この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【人体】2つある器官と、1つしかない器官。目と耳。

こんにちわ。天機です。

きょうは、人間の体について、考えてみたいと思います。

きょうの記事は、すごく長いです(3400字程度)。

 

 

 

 

 

人間の体のさまざまなことについて、

不思議に感じるひとは、一定数いるようです。

 

 

不思議に感じること、素朴な疑問のひとつに、

人間の体にひそんでいる、「数」にかんする疑問があります。

 

 

 

 

どうして、おっぱいは2つなんだろう。

どうして、鼻の孔は2つなんだろう。

どうして、腎臓は2つなんだろう。

などなど。

 

 

とても素朴な疑問なのですが、ヤフー知恵袋などでこういった質問を、

実際に見かけることがあるんですね。

 

 

 

 

そういった疑問に対しては、さまざまなひとが、

さまざまな回答をしています。

 

 

そして、それらの回答のほとんどは、

人間の体における各器官の、生物学的な、生理的な、

機能と目的の観点から、個別に回答されたものになっています。

 

 

おっぱいが2つなのは、〇〇という生物学的な特徴があって、

〇〇という生理的な目的のために、2つになっているんだよ、

というような具合です。

 

 

 

 

こういった質問と、それに対する回答をみていると、

なるほど、そうだったのか、と思わせられる内容も、たしかに、

たくさんありました。

 

 

 

 

 

しかし、だんだんと、自分の中に、ある疑問がわいてきたのです。

 

 

 

おっぱいが2つあるのは〇〇という機能と目的のためであり、

鼻の孔が2つあるのは〇〇という機能と目的のためであり、

腎臓が2つあるのは〇〇という機能と目的のためであり、

なんていうふうに、そこでは説明されているんです。

 

 

 

説明されてはいるんですが、個別的にはわかるんですが、

おっぱいが2つあることと、鼻の孔が2つあることと、

腎臓が2つあること、

それらの「あいだ」には、特段、なんの関係も見出されてはいないんですよね。

 

 

 

 

 

自分は思ったんです。

 

 

 

おっぱいが2つあることと、鼻の孔が2つあることと、

腎臓が2つあることのあいだには、一見、

なんの関係もなさそうに見えるけれども、

じつはその背後に、

人間の体にある、さまざまな、2つある器官、その器官の数が「2」

であることを、統一的に説明できるような、

かくれた原理があるんじゃないだろうか。

 

 

 

そんなことを、考えたんですね。

 

 

 

それで、自分なりに、いろいろと考えてみました。

そうして、たどりついた自分なりの結論は、こうです。

 

 

 

 

 

「人間の体において、理の原理に関係する器官には、

 理の数である、2、が刻印される。

 それに対して、生の原理に関係する器官には、

 生の数である、1が刻印される。」

 

 

ここで、理の原理と生の原理について、まとめておきましょう。

 

理の原理とは、

自分自身と、自分とは異なる他者、その双方が双方とも存在し、

たがいの間にある、あいだ、境界線、といったものをおかすことなく、

併存することを認め、尊重する原理です。

理の原理を象徴する数は、2になります。

 

生の原理とは、

他者に対して害をくわえたり、他者を犠牲にしたりすることを

基礎として、そのことを通じて、

自分自身と他者のあいだにある、あいだ、境界線といったものを

無きものにし、

他者のもつエネルギーを自己へと同化し、転用することで、

自己の生存と拡大をはかる原理です。

生の原理を象徴する数は、1になります。

 

 

 

これから、以下の記述において、これらの、

理の原理と生の原理、そのそれぞれが、どのように人体の各器官と

結びついているのか、そして、

理の原理を象徴する数である2と、

生の原理を象徴する数である1が、

どのように各器官の数としてあらわれているのかをみていきます。

 

その前段階として、個人的な考察を記した別記事があります。

以下がそれです。

 

理の数と、生の数。 - この世界の不思議

 

生の原理と、人間の口と、生殖器。 - この世界の不思議

 

適宜、参照してください。

 

それでは、考察をはじめていきます。

 

 

 

【人間の、目と耳は、なぜ2つなのか】

 

目と耳について考えてみましょう。

 

