男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

「男 女性」表現の、なにが問題なのか。

ふつうに「男性 女性」、「男 女」と表現すればいいところ、

どういうわけか、

「男 女性」と表現する、奇怪なひとたちが存在する。

たとえば、

「男が素敵だとおもう女性の特徴」といった具合だ。

 

なぜ、こんな不自然な表現をするのだろう。

男性と女性、や、男と女、では、なにか不都合なことでもあるのだろうか。

 

女性に対して「女」というのは、なんだかキツイ感じがするよね、

なんていうひとがいるかもしれない。

であるならば、男性に対して「男」というのも、

キツイ感じがするのではないのだろうか。

女性は丁寧に持ち上げて扱わなければならないが、

男性は粗末にいい加減に扱っていい、と考えているのならば、

その考えこそ、矯正しなければいけない考え方だろう。

 

この社会には、男性も、女性もいる。

両性が、互いに互いのことを尊重しあう社会のあり方こそがのぞましい

社会のあり方なのであって、

いっぽうの性だけは大切に扱われるが、

他方の性はひどくぞんざいに扱われる、というのでは、

早晩、そのような社会には、

おおくの歪みや不公平、不公正、不満が、噴出してくることになるだろう。

 

男性は、交際したいなあ、と思う相手の女性の歓心を買うために、

その女性のことを丁寧にあつかうことがある。

あたかも、その相手の女性が、お姫様かなにかででもあるかのように。

しかし、この社会に存在する、不特定多数の男性と女性のあいだには、

かならずしも、そのような個別的な紐帯が存在するわけではない。

何らの関係ももたない、社会の不特定多数の男性と女性のあいだを規律

するルールが、かりに、

女性を男性はお姫様かなにかのように扱うべきだ、というものであるのならば、

それは異様なルールであるというべきだろう。

 

男性は男性として尊重され、大切に扱われるべきであるし、

女性は女性として尊重され、大切に扱われるべきなのである。

男性が、自分を犠牲にしてでも、ぼくは女性であるあなたのことを大切

にします、などというジェスチャーは、

特殊な個別的関係に入った男女間でのみ、やっていればいいことだ。

一般社会における不特定多数の男性と女性のあいだを規律するのは、

まずは、公平なルールであってしかるべきだろう。

 

社会で生きていき、働き、夫婦や家庭をつくって暮らしていくうえでは、

綺麗ごとばかりではすまないこともおおい。

どうしても、汚れ仕事というものがでてくる。

そういった汚れ仕事が出てきたさいには、社会においては、

誰かだけ、特定の性別の人間だけが、

その義務や責任を引き受け、負担するのではなくて、

みんなで、双方の性別の人間がともに、

そういった汚れ仕事を引き受けていくのが、

公平の観点からは、当然の帰結となる。

 

災害が起これば、男たちは、泥まみれになりながら、

土砂や木々を除去する作業に奮闘するかもしれない。

げんに、福島の原発作業員の大半は、男だ。

でも、そのいっぽうでは、女たちは、

湯気をふきあげるやかんを気にかけながら、

泣き叫ぶ赤ちゃんのことも気にかけなければならないかもしれないのである。

それが、汚れ仕事ということだ。

 

ところが最近は、家事や育児は女の仕事ではない、などという愚論が

跳梁跋扈する傾向がある。

家事や育児が女の仕事ではないのならば、

外で働いてかせいでくる仕事も、当然、男の仕事ではない、ということになる。

災害が発生して、女の力や技術ではのかせられないような土砂や木々が

道路にあふれたとしても、

それをのかせるのは、かならずしも男性の仕事ではない、ということになる。

 

女性だけを大切にし、持ち上げ、男性はぞんざいに扱ってもいいのだ、

とする考え方は、社会に無形の害悪を現実に及ぼしつつある。

その考え方のあらわれた典型的な表現が、

「男 女性」表現なのだ。

社会で生きていき、社会を築いていくためには、

解決しなければいけない課題がたくさんあって、

それを解決する義務や責任は、男性と女性が公平に、双方ともが

負担しなければならないものなのである。

いっぽうだけが汗水たらして奮闘して、それらの責任を引き受けるいっぽうで、

他方はお客様のように大切に扱われる、そんな社会は、

早晩、崩壊することになるだろう。

 

「男 女性」表現は、

汚れ仕事や義務、負担といったものは、「むくつけき者」である男に

やらせておけばいい、

女性は、それらの男性の負担のうえにあぐらをかいて、

大切に扱われ、楽しみを楽しめばいいのだ、

とする、極めて邪悪な考え方が、背景に見え隠れしている。