この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

咳という漢字の字源と、亥と、垓下と、四面楚歌。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

今日はひさしぶりに、漢字についての分析記事を書いてみようと思います。

(約8200字)

 

 

 

今回分析するのは、

 

 

という漢字です。

 

 

 

咳という漢字は、口に亥と書いてできます。

 

なぜ、口に亥と書くと、咳になるのでしょうか。

 

咳という漢字に亥がふくまれているのは、なぜなんでしょうか?

 

 

 

まずはネットで、咳という漢字の字源について、

一般的な説を調べてみましょう。

 

 

 

ウィクショナリーという漢字についてのサイトでは、

こう書いてあります。

 

つまり、

亥という漢字の部分は、豚の骨組みをあらわしており、

豚が病んで痩せて、咳を出している様子をあらわしているのだ、と。

 

 

 

また、知恵袋など、そのほかのサイトでは、

つぎのような分析をしているひともいました。

 

つまり、亥という部分は音(おん)を借りてきた部分で、

つまりは、咳をした時のゴホン!という音をあらわしているのが

亥という漢字なのだと。

 

 

 

天機は例によって、

一般的な漢字学説をことごとく無視して、独自説をたててみたいと思います。

 

 

 

天機が注目したのは、

咳という漢字のなかに含まれている亥という文字は、

十二支の1つだということです。

 

 

 

十二支を順にならべてみると、

 

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、

 

で、十二支の12番目に来るのが、亥なんですね。

 

 

 

ここから天機は、次のようなへんなことを考えました。

 

 

 

つまり、

 

咳という漢字の中に亥がふくまれているのは、

咳という生理現象と、

亥があらわす十二支の第12原理とのあいだに、

なんらかの関連があるからなのではないか?

 

なんてことを考えたのですね。

 

 

 

では、この自分の考えを説明していくために、

まずは、咳という生理現象について考えてみましょう。

 

 

 

咳って、どういうときにでるでしょうか。

 

 

 

思いつくのは、風邪をひいたり、なんらかの肺の病気にかかったりしたときには、

咳がでるでしょう。

 

また、食べ物や飲み物がむせたりしたときにも、

ゴホゴホと、咳が出てしまうものだと思います。

 

 

 

これらのことの背景に共通してあるのは、おそらく、

 

異物が肺に入ろうとしたときに、それを防ぐため咳が出る

 

ということだろうと思うのですね。

 

 

 

でも、このことを、もっと深く考えてみたいと、

天機は思うんです。

 

 

 

この、咳によって、肺に入ろうとすることを防ぐところの、

 

異物の大きさ

 

って、どれくらいのものだと、みなさんは思いますか?

 

 

 

ジャガイモくらい?

サイコロステーキくらい?

お刺身くらい?

わらびもちくらい?

お豆さんくらい?

ラムネくらい?

ごまくらい?

砂糖の粒くらい?

 

 

 

すこし、言葉をかえてみましょうか。

 

 

 

咳というのは、わらびもちくらいの異物が肺に入ろうとしただけでは出なくて、

異物がサイコロステーキくらいの大きさになって、はじめて出る、

そういったものなのですかね?

 

 

 

あるいは、咳というのは、

異物が砂糖の粒くらいの大きさの時にはまだ出なくて、

お豆さんくらいの大きさの異物が肺に入ろうとした段になって

はじめて出る、

そういったものなのですかね?

 

 

 

…いずれもたぶん、違いますよね。

 

 

 

咳というのは、その異物がかなり微細なものであっても、

たとえば、ほんのわずかな食べ物のかすとか、ツバのかすかな一部とか、

蒸気みたいな水滴の一部であっても、

 

おおよそ空気でないものが、

本来、空気のみが通過することを許可されているところの

肺や気管に侵入しようとしたときには、

それがかなり微細なレベルにあって、

十分な大きさをそなえてはいなかったとしても、

咳でもってその侵入をはばむ

 

ものだろうと思うんですよね。

 

 

 

肺や気管というのは、おもに空気の通り道です。

 

その肺や気管に侵入しようとして、咳でもってその侵入をはばまれるのは、

おもに、たとえば水滴であったり、食べ物のカスであったりです。

 

 

 

ここで、

 

空気=実体のないもの

水滴や食べ物のカスなど=実体のあるもの

 

と、ものすごくザックリと2つにわけて対比してみると、

咳というのは、

 

実体のないものが存在すべき「場」が、

実体のあるものによって占有されようとしたときに、

逆方向へと爆発的にそれを押し返す

 

という性質をもつものであることがわかります。

 

 

 

そして咳というのは、先にみたように、

その異物がかなり微細なものであっても発生するのです。

 

というよりはむしろ、異物が微細な段階であるときに処理するからこそ、

咳というのは異物排除の用をなすのであって、

異物がある程度大きくなるまで咳が発生しないようなら、

異物排除の役には立たないような気もするんですよね。

 

 

 

ここで、この咳によって排除される異物が、

微細なものであっても排除されるというところから、

「微細」ということについて考えてみましょう。

 

 

 

数の世界において、数をどんどん、どんどん、小さくしていくと、

いずれは、0(ゼロ)になります。

 

そして、数の理論と数学においては、

限りなく、限りなく小さな「数」である

0.00000000000000…1のようなものは、

これを0(ゼロ)と同視します。

 

0.00000000000000…1を0と同視するということは、

数の理論と数学が成立するうえでの根幹、大前提になっているのです。

 

 

 

ただ、数の理論や数学の世界では、

そのように、0.000000000000…1を0と同視するのですが、

天機の考え方、および天機理論では、

そのようには考えません。

 

 

 

天機は、

なにかがどんどん、どんどん、小さくなって小さくなって、

限りなく小さくなっていくときには、

それが完全なゼロ、つまり、「無」になってしまう、

ちょうどその直前の段階に、

「無」とすごくよく似ているけれど「無」とはかすかに違い、

なにかがあるという状態がある、と考えていて、

その「無」の超直前の段階を「寸」と呼んで区別しています。

 

「闘」という漢字は、「門」のなかに「豆」と「寸」がはいってますよね?

