この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

日馬富士の刑事責任追及にかんして。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

日馬富士の暴行疑惑のことが、さかんに報道されていますね。

きょうは、このことについて、思ったことを書いていきたいと思います。

 

 

 

まず第一に考えなくてはいけないのは、

日馬富士は、力士であると同時に、この社会に暮らす一般人でもある、

ということです。

 

力士である以上は、相撲協会の監督や規律に服することは当然ですが、

同時に、一般人である以上は、この日本国の法規の規律にも服するものであります。

 

相撲協会には相撲協会独特の「部分社会」があって、

一般の司法権や捜査権の介入をはばんでいる、

などといった事実は、認められていません。

 

そうである以上、傷害にあたるような刑事事件を、

もしかりにひきおこしたのであるならば、

それは、日本国の刑法において犯罪とされるものであって、

法の裁きに服する必要があります。

 

かりにそのような事態となったならば、それはもはや、

相撲協会内部の処分で済まされるようなことでは、ないのです。

 

 

 

日馬富士のひきおこした暴行事件がどのようなものであったのか、

慎重に捜査する必要があります。

 

刑事事件に発展してしまった、ということを問題視するひとがいますが、

おかしいことです。

 

刑事事件に該当するような事案が現に発生しているのに、

それにもかかわらず、

何らかの圧力によって刑事事件化させない、ということがもしあるのならば、

そちらのほうが、よほど問題です。

 

 

 

事を荒立てる、とか、もめごとに発展する、とかいったことを、

極端に嫌うひとたちもいますが、

事を荒立てず、もめごとに発展させないいっぽうで、

理不尽な被害に泣くひとがいるのならば、

その不正義は、看過できないものでしょう。

 

 

 

 

日本相撲協会というのも、ひとつの組織体です。

国であれ、さまざまな団体であれ、組織というものには、いつも、

組織の論理、がはたらきます。

 

それは、いうならば、

組織がひとつの「生命体」として、その生命活動がとどこおりなく

おこなわれるのか、その生命体にとって利益になるのか、

その生命体は「延命」できるのか、といった観点から主張される、

「生の原理」にのっとった論理なのです。

 

いっぽうで、なにが正しくて、なにが正しくないのか、といったことや、

不正義があったならば、それは糺されなければならない、

といったことは、

「理の原理」から主張されるものです。

 

そして、生の原理と、理の原理は、

しばしば、相対立するものになりえます。

 

生の原理にのっとった「組織の論理」は、

組織にとって、ある個人の権利をみとめることが、かりに都合が悪ければ、

たとえそれが、理の原理に反し、正義に反するようなことであっても、

組織の「生命体」としての団結と利益を優先し、

そこに属する構成員である一個人の正当な権利を蹂躙してはばからない

ことがあります。

 

自分は、生の原理、理の原理は、ともにそれなりに意味のあるものだと

考えていますが、

生の原理がつねに理の原理に優越する、といった考え方や、

生の原理のためであるならば理の原理は亡き者にされてもしかたがない、

といった考え方は、

これを採用することができません。

 

なにが正しくてなにが正しくないのか。

正義の価値とはなにか。

 

そういったことを、今回の日馬富士の暴行疑惑の解明に関しても、

もういちど確認する必要があるように思えます。

 

 

 

たいせつなことは、法が、公平公正に、正しく適用されることです。

 

日馬富士が、やってもいないことで処罰を受けるのは、

不当なことでしょう。

 

また、かりに暴行をおこなったとしても、

実際におこなった行為以上に処罰されるとすれば、やはりそれは、

不当なことでしょう。

 

しかしいっぽうで、

暴行や傷害をおこなったにもかかわらず、処罰されないとすれば、

不当なことでしょう。

 

そして、実際に行った暴行や傷害に対して、

過小な処罰がなされるとすれば、

やはり、不当なことでしょう。

 

 

 

かつて、ハンムラビ法典には、

「目には目を」という、同害報復の原則が規定されていました。

 

目をつぶしたら、自分も目をつぶされる。

そんなの残酷だ、という声が聞こえてきそうですが、

ハンムラビ法典の眼目は、

「報復」にあるのではなく、その報復が「同害」であることにあるのです。

 

目をつぶしたら、自分も目をつぶされるけれど、

ついでに鼻をつぶされたり、口をつぶされたりは、しないわけです。

 

他方で、目をつぶしたのにもかかわらず、

つぶした者が、頭を小突かれるだけですむ、

というようなことも、ないわけなのですね。

 

 

 

なにが公平で公正なのか、といったことは、

よくよく考えてみる必要があります。