男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

「許」という漢字には、なぜ「午」がはいっているのか。

漢字の考察記事である。

ゆるす、というのは、漢字で書くと、許す、だが、

なぜ、許という漢字には、午がふくまれているのだろう。

その字源については、どうなっているのだろうか。

 

漢字学者の白川静は、この許という字は、神が許す、というところから

きているものだ、とする。

また、午というのは杵と共通しており、そこには、

お互いという要素がふくまれていて、

許し許されるという一連のプロセスをいうものではないか、

とする説もある。

 

しかし例によって自分は、そういった先達(せんだつ)の見解を

いっさい無視して、

独自説をたてようと思う。

 

唐突な話だが、西洋占星術では、ホロスコープというものをつくる。

ホロスコープとは、ある人がうまれたときの天球の星の配置を

しめした図で、1室から12室まで、円が12の部屋にわけられている。

その各室には、それぞれ、示している事柄があって、

たとえば3室であれば、そのひとの初等教育や近距離の旅行の状態を、

10室であれば、そのひとの職業や社会的地位の状態をしめす。

 

このホロスコープで1室は、自分自身をしめす。

その1室の真向かいにあるのが7室で、通常は結婚や結婚相手をあらわす。

 

しかし自分は考えた。

結婚相手というものは自分と対になるパートナー、ということだが、

本来この7室は、

自分自身という存在に対置されるような、「他者の存在」をしめす

室なのではなかろうか、と。

じぶんにとって、もっとも重要で親密な「他者」というのが、

通常は結婚相手であろうから、そういう事情で7室は、

結婚相手をさすようになったのではないだろうか、と。

 

そうであるとするならば、7番目の部屋である7室は、本来、

「他者の存在」をしめすところ、ということになる。

他者が他者として存在することを認められる、

それが、7番目の部屋にあらわれたことがら、ということだ。

 

さて、西洋占星術では、そのホロスコープにおいて、

1室から12室までわかれた。

また、牡羊座からうお座までの、12星座というものもある。

 

ひるがえって東洋においても、12にわけるものがある。

十二支だ。

ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い。

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。

この十二支の7番目に位置するのが、午だ。

西洋において、その西洋占星術でもちいるホロスコープにおいて、

7番目の部屋である7室のもつ本来的意義は、

「他者の存在」である、とのべた。

もしかしたら、東洋でも同様に、

十二支の7番目である「午」、そして、この「午」という漢字には、

「他者の存在」という意味合いが、かくれているのではないか。

 

そこで、この「午」という漢字について、これと似た漢字である

「牛」と比較しながら、考えてみる。

古代中国において、牛という生き物は、祭祀のための犠牲、

つまり、いけにえ、とされることがあった。

だれかがだれかを犠牲にする、というときの、この犠牲という言葉。

その「犠」という文字にも、「牲」という文字にも、

「牛」がかくれている。

また、この「牛」という漢字は、「生」という漢字の中にもある。

生きる、ということだ。

 

生きていれば、いろんなことをする。

読書もする。恋愛もする。ケンカもする。勉強もする。散歩もする。

でも、それらは、べつにしなくたって、生きていくことはできるものだ。

生きていくうえでひとは、いろんなことをするけれども、

なかには、べつにしなくたって生きていけるような事柄もおおい。

 

しかし、生きていくためには、絶対にしなければ生きてはいけない

ような事柄がある。

 

それは、食べること。

 

野菜を大地から引っこ抜く。果樹を枝からもぎとる。

魚を水から引き揚げて、その命を絶つ。

牛や豚や鶏の命を絶つ。

そうやって、他の生き物を、自分が生きるための犠牲として、

自分はそれらを食べて生きている。

 

生きていく上では避けては通れないこと、それは、

自分が生きるために他者を犠牲にする、ということ。

この他者を犠牲にする、という性質が、「生」のなかには

濃厚にふくまれているために、

犠牲の「犠」の文字にも「牲」の文字にも含まれていた「牛」

という文字が、「生」という文字のなかにかくれているのではないか。

 

つまり、こういうことである。

「牛」という文字と、「午」という文字は、よく似ている。

でも、すこしちがう。

「牛」の文字は、上がつきでている。

「午」の文字は、上がつきでていない。

上がつきでている「牛」の文字は、自己のために他者を犠牲にする、

という意味合いがかくれているのに対して、

上がつきでていない「午」の文字は、自己のために他者を犠牲にする

ことなく、他者の存在を存在として認める、

という意味合いがかくれているのではないか。

 

ここから、「許」の文字について考えてみる。

許、という文字の左側は、ごんべんだ。

ごんべんは、言という文字がもとになったものだから、通常は、

言う、話す、しゃべる、といったこととかかわる。

しかし自分は、ごんべんというのは、

「自己の見解を対外的に表現、表明する」という意味をもつ部分だと

思う。

とするならば、

ごんべんに「午」をあわせた「許」という文字は、

「あなたという他者の存在を存在として認めますよ、という

 自己の見解を対外的に表明する」

というのが、原義になっているのではないか。

もし、あなたを許さない、となれば、許せないような存在である

相手なんか、滅んでしまえ、消え去ってしまえ、ということにも

なるだろう。

そのこととの対比で考えれば、許すということ、

そして「許」という漢字の背景は、

上に述べたような感じになるのではないだろうか。