「寸」はその「寸」です。

 

 

 

つまり、天機理論においては、

「寸」というのは、ひとつのごくごく微細な最小単位なのです。

 

 

 

この、天機理論において、

「無」という段階の超直前に「寸」という、微細な最小単位があるということ。

 

咳というのは、排除しようとする異物が微細なものであっても、

それを排除しようとする、ということ。

 

咳は、空気という、いわば「実体のないもの」が本来占めるべき「場」を、

水滴や食べ物のカスといった、いわば「実体のある」ものが占めようとしたときに、

それを逆方向へと爆発的に押し返す現象である、ということ。

 

そして、その咳という漢字のなかに、亥という文字が含まれているのは、

咳という生理現象と、十二支の第12原理である「亥」に、

なんらかの関連があるのではないか、ということ。

 

 

 

これらのことを総合して、自分は以下のように考えました。

 

 

 

十二支の第12番目の亥のあらわす原理というのは、

「寸」であらわされるような最小単位領域が、

実体のないなにかではなく、

実体のあるなにかによって占められようとした

まさにその瞬間に、

爆発的に逆方向へと押し返すことによって、

その、実体のあるなにかを排除しようとする原理、

その原理こそが十二支の第12原理である「亥」であって、

人間の咳の発生機序は、

この十二支の第12原理が、

人体における生理現象として具体化したものであるので、

咳という漢字には亥がふくまれる。

 

 

 

とまあ、こんなふうな非常に理屈っぽいことを考えたんですよね(๑◔‿◔๑)

 

 

 

なんで、十二支の第12番目の「亥」の原理というのは、

こんなふうになっているのか。

 

それを考えるには、十二支というものがそもそも、

どうしてできてきたのか、ということについて考える必要があります。

 

 

 

天機の考えでは、十二支というのは、

この世界がどのようにしてできてきたのか、また、

どのように変化していくのか、という、

生成、変化、流転の順序をあらわすものだと思っているんですね。

 

そして、十二支の第12番目である「亥」というのも、

この、世界生成の1つの段階をあらわしているのです。

 

 

 

天機は、こんなふうに想像してみました。

 

この世界のはじまりに、無だろうか、なんだろうか、

何かがありました。

 

それが、世界のはじまりとともに、

それがもともといた中心となるところから、周囲へとむかって、

ぱーーーっと、広がっていくんですね。

 

そして、それが限界まで広がっていったところで、

今度はそれが、もとの中心へ向かって帰ってきます。

 

 

 

どうたとえればいいですかね。

 

たとえば、ミカンの皮をむくときに似ているかもしれません。

 

ミカンをひっくりかえして、底の部分に指をつっこんで、

ミカンの皮をむきはじめますよね。

 

それが、世界のはじまりで、中心から周囲へ向かってわーーっと

向かっていくスタートのところです。

 

で、ミカンの皮を途中で切れたりせずにうまくむけたら、

底とは反対側のぽちっとしたところまでむけますよね?

 

その、ぽちっとしたところにたどりつくのが、

わーっと広がっていったものがもともとの中心へ帰ってきた、

というところです。

 

 

 

ミカンだったら、

スタート地点は底のところで、帰ってくるところはぽちっとしたところなので、

スタート地点≠ゴール地点ですね。

 

なので、たとえとしては、うまくなかったかもしれません。

 

 

 

むむむ。

 

 

 

天機が、十二支の第12原理である「亥」の原理を、

いちばんわかりやすく説明できると思うのは、

新世紀エヴァンゲリオン」というテレビアニメでの一場面かもしれません。

 

 

 

地上波テレビ放送で「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ本放送がはじまったのは、

たしか1995年のことで、

天機はまだ高校生でした。

 

テレビ版新世紀エヴァンゲリオンは、たぶん、全部で26話くらいあったと思う

のですが、そのなかに、

使徒、侵入」というのがあります。

 

 

 

マイクロサイズの使徒である第11使徒の「イロウル」が、

ネルフ本部のコンピュータ指令システムであるMAGIシステムに侵入するのです。

 

MAGIシステムは、

メルキオール、バルタザール、カスパーという3つの部分からなるのですが、

その第11使徒イロウル」によって、

メルキオール、バルタザールはすべて侵食されてしまい、

最後に残ったカスパーも、

そのなかの最小単位を残すだけになって、残りはすべて

イロウル」に制圧されてしまいます。

 

そして「イロウル」が、

MAGIシステムを完全に制圧しようとして、

最後に残ったカスパーの最小単位をやっつけようと攻撃すると、

そこの最小単位は、まるで戦っているかのように少し点滅した後、

なんと、

制圧しようとしていた攻撃側の使徒イロウル」が、

さーーーっと、MAGIシステムから一掃されてしまうのですね。

 

これはリツコ博士が逆ハッキングプログラムを送り込んだからなのですが、

あんまり、文字で説明してみても、

よくわかんないかもしれません。

 

どっかに転がってる動画を探してみてもらえれば、よくわかると思います。

 

 

 

これがたぶん、

十二支の第12原理である「亥」の原理を、

とてもよくあらわしている映像になるかと思うんです。

 

 

 

でも、いまここに、その映像はないので、

あくまで自分の言葉で説明すると。

 

 

 

世界のはじまりに、無かなにかがあって、

それが中心からぱーーーっと周囲へむかって広がっていく。

 

それが限界まで広がっていったら、今度は、もとの中心へ向かって

それが帰ってくる。

 

 

 

その、ぱーっと広がっていって、またもとへと帰ってくる「そいつ」

が動いた移動範囲には、

「色がぬられる」とかりに想像してください。

 

もとの中心からそいつが周囲へ向かってぱーっと広がっていくとき、

「色が塗られた」範囲、領域も、どんどん、大きくなっていきます。

 

そいつが限界まで遠く離れて、また、もとの中心へと向かって折り返すとき、

おおよそ、「世界」の半分くらいに色がぬられた状態でしょうか。

 

そいつが、もとの中心へむかってさーーと戻ってきて、

もとの中心へ近づけば近づくほど、

色をぬられた領域はどんどんと広がっていき、

色がまだぬられていない領域というのは、どんどんと小さくなっていきます。

 

 

 

その、色をぬられていない領域がどんどん、どんどん小さくなって、

ついに、「寸」くらいの大きさになって、

「そいつ」が、とうとうその最後に残った最小単位をも自分の「色」

でぬりつくそうとした、まさにその瞬間に、

その最小単位領域から爆発的に「逆進」が発生するのです。

 

 

 

最小単位をつぶそうとした瞬間に反撃を喰らう

 

ひと言で言うと、これが、

十二支の第12原理である「亥」のあらわす原理なのです。

 

 

 

天機が非常に理屈っぽい人間なので、

ながながと理屈っぽいお話に付き合わせてしまい、申し訳ありません。

 

ですが、このお話には、

あとすこし、続きがあるのですლ(╹◡╹ლ✿)

 

 

 

ところで皆さんは、

司馬遼太郎という小説家の書いた、「項羽と劉邦」という作品を

ご存知でしょうか?

