男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

伝統的なお葬式のかたちに、こだわる必要はない

流通大手のイオンをはじめとして、さまざまな企業が、

火葬式、家族葬などの、あたらしいタイプのお葬式をパッケージ販売

するようになってきた。

それに対して、全日本仏教会などの仏教諸団体は、

国民の宗教性をそこない、葬送儀礼を商品化するものであるとして

反発している。

 

あたらしいタイプのお葬式が提唱されるようになってきた背景には

いろいろなものがあるだろうが、

そういったタイプのお葬式をあたまから否定する必要はなく、

伝統的なお葬式のかたちに必ずしもこだわる必要はない、と思う。

 

われわれが葬送儀礼仏教の考え方を取り入れるのは、

死後の世界という不可知な世界を洞察した、お釈迦様の悟りに尊敬の

念をいだくからである。

であるならば、そういった悟りとは関係がないならば、

現在の仏教や葬送儀礼を主宰する寺社、僧侶に対して尊敬の念をいだく

理由がない。

僧侶は、仏教系の大学にいって経典をならったり、寺社において一定の

「修行」をしたりするかもしれないが、そういったことでお釈迦様の

到達したような悟りの境地に達する保証はない。

そうはいうものの、僧侶は厳しい修行などによって人格的に陶冶され、

道徳的にもすぐれているのだ、と反論されるかもしれないが、であるならば、

人格的、道徳的にすぐれた親戚のおじさんが葬送儀礼を主宰してもいいわけで、

僧侶が仏教の形式にのっとって、袈裟をきて経典をよみ、戒名をつける、

などということは一切無意味になる。

 

まとめると、つぎのようになる。

①葬送儀礼仏教の考え方をとりいれるのは、悟りを重視するからだ

 →現在の僧侶が悟りに到達している保証はない

②悟りというようなたいそうなものは必要なく、僧侶が人格的、道徳的に

 すぐれているからだ

 →別に僧侶である必要はなく、仏教の形式にのっとる必要もない

 

国民の仏教離れ、寺社離れ、葬式離れなどということが言われて、

その原因として、僧侶や寺社の金儲け主義への堕落、なんでも金銭で考える

国民の思考のドライ化、といったことがいわれるが、根底には、

仏教と葬式のかかわりにおける、上で見たような矛盾があるのではないか。

つまり、仏教という形式にのっとることが必要だ、というのならば、

それは、仏教の大元である悟りを重視するからであろうが、現在の僧侶は、

たとえ仏教系の大学で経典を学んだところで悟りに到達できる保証はない

(たぶん、到達できないだろう)。

いっぽうで、いや、悟りなどというたいそうなものではなく、人格的に

すぐれた僧侶の道徳的なお話を聞くことが目的だ、というのであっても、

僧侶が人格的にすぐれている保証はないし、たんなる道徳を重視するのなら、

仏教の形式にのっとる必要はないのである。

 

いちばん大切なのは、心ではないだろうか。

故人を見送るひとの、故人をしのぶ心だ。

僧侶が経典を読み上げる葬式の会場で、遺産分割や香典返しのことに気をとられて

いたりするのなら、故人をしのぶ心などあるはずもなく、葬式などといっても

無意味なものになる。

そして、盛大な葬式をあげたからといって、立派な戒名をつけたからといって、

そこに心がこめられているかどうかとは関係がない。

免罪符という札を買えば罪が許されて天国へ行ける、というわけではないように、

葬式や戒名、お布施に積んだお金の多寡が、そこにこめられている故人への想い

の大小を左右するわけではないのだ。

われわれは、葬式や戒名に無用にお金をかけることからはなれて、

そのぶん、故人への想い、心を大切にするときに来ているのではないだろうか。