この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

理の数と、生の数。

こんばんわ。天機です。

 

僕の名前である天機というのは、紫微斗数という占いのなかの、

天機星、という星の名前からとっています。

天機星という星は、森羅万象の背後に隠れた天の機密に興味をもち、

分析力がとてもすぐれているそうです。

 

紫微斗数、という占いは、封神演義、という、中国の古典文学作品

とリンクしているところがあります。

それによると、天機星があらわしている人物というのは、

太公望だそうです。

 

自分は、自分の紫微斗数の命盤で、

身主が天機星で、身宮には天機星がはいっています。

天機星と自分は、とても縁がふかいのです。

 

大学に入ったころから、自分は、精神世界のことに、

非常に強い関心をいだくようになりました。

いろんな占いにのめりこんだり、

ユング心理学封神演義老子といった本を読むようになったのも、

このころです。

 

そして、その関心は、現在に至るまで続いています。

このブログのテーマのひとつも、そういった、

この世界の隠れた真理に関するものなのです。

きょうは、そういったお話の1つです。

 

 

 

よく、この世界の真実は1つだ、なんてことが言われたりしますよね。

名探偵のコナン君なんかは、いつも、真実は1つ、なんておっしゃっています。

 

でも、自分は、この世界には、

相対立する2つの原理がながれている、と思っているんです。

 

東洋哲学には、易経の考え方がありますが、そこでは、

万物とその現象を、陰と陽、という2つの原理から考えています。

 

西洋文化の重要な礎石の1つには、キリスト教がありますが、

そのもとになった聖書には、その創世記において、

知恵の樹と生命の樹というのがでてきます。

 

自分は思いました。

 

この世界には、理という原理と、生という原理の、

2つの原理が存在するのではないか、と。

 

では、その理の原理、生の原理を象徴するような、数がもしあるとすれば、

それは、どのようなものになるでしょうか。

 

 

まず、理の原理から考えてみましょう。

 

数学では、背理法、という証明方法があります。

高校数学で、でてきます。

 

背理法をもちいて証明する、有名な高校数学の問題に、

「ルート2が無理数であることを証明せよ」というものがあります。

 

この問題を解くにあたっては、まず、

「ルート2は無理数ではなく、有理数だ」という、

仮定をおくことからスタートします。

 

有理数ならば、それは、既約分数のかたちであらわすことができます。

そこで、ルート2を、M分のN(MとNは、互いに素)という

既約分数であらわします。

 

それをもとに論をすすめていくと、やがて、おかしなことがあらわれます。

そこで、このようなおかしなことがあらわれたのは、

最初の仮定が間違っていたからだ、ということになり、

めでたく、ルート2は無理数である、ということが証明されるわけです。

 

 

この、背理法という証明方法の根幹にあるのは、

「理」のもつ性質です。

 

ルート2は無理数である、ということと、ルート2は無理数ではない、ということは、

お互いがお互いの否定になっています。

 

こういった、互いに否定関係にある2つのものは、

同時に成立することができません。

 

同時に成立すれば、それは、矛盾です。

そして、その矛盾を認めない、というのが、理の立場なのです。

矛盾を認める、というのは、理に背くこと、つまり、「背理」だと

いうわけです。

 

 

ここに1枚の画用紙を用意するとします。

 

その画用紙の真ん中に、マジックで、1つの円を描きます。

すると、画用紙のなかは、円の内側と、円の外側の2つに分かれるはずです。

 

円の内側に在って、同時に、円の外側にも在る、ということは、不可能です。

それが不可能である、とするのが、理の立場です。

 

 

こうしてみてくると、理のあるところには、

自己と、その自己の否定である他者とが、

同時に成立したり、まじりあったりすることなく、

たがいに自己と他者のまま、分かれて存在することが、明らかになろうかと

思います。

 

この、自己は自己のまま、他者は他者のまま、たがいの間にある

境界線をおかすことなく、

それぞれがそれぞれ存在することを認め、尊重する、

というのが、理の立場なのです。

 

したがって、理をあらわす数字は、2です。

自己が1つ、それの否定であり、自己に対置される存在である他者が1つ、

あわせて2つ、ということです。

 

 

 

では、生をあらわす数は、どのようなものでしょうか。

 

この世界には、いろんなものが生きています。

人間である僕たちも生きていれば、牛も馬も、豚も羊も、

鳥も魚も生きています。

 

生きているものは、いろんな活動をします。

人間だったら、歌ったり、絵をかいたり、働いたり、いろいろします。

動物も、走ったり、寝そべったり、いろいろです。

 

でも、これらの活動には、別にしなくても生きていくことには支障のない

活動があるいっぽうで、

生きていくためには、絶対に避けては通ることのできない活動があります。

 

 

 

生きていくためには、絶対に避けては通ることのできない活動、それは、

食べることです。

この世界に生きているいろんな生き物は、基本的には、

他者を食べて自分の栄養分としなければ、生きていくことができません。

 

自分と、他の生き物のあいだには、境界線があります。

その境界線をおかすことなく尊重するのが、理の立場でした。

 

生の立場は、それとは、ずいぶん異なりますね。

その境界線を無きものにして、自分と他の生き物の間にある境界をなくし、

他の生き物をとりこんで、1つになろう、というのですから。

 

生の本質のひとつは、食べること、つまりは、

自己への同化作用にあるといえます。

 

そして、この同化作用というのは、1つには、

自分と他の生き物のあいだにある区別をなくして、

「1つ」になろう、というものです。

 

そして、さらにいえば、この同化作用の行き着く果ては何か、といえば、

自己の周囲に他者として存在するものをすべて自己に同化していくことによって、

この世界にもはや自己ただ1人のみしか存在しない、

という世界をつくりあげることに他ならないのです。究極的には。

 

したがって、生の原理というものは、その本質は、

端的に言えば、食べるということに象徴される、

自己への同化作用なのですが、その同化作用というのは、

その機序においても、その究極の目的においても、

「1つ」を志向したものである、といえるのです。

 

したがって、生をあらわす数字は、1です。

 

 

 

 

理をあらわす数字、生をあらわす数字、それぞれが、

2と1である、というお話をしてきました。

 

だからなんやねん、というつっこみが飛んできそうですが、

じつは、この説明は、前ふりにすぎないのです。

 

この説明をもとにして、はじめて、

人間の体には1つある器官と2つある器官があるけれど、

どうして、そのような違いが生じているのかな?

ということに関する、独自説の展開へとつながっていくのです。