 

 

 

いまから2200年ほど前、紀元前200年ごろの古代中国には、

国史上初めて全土にわたって、

中央集権制の官僚国家をうちたてた「秦」王朝というのがありました。

 

その秦が暴政をしいたため、

秦の始皇帝の死後、各地で燎原の火のように反乱がひろがり、

その反乱の中から、

項羽と劉邦という、2大英雄が現われて、覇を競うことになるのです。

 

 

 

先にあげた「項羽と劉邦」という司馬遼太郎の作品は、

この史実に取材したものですが、

もしかしたら、この作品のことは知らなくても、

項羽と劉邦のことは知っている方も、いらっしゃるかもしれませんね。

 

 

 

勇猛無比で向かうところ敵なしだった項羽に対して、

当初、劉邦軍は弱かったのです。

 

ですが、劉邦のもとには、きら星のように才能のある将領があつまり、

多士済済でした。

 

 

 

劉邦は、そんな有能の士のアドバイスをよく容れ、

智恵を使うことで項羽と戦い、だんだんと互角にもっていきます。

 

そしてついには、

広武山というところで1年にわたって両軍が対峙できるほどのところまで

もっていき、

項羽軍がやや衰微したところで、両軍は和約を結びます。

 

 

 

ところが、この和約を、劉邦軍が破って、

退却していく項羽軍の後背を襲うのです。

 

 

 

項羽は怒って野戦で劉邦軍を破り、劉邦は奔って固陵城に逃げ込みます。

 

固陵城はなんということもない平凡な城だったのですが、

項羽軍は補給の難もあってこのころには衰微しており、

攻城戦をやっている余裕がなく、

やがて項羽は、固陵城の囲みを解いて、撤退をはじめます。

 

 

 

このときになって、

劉邦の同盟軍であった韓信の軍30万や、彭越の軍、

周殷の軍などが、

劉邦の説得によって、項羽を討つべく、劉邦軍のもとに参集をはじめます。

 

弱者としての劉邦の戦略的な布石が、ようやく生き始めたのです。

 

 

 

項羽は本来なら、故郷の楚へ帰還して再起を図るべきだったのですが、

ここで項羽は、おかしな行動をとります。

 

「このあたりによい地形はないか?」と、

近侍の者に探索させて、発見した場所で項羽は、

なんと、野戦築城をはじめたのです。

 

その場所というのが、

 

垓下(がいか)

 

というところなのです。

 

 

 

天機という人間が、いったい、なんの話をしようとしているか、

想像はつきますか?

 

まあ、聞いてください。

 

 

 

垓下の地で野戦築城をした項羽は、

そこに急造した城に自分の軍を入れ、そこで籠城戦にはいります。

 

このころには、

劉邦の軍(漢軍といいます)のもとには、

韓信の軍や、彭越の軍、周殷の軍など、

各地の軍が集まりました。

 

その軍は日増しに増え、野に満ち、この大陸始まって以来の大軍になりました。

その大軍は、項羽の所在する城を、幾重にも厳重に包囲しました。

 

 

 

大軍に兵法なし、といいます。

劉邦は、ただ、攻撃命令を下すだけでよかったのです。

 

集結した劉邦軍は、項羽軍の城の城門めがけて殺到しました。

 

項羽軍はそれに対して逼塞してはいませんでした。

 

城門を八の字にひらいて、項羽軍(楚軍といいます)の兵は

逆襲にでました。

 

項羽軍の兵は城門からまっすぐに劉邦軍の中を突き進み、

劉邦のいる本営までもが動揺しましたが、

左右から劉邦軍の別動隊に包み込まれて殲滅されました。

 

夕方頃には、あたりを馳駆しているのは、

ほとんどが劉邦軍の兵ばかりになってしまったのです。

 

項羽は、いよいよ最後の時が来たようだ、と悟ったといいます。

 

 

 

ところが夜半になって、事態はまたおかしな方向へと動きます。

 

真夜中になったころでしょうか。

 

劉邦軍(漢軍)のほうからなんと、歌声が聞こえるのです。

 

それも、漢の歌ではなく、項羽の故郷である楚の歌でした。

 

しかも、四面ことごとく楚歌でした。

 

 

 

有名な

 

四面楚歌

 

です。

 

 

 

古来、この歌はだれが歌っていたのかとか、

だれが歌わせたのかとかについて、いろんな説があります。

 

項羽と劉邦」を書いた司馬遼太郎氏などは、

歌は漢軍中の楚の出身の者によって自然にわきおこったのだろう、

という見解をとっています。

 

そのいっぽうで、

漢軍の総司令官であり、背水の陣など、

奇策をもちいた韓信の指示によって歌は発生したのだ、

という説もあります。

 

 

 

いずれにせよ、

この漢軍陣営で発生した楚歌は、項羽の内心に影響します。

 

項羽は、ここでぽっきりと心が折れたのか、

籠城戦をかなぐりすてて、単騎、陣を抜け出して疾風のように遁走するのです。

後にしたがうのは、項羽軍の騎兵数百騎のみとなってしまいました。

 

 

 

驚いたのは劉邦です。

 

項羽が生きている限り、天下は定まらない。」と、

項羽の首に法外な懸賞金をかけるとともに、

5000騎という、この時代ではまれにみる規模の騎兵団を組織して、

項羽に対する特別捜索軍を編成して、項羽を追撃させるのです。

 

 

 

でも、ここで、天機は思ったんですよね。

 

なんか変じゃないかな?と。

 

 

 

劉邦が特別捜索軍まで編成して項羽のあとを追撃させたということからわかるのは、

劉邦にとって、

絶対に項羽を生かしておくわけにはいかない、ということです。

 

項羽が生きているということは、

劉邦にとって、めちゃくちゃまずいことなんです。

 

 

 

であるならば、考えてもみてください。

 

垓下で籠城戦にはいった項羽というのは、

まさに、籠の中の鳥、まな板の上の鯉じゃないですか?

