こんばんわ。天機です。
きょうは、自分の読んでいる本のことを書こうと思います。
天機は最近また、岩波文庫の「韓非子」という本を読み始めました。
また、というのは、この本を買ったのはもうずいぶん前で、
今回がたぶん、2回目の読書になるからです。
韓非子、というのは、中国の古典のひとつです。
ほかに自分が読んだ中国の古典としては、
論語は、書いてある内容がおりこうさんで、説教っぽく、
おもしろくないので、捨てました。
自分にぴったりとフィットする感じがします。
韓非子を書いた、韓非(かんぴ)というひとは、不遇の人でした。
非常に才能のあるひとなのですが、生まれつき、吃音でした。
そのため、自分の思想を、人と語らうなかで広めていく、
ということができなかったのですね。
あるひとに、それなら、自分の思想を著作にしてみてはどうか、
といわれた韓非は、自分の思想を著作にまとめ上げました。
韓非子にながれる思想は、徹底した法家思想です。
簡単に言うと、好きか嫌いか、といった感情ではなく、
理によって政治を運営すべし、
そのためには、法家思想にもとづく信賞必罰の政治を、
と説いた思想なのです。
この著作を読んだ、当時の秦という国の、のちに始皇帝になる男性は、
いたく感銘を受けました。
「この著作の著者に会えるのなら、死んでもいい」
とまで言ったそうです。
その、のちに始皇帝になる男性は、韓非を、秦に招いて会いました。
韓非に実際に会って、その話を聞くにつれ、
ますます韓非の有能であることがわかりました。
この、のちに秦の始皇帝になる男性には、
宰相の、李斯(りし)という男性が部下にいました。
李斯もまた、有能な男性でしたが、
韓非は非常に有能であったため、
李斯としては、自分が出し抜かれるのではないか、
という危機感をいだくようになりました。
そこで李斯は、保身のため、上司である秦の始皇帝になる男性に、
韓非に関する讒言(ざんげん)をふきこみました。
それを信じた、秦の始皇帝になる男性は、
韓非を殺してしまったのです。
ね?韓非って、すごい不遇でしょ?
生まれつき吃音、という枷(かせ)がはめられていたのも、
その才能が顕れることを運に妨害されていたようにも思えるし、
すぐ殺されてしまった、というのも、不運ですよね。
自分は、このブログで、よく、
「生の原理」と「理の原理」のことを書いています。
それで、歴史をみていて思うんですが、人間の古くからの歴史の中で、
このうちの「理の原理」に立脚し、
「理の原理」をつらぬこうとしたひと、
たいていは、それは男性なんですが、
そういったひとは、どうも、
運命から妨害を受けるというか、運命に憎まれているかのような、
現象が起きるんですよね。
とくに、そのひとの、まだ若いときに。
運命に憎まれた「理の人」がどうなるか、といえば、
そのまま、運命に打ち倒されてしまう場合もあるし、
非常に長い時間をかけて、運命のほうを逆にぎゃふん、
と言わせるような場合もあるわけなんですね。
前者の例が、たとえばソクラテスや韓非のようなひとであり、
後者の例が、太公望のようなひとであります。
韓非というひとも、
好きか嫌いか、といったものよりも、理を重視したひとなんですね。
そこがたぶん、「生の原理」をつかさどる運命にとっては、
癪に障るところだったのだろう、と、ぼくは思います。
そのために、韓非は、運命に、いじめぬかれました。
では、韓非は、負けたのでしょうか。
ぼくは、そうは思いません。
韓非は、たしかに、若くして殺されてしまいました。
しかし、そのときから数えて2000年以上もあとの、
この21世紀の現代に、
韓非子のなかからは、韓非が訴えたかった思想が、
色あせることなく、いまなお、ぼくたちに語りかけてきます。
たしかに、韓非の肉体は、若くしてほろんでしまいました。
しかし、その精神、思想は、
何千年という長い間を、生き続けることに成功したのです。
これこそが、理の力です。
理というのは、時間の経過を味方にすることで、
ようやく、その本領を発揮することになるのです。
「生の原理」が、馬鹿にして笑いながら蹂躙した「理の原理」は、
「時間」を味方にすることで、ゆっくりと、反撃してくるのです。
自分は、こういう、粘着質の性質をもった「理の原理」が、
心の底から大好きな人間です。