この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【人体】2つある器官と、1つしかない器官。気道。

人体に、2つある器官と、1つしかない器官、

それらに関する考察記事のつづきです。

 

【気道はなぜ、2本から1本へと収束していくのか】

 

人間の鼻の孔、というのは、2つあいています。

そこから空気が体内に入っていくわけなんですね。

 

鼻の穴から肺に至る、空気の通り道を総称して「気道」とよんでいます。

この気道の数は、おもしろいんですね。

 

最初、2つの鼻の孔から入った空気は、

2つの鼻の孔からつづく、2本の気道を通っていきます。

 

ところがこの気道は、途中から1本にまとまるんですよね。

 

不思議に思いませんか?

 

途中から1本にまとまるくらいなら、

最初から鼻の孔も1つでええやん、とか思いません?

 

あるいは、鼻の孔が2つなら、

肺に至るまで気道もずっと2本でええやん、とか思いませんか?

 

 

 

 

自分は、このことについても、

理の原理と生の原理の観点から、自分なりに考えてみました。

 

 

 

まず、鼻の孔というのは、外気の「獲得」プロセスにかかわるものです。

その鼻の孔の数がどうなるのか、ということについては、

外気の「獲得」は、どういう性質をもつのか、ということと関わっています。

 

さきにみたように、

外気の「獲得」においては、食べ物を口から食べるような、

他の生き物を殺害する、他の生き物に対して加害する、

といった要素がありません。

したがって、外気の「獲得」にかかわる鼻の孔の数は、2です。

 

 

 

それに対して、気道はどうでしょう。

 

気道というのは、外気の「運搬」にかかわる器官です。

 

外気というのは、外から体内へと取り込む「獲得」、

そして、体内へと(肺へと)はこぶ「運搬」、

そして、体内において生命活動につかわれる「利用」、

この3段階をへて、順に体内へと移動していくものなんですね。

 

 

 

ここで、生の原理について復習してみましょう。

 

生の原理というのは、

「他者に対する加害を基礎として、そのことを通じて、

 自己の生存をはかる原理」

なのでした。

 

そこには、「自己の生存の前段階としての他者への加害」と、

「自己の生存のための他者利用」という、

2つの要素があります。

 

鼻の孔の数がいくつになるか、ということにかんして問われるべきなのは、

その鼻の孔というのは、

「他者への加害」という要素があるのかないのか、ということでした。

 

というのも、鼻の孔というのは、外気の「獲得」にかかわっていて、

その「獲得」というプロセスは、通常、

自分自身と、自分以外の他者、その両者の関係がどのようなものであるのか、

ということにかかわるからです。

 

 

気道は、その鼻の孔とは、役割が異なっています。

気道においては、もはやすでに、外気の「獲得」は、

なされたあとなのです。

 

外気は、すでに、所与のものとして存在しています。

とすると、気道に関して問われるべきなのは、

「他者への加害を基礎として、そのことを通じて、

自己の生存をはかる」という生の原理のうち、

「他者への加害」という要素のほうではなく、

「自己の生存への他者利用」という要素のほうになります。

 

外気の獲得プロセスにおいては、

他者を加害するという要素が希薄であったとしても、

いったん、体内に取り込まれてしまったあとの空気というのは、

自分自身の生命活動への利用、という目的に向けて、

どんどんと、体の奥深くへと運搬、移動されていきます。

 

つまり、です。

 

気道のはじめのほう、つまり、鼻にまだ近いほうというのは、

「外気獲得プロセスにおいて他者への加害がなかった」

という意味で、生の原理が希薄なんです。

しかし、その空気が、体の奥深くへと移動していく、

気道の奥深くでは、

「その空気を自己の生命活動に利用する」

という意味での、生の原理が濃厚になっていくのです。

 

 

 

そういう事情を反映しているので、

気道は、最初は2本であったものが、だんだんと1本へと収束していく

のではないか、と、自分は考えました。