男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

小林麻央さんの死に思うーその3。

自分はこのブログの中で、しばしば、生の原理と理の原理について

考えている。

生とは、他者を犠牲にし、他者を犠牲にすることを通じて、

この自分が生きる、という原理。

理とは、自分とは異なる他者が存在するということを認める、という原理。

 

芥川龍之介の「羅生門」の、なぜ。 - 男性差別、ときどき、世界への反逆。

というブログ記事でも書いたのだが、

生きるということ、生の原理とは、つまるところ、悪なのである。

小林麻央さん、夏目雅子さん、坂井泉水さん、本田美奈子さん、

といったひとたちに、「毒がない」ということは、つまりは、

悪の要素が少ない、ということで、それがじつは、

生き抜いていく上での生命力の弱さのようなものに、もしかしたら、

つながっているのではないだろうか。

 

生き抜いていく上では、ハングリー精神、タフネスといったものが大切で

あろうことはいうまでもないのだが、

自分がここで、彼女たちに欠けているのではないか、と考える資質は、

こういったハングリー精神やタフネスではないのだ。

あくまで、「悪」、邪悪さなのである。

 

この世界では、当然のことながら、悪や邪悪さといったものは、

よくないものとされている。

それは、ひとつのタブーなのだ。

でも、どんな人間の中にも多かれ少なかれ存在するであろう、その悪は、

じつは、その当人を盾のように守ってくれて、しぶとく生き抜かせる

原動力のようなものになっているのではないだろうか。

そして、その悪の要素があまりにも希薄であって、当人があまりにも

透明な、純粋な善のようなものに近づいていくと、じつはそれは、

死に近づいている、ということになるのではないだろうか。

ふと、そんなことを思った。

 

 

以前、TSUTAYAで、「ぼくのエリ」という洋画を借りたことがある。

そのあらすじは、こうだ。

主人公は、内気な少年で、あるとき、女の子と出会う。

が、じつはその女の子は吸血鬼で、周囲で何人もの人間が犠牲になっていた。

その女の子は、その少年のことが好きだった。

あるとき、その少年が、プールでいじめられて、おぼれさせられそうになる。

殺されそうになったのだ。

少年には、なすすべがなかった。

そのとき、助けてくれたのが、吸血鬼の女の子だった。

女の子は、少年を溺れさせて殺そうとしたいじめっ子たちを、皆殺しにしたのだ。

その女の子は、少年に、たしかこんなことを言ったように思う。

「生のことを怖がらないで、生を忘れないで」かなんか、そんなことを。

詳しい内容については、記憶違いがあるかもしれないが、だいたい、

こんな内容だったと思う。

 

だれのなかにも、この映画のエリという女の子のような存在がいる。

その存在は、一見したところ邪悪で、正面切っては認めることができない

ようなものなのだ。

でもじつはその女の子は、その当人が生きていてくれることをだれよりも

願っていて、盾のようにその当人を守ってくれるのだ。

 

生きることは、悪だ。

悪の要素が希薄になりすぎると、死の危険がせまる。

悪が、じつは自分を守ろうとしてくれるのだ。