この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

フェーズの変更を好む、男性という生き物。

こんにちわ。天機です。

(約 2300字)

 

 

 

男性も女性も、好きなものはいろいろとあると思うのですが、

とくに、男性が好むもの、女性が好むもの、といった、

特徴的なものは、あるでしょうか?

 

 

 

天機は、その答えは、1つには、

少年漫画や青年漫画、あるいは、少女漫画といったものに、

あるのかもしれない、と思いました。

 

 

 

少年漫画、青年漫画で、

長らく支持されてきたテーマというのは、

「戦いと、女の子」

であろうと思うんですね。

 

 

 

少年漫画や青年漫画では、

主人公たちが、やたらと戦いますよね。

 

 

 

肉体的に戦い、仲間とともに敵を倒していく、

少年漫画的なものから、

ビジネスでの駆け引きといった「戦い」がテーマとなる

青年漫画的なものまで、

とにかくよく戦います。

 

 

 

それと、女の子ですね。

 

 

 

もちろん、恋愛的な要素もありますが、

少年漫画や青年漫画では、もっと単純に、

お色気要素としての「女の子」も、

たいていはふくまれています。

 

 

 

少女漫画ではどうかというと、

少女漫画の大半には、恋愛が描かれていることだろうと思います。

 

 

 

これらのことから考えると、ごくごく大雑把に言って、

男性というものは「戦いと女の子」を好み、

女性というものは「恋愛」を好むものだ、

と言えるかもしれません。

 

大雑把すぎて、違っているかもしれませんが。

 

 

 

さて、男性というものは、「戦い」と「女の子」を好む、

と言いましたが、

では、この両者に

「共通する要素」というのは、なにかあるのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、それは、

両者ともに、「フェーズの変更」というものをともなうものだ、

ということだと思うんです。

 

 

 

具体的にみていきましょう。

 

 

 

まず、戦いというものですが、戦いは、

戦う前と、戦ったあとで、

フェーズ(局面)が、根本的に変容してしまうのです。

 

 

 

たとえば、第二次世界大戦が発生する前には、

日本というのは、

天皇を元首にいただく帝政国家でした。

 

ところが、敗戦したために、幸か不幸か、

民主政国家の一員へと、国家体制が根本的に変わってしまったんですよね。

 

 

 

ここが、戦争の、貿易なんかの経済とはちがうところです。

 

 

 

貿易や経済交流ならば、

おたがいに交易をしている2つの国は、

たがいに国家体制が根本的に変わったりは、しません。

 

少しの変化はあるかもしれないけれど、

基本的には、そのままずーっと、いつまでも交易をつづけていくだけです。

 

 

 

でも、戦争はちがいます。

 

戦争は、フェーズの変更をかならずもたらします。

 

開戦前の戦争当事国は、終戦後は、

いっぽうは戦勝国に、もういっぽうは敗戦国になります。

 

 

 

これは、人類の歴史の古くから、ずーっとそうです。

 

そして、

戦勝国は敗戦国に対して、戦争前にはなかったような、

管理支配権をもつようになります。

 

これが、フェーズの変更ということです。

 

 

 

では、男性が好むもう1つのもの、「女の子」については、

どうでしょうか。

 

 

 

ここで注意したいのは、

「男性が好む」女の子という要素だということです。

 

これは、少女漫画におけるような、

「恋愛」には、かならずしも限定されない、ということなのです。

 

 

 

少年漫画や青年漫画を見ているとわかるのですが、

昔から、お色気要素というのは、

そういった雑誌の定番でした。

 

なにかというと、

脈絡なく、女の子のパンツが見えていたりするのが、

少年漫画や青年漫画なのです。

 

 

 

ということは、そういったものを好む男性という読者も、

やっぱり、

「女の子」について考えるときには、それは、

「エッチなこと」とは切り離せないで考えている、

ということになりそうです。

 

 

 

ところで、じゃあ「エッチなこと」ってなんなのか、

というと、

それは、生殖や性的なこととかかわるわけです。

 

 

 

そして、この「生殖や性的なこと」というのが、

じつは、

フェーズの変更と大きな関連があるのです。

 

 

 

人間のおおきな欲望には、食欲と性欲がありますが、

このうち、食欲については、

人間には、フェーズの変更をもたらすことがないように思われます。

 

 

 

人間は、野菜を食べたり、お肉を食べたりします。

 

ですから、

大地から引っこ抜かれる野菜とか、

殺される牛や豚とかからすれば、

自分自身が死に絶え、消えてしまうわけですから、

フェーズの変更はある、といえます。

 

 

 

