この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

人体方位8-火の性質。

ずいぶんと、間が空いてしまいましたが、

ひさしぶりに、人体方位についての記事を書いてみたいと思います。

 

きょうは、「火の性質」についてです。

 

 

 

これまで、人体方位1から人体方位7までの記事を書いてきましたが、

そのなかで明らかになったことのひとつは、

人間の内臓消化器官というのは、

人体方位においては、南に位置するということ。

そして、南というのは、

後天八卦方位においては、離為火を意味する方位であって、

火に関係がある方位だ、ということでした。

 

 

 

では、いったい、

「内臓消化器官」と「火」のあいだには、

どのような関係があるというのでしょうか。

食べ物を食べ、消化するたびに、胃から炎が吹き上がる、

というわけでもないので、

この両者の関係は、すぐにはぱっと思い浮かびません。

 

 

 

自分は、つぎのように考えました。

 

この世界、じっさいにいろんなものがあって、

見たり、聞いたり、ふれたりすることのできる、この現実の世界において、

存在となっていたり、現象となってあらわれたりするものの背後には、

見えない、隠れた、本質的な原理があるのではないか。

 

目で見ることもできず、手で触れることもできないような、

そんな隠れた原理がもとにあって、

それが、現実世界の具体的な現象や事物となって具体化したものが、

この世界のさまざまな現象や事物なのではないか。

 

そんなことを考えたんですね。

 

 

 

ギリシャ哲学には、イデア論という考え方があります。

 

高校の時の、たしか、倫理か現代社会で習ったと思うのですが、

たとえば、

三角形1つ描くのにしても、いろんな三角形が描けるわけで、

その辺が直線になっているか、とか、角は厳密にとがっているか、

とかいったことを突き詰めていけば、それは、

厳密には三角形とは言い難いようなものかもしれないのです。

 

それでも、それが三角形であるとしてわれわれが納得できるというのは、

黒板に描かれた個別具体的な三角形からはなれた、

言ってみれば、三角形のイデア、のようなものを、

われわれが心の中にもっているからだ、と、

たしか、そういうようなことを勉強した記憶があります。

 

このイデア論、というのも、

個別具体的な現実存在の背後にある、本質的なものを問題にし、

探究した考え方のひとつでした。

 

ただ、自分のかんがえる、この世界の存在や現象の背後にある、

かくれた本質的な原理というのが、

ギリシャ哲学でいうところのイデアに相当するものであるのかどうかは、

はっきりとはわかりません。

 

 

 

ともあれ、現実の存在や現象の背後に、かくれた本質的な原理がひそんでいる、

という発想をもとにして考えると、

「内臓消化器官」と「火」についても、

その両者のもとになるような、共通の隠れた本質的原理、というのがありそうです。

 

 

 

では、そのかくれた本質的原理とは、いったい、なんなのでしょうか。

 

自分は、つぎのように考えてみました。

 

 

 

まずは、内臓消化器官について、考えてみましょう。

 

内臓消化器官、というのは、

食べ物を消化して、それを「うんこ」に変換していくはたらきをもった器官です。

 

食べ物、というのは、人間によって「食べられる」以前には、

いろんな姿かたちをしていますよね。

 

それは、たとえば、焼き肉だったり、お刺身だったり、煮物だったり、

野菜だったり、魚だったり、肉だったり、卵だったり、ゼリーだったり、

ヨーグルトだったり、おせんべいだったり、まんじゅうだったり、

 

それはもう、千差万別であるわけです。

 

でもそれが、いったん食べられて、それが消化されて行き着くところ、

というのは、

 

たった1つの「うんこ」です。

 

食べ物なら、あれだけたくさんの、千差万別の種類があって、

いろんな姿かたちをしていたのに、

 

「うんこ」は、どうみても「うんこ」でしかありません。

ただ1種類です。

 

 

 

ではつぎに、火、について考えてみましょう。

 

火、というのはなにか、といえば、それは、

ものを燃焼させて、灰へと変換していくなにか、です。

 

もの、というのは、「燃やされる」以前には、

それこそ、さまざまなものがあり、姿かたちがあるわけです。

 

それはたとえば、

 

書類だったり、衣類だったり、紙だったり、生ごみだったり、

障子だったり、ふすまだったり、木製家具だったり、

 

それはもう、千差万別であるわけです。

 

でも、それらがいったん「燃やされる」と、

それらはすべて、「灰」になってしまいます。

 

可燃物については、あれだけたくさんの、千差万別の種類があって、

いろんな姿かたちをしていたのに、

 

「灰」はどうみても、「灰」でしかありません。

ただ1種類です。

 

 

 

 

整理してみましょう。

 

内臓消化器官、というのは、

千差万別であった「食べ物」を、みな、1つの「うんこ」に変えてしまいます。

 

火、というのは、

千差万別であった「可燃物」を、みな、1つの「灰」に変えてしまいます。

 

そして通常は、

わたしたちが暮らしているこの世界では、人間にとって、

「食べ物」や「可燃物」には、一般的に言って「価値」がありますが、

「うんこ」や「灰」には、そういった価値が、あまりありません。

 

 

 

これらのことを総合して、自分は、つぎのように考えました。

 

食べ物を消化する「内臓消化器官」、そして、

可燃物を燃焼させる、ぼうぼうと燃えている「炎」、

それらに共通する「火」なるものの本質的原理とは、

 

「多種多様な存在物を統合し、無価値ななにかへと帰納してゆく、

 『統合帰納作用』」

なのではないだろうか。

 

この本質的原理が、この世界に、かくれた原理として存在し、

それが具体的な現象や事物としてあらわれたものが、

たとえば、

内臓消化器官のはたらきであったり、炎であったりするのではないか。

 

 

 

そんなふうなことを、考えました。

 

 

※ 人体方位、についての、その他の記事については、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com