この世界の不思議

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可能性と境界線 3

ずいぶん以前に書いた記事の、可能性と境界線シリーズ、

その第3弾を書いてみようと思う。

 

ベン図上に、整数全体の集合を全体集合としてとる。

そして、そのなかに、2の倍数である部分集合と、

3の倍数である部分集合を描いてみる。

 

そうすると、2つの部分集合は、それぞれ円のようなかたちで表され、

その2つの円が重なったところができる。

そこはちょうど、葉っぱのようなかたちになるかと思う。

 

そこが、2の倍数である部分集合と、3の倍数である部分集合の、

共通部分である、6の倍数の集合になる。

 

 

では、こんな例を考えてみよう。

 

今度もやはり、全体集合は、整数全体の集合として描く。

ただし、今度は、部分集合は、

4の倍数をあらわす小さな円だけをかいてみる。

 

すると、全体集合の中には、

4の倍数をあらわす小さな部分集合と、

整数ではあるが4の倍数ではないものの集合をあらわす、

4の倍数の集合の補集合があらわれる。

 

ここで、

この部分集合と、補集合の、共通部分を考えてみる。

 

さきほどの、2の倍数の集合と、3の倍数の集合であれば、

その2つの集合のかさなった部分、ちょうど、

葉っぱのようなかたちをした部分が、

共通部分となる、6の倍数の集合をあらわしていた。

 

今度はどうだろう。

4の倍数の集合と、その補集合には、

かさなった部分、というのが、あるだろうか。

 

 

ないよね。

論理的に考えても、わかりそうだ。

4の倍数の集合と、その補集合に、もし重なった部分があるとすれば、

それは、

 

4の倍数であり、かつ、4の倍数ではない数

 

をあらわすことになってしまう。

 

それって、矛盾だよね。

数学と、数の論理は、矛盾があればそれは存在しないものとして扱うから、

そんな共通部分はない、ということで、決着しそうだ。

 

 

でも、自分は考えた。

 

たしかに、4の倍数の集合と、その補集合の、2つの共通部分になるような

重なりは、ベン図にはあらわれていないようにみえる。

 

でも、2つのあいだにある、

 

境界線、

 

この境界線は、いったい、なにものなんだろう?

 

葉っぱのような重なった部分は、たしかに、ないんだけれども、

境界線という部分は、唯一、2つの部分の重なりをあらわしているんじゃないか。

 

だとするならば、

ある命題Aと、その否定命題バーAの、共通部分などはない、

と考えるのが一般的なんだけれども、

その2つの間にある境界線は、じつは、その共通部分を表しているんじゃないか。

 

つまり、境界線というのは、

矛盾と関係してるんじゃないか。

こんなふうに考えたんだ。

 

でも、このことについては、今の段階ではよくわからなかったので、

いったん、わきに置いておいて、べつの角度からアプローチしてみる。

 

 

つぎのアプローチは、

境界線というのは、可能性と関係してるんじゃないか、というもの。

 

この、可能性と境界線、というシリーズの記事の中で、

可能性というのは、

現実化によって満たされる部分を無として内包したまま、

その無については侵されないという、対外的抵抗性をもっており、

無のように見えて無とはわずかに違うもの、というふうに考えてきた。

 

このことをもとに、境界線について考えてみる。

 

4の倍数の集合と、その補集合には、

2つの共通部分となるようなところはないものの、

その間にある境界線こそは、2つの共通部分たりえるんじゃないか、

という話を書いてきた。

 

高校数学の命題と集合という単元では、

ある集合Aと、その補集合バーAの共通部分は、空集合となる。

 

空集合というのは、要素がなにもない集合、ということである。

要素がなにもない、ということを、1つの無、と考えると、

空集合というのは、内部に無を内包したもの、ということが、

ここで言えると思う。

 

整理すると、

境界線というのは、あるものAと、あるもの(Aの否定)のあいだにあって、

それら2つを区別しているが、

それら2つのものの重なり、共通部分と考えることもできる。

 

そして、Aと、Aの否定の、共通部分というのは、空集合になる。

 

よって、境界線には、空集合の性質がある。

 

ここで、空集合というのは、要素がなにもない集合のことである。

 

つまり、空集合というのは、内部に無を内包している。

 

境界線には、空集合の性質があるのだから、

境界線というのも、内部に無を内包するものである、ということが言える。

 

さらに、境界線について考えてみよう。

 

境界線というものは、内部に無を内包している、と言った。

では、境界線そのものが無、なんだろうか。

なにもない、のだろうか。

 

それはちがう。

もしかりに、境界線そのものがまったくなにもない無だとするならば、

あるものAと、その否定バーAのあいだには、

2つを仕切るような境目はなにもない、ということになる。

もしそうならば、Aと、バーAに違いはなく、

まったく同じ、ということになってしまうだろう。

 

つまり、

Aと、その否定バーA、

この両者のあいだにある「違い」を消さないためには、

境界線そのものは無であってはいけないのである。

ただし、先に見てきたように、

境界線の内部には、無が内包されている。

ということは、境界線というのは、

内部に無を内包しつつも、自分自身は無にはなってしまわないように、

対外的な抵抗性をもったもの、ということになる。

つまり、無のようにみえて、無とはわずかばかりちがうもの、ということだ。

 

長かったが、ここにおいて、

境界線と可能性の、共通性がみえてきた。

そして、無のように見えて無とはわずかにちがうものを、

かりに「寸」と名付けるならば、

可能性と境界線は、いずれも、寸の性質をもつことになる。