しかし、食べる側の人間からすれば、

基本的には、

スーパーで買ってきた食材を調理し、お皿に盛り、

あとはそれを食べるだけ、ということで、

それを食べる前と食べたあとで、根本的な変容、つまり、

フェーズの変更が人間にあるか、といえば、

それはないわけです。

 

 

 

ところが、生殖や性的なことは、

これとは異なります。

 

 

 

セックスをすれば、避妊などをしなければ、

子供が生まれる可能性があります。

 

 

 

そして、子供というのは、

自分とは異なる、新しい世代の人間ということになります。

 

 

 

自分自身が生きている時代というのを、

1つの同一平面のように考えるならば、

子供が生まれ、育ち、生きていく時代というのは、

それとは異なる、あらたな平面上で形成されるものです。

 

 

 

つまり、

自分が生きているこの時代と、

自分の子孫が生きていくであろう将来の時代では、

フェーズ(局面)が異なっているわけです。

 

 

 

そんな子供たちを誕生させる可能性のある、

生殖やエッチなことというのは、それゆえに、

フェーズの変更をもたらすきっかけになるものだと、

天機は考えます。

 

 

 

以上、見てきたように、

男性というのは、大雑把に言って、

戦争や戦い、エッチなことや女の子を好むのですが、

戦いにも、エッチなことにも、

フェーズの変更が隠れています。

 

 

 

なので天機は、

男性というのは、

フェーズの変更が好きなんじゃないだろうか、

と思いました。

【紫微斗数】福徳宮化禄と福徳宮化忌ーその3。

こんにちわ。天機です。

(約 2700字)

 

 

 

このシリーズ、福徳宮化禄と福徳宮化忌、の記事も、

いよいよ3回目、最終回となりました。

 

※ この記事の前記事

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

そもそも、占いをやっているひとというのが限られているうえ、

紫微斗数というのは、

そのなかでもかなりマイナーな占いなので、

知っているひとは、少ないかもしれません。

 

 

 

今回の記事も、紫微斗数の基礎知識がないと、

なかなか厳しい内容かもしれません。

 

よくわからない方は、流し読みでもかまいませんし、

今回の記事そのものをスルーしてくださってもかまいません😢

 

 

 

では、いきましょう。

 

 

 

今回は、

 

①身宮や大限宮といったところから飛ばした化禄や化忌が

 福徳宮にはいった場合、どう見るのか

 

②夫妻宮や財帛宮といった、個別の事項を管轄する特定の宮から

 飛ばした化禄や化忌が福徳宮にはいった場合、どう見るのか

 

といったことを考えていきます。

 

 

 

ではまず、①から見ていきましょう。

 

 

 

簡略版の紫微斗数ではなく、

きちんと標準的な作盤手順を踏んでつくられた紫微斗数の命盤の場合、

身宮にしろ、

ある特定の時期をあらわす大限宮にしろ、

夫妻宮や財帛宮といった特定の宮にしろ、

みな、それぞれの宮位には、

十二支だけではなくて、十干が配されています。

 

 

 

化禄や化忌といった四化星は、

この、各宮位に配された十干をもとにして、

各宮へ飛んでいくのです。

 

 

 

では、身宮がある宮の、十干をもとにして飛ばした化禄が、

本命盤の福徳宮に入った場合、どのようなことが言えるでしょうか。

 

 

 

この場合は、こうです。

 

 

 

身宮というのは、人生後半をあらわします。

 

そして、福徳宮に化禄が入るということは、

苦しいことやいやなことが具体的な現象として発生するかわりに、

本人の運はたまる、ということを意味します。

 

 

 

つまり、

身宮のある宮の十干をもとにして飛ばした化禄が、

本命盤の福徳宮に入ったひとというのは、

人生後半において、

楽しいことがあまり起こらず、いやなことや苦しいことを経験する傾向があり、

いっぽうで、

そのことと引き換えに、運を蓄積する、

ということになります。

 

 

 

とすると、すでに予想のついた方もおられるかもしれませんが、

身宮からとばした化忌が本命盤の福徳宮に入った場合というのは、

ちょうど、これとは反対になるのですね。

 

 

 

つまり、

身宮から飛ばした化忌が本命盤の福徳宮に入ったひとというのは、

人生後半において、

楽しいことや嬉しいことが具体的な現象として発生する傾向があり、

いっぽうで、

それとは引き換えに、

人生前半で自分が蓄積したところの運を、消費していくことになるわけです。

 

 

 

大限宮から飛ばした化禄や化忌が、

本命盤の福徳宮に入った場合も考えていきましょう。

 

 

 

ある特定の大限宮から飛ばした化禄が、

本命盤の福徳宮に入る場合、

その大限がしめすような時期において、

いやなことや苦しいことが起こる傾向がある反面、

運を貯めることができる時期になりやすい、ということが言えます。

 

