この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

どのようなひとが、寄付すればいいのか。

ウィキペディアをみていると、ウィキペディアへの

寄付をお願いする文言が画面上にあらわれることが、たまにある。

寄付について、考えてみた。

 

自然災害が起こったときとか、あるいは、

世界の恵まれない人々のために、とか、

いろいろな名目で、寄付が呼び掛けられる。

そういった寄付の呼び掛けには、どのようなひとびとが、応じたほうがいいのだろう。

 

まず第一に、収入による違いがあるだろう。

 

たくさん稼いでいて、お金をたくさん持っているようなひとは、

貧乏で、お金がほとんどないようなひとよりも、

寄付の呼び掛けに、たくさん応じたほうがいいだろう。

 

貧乏で、お金がほとんどないようなひとというのは、

自分が困っている側なのだ。

むしろ、支援をしてもらわなければいけないのは、自分のほうだろう。

 

それに対して、お金を持っているひとというのは、

お金に余裕がある。

その、余裕があるお金の一部を寄付に回したところで、

たいした痛みは感じないだろう。

 

第一の観点としては、

「寄付は、余裕のある者がしたほうがいい」ということになる。

 

 

 

第二に、

「寄付は、みんなでしたほうがいい」という観点がある。

 

日本赤十字社などに寄付をすると、その後、

日本赤十字社から、寄付のお願いの手紙が定期的に郵送されてきたりする。

 

でも、これっておかしくはないだろうか。

寄付してくれたことへの感謝の手紙が定期的に郵送されてくるのならば

ともかく、

なんで、寄付のお願いがつぎつぎに送られてくるんだろう。

 

自分のすべき寄付は、もうしたはずだ。

つまり、自分の担当部分は、もう終わったはずなのだ。

つぎは、だれか他のひとのところへお願いしに行くのがスジなのに、

それをせず、

一度寄付した人のところへばかり、甘えてくる。

 

そこには、一度寄付したんだから、つぎも寄付してくれる可能性が高い、

というような、

自己都合の、薄汚い打算が見え隠れする。

一度寄付したのにもかかわらず、つぎつぎと同じ人ばかりが

何度も何度も寄付の依頼をされるという、

相手側の迷惑は、まったく考えてもいないのである。

 

だから、寄付というのは、

特定の誰かだけが一方的に負担を負わされるべきものではなくて、

薄く広く、みんなで負担を分かち合うのが、

公平、公正の原理にもかなうものだ、と思う。

 

1人だけが10000円の寄付をするのではなくて、

100人が100円ずつ寄付をするようなかたちのほうが、

理想的だということだ。

 

そういうことでいえば、

これまでの人生で、ほかの人に比べて、

あきらかに多くの寄付をしてきたようなひとは、

ちょっと、寄付を休んでみてもいいと思う。

自分が果たしてきた役割を、こんどは、

べつのひとにバトンタッチするのだ。

 

反対に、

これまでまったく寄付なんかしたことがない、というようなひととか、

寄付なんかほとんどしたことがない、というようなひとは、

こんどは、自分が少し、寄付してみてもいいのではないだろうか。

 

 

日本人が、平均でいくらくらい寄付するのか、

というデータを、ネットで見かけたことがある。

 

それによると、平均的な世帯では、1年間に平均で3000円ほど

寄付するのだそうだ。

 

平均的な世帯には、2.5人ほどの人がいるとしよう。

3000÷2.5=1200、であるから、だいたい、

平均的な日本人は、1人当たり1年間で、

1200円ほど寄付している、と考えてもよいかもしれない。

 

平均的な日本人は、かりに、

成人した20歳のときから、定年になる60歳のときまで、

40年間にわたって寄付をするものと仮定する。

 

すると、1年間の1人当たりの寄付金額は1200円ほどだから、

40年間だと、48000円ほどになる。

 

つまり、ごくごく簡単にいえば、

これまでの人生で寄付してきた累計金額が5万円に達しているようなひとは、

すでに、

平均的な日本人の一生分の寄付金額を寄付した、ということになるのである。

 

そういった人こそ、

もう自分の果たす役割は終えた、自分の担当部分は済ませた、と考えて、

ほかのひとにバトンタッチしても、いいのではないだろうか。