男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

行き過ぎた喫煙の制限には、反対だ。

小池東京都知事にひきいられた都民ファーストの会が、

あらたな公約として、

こどものいる家庭や車内での喫煙の制限を条例化する案を検討し始めた、

と報道されている。

 

行き過ぎではないだろうか。

飲食店での喫煙全面禁止にかんしては、自民党の議員が抵抗しているようだが、

これについても、自民党の議員のほうがただしい、と感じる。

 

自分は、喫煙しない。

しかし、世の中には喫煙するひとがいる。

喫煙する人の数はだんだんと減っているらしいが、

喫煙する人の数が少数であるからといって、その少数者をゼロにしようとしたり、

その少数者の権利を弾圧したりしてよいようなものではない。

 

自分とはことなる他者が存在することを認める、というのが、

理のありかただ。

理は、尊重される必要がある。

喫煙する人にとっては喫煙しない人が他者であり、

喫煙しない人にとっては喫煙する人が他者である。

喫煙する人、喫煙しない人、双方が存在する社会こそが、

求められる社会のありかただ。

一方だけが正しくて他方は間違っているから、

その他方はなくしてしまっていいんだ、というような考え方は、

理とは相いれない。

 

とはいうものの、受動喫煙の害は深刻だとされている。

喫煙しない人の、受動喫煙から守られるという権利は、当然、

確保されなければいけない。

しかし、忘れてはならないのは、

受動喫煙という大義名分をかかげさえすれば、喫煙者の喫煙する権利を

どこまでも侵害できる、ということには、ならない、ということだ。

 

喫煙しない人には、受動喫煙から守られるという、権利、自由がある。

他方で、喫煙する人には、喫煙する権利、自由がある。

たいせつなのは、他者に迷惑をかけない、ということだ。

そして、他者に迷惑をかけないのであれば、その範囲内において、

個人がどのような趣味、嗜好をもつかは、自由なことである。

 

であるならば、他者に迷惑をかけない、という点を追求しつつ、

喫煙する人、喫煙しない人、両者の利害を調整する道が、

模索されるべきだろう。

具体的には、飲食店であれば、喫煙コーナーを厳密に区分し、

アクリルのパーティションを設けるなどして副流煙がけっして

禁煙コーナーに流れこまないようにすれば、

喫煙者の喫煙する権利自由、喫煙しないひとの受動喫煙から守られる

権利自由は、ともに確保される。

喫煙できる時間帯、というのを設定してもいいだろう。

 

こどものいる家庭であれば、こどものいる家庭だから、ということで、

その室内という一定の空間を全面的に喫煙禁止にするのではなく、

こどものいる家庭においても、こどものいない時間というのは存在する

であろうから、

時間帯によって喫煙できる時間、喫煙できない時間というのを、

区分する道もあるはずなのである。

こどものいる家庭において喫煙を全面禁止するのは、一見したところ、

なにかとても素晴らしいもののようにきこえるかもしれないが、

たとえば、夫婦がともに喫煙者である場合、そのような条例が施行されるのならば、

それじゃあ子供をつくるのはやめておこうか、という動機をあたえるかもしれない。

また、結婚していない喫煙者の男性であれば、

そのように自由が制限されるのであれば、そもそも結婚はしないでおこうか、

という動機にもつながるかもしれないのである。

条例の効果というものを、近視眼的にみてはいけないだろう。

一見、関係がなさそうな遠くのところまで、じつは、見えないような隠れた

関係の線がおよんでいた、ということは、よくあることだ。

 

繰り返しになるが、たいせつなのは、

喫煙者の喫煙する権利自由、喫煙しない人の受動喫煙から守られる権利自由は、

それぞれが尊重に値し、それぞれが確保されなければいけない、ということ。

そのためには、他者に迷惑をかけてはいけない、ということを基本にしたうえで、

喫煙者の喫煙を制限するにしても、

より制限的ではない他の選びうる手段がないかどうか、

しっかりと検討する必要がある、ということだ。

 

自分とはことなる主義主張、考え方や行動をもつ人間は異常者だから、

そのような異常者は排除されてよい、という考え方こそが、

排除されるべき異常な考え方だろう。