 

 

反対に、

ある特定の大限宮から飛ばした化忌が、

本命盤の福徳宮に入る場合、

その大限がしめすような時期において、

楽しいことや嬉しいことが起こりやすい反面、

自分の運はだんだんと減っていく時期になりやすい、ということが言えるのです。

 

 

 

このことが、紫微斗数の命盤を検討することで、あらかじめわかっていれば、

ああ、いまの大限では、

あまり楽しいことは期待できないから、

たとえば善行や奉仕をおこなうことなどで、

自分の運を蓄積することにしよう、とか、

ああ、いまの大限では、

楽しいことが起こりやすくなっているから、

ボランティアや寄付なんかをするのは一旦中止して、

自分が楽しむことにエネルギーを使おう、とか、

そういった「人生運営」が可能になるのです。

 

 

 

というのも、

紫微斗数にしめされた運勢の傾向というのは、

人生の大枠を決めるものですから、たとえば、

ある大限宮から飛ばした化禄が本命盤の福徳宮に入っているときに、

それを無視して、

自分はこの時期に楽しいことを追求するんだ、運を消費するんだ、

と意気込んだところで、

やっぱりそれは、うまくいかないだろうと思うんですよ。

 

 

 

ある大限宮から飛ばした化禄が本命盤の福徳宮に入る、ということは、

その大限のしめすような時期においては、

楽しいことは少し我慢して、自分の運を蓄積することに意を払いなさい、と、

紫微斗数の示す運勢から、いわば「指令」が来ているわけです。

 

 

 

その「指令」、つまり、運勢の流れや運勢の傾向に逆らうような行動を

自分の意志でとってみても、

やはり、流れに逆らうようなもので、うまくいかないと思います。

 

 

 

その意味で、紫微斗数において、

とくに、ある大限から飛ばした、どのような四化星が、

本命盤の福徳宮にはいるのかを、あらかじめ検討しておくことは、

その大限の示すような時期において、

どういった行動方針で臨めばいいかを、

前もって教えてくれるといえるでしょう。

 

 

 

では最後に、②の場合です。

 

 

 

夫妻宮や財帛宮といった、

特定の事項を管轄する個別の宮から飛ばした化禄や化忌が、

本命盤の福徳宮に入った場合にどうなるのかを、

簡単に見ておきましょう。

 

 

 

これについては、簡単にまとめると、つぎのように言えると思います。

 

 

 

特定の宮から飛ばした化禄が本命盤の福徳宮に入る場合、

その宮が管轄することに関していやなことが発生するかわりに、

そのことで、本人の運はたまる。

 

 

 

いっぽう、

特定の宮から飛ばした化忌が本命盤の福徳宮に入る場合、

その宮が管轄することに関して楽しいことが発生するかわりに、

そのことで、本人の運が減る。

 

 

 

たとえば。

 

 

 

兄弟宮から飛ばした化禄が本命盤の福徳宮に入る場合、

兄弟との間柄が険悪になったりして、

非常にいやな気分になる反面、

その、いやな気分になったということと引き換えに、

本人の運がたまる、ということになります。

 

 

 

この場合、

兄弟との関係を意識して疎遠にするようにすれば、

いやな気分になることは防げるのですが、

そうすると、

自分に運を運んできてくれるひとを、みずから排除することになるのです。

 

 

 

ここが運の不思議なところで、

不倶戴天の仇敵のように見える相手が、

じつは自分に運をもたらしてくれる相手であるかもしれない、

ということは、こういったところからわかるのです。

 

 

 

ほかに、たとえば。

 

 

 

財帛宮から飛ばした化忌が、本命盤の福徳宮に入る場合には、

なにかとお金をもらったり、給付金を受け取ったりと、

金銭的に得をすることになるのですが、その反面、

その、金銭的に理由なく得をした、ということと引き換えに、

本人の運が目減りすることになります。

 

 

 

だから、自分の運をたいせつに思うのならば、この人の場合、

あまり金銭的に得をしすぎないことが肝心になってきます。

【紫微斗数】福徳宮化禄と福徳宮化忌ーその2。

こんにちわ。天機です。

(約 2000字)

 

 

 

きょうは、だいぶ前に書いた、

紫微斗数における福徳宮化禄と福徳宮化忌についての

記事の、続編です。

 

※ だいぶ前に書いた記事

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

自分の生年月日時をもとにしてつくった紫微斗数の命盤において、

福徳宮に化禄がはいったひとと、

福徳宮に化忌がはいったひとでは、

どのようなちがった特徴があるのかについて、

ざっと整理してみましょう。

 

 

 