①あたりまえのことですが、人間が、なにかを目で見たり、

なにかを耳で聞いたりしたからといって、

その、見られたなにかや、聞かれたなにかが、殺されて死んでしまう、

ということはありません。

その意味で、目や耳というのは、他者加害をつうじて自己のエネルギーを

得るような器官ではない、ということが明らかになります。

このことは、目や耳が、生の原理とはかかわりの薄い器官である、

ということの論拠になる、と自分は考えます。

 

②また、世の中には、目の不自由な視覚障害者のかたや、

耳の不自由な聴覚障害者のかたも、日々、生活しておられます。

ということは、目や耳がかりに使用できなくなったとしても、

日常生活に確かに不自由は生じますが、

生存にかんして、ただちに危険が生じる、というわけではなさそうです。

つまり、簡単に言えば、目や耳がなかったとしても、生きていくことは

できるのです。

このこともまた、目や耳が、生の原理とはかかわりの薄いものである、

ということの論拠になる、と自分は考えます。

 

さらに、別の角度から考えてみましょう。

 

③目で、なにかを見るとき、その対象物が、もし眼球の表面にはりついて

いたとしたら、どうでしょう。

考えたくもないですが、たとえば、ハエが目の表面にくっついていたら。

とても不愉快な思いをすると思いますが、それだけではなく、

くっついているハエをしっかりと見て、認識することは、

難しくなりますよね。

 

耳でなにかを聞く場合はどうでしょうか。

通常、耳が音を知覚する場合、空気中を伝わってくる音波を鼓膜が

とらえて、音として認識するものである、と思います。

もしかりに、音の発生源と鼓膜の間に、空気という、あいだをつなぐものが

まったくなかったとして、

たとえば、振動するなにかのような音の発生源が、じかに鼓膜に密着

していたとしたら、やはり、通常の音の聞こえ方とは異なってきて、

それがどのような音であるのか、ということを認識するのは、

いくぶん難しくなるかもしれませんね。

 

つまり、目で何かを見る場合にも、耳で何かを聞く場合にも、

よく見て、よく聞こうと思ったら、

その見る対象物や聞く対象物と、目や耳のあいだには、

「あいだ」が存在している、ということが不可欠の条件になってくるのです。

 

そして、自己と他者のあいだにある「あいだ」や「境界線」といったものを、

無きものにせず、尊重するという原理が理の原理であったことを考えあわせると、

このことは、

目や耳が、理の原理とかかわりの深いものである、ということの論拠になる、

と自分は考えます。

 

さらに、つぎのように考えることもできます。

 

④理の原理、というのは、道理や理性といったものともかかわりがある、

と思うのですが、人間は、その頭の中で、日々、

道理や理性にしたがって、さまざまなことを「考えて」います。

 

そして、考えているときの人間の頭の中というのは、

イメージしてもらえばわかるかもしれませんが、

無言のうちに、いろんな「言葉」が、頭の中をかけめぐっているという

状態になっていると思います。

 

ここで、「言葉」について考えてみます。

 

絵画、というのは、見ることはできますが、聞くことはできません。

音楽、というのは、聞くことはできますが、見ることはできません。

 

楽譜をみれば頭の中にメロディーが流れる、というような域に達したひとも、

なかにはいるかもしれませんが、

その状態になるには、一定の訓練が必要であって、一般的ではありません。

また、楽譜そのものも、音程を記号化したものであって、

音楽や音「そのもの」というわけでもありません。

 

それに対して、言葉はどうでしょうか。

言葉は、発話されたものは、聞くことができます。

また、文章としてかかれたものは、見ることも読むこともできます。

そして、聞くことには耳が、見ることには目が、それぞれかかわっています。

 

つまり、

理の原理が人間の体において具体化されたもののひとつが、

人間の頭脳における思考活動なのですが、

その思考活動は、言葉によって支えられていて、その言葉は、

目と耳で知覚することができます。

つまり、目と耳は、言葉を通じて理性的に判断をおこなう器官なのであって、

その意味で、理の原理と深いかかわりがある、と自分は考えます。

 

以上、①から④までの考察において、目と耳が、

生の原理とはかかわりが薄く、理の原理とかかわりの深いものである、

ということをみてきました。

したがって、目と耳の数は、理の原理を象徴する数である、

2になります。

 

長いので、つづきはまた。