つぎのような事例をかんがえてみよう。
AがBの頭をこづいた。
それに対して、BがAの頭をこづいた。
それに対して、AがBのほっぺたをひっぱたいた。
それに対して、BがAの顔を殴った。
それに対して、AがBの腹を殴った。
それに対して、BがAの腰を蹴った。
それに対して、AがBを持っていた筆箱で殴った。
それに対して、BがAに黒板消しをぶつけた。
それに対して、AがBを強く押した。
それに対して、BがAをちりとりでたたいた。
それに対して、AがBにラリアットをかました。
それに対して、BがAを押し倒した。
それに対して、AがBをナイフで脅した。
それに対して、BがAにフライパンで応戦した。
それに対して、AがBの腕にナイフを突き刺した。
それに対して、BがAの肩をハンマーでたたいた。
さて、悪いのは、Aだろうか。それとも、Bだろうか。
AとBは、互いにやりあっている。
応戦するごとに、だんだん、2人ともエスカレートしていってることもわかる。
でも、そもそもの発端にさかのぼれば、
AがBをこづきさえしなければ、
この一連の応酬は、すべて、ゼロだったのである。なにもなかったのである。
その意味で、応酬のはじまりをつくったAの責任は重大だ。
物事の判断をする際には、このように、
その根本原因にまで、時間経過をさかのぼる必要がある。
時間経過をさかのぼって、その、そもそもの根本原因をつきとめる。
それが、理のありかただ。
理のありかたは、アルファベットRに似ている。
Rを発音するときには、舌をぐぐーっと喉の奥のほうへそりかえらせる。
同様に、
理というものも、原因はなにか、原因はなにか、と、
原初へ回帰していく、頭脳のはたらきなのだ。