福徳宮に化禄がはいったひとというのは、

のんびりしていて、あくせくすることがありません。

むやみに成功を追い求めることもありませんから、

とくにその前半生はぱっとしないものになりがちですが、

その反面、運をしこたま貯めこむことになり、

そのために、人生の後半において、運勢が好転する傾向があります。

 

 

 

福徳宮に化忌がはいったひとというのは、

つねに眼前の成果や成功を追求していて、心に余裕がありません。

ひととの競争に打ち勝つことを重んじる、

自己中心的な価値観のなかで生きています。

それも一因となって、

特にその前半生において、なんらかの社会的な成功などを

手に入れる傾向があります。

しかしながら、自分がもともと持っていた運を、

そのように成功という具体的なかたちのあるものに変換してしまうため、

このひとは前半生をつうじて、運がだんだん減っていきます。

そのために、人生の中盤で、

これからいよいよ後半生を迎えようとするときに、

運が尽きてしまう可能性があります。

 

 

 

では、

このような違った特徴をそれぞれ持つ

福徳宮化禄のひとと、福徳宮化忌のひとは、

どのような点に注意して人生をおくっていくのがいいのでしょうか。

 

 

 

まず、福徳宮化禄の人です。

 

 

 

このひとは、のんびりしていて、あくせくすることなく、

趣味に生きたりしています。

 

他人を蹴落とすところがないのは、このひとの美質なのですが、

あまりにも競争心がなくて楽しいことを好むために、

このひとは、人生の前半において、

いわゆる「負け組」に転落してしまう可能性があります。

 

 

 

もちろん、このひとは、

人生の後半戦において運勢が好転するので、

そこから挽回することも十分に可能なのでしょうが、

あまりにもビハインドを負ってしまうと、

やはり、しんどいでしょう。

 

 

 

ですので、福徳宮化禄の人は、

意識して、他人との競争に打ち勝つのに役立つような、

スキルや能力を、

人生の前半の段階で、時間をさいて涵養するようにするといいでしょう。

 

 

 

たいそうなことをしようとしたり、大きすぎる目標をたてる必要はないのです。

 

なんとなくスマホのゲームをしたり、

テレビをぼんやり見たりする時間の一部をさいて、

副業をはじめてみたり、

外国語やプログラミングのスキルを独習してみることなどが

いいのではないでしょうか。

 

 

 

ではつぎに、福徳宮化忌のひとです。

 

 

 

このひとの一番の問題点は、

人生の後半において運が枯渇してしまう懸念があることで、

それというのも、

人生の前半において、成果をあげることばかりに汲々として、

他人を思いやったり、奉仕的な行動をとることで

手にすることができるところの、

運を手に入れることができないからです。

 

 

 

なので、このひとは意識して、

「運」というものを頭の片隅に置いておいたほうがいいと思います。

 

 

 

運をやしなうためには、どういったことをすればいいのか。

 

これについては、これといった正解があるわけではないと思いますが、

よく言われているのは、

他人のためになるようなことや、奉仕的な行動をとったりすれば、

それがめぐりめぐって、

自分の運になって還ってくる、ということです。

 

 

 

このひとは前半生において、

成果をあげることや成功をすることに重きを置きすぎて、

他人を思いやることを忘れ、結果として、運がだんだん悪くなるのです。

 

 

 

ですから、

自分が前半生において、

なんらかの成果をあげたり、成功をしたりしたときには、

その果実の一部を、

他人のために「おすそわけ」するようにすると、いいのではないでしょうか。

 

 

 

これも、なにもたいそうなことをする必要はないのです。

 

よく、ユダヤ人の教えとか、自己啓発分野で言われていることに、

「収入の十分の一を寄付しなさい。そうすれば、

 おおきな恵みになってかえってくるでしょう。」

というのがあります。

 

 

 

が、天機なんかは、

よほどの寄付マニアでもないかぎり、

そんなに寄付を多量にしたら、しんどいと思うんですよ。

 

 

 

ですから、

収入の1%とか、0.1%とかでもいいので、

たとえば寄付とかにまわすように、前半生において心がけていれば、

福徳宮化忌のひとも、

後半生になって、

まったくもって運が枯渇してしまって泣くことになる、

といった事態は、避けられるのではないでしょうか。

 

 

 

以上が、福徳宮に化禄があるひとと、福徳宮に化忌があるひとが、

それぞれ、心に留めておくといいことでした。

 

 

 

次回の記事では、

身宮や、ある大限宮から飛ばした化禄や化忌が福徳宮に入る場合、

あるいは、

財帛宮や夫妻宮といった特定の宮から飛ばした化禄や化忌が福徳宮に入る場合、

といったことについて考えていきたいと思います。

 

 

 

この記事の続編記事

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

 

 

〇〇離れ、の背景にあるもの。

こんにちわ。天機です。

(約 1500字)

 

 

 

最近、世の中では、〇〇離れということが、さかんに言われるようになっていて、

その数や種類も、だんだんと増えています。

 

 

 

恋愛離れ、結婚離れ、ゲーム離れ、漫画離れ、小説離れ、本離れ、

テレビ離れ、新聞離れ、旅行離れ、海外離れ、クルマ離れ、

活字離れ、部活離れ、スポーツ離れ、スキー離れ、

 

いろいろです。

 

 

 

こういった、〇〇離れが起きる背景には、

いろんなものがあると思います。

 

 

 

単純に、可処分所得が少なくなった。

 

ネットで楽しいことがいろいろできるようになって、

興味の大半がそっちに移ってしまった。

 

人々が疲れてしまって、

いろんな行動をする元気がなくなってしまった。

 

 

 

いろいろ原因はあるでしょう。

 

 

 

しかし天機は、こういった〇〇離れの背景に、

共通してある原因として、人々が、

 

 

 

楽しいことがある、という「プラス」と、

苦しいことがある、という「マイナス」を検討して、

プラスがある、というだけでは、

動かなくなってきた

 

 

 

ということがあるのかも、と思ったのです。

 

 

 

たとえば。

 

 

 

登山というのは、

登山をする人からすれば、

登ってる最中は苦しくても、山頂に到達して、

山頂からの景色をながめれば、疲れなんかいっぺんに吹き飛ぶんだ、

なんて言うかもしれません。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

 

 

登山というのは、その大半は、登っている時間が占めていて、

それはとても苦しい時間です。

 

もしかしたら、

その登っている時間の苦しみと、

山頂に到達したときの喜びを比較した場合、

後者の喜びでペイできないくらい、

前者の苦しみの度合いは、大きいかもしれないのです。

 

 

 

部活もそうです。

 

 

 

全国大会に出場することを目指すような、

たとえば、サッカー部なんかの場合、

普段の練習とかは、

非常にハードなものになることが予想されます。

 

 

 

そういうときによく言われるのは、

辛く苦しい練習があったとしても、

大会で結果をだせれば、

そんな苦しさはいっぺんに吹き飛ぶんだ、といったことでしょう。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

 

 

普段の練習の時間というのがすごい長いのに比較して、

本番の試合なんて、ほんの一瞬みたいなもんです。

 

 

 

もしかしたら、

普段の練習の時間の長い苦しみというのは、

本番の試合に勝った喜びではペイできないくらいに、

はなはだしいものではないでしょうか。

 

 

 

よく、学校の運動部では、

いじめの問題がおこったりするのですが、あれなんかも、もしかしたら、

普段の練習が異常につらすぎるから起こっているのかもしれません。

 

 

 

それなのに、さも当然のように、

たとえ苦しくても頑張って結果をだすことは素晴らしいことなんだ、

と思考停止して、安直に結論をだしていいのでしょうか。

 

 

 

世間の〇〇離れと言われるものを見ていくと、

ほとんどが、

それをすることで得られる喜びの背後に、

たとえば、肉体的なしんどさだったり、手間暇だったり、

コストだったり、といった、

 

 

 

いやなこと

 

 

 

が隠れているんです。

 

 

 

これまでだったら、ひとびとは、

そうはいってもそれは楽しいものなんだ、

と、なんとなく思ってきたかもしれない。

 

そう思ったからこそ、それらをやってきたのかもしれない。

 

 

 

でも、最近になってひとびとは、

それをやることで味わう「いやなこと」は、

それをすることで得られる楽しみや喜びではペイできないんじゃないか、

と思い始めたんではないでしょうか。

 

 

 

それは、どういうことを意味しているかというと、

ひとびとが、

楽しみや喜びといった「プラス」よりも、

苦しみやいやなことといった「マイナス」に、

より敏感になってきた、ということだろうと思います。

マを含む漢字について。

こんにちわ。天機です。

(約 2300字)

 

 

 

今回は、漢字のお話です。

 

カタカナの「マ」みたいなものを、その構成部分にもつ漢字に、

共通してみられる性質について、

天機が考えた独自説をのべてみたいと思います。

 

 

 

さて、漢字の中には、

カタカナの「マ」のようなものを含むものがあるのですが、

天機は、それらの漢字は共通して、

 

 

 

未来を見すえている

 

 

 

のではないか、と思いました。

 

 

 

未来を見すえる、というところから、

 

①未来をみすえて準備をする

②未来が想定されているので、

いまは途中経過にすぎない

 

といった意味がでてくるように思うのです。

 

 

 

具体例で見ていきましょう。

 

 

 

まずは、①の法則にあてはまる漢字からです。

 

 

 

 