 

どうしても項羽を仕留めたいのなら、

ここで徹底的に項羽の退路を絶って、厳重の上にも厳重に包囲をかさねて、

逃げ道を封じて、そのうえで一挙に総攻撃をかけて

項羽を殲滅してしまえばよかったんじゃないですか?

 

 

 

四面楚歌というのの発生については、その原因に関していろんな説がたしかに

ありますが、

もし、韓信の指揮下におこなわれた「作戦」であったとすると、

なぜ、項羽本人の遁走にもつながりかねないような、

そんな作戦を志向する必要があったんですかね?

 

なにより、

項羽が自身と、自身に従う数百騎のみなのに、

漢軍の重囲を突破して遁走に成功したというのも不自然です。

 

 

 

天機は、そこで思ったんです。

 

 

 

漢軍は、劉邦軍は、そして韓信は、

項羽を取り逃がしたんじゃ、ないのではないか?

 

総攻撃をかけなかったんじゃなくて、

 

下という場所で総攻撃をかけるわけには

いかなかったんじゃないか?

 

と思ったんです。

 

 

 

垓下。

 

 

項羽が起死回生の必殺の一撃を放とうとしたのか、

えらんだその垓下という地の、

垓の字のなかには、

 

 

がはいっていますよね。

 

 

 

十二支の第12原理の「亥」の原理のあらわすものを一言でいうと、

 

最小単位をつぶそうとした瞬間に反撃を喰らう

 

というものでした。

 

 

 

つまり、こういうことなんです。

 

亥という文字がふくまれた、この垓下という地、垓下という場所、

そのものに、

亥があらわす十二支の第12原理の性質が刻み込まれており、

追い詰められて追い詰められてついには「最小単位」にまでなってしまった

項羽は、

その垓下という土地の性質を知っていたからこそ、

この地で起死回生の反撃を目指そうとして野戦築城をしたかもしれず、

また、漢軍は漢軍で、同様にこの垓下という地のもつ

そのような影の意味を知っていたからこそ、

安易に最終攻撃をかけると最終攻撃をかけた側が逆襲されるという、

十二支の第12原理である「亥」の性質を警戒して、

あえて最終攻撃はかけずに、四面楚歌作戦を発動させたのではないですかね?

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。

 

 

 

 

 

 

男性と結婚離れ、について考える。

こんにちわ。天機です。

(約14000字)

 

 

 

きょうは、男性の結婚離れ、というテーマで、

すこし書いてみようと思います。

 

 

 

さて、日本では現在、

少子高齢化というのが非常に問題になっています。

 

 

 

人口減少のために労働力が不足し、

いろんな業界で人手不足が起きていますし、また、

地方からも人が減っていって、

シャッター商店街と言われるようなものも、珍しくはなくなっています。

 

 

 

この、人口減少の背景に、

少子高齢化がある、と考えられているのです。

 

 

 

この深刻な事態に対して、政府も手をこまぬいているわけではなく、

いくつかの対策を打ち出しています。

 

 

 

たとえば、幼児教育や高等教育の無償化、

といったことが、その対策の1つにあげられます。

 

 

 

つまり、

子育てにかかるようなコストを縮減することで、

結婚している夫婦が、

子供を持ち、子供を育てるうえでのハードルを下げて、

それで子供の数が増えることを期待しているのです。

 

 

 

ですが、天機は思うのです。

 

 

 

少子高齢化の原因になっているのは、

結婚している夫婦がなかなか子供をつくらない、

ということももちろんあるのでしょうが、それだけではなくて、

そもそもが、結婚の件数そのものがだんだんと減っている

ということにあるんじゃないだろうか、

と思ったのです。

 

 

 

おそらくは、

結婚した場合にある程度の子供をもうける、というのは、

そこまでの減少はないように思うのです。

これは、結婚した夫婦がどれくらいの子供をもうけるか、

ということのデータの、経年変化をみていけばわかると思います。

 

 

 

そうではなくて、ここ数十年で、

結婚する男女そのものが急速に減少している、ということこそが、

少子高齢化の問題に関してはボディーブローのように効いてきていて、

政府はそれゆえに、少子高齢化の問題に関して対策を講じるにあたっては、

結婚している男女がどうすれば子供をもうけたいと思うようになるか、

ということだけではなくて、

 

そもそもどうしたら、結婚したいと思うようになるか

 

という観点からの施策を講じることが、不可欠であるように

天機は思います。

 

 

 

90年代ごろまでは、

いわゆる生涯未婚率というのは、男女ともに数%ほどでしかありませんでした。

 

一生涯結婚しないような人というのは、

この社会においてはかなりの少数派だったわけです。

 

 

 

ところが、直近の2015年の国勢調査においては、

生涯未婚率が、男性は23%ほどに、女性は14%ほどになっていて、

いずれも大きく伸びています。

 

 

 

ところで、この日本社会においては、

国際結婚をするひともそれなりにはいるでしょうが、

全体からみると、かなりの少数派ではあるでしょう。

 

 

 

ということは、つまりは、

日本人の男性は日本人の女性と結婚することが一般的には多く、

日本人の女性は日本人の男性と結婚することが一般的には多い、

ということが言えそうです。

 

 

 

これがなにを意味するのか、というと、

男性にとっての女性、あるいは、女性にとっての男性、というように、

自分から見た場合の、結婚する際の相手方になる性の、

生涯未婚率がだんだんと上昇していけば、

だんだんと結婚の相手方候補者が少なくなっていくことになって、

結果、自分の側も結婚しにくくなってくる、ということなのです。

 

 

 

簡単に言うと、

男性の生涯未婚率が高まっていくと、

それに「引きずられる」かたちで女性の生涯未婚率が高まっていくし、

女性の生涯未婚率が高まっていくと、

それに「引きずられる」かたちで男性の生涯未婚率が高まっていく、

ということが考えられるわけです。

 

その意味で、

男性の生涯未婚率の上昇と、女性の生涯未婚率の上昇とは、

連動しており、不可分な関係にある、

とみることもできそうです。

 

 

 

では、そういったことを考えた場合に、

生涯未婚率の上昇を抑えて、

結婚したいという気持ちを喚起するためにどうしたらいいのか、

といえば、それは、

 

