この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

好きか、嫌いか? その2

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、好きか、嫌いか、についての考察記事の、

つづきを書いていこうと思います。

 

 

 

 

 

恋愛。商業。民主主義のもとでの政治。芸能界。

 

 

 

こういった世界においては、好きか、嫌いか、という原理が、

非常に大きな力をもっている、という話を、前回しました。

 

では、この世界には、そういった、好きか、嫌いか、によって決定される

ような、そんな世界しか存在しないのでしょうか。

 

 

 

 

 

じつは、そういうわけではありません。

 

この世界においては、好きか、嫌いかには、

あまり関係がないような世界も、たしかに存在しているのです。

 

そのような世界を、見ていきましょう。

 

 

 

 

まず、そのような世界の代表格にあげられるもののひとつとして、

「法」

が関係する世界があります。

 

 

 

 

法という言葉をきいて、どういったことを思い浮かべますか?

 

たとえば、人と人とが取引をするときには民法などが、

会社と会社が商取引をするときには商法などが、

国家の基本を定める際には憲法などが、

犯罪を犯した者を裁くには刑法や刑事訴訟法などが、

それぞれ必要になりますね。

 

法、という言葉をきいて、ぼくたちが一般にイメージするものといえば、

だいたい、うえのようなものであろう、と思います。

 

つまり、人間がつくり、人間の社会で使用されている、

各種の法規ですね。

 

 

 

 

しかし、あまり思考にはのぼらないかもしれませんが、この世界には、

人間が作った法以外に、

「自然界がつくった法」があります。

 

たとえば、

水は100度で沸騰するよ、とか、

化学変化の前後で質量の総和は変化しないよ、とかいった、

たとえば、科学的な法則が、それにあたります。

 

うえにのべたようなのは、いわゆる、近代科学によって発見された科学法則

ですが、もしかしたら、この世界には、

森羅万象をつらぬくような法(ダルマ)があって、

それも、自然界がつくった法、に含めていいのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

人間がつくって、人間の社会で使用されている、法規。

自然界が作った、科学法則やダルマのような、法。

 

こういったものが、法、という言葉で観念されるものであろうか、

と思います。

 

 

 

 

 

 

では、こういった、法、が関係する世界では、

いったい、どのようなことが起こるのでしょうか。

 

 

 

 

まず第一に、法が関係する世界では、

「好きか、嫌いか、という原理が、はたらきにくくなり」ます。

具体的に、見ていきましょう。

 

 

 

わたしたちは、日々、生活するうえで、

いろんな法規にまもられて生活しています。

 

そして、自分と、だれか他者のあいだに、法的紛争が発生したならば、

裁判所で、裁判をして決着をつけてもらうことがありますよね。

 

 

 

このとき、裁判所、そして、裁判官は、

いったい、どのようにして、その判断を組み立てるのでしょうか。

 

 

 

 

「争っている一方当事者のうち、Aさんはとても美人だなあ。

 よし、Aさんの全面勝訴だ!」

なんて、やるでしょうか。

 

 

 

 

あるいは、

「窃盗罪で訴追されている、Bさんは、どうもキモい顔つきだなあ。

 よし、こいつは死刑だ!」

なんて、やるでしょうか。

 

 

 

 

やりませんよね。というか、できませんよね。

 

もちろん、裁判官も人の子ですから、内心の好き嫌いが、

判決を書く上で、微妙な影響をおよぼすことが、ないとは言い切れません。

 

が、そのことを、判決に表立って書くことは、認められていませんよね。

 

 

 

まず第一に、判決というのは、

法規や判例にのっとって書く必要があります。

 

そしてつぎに、その判決文は、論理的に整合性のとれたものでなくては

なりません。

 

「Aさんが好きだからAさんの勝ち」などと、判決文に書くわけには、

いかないのですね。

 

読んだ人が、たしかにそうだ、と、納得することを目指す方向で、

判決文というのは、作成されなければいけないのです。

 

 

 

裁判には、このような縛りがあります。

そして、その縛りというのは、

「好きか、嫌いか」という原理がはたらきにくくなる方向で作用して

いる、といえます。

 

 

 

 

 

 

では、自然界の作った法は、どうでしょうか。

 

じつは、ここでも、

「好きか、嫌いか」という原理が、はたらきにくくなっているのです。

 

科学法則を例に、見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

水は100度で沸騰しますよね。

当然のことです。

 

いま、ここに、太郎君という人物がいるとします。

太郎君は、カップヌードルを食べようとしていました。

 

ただ、太郎君は、非常におなかがすいていました。

ぺこぺこで、いまにも気絶しそうでした。

 

そこで太郎君は、お湯にむかって言いました。

「ねえ!今回だけは、80度で沸騰してよ!

 俺はカップヌードルがすぐに食べたいんだよ!」

 

 

 

 

それを聞いたお湯は、どうなるでしょう。

しかたないなあ、今回ばかりは80度で沸騰してやるか、

って、なるでしょうか。

 

 

 

 

ならないですよね。

 

水が100度で沸騰する、という科学法則は、

80度で沸騰してほしい、という太郎君の「好み」によって、

変更が加えられたりはしません。

 

 

 

 

いま、太郎君の例を出しましたが、ここに、100万人の人間が集まって、

おれも80度で沸騰してほしい、

わたしも80度で沸騰してほしい、と口々に言いだしたとします。

 

けれど、

水が100度で沸騰する、という科学法則に、

変更をくわえることは、できないでしょう。

 

というか、100万人どころか、

全地球上の人口が約70億人だとして、

そのうち40億人が、つまり、多数派が、

80度で水が沸騰してほしい、と希望しても、

水が100度で沸騰する、という科学法則に変更をくわえることは、

おそらく、できないでしょう。

 

 

 

 

つまり、自然界の作った法である、科学法則のような法に関係する世界でも、

好きか、嫌いか、という原理は、はたらきにくくなっているのです。

 

 

 

好きか、嫌いか、という原理が、はたらきにくくなる。

これが、法、の関係する世界の、特徴の第一です。

 

このほかに、法の関係する世界には、

「強制通用力のあらわれ」「理性的思考とのかかわり」といった

特徴がみられるのですが、、、、、

 

 

 

想像していた以上に、記事が長くなりそうなので、

つづきはまた、第三弾以降の記事として、アップしていきます。

 

 

 

※ 好きか、嫌いか? という記事のシリーズについては、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com