これは、あらかじめ、ということです。

予習、予算、といった熟語のなかにふくまれる漢字ですが、

こういった熟語には、

未来に備えて準備をする、といった意味がふくまれています。

 

 

 

 

勇気をふりしぼらなければならない場面とは、どういう場面であるか、

というと、

これから先の将来において、

自分の力を上回るような、強力な「敵」と対峙しなければならないような、

そんな場面だと思います。

未来における敵との対峙が見すえられていて、

それに備えて、自分の気持ちを奮い立たせているわけです。

 

 

 

 

この漢字には、いろんな書体がありますが、

マをふくむような書き方があります。

 

この漢字は、一見、未来を見すえることとは関係がないように見えますが、

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

という記事で書いたように、この、「今」という漢字に似た

「令」という漢字には、

まだ知られていないという意味での未来に対峙して、

それを、すでに知ったという意味での過去へと変換していく、

ちょうどそのあいだの分岐点のような、

「知る」ということにかかわる意味があります。

 

 

 

ではつぎに、

②の法則にあてはまる漢字について、見ていきましょう。

 

 

 

 

さなぎというのは、将来、たとえば成虫のちょうちょなどに

なることを見すえて、

幼虫などから変化していく、ちょうどその途中経過にある、

ということです。

 

 

 

 

とおる、というのは、単に「行く」とか「動く」とか

いった言葉とはちがって、

通過する場所、通過点というのがあって、

今現在は、その通過点を通過する最中にすぎず、

通過が終われば、その動作も終わるという意味で、

途中経過、変化するプロセスの最中であることをしめすものです。

 

 

 

 

痛い、というのが途中経過と関係しているのは、

変な感じがします。

 

でもみなさんは、胃痛、頭痛などがあったときに、どうしますか?

 

たいていは、その痛みがひどいものならば、

がまんせずに服薬して、痛みを除去するだろうと思うのです。

 

このことは、末期がんなどの、はなはだしい痛みの場合には、

よりよく妥当することで、

モルヒネなどを使用して痛みを緩和することも、

おこなわれているわけですね。

 

つまり、痛みという生理現象は、

そのまま我慢し続ける、継続してその状態を保つ、

ということが、むずかしいものなのです。

 

痛みというのは、その痛みが除去されたり、緩和されたりすることが、

常に想定されており、

その意味で、一時的な状態である、ということが言えるかもしれません。

 

 

 

桶、樋

 

この漢字は、おけ、と読みましょうか、

それとも、とい、と読みましょうか。

 

いずれの読み方をしてもいいのですが、いずれの読み方でも、

一時的であるということ、と、関わりがあります。

 

桶、というのは、たとえば、花瓶とか、器とか、

そういったものとは、ちがうのです。

 

風呂桶なら、湯が張られているのは、一時的なことですし、

すし飯を入れた桶でも、そのすし飯が入っているのは、一時的なことです。

 

また、屋根には樋が走っていることがありますが、

その中を雨水が通過するのは一時的なものであって、

常時、雨水をたたえている、といったわけではないですね。

 

 

 

 

おどる、ということには、いろんな踊りがあると思います。

 

日本の踊りから、外国のおどり、

そして、昔の踊りから、最近のダンスまで、いろいろです。

 

しかし、そういった踊りに、みな共通することとしては、

手足の角度や方向をつぎつぎに変えていって、

一定していない、ということがあると思います。

 

踊りですから、

いまのある時点で、たとえば、手や足が、

ある方向にある角度でもって向いていたとしても、

次の瞬間には、またすばやく変化していくわけです。

 

踊りというのは、そういった動作の変化が連続することで成り立っており、

その意味で、

ある身体の状態に安住してはいないことから、

やはり、途中経過であったり、一時的であることと関連をもちます。

 

 

 

 

これは、暗誦、といった熟語の中にでてきますが、

そらんずる、ということです。

 

つまり、あらかじめ決められた読み上げ内容があって、

それを記憶を頼りにしながら再現する、ということなのですが、

あらかじめ内容が決まっていることを再現していくのは、

行ってみれば、

1本の決まった通路を通過するようなもので、

「通」との類似性をみることができます。

 

 

 

以上のようなことから、

「マ」をふくむ漢字には、未来を見すえている、

ということとの関連があって、

そこから派生的に、

 

①未来を見すえていて、いまはその準備をする

②未来が想定されているので、いまは、

一時的な途中経過にすぎない

 

といった意味がでてくるように、

天機は考えました。

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。

 

 

 

漢字の不思議についての、その他の記事は、こちらから

 

reasongomainstream.hatenablog.com

過去、現在、未来と、「知る」という認識作用。

こんにちわ。天機です。

(約1400字)

 

 

 

令和という新時代がはじまって、もうじき1か月になりますね。

 