男性と女性、双方の要求をくみ取ること

 

だと、天機は思うのです。

 

 

 

先に見たように、

男性の生涯未婚率の上昇と、女性の生涯未婚率の上昇とは、

たがいに連動していて、深い関係があります。

 

 

 

このことは、どちらか一方だけの、

つまり、男性だけとか、女性だけとか、そういった観点からの

問題解決を目指しても、

あまり意味はない、ということを意味しています。

 

 

 

結婚なんかしたくない、と思うひとには、

そう思う、なんらかの理由があるはずです。

 

つまり、結婚した場合になんらかの不満や不信を抱えているわけです。

 

 

 

そして、この不満や不信といったものは、

結婚したくないと考える男性、結婚したくないと考える女性、

双方が持っているわけです。

 

 

 

ですから、この問題に取り組んで、

すこしでも結婚したいなあ、という気持ちになってもらううえでは、

男性の抱える不満や不信をとりのぞくような施策をするだけでは不十分であり、

また、

女性の抱える不満や不信をとりのぞくような施策をするだけでも不十分です。

 

 

 

男性も女性も、

それぞれが、たがいに相手に対して言いたい言い分を持っているでしょう。

 

 

 

ですから大切なのは、

どちらかだけの言い分を聞くことに傾斜するのではなくて、

その双方の言い分を公平に聞き、

双方の言い分をともに考えたような施策を、

政府が政策として決定していくことだろうと、

天機は考えます。

 

 

 

昨今、ちまたでは、

結婚したら嫌なことばかり、とか、

旦那に不満がある、嫁に不満がある、とかいった情報が、

テレビでも、新聞でも、ネットでも、

非常に目につくようになっているような気がします。

 

 

 

もちろん、

結婚してよかった、とかいった情報や、

結婚してしあわせに暮らしている夫婦の情報などもあるのでしょうが、

そういった結婚のプラス面よりかは、

結婚のマイナス面を強く意識させるような情報が、

あふれかえっているような気がするのです。

 

 

 

こういった情報ばかりに普段から接していれば、それは、

これから結婚しようかどうしようかと、

人生の選択の岐路に立っているようなひとからすれば、

結婚に二の足を踏むようになったとしても、

しかたのないことだとも思えます。

 

 

 

では、どうすればいいのか。

 

 

 

よく、頭痛薬のCMをみていると、

痛みのもとを絶ちつつ、痛みが伝わる回路を遮断する、とかいう、

いわゆる「ダブルブロック」の効能をうたっているような商品を

目にすることが、ときどきあります。

 

 

 

結婚についても、これと同じような作戦をとって、

若者たちに、

(実際には結婚には嫌な側面が多々あったとしても)

結婚にまつわるマイナス情報にできるだけ触れさせないようにして、

結婚のプラス面ばかりを喧伝する、

といった方策が考えられるかもしれません。

 

 

 

しかし、真実でないことで事実を糊塗していくのでは、

やはり、無理があるものだろうと思います。

 

 

 

実際には、結婚生活をおくるうえで、

嫌なことが頻発するようならば、いずれは、

結婚生活の先輩から結婚生活の後輩へと、

その情報は、漏れ伝わってしまうものでしょう。

 

 

 

ですから、たいせつなのは、

やはり第1には、

結婚生活において嫌なことが発生することが多いのならば、

その嫌なことが発生しないように、

その現実のほうを解決する手立てをとることです。

 

 

 

けっして、

嫌な事実が発生するのはそのままにしておいて、

そのマイナス情報が伝わることだけを遮断しよう、

とは、しないことです。

 

 

 

そのうえで、それでも、

実際の現実に輪をかけて、

結婚生活に対して過剰な警戒感を抱いてしまうとなると、

それはやはり問題ですから、

決して結婚生活を美化することはないようにしつつも、

結婚生活のいい面、悪い面を、

これから結婚生活に踏み出そうかどうしようかと考えている若い層に、

客観的に、公平に伝えていく努力をすることがたいせつでしょう。

 

 

 

まとめると、

若い層に結婚への積極的な気持ちを持ってもらうためには、

若い層が結婚をためらう原因となるような、

結婚生活において発生する嫌なことやマイナス面を、

現実的に減らしていくような解決策を模索することが1つと、

そういったマイナス面について取り扱った情報ばかりを流して、

若い層が結婚に対して過剰な警戒感を持たないようにすることが1つの、

あわせて2つが大切だと思います。

 

 

 

そして、そのことについては、

男性からみた視点と、女性からみた視点の、

双方が、双方ともに、大切であろうと思うのです。

 

 

 

男性が抱える妻への不満や、

男性が結婚生活において感じる嫌なこと、

こういったことだけを解決したとしても、

女性が抱える夫への不満や、

女性が結婚生活において感じる嫌なことを解決しないのであれば、

男性は結婚に向かおうという気持ちになるかもしれませんが、

女性は、やはり結婚なんかやめておこう、と思うかもしれないのです。

 

 

 

逆もまた然り、です。

 

女性が抱える夫への不満や、

女性が結婚生活において感じる嫌なこと、

こういったことだけを解決したとしても、

男性が抱える妻への不満や、

男性が結婚生活において感じる嫌なことを解決しないのであれば、

女性は結婚に向かおうという気持ちになるかもしれませんが、

男性は、やはり結婚なんかやめておこう、と思うかもしれないのです。

 

 

 

だからこそ、どちらかに偏ることなく、

双方とも、男女とも、が感じる不平や不満を、

公平に解決していくことこそが、たいせつなことなのです。

 

 

 

結婚生活をいとなんでいくうえでは、

夫が妻に対して言いたい言い分や不満もあれば、

妻が夫に対して言いたい言い分や不満もあるでしょう。

 

ときには、その両者の言い分や不満がおたがいに対立することで、

険悪な雰囲気になってしまうことも、あるかもしれません。

 

 

 

そんなとき、そういった険悪な状況を緩和する1つの方法は、

おたがいに譲り合う、

ということです。

 

 

 

ただし、ここで注意しなければいけないことがあります。

 

それは、

譲るということ、それ自体が大切であるということ以上に、

その譲りが、

 

お互いであるということ

 

が、非常に大切だということなのです。

 

 

 

