのは、

「将来の危機に備えて、怠けず勤勉に働いておかないと、

将来、苦しむことになる」

といったことだろうと思います。

 

 

 

ですが、自分は、もう一歩掘り下げて、このお話について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

太陽系の中心には、太陽があります。

そのまわりを、惑星である地球がまわっています。

 

地球は、自分自身でも、ぐるぐると回転しています。

地球の自転です。

この、地球の自転は、「1日」というものを生み出します。

 

ただ、地球は、太陽の周りもまわっています。

地球の公転です。

この、地球の公転は、「1年」というものを生み出します。

 

 

 

1日、というものをうみだす、地球の自転は、

比較的、小さな円運動です。

 

それに対して、1年、というものをうみだす、地球の公転は、

比較的、大きな円運動です。

 

 

 

つまり、ここに、2種類の円があるのです。

内側にある小さな円と、外側にある大きな円と。

 

内側にある小さな円は、1日をうみだす地球の自転で、

外側にある大きな円は、1年をうみだす地球の公転なのです。

 

 

 

 

 

さて、アリとキリギリスのお話に戻ってみましょうか。

 

ところで、いったいどうしてキリギリスは、

夏の間、将来の冬に備えることもなく、

バイオリンをひいて、歌をうたって暮らしていたのでしょうか。

 

 

 

ぼくが思うに、キリギリスの目には、

「内側の小さな円」の存在しか、見えていなかったのではないでしょうか。

 

 

 

1日、というのは、

朝が来て、昼が来て、夜が来ます。これで、1日です。

次の日も、やっぱり、

朝が来て、昼が来て、夜が来ます。これで、1日です。

 

これを繰り返していると、

なーんだ、この世界というのは、

朝が来て、昼が来て、夜が来て、というのを、

ただ繰り返していくだけなんだな、

おんなじものの繰り返し、

循環しているのは、「たった1つの円」なんだな、と思ってしまいそうです。

キリギリスも、たぶん、そう思ったのでしょう。

 

 

 

ところが、実際には、そうではない。

 

この世界を支配する円の数は、「1」ではなく、「2」なんです。

「1」は誤りで、「2」が正解なんです。

内側の小さな円の外には、外側の大きな円があって、

内側の円と外側の円、あわせて「2」つの円で、

この世界は成り立っているんです。

 

 

 

ところが、この、外側にある大きな円の働きというのは、

見えにくい。

 

内側にある小さな円というのは、

1日という、短周期での時間単位を支配しています。

外側にある大きな円というのは、

1年という、長周期での時間単位を支配しています。

 

1日というのは、

朝が来て、昼が来て、夜が来て、だから、

その変化は、実感しやすいのです。

 

ところが、1年の変化は、非常にゆっくりです。

じりじり、じりじり、と変わっていくのです。

ほんのわずかだけ、何か月にもわたって、

気温がゆっくりと下がっていったりするんです。

 

でも、それは実感できない。

だから、昨日も、今日も、明日も、

まったくおんなじ「1日」が来たように、錯覚してしまうのです。

 

朝が来て、昼が来て、夜が来て、

まったくおんなじ1日が過ぎていくように感じても、事実はちがう。

1年単位で見たときには、

昨日と、今日と、明日では、

確実に、フェーズがかわっているのです。

 

 

 

繰り返しになりますが、

1日というものをうみだす、地球の自転という、内側の小さな円と、

1年というものをうみだす、地球の公転という、外側の大きな円があるのです。

 

そのうちの、内側の小さな円だけしかなくて、それで世界のすべてだ、

と考えたのが、キリギリスだったのです。

 

それに対して、いやいや、この世界には、外側の、もうひとつの大きな円がある、

と考えて、それに備えたのが、アリだったのです。

 

 

 

おそらく、この、内側の小さな円と、外側の大きな円という、

2種類の円は、

こと、太陽系にだけ存在する関係なのではなくて、

この世界そのものに存在するものであろうと、自分は思います。

 

そしてたぶん、この、外側の大きな円のほうをつかさどっているのは、

「理の原理」なのではないでしょうか。