 

 

最初、この元号に決まった時、

人々の間には、新鮮な感じ、意外な感じがあったかもしれません。

 

 

 

令和の「令」の字は、これまで元号には使われたことのなかった漢字です。

 

また、国語学者によれば、この文字には、

「神様のお告げ」という意味もあるそうです。

 

 

 

さて、そんな「令」の字なのですが、

この字は、よくよく見てみると、なんだか「今」っていう字に似てるなあ。

 

 

 

天機は、そんな感慨をなんとなく持ちました。

 

 

 

天機は、そこからさらに、考えを広げていきました。

 

 

 

「今」というのは、現在ということです。

 

過去、現在、未来、と、時の流れがある中での、

ちょうど真ん中の現在、それが「今」です。

 

 

 

いっぽうで、「令」の字についても、考えてみました。

 

 

 

この「令」の字に、「頁」をつけると、「領」になります。

 

そして、この「領」の字は、古文単語では、

「領る(しる)」という言葉をつくるのですね。

 

 

 

天機は高校時代に、授業で古文を習いました。

 

そのなかで、いろんな古文単語もおぼえました。

 

 

 

そんな古文単語の中に、「しる」という古文単語があります。

 

 

 

この、「しる」。

 

 

 

現代日本語では、ふつうは、「知る」と書かれて、

知る、認識する、

といった意味しかないのが普通です。

 

 

 

ところが日本の古文単語においては、ちがうのです。

 

 

 

古文単語においては、「しる」は、「知る」または「領る」と書き、

 

①知る、認識する

②治める、領有する

 

という2つの意味があるのです。

 

 

 

つまり、日本の漢字においては、

「今」という漢字と「令」という漢字は似ているのですが、

令から領という漢字ができ、

その領という漢字は「領る(しる)」という古語との関連があり、

その領るという古語には、

治める、領有する、という意味のほかに、

知る、認識する、という意味があるのです。

 

 

 

天機は、この一連の流れを見てくるなかで、

「今」という漢字のあらわす「現在」というものと、

「令」という漢字にひもづけられた「知る」ということは、

関連があるのではないか、

と思ったんですね。

 

 

 

おもしろいことに、じつは、

この関連は、

英単語においても、あらわれるんです。

 

 

 

英語で「今」は、「NOW」です。

 

そして英語で「知る」は「KNOW」なんです。

 

 

 

どうですか?

 

「知る」という意味の英単語の「KNOW」のなかには、

「今」という意味の英単語の「NOW」がかくれているでしょう?

 

 

 

天機は思いました。

 

 

 

洋の東西において、共通して、

「今」というものと「知る」というもののあいだに関係があるのは、

なんらかの、この世界の秘密のようなものが、

そこに隠れているからなんじゃないだろうか?と。

 

 

 

天機は、そこから、

「知る」ということと、「今」ということについて、

考えてみました。

 

 

 

ふつう、人間は、

未来について「知る」ことはできません。

 

対して、過去については「知った」「知っている」ものとなります。

 

 

 

あたりまえのことですね。

 

未来だから、知ることはできない。

 

過去だから、すでに知っている。

 

当然のことです。

 

 

 

でも天機は、この順序を、逆転させて考えてみました。

 

 

 

もしかしたら、

未来、現在、過去、という、時間経過をうみだしている

その根本の原因が、

じつは、

「知る」という認識作用なんじゃないか。

 

 

 

つまり、

「知る」という認識作用があるために、

この世界に、時間経過というものが発生してるんじゃないかな。

 

 

 

そんなことを、天機は考えていました。

【令和新時代】元号が変わると、運勢も変わる。

こんにちわ。天機です。

(約2300字)

 

 

 

前回の記事から、およそ1か月がたちました。

 

ひさしぶりの更新になります。

 

 

 

さて、ことしの5月1日に、令和の新時代がはじまって、

もうすぐ1か月になろうとしています。

 

なんらかの変化を感じているひとも、そうでないひともいることでしょう。

 

 

 

今回の記事は、おもに、

西洋占星術について少し知っているひとをターゲットに書いています。

 

 

 

さて、天機は、

ある時代にはある時代をつかさどるような、1つの運気というものがあって、

それは、個々人の運勢にも影響してくるものだ、

というような考え方を持っています。

 

 

 

つまり、昭和には昭和をつかさどる1つの運気があり、

平成には平成をつかさどる1つの運気があり、

今回の令和にもまた、令和をつかさどる1つの運気があって、

それらは、個人個人の運勢にも影響してくる、と考えているのです。

 

 

 

なので、

たとえば平成から令和へと時代が変化すると、

個々人の運勢もまた、変化してくる、というふうに考えているわけです。

 

 

 

さて、日本には元号というものがあって、

1つの元号がだいたい、1つの時代をかたちづくっているわけです。

 

 

 

ここで、ある時代の運気のようなものを読み解く1つの方法として、

西洋占星術では、

その改元がおこなわれたときの年月日と時間、そして、場所、

それらを用いてホロスコープを出してみる、

という方法が、たしかに1つあります。

 

 

 

つまり、1つの元号がスタートした時点でのホロスコープを、

いわば、その時代の「始源図」とみるわけですね。

 

 

 

ただ、元号ってなんだろう?

というふうに、その根本のところにさかのぼって考えてみると、

元号というのは、

1つの元号は1人の天皇陛下の在位とともにあるわけです。

 

 

 

ここから考えて、ある1つの時代の運気のようなものを読み解く

もう1つの方法として、

西洋占星術で、

その1つの元号に紐づけられているところの、

1人の天皇陛下御自身のホロスコープを出してみる、

という方法が、もう1つの方法として考えられるわけです。

 

 

 

1つの時代というのを、1つの元号がかたちづくっているわけですが、

そもそも元号というものは、

天皇陛下の存在と切っても切り離せないわけですから、

ある時代を統括する1人の天皇陛下御自身の運勢が、

その時代にある程度反映されるのだ、と考えるわけです。

 

 

 

そうすると、じゃあ、個人個人の運勢は、

その時代の運気との関連では、いったいどうなるのか?

というと、

これは実は単純な話で、

 

その時代の天皇陛下ホロスコープと、

自分のホロスコープを見比べて、

相性を判断すればいい

 

と、こういうことになるわけです。

 

 

 

非常に簡単な話です。

 

 

 

西洋占星術では、相性診断というものができます。

 

たとえば、2人の結婚がうまくいくのかどうか、

といったことを知りたいときとかに、

夫となる男性のホロスコープと、妻となる女性のホロスコープをだして、

2つのホロスコープを見比べて、

おたがいの星の位置関係などを見ながら、

相性を判断していくわけです。

 

 

 

この相性診断のやりかたを、

自分自身のホロスコープと、天皇陛下ホロスコープとに適用して考えてみると、

自分と天皇陛下の相性を判断することができるわけです。

 

 

 

もっとも、通常は、

自分と天皇陛下には、特段なんの関係もないのが通常の一般人の大半でしょうから、

相性診断には、あまり意味がないのです。

 

 

 

が、

天皇陛下というのは、1つの元号が管轄しているところの、

1つの時代をつかさどっている極めて特殊な人間なので、

自分のホロスコープ天皇陛下ホロスコープを照らし合わせて見ることは、

 

その時代が自分にとって

幸運な時代になるのかどうか

 

を判断するうえで、重要な意味を持ってくることになるのです。

 

 

 

具体的に考えてみましょうか。

 

 

 

さきの天皇陛下明仁さまの出生時間は、

1933年12月23日午前6時39分 東京生まれ

です。

 

この出生時間で出したさきの天皇陛下ホロスコープがしめす運気は、

平成という時代の運気をもかたちづくることになるわけです。

 

 

 

たとえば、このホロスコープでは、

水瓶座13度付近に土星があります。

 

土星というのは代表的な凶星の1つですから、たとえば、

水瓶座13度付近に、太陽、月、ASC、MC、といった、

いわゆるライツとよばれるような重要な感受点をもっているひとなどは、

平成という時代は、厳しい時代になった可能性があります。

 

 

 

いっぽう、今回あたらしく天皇になられた新天皇徳仁さまの出生時間は、

1960年2月23日午後4時15分 東京生まれ

です。

 

この出生時間で出した新天皇陛下ホロスコープがしめす運気は、

令和という新時代の運気をもかたちづくることになるわけです。

 

 

 

たとえば、このホロスコープでは、

土星の位置は、今度は、やぎ座15度付近になりました。

 

ということなので、今度は、

やぎ座15度付近に重要な感受点を持っているようなひとにとっては、

令和という新時代は厳しい時代になるのではないか、

と予測できるわけです。

 

 

 

もちろん、これらお二人の新旧両天皇陛下ホロスコープには、

凶星だけでなく、木星といった吉星もあるでしょう。

 

また、複数の星で構成される特殊アスペクトもあることでしょう。

 

 

 

そういった、さまざまな要素を考慮しながら、

これらお二人の新旧両天皇陛下ホロスコープをだして、

それから、自分個人のホロスコープをもだし、

それらを見比べて検討してみれば、

今回、平成から令和へと時代がかわったことは、はたして、

自分個人にとっては、ラッキーイベントになりうるのか、そうでないのか、

といったことが、ある程度、予測できるかもしれません。

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。