つまり、どちらかがただ譲っていればいい、というわけではないのです。

 

夫が妻に譲ることもあれば、妻が夫に譲ることもある、といったように、

 

譲り合いが双方向を向いている

 

ということが、きわめて大切なことなのですね。

 

 

 

世の中には、サービス残業というものがあって、

ブラック企業なんかでは、

とりわけ問題になっていますよね。

 

あれなんかは、従業員側が経営者側に対して、

一種のサービスをしているわけです。

 

 

 

サービスをすること、譲ることが、

それだけで無条件にいいことならば、

そういった、ブラック企業におけるサービス残業のようなものも、

素晴らしい、ということになってしまいそうです。

 

 

 

ですが、それはやっぱり、おかしいことですよね。

 

そして、そこにおいて、なにがおかしいのか、というと、

 

従業員側は経営者側にサービスをするということ、

譲るということが求められているのに、

経営者側から従業員側へは、

なんらのサービスも譲りも、おこなわれてはいない、ということなんです。

 

 

 

譲り合いは素晴らしいものだ、とされて、

称賛されることは、よくあります。

 

ただ、そこで大切なのは、

 

「譲り」あい

 

である、ということだけではなくて、

 

譲り「あい」

 

である、ということなのです。

 

 

 

この、譲り合いが「双方向で」おこなわれている、ということ、

2本の矢印がたがいに反対方向を向いてそれぞれ成立している、ということ、

これこそが、まさにそこに、

 

 

が存在している、ということにほかなりません。

 

そして、この「理」を軽く考えたり、「理」をないがしろにしたりすると、

この世界では、

長期的なスパンにおいて、いろいろ不都合が生じてくるようになります。

 

 

 

夫婦間でなにか争い事や、不平不満があったときに、

アドバイザーのような人がやってきて、アドバイスするとしますよね。

 

そんなとき、

夫の側にも、妻の側にも、それぞれ言いたいことや不平不満があるのに、

アドバイザーが、

 

「それは奥さんが旦那さんに譲ることが大切ですよ。

 譲り合いが夫婦円満の秘訣ですよ?」

 

といったアドバイスをしたら、妻の側は、どう思いますかね?

 

 

 

一見、譲り合いをすすめているようにもとれるのですが、

じつは、奥さんが旦那さんに「一方的に」譲ることだけを、

このアドバイザーはすすめているわけです。

 

 

 

これでは、奥さんは、到底納得のいくものではないでしょう。

 

 

 

逆もまたしかりです。

 

 

 

夫婦間でなんらかのいざこざやトラブル、不和があるときに、

夫婦間の問題についてアドバイスをおこなう、

アドバイザーが来て、こんなアドバイスをしたら、どうですか?

 

 

 

「それは旦那さんが奥さんに譲るべきですよ。

 譲り合いというのが、夫婦円満の秘訣ですよ?」と。

 

 

 

たしかに、譲り合いは、夫婦円満の秘訣かもしれません。

 

しかしながら、このアドバイザーは、

夫婦がおたがいに譲り合うことではなく、

夫の側が妻の側に、一方的に譲ることだけをすすめているのです。

 

 

 

言いたいことや言い分、不平不満を持っているのは、

妻だけではなく、夫についても言えることなのです。

 

にもかかわらず、自分の側だけが譲ることを求められるのならば、

夫の側としては、到底納得のいくものではないでしょう。

 

 

 

譲り合い、というのは、

一見、素晴らしい言葉なので、

これに反対を唱えることは、なかなか難しいときがあるんですね。

 

それでも、この言葉を聞いて、

なんとなく腑に落ちないなあ、釈然としないなあ、

という思いを抱くことがあるとすれば、

じつはその原因は、

「譲り合い」と言っているのに、実際には、

「自分の側だけが一方的に譲ることを求められている」

ことにあるのかも、しれないのです。

 

 

 

夫婦間の問題に関して、

「アドバイザー」とやらの意見を聞くときには、

そのアドバイスが、

 

双方向の視点を持っていて公平なものであるのか

 

という点に、大きな注意をはらう必要があります。

 

 

 

そのアドバイスが公平なものでなければ、

かならず、その不公平さに不満をかかえる側がでます。

 

そして、その不公平感にともなう怒りを抱えた側が、

夫であっても、妻であっても、

結婚生活には暗い影が落ち、やがては、

結婚生活の最終的な破たんにつながる可能性も、ないとはいえないのです。

 

 

 

夫婦間で、すれ違いやいざこざが発生することに関して、

男女の脳の構造のちがいに、その原因をもとめる見解などを

目にすることがあります。

 

 

 

よくあるのは、

一般的に女性というのは、「共感」をたいせつにする脳構造を

しているために、

「論理」をたいせつにする男性の脳構造とは、

うまく合わないのだ、という意見です。

 

 

 

なるほど、一理ありそうな見解ですよね。

 

 

 

ところが、問題はそこから先の論理展開なんです。

 

 

 

この見解をとる論者というのは、往々にして、

 

女性というのは共感を大切にする生き物なのだ。

 

だから、男性が女性に合わせて、共感を大切にするべきだ

 

と結論づけるのです。

 

 

 

でも、これって、なんだかおかしくはないですか?

 

 

 

もう一度、議論の最初にもどって、考えてみましょう。

 

男性の脳構造は、「論理」を大切にするものなのです。

女性の脳構造は、「共感」を大切にするものなのです。

 

この段階では、

男女の脳構造には、それぞれ違いがあって、

それぞれ異なった特質があるのだなあ、ということが

わかるだけのことです。

 

けっして、

男性の脳構造は「論理」にすぐれているから

男性の脳構造は素晴らしいのだ、とか、

あるいは、

女性の脳構造は「共感」にすぐれているから

女性の脳構造は素晴らしいのだ、とかいったみたいに、

男女それぞれの脳構造に関して、

 

優劣を決定するようなものでは決してない

 

はずなんですよね。

 

 

 

であるならば、

男性の脳構造の優れている部分、女性の脳構造の優れている部分、

それぞれを生かしながら、

男女が互いを尊重して、おたがいに歩み寄れるような関係を

築いたほうが、よくはないですか?

 

つまり、

男性は「論理」に優れていて「共感」には弱いのだから、

自分に不足している「共感」の部分をできるだけ意識して使うようにして、

女性の考え方に寄り添っていく。

 

他方で、

女性は「共感」に優れていて「論理」には弱いのだから、

自分に不足している「論理」の部分をできるだけ意識して使うようにして、

男性の考え方に寄り添っていく。

 

そういったことが、大切なのではないでしょうか。

 

 

 

結婚生活というのは、2人で築いていくものであるはずです。

 

そこに必要なのは、

 

お互いがお互いに歩み寄る

 

という姿勢であるはずで、けっして、

 

一方だけが一方的に歩み寄る

 

ものでは、ないはずなんです。

 

その意味で、

 

女性は「共感」に優れていることから、

「共感」こそが唯一の素晴らしい脳の働きなのであって、

男性は当然、共感だけを目指して女性の側に一方的に歩み寄るべきだ、

と結論付けるのは、

非常に偏頗な考え方だと言わざるをえません。

 

 

 

婚姻というのは、両性の合意のみに基づいて成立するものです。

 

つまり、結婚する男女が、ともに結婚したい!となったときにだけ、

結婚は成立する、ということなのです。

 

 

 

考えてみれば、その確率は、かならずしも多いものではありません。

 

以下に場合分けをしてみましょう。

 

 

 

①男性は結婚したくない ✕ 女性は結婚したくない =結婚不成立

②男性は結婚したい ✕ 女性は結婚したくない =結婚不成立

③男性は結婚したくない ✕ 女性は結婚したい =結婚不成立

④男性は結婚したい ✕ 女性は結婚したい =結婚成立

 

 

 

明らかなように、結婚が成立するのは、

4パターン中1パターンのみです。

 

自然な流れで行くと、結婚不成立のほうが、

起こりやすい現実である、とさえ、見ることができるかもしれません。

 

 

 

だからこそ、

結婚の成否を考えるにあたっては、

男女のうち、どちらかだけが「結婚したい」という気になったとしても、

あまり意味のあることではない、ということがわかるのです。

 

たいせつなのは、

男女の双方が、

結婚したいという気持ちになることなのです。

 

 

 

結婚を考える若い層に、結婚への積極的な気持ちを持ってもらううえでは、

結婚にできるだけ多くのメリットを感じ取ってもらい、

また、あまりデメリットは感じ取ってはもらわないことが大切です。

 

そして、そのさいに、

上で見てきたように、結婚の成立にあたっては、

男女の双方が、結婚に前向きな意思を持っているということが

大切であることからすると、

メリットやデメリットに関しても、

男女の双方が、

メリットを多く感じて、デメリットは少なく感じることが、たいせつなのです。

 

 

 

よく、ネット上などには、

結婚することにはメリットが多いのか?デメリットが多いのか?

について、

比較検討したサイトがあることがあります。

 

あのようなサイトに関しても、注意が必要です。

 

 

 

たとえば、

「結婚するとこんなメリットがあります!」

とうたってるサイトがあったとしても、

そのメリットというのが、男性にとってのメリットばかりであって、

女性には、さしてうったえかけるメリットが言及されていないのならば、

男性は結婚しようという気になるかもしれませんが、

女性はあまり結婚しようという気にはならないかもしれません。

 

 

 

逆もまたしかりです。

 

「結婚するとこんなメリットがあります!」

とうたってるサイトがあったとしても、

そのメリットというのが、女性にとってのメリットばかりであって、

男性のメリットにはほとんど言及がないのであれば、

女性はそれを見て結婚しようという気になるかもしれませんが、

男性はあまり結婚しようという気にはならないかもしれないのです。

 

 

 

そして、繰り返しになりますが、

結婚の成立には、男女の双方が、ともに、

結婚したいという気持ちになることが必要なのです。

 

ということからすると、

男性か女性の、どちらか一方だけに傾斜した、

結婚のメリットの喧伝というのは、

あまり意味のあることではないでしょう。

 

 

 

結婚生活において、

いわゆる「経済的虐待」というのが問題になることがあるかもしれませんが、

この問題についても、

慎重に、仔細に検討していくことがたいせつです。

 

 

 

たとえば昨今、児童虐待というのが問題になることがありますが、

それはなにかというと、

両親などの「保護責任」のあるものが、

その期待される子供に対する適切な保護監護の責任に違背して、

子供に対して、

精神的、肉体的な加害行為をおこなうことであろう、と思うんですね。

 

 

 

結婚生活における「経済的虐待」にかんしても、

同様の視点で考えていくならば、

他方に対して経済的に扶養する責任があると考えられている一方当事者が、

他方当事者に対して、

その期待される責務に違背して、

経済的な扶養をおこなわない、ということになりそうです。

 

 

 

たいせつなのは、

経済的「虐待」という言葉にセンシティブに反応することではなく、

それが意味する内容を、具体的かつ慎重に、

仔細に検討していくことであろうと思います。

 

 

 

では、結婚生活において、

経済的扶養をおこなうことが期待されている一方当事者というのは、

いったい、誰のことなんでしょう?

 

 

 

重要なのは、ここにおいて、

 

結婚生活において経済的に大きな役割をはたす

ことが期待されている一方当事者を

男性に限定することは、できない

 

ということなんです。

 

 

 

やみくもに結婚生活をおくっていったのなら、

広く国民は、迷うこともあるでしょうし、

結婚生活にともなう問題をどう解決していったらいいか、

困ることもあるでしょう。

 

 

 

そこで、

そういった結婚生活をおくるうえでの1つの指針として期待されるものとして、

民法というのが1つにはあるわけです。

 

 

 

その民法には、

 

婚姻というのは両性の協力によって

それを維持継続していくべきである

 

ということが書かれてあります。

 

 

 

けっして、

一方当事者が一方的に他方を支え、

他方当事者は一方的にその支援を頼りにして生活すべき、

などとは、書かれていないわけです。

 

 

 

であるならば、

結婚生活において、その経済生活をどのように維持継続していくのか、

という点に関しても、

やはり、この民法の考え方は参考になるかと思います。

 

 

 

つまり、お金の問題に関しても、

夫婦のどちらか一方だけがその責任を負うということはなく、

夫婦のそれぞれがともに、

金銭的な問題について責任を負い、考え、行動していく必要がある、

ということです。

 

 

 

そしてこのことは、

わざわざ民法を持ち出すまでもなく、

昨今では自然なことでもあるでしょう。

 

 

 

戦前の日本、あるいは、昭和の半ばくらいまでの日本においては、

多くの家庭というのは、

夫が外で働いて生活費のほぼすべてを稼いできて、

他方で妻が、家で専業主婦として家庭内のこと一切を切り盛りしていた、

といったような事例が多かったかもしれません。

 

 

 

しかし、時代はかわりました。

 

 

 

昨今では、家事や育児といった家庭内の仕事というのは、

なにも妻だけの仕事ではない、ということがよく言われるようになってきました。

 

とするならば、それと同時に、

外で働いて生活費を稼いでくる仕事というのも、

なにも夫だけの仕事ではない、ということになるでしょう。

 

 

 

つまり、

生活費をそとで稼いでくるという仕事にも、

家事や育児といった家庭内の仕事にも、どちらについても、

夫も妻も、双方ともに、

責任を負うような、そんな時代になってきた、ということなのです。

 

 

 

であるならば、

結婚生活において、

その結婚生活を維持継続していくために必要な金銭を調達し、

それを家庭内へと届ける役割というのは、

夫婦の双方が負担すべき役割であって、

それを一方的に夫のみの役割であるとか、

夫のほうが主要な役割をはたすべきものであるとかいったふうに考えるのは、

理に合わないことです。

 

 

 

このことから考えると、

いわゆる「経済的虐待」という概念が、

 

夫のほうが経済生活において多くの責任を

負担すべきだという考えに基づいているならば、

それは間違った考えである

 

ということになりそうです。

 

 

 

ものすごく簡単に言うと、

 

「夫なんだろ?夫だったら金稼いできて、それを家に入れろよ。

 それをしないっていうのは、経済的虐待だ!」

 

というような主張は通らない、ということです。

 

 

 

金を稼いできてそれを家に入れなければならない責任があるのは、

なにも夫だけに限りません。

 

家に金を入れないことが経済的虐待にあたるとする、

この論法でいくならば、

家に金を入れない夫は経済的虐待をはたらいていることになりますが、

家に金を入れない妻もやはり、経済的虐待をはたらいていることになります。

 

 

 

じゃあいったい、どういった場合に「経済的虐待」というのが

成立することになるんだ?

というと、それは、

 

結婚生活の当初から、

夫婦の双方の合意にもとづいて、

結婚生活における経済面を主に支えることを

引き受けた一方当事者が、

その合意や、自らの責任引き受けの承認に違背して、

その責務をおこなわなかったとき

 

に成立するのです。

 

 

 

つまり、

家庭を経済面で支えるという責任は、

夫婦相互の間での合意や、あるいは、

自分自身の、その責任を引き受けるという意思表明を基礎として

はじめて成立するものなのであって、

男性だから無条件に生じるとか、

夫だから無条件に生じるとかいったものではないのです。

 

 

 

悪いことをしたら、非難を受ける。

 

それは、考えてみれば、当然のことです。

 

 

 

そして、悪いことをしたのならば、

悪いことをした者が非難を受ける。

 

これもまた、当然のことです。

 

 

 

Aさんが悪いことをして、

その悪いことをしたことについて主要な責任がAさんにあるのなら、

いちばん大きな非難を受けるべきなのは、当然、Aさん本人です。

 

Aさんが非難を受けるべきなのに、

全然関係のないBさんとか、

副次的な責任しかないCさんのほうが、

おおきな非難にさらされるようなことが、もしかりにあれば、

それはどう考えても、おかしなことでしょう。

 

 

 

結婚生活においても、しかりです。

 

 

 

結婚生活において、ときどき、

ドメスティックバイオレンス(DV)が問題になることがあります。

 

これに関しても、

DVをおこなったその本人に主要な責任があるのなら、

その本人が非難されるのが、スジというものでしょう。

 

 

 

とするならば、

夫が妻に対してDVをおこなったのならば、

非難されるべきなのは夫ということになりますが、

妻が夫に対してDVをおこなったのならば、

非難されるべきは妻ということになるはずです。

 

 

 

考えてみれば、これはあたりまえのことですよね。

 

 

 

夫が妻に対してDVをはたらいたときには、夫を厳しく非難するくせに、

妻が夫に対してDVをはたらいたときには、

 

「それは奥さんがよくこれまで我慢したと思うよ?

 きっと奥さん、不満がたまってたんだよ。」

とか、

「旦那さんの側にも、DVされるような原因があったんじゃない?」

とか、

「でも、そんな奥さんを選んだのは、あなただよね?」

とか、

「てか、やられっぱなしってありえない。

 なんでやり返さないの?

 奥さんの暴力をそのままにしてる旦那さんにも責任あるよ。」

 

とかなんとか言って、

非難されるべき奥さんを擁護し、

あろうことか、被害者であるはずの旦那さんをさらに鞭打つのは、

どう考えても、おかしなことではありませんか?

 

 

 

あたりまえのことですが、

わるいことをしたら非難される。

 

これは当然のことなのです。

そこに、男女の違いはありません。

 

 

 

男性であれば、悪いことをしても非難されないとしたら、

おかしなことでしょう。

 

逆も同じです。

女性であれば、悪いことをしても非難されないとしたら、

やはり、おかしなことでしょう。

 

 

 

さきほど、

夫が妻からDVの被害を受けていたときに、

加害者である奥さんの側を擁護し、

あろうことか、被害者である旦那さんの側を非難していた

馬鹿の例を書きました。

 

この馬鹿の頭の中では、

男性というのは、

自分が加害者であっても被害者であっても、

いつもサンドバックのように一方的に非難を受けるべき

存在なのでしょう。

 

 

 

しかしながら、

自己が拠って立ったところの論理構成というのは、

自己もまた、その論理構成による反論を受けるというのが、

考えてみれば、当然のことなのです。

 

 

 

さきほど、

夫が妻によるDVの被害を受けていたのにもかかわらず、

夫の側を非難していた馬鹿のとる論理構成というのは、

妻が夫からDVの被害を受けていた場合に、

そっくりそのまま返すことができそうです。

 

 

 

夫が妻にDVをはたらいたときに、

 

「それはよくこれまで旦那さんが我慢していたと思うよ?

 旦那さん、きっと不満がたまってたんだよ。」

とか、

「奥さんの側にもDVされるような原因があったんじゃない?」

とか、

「でも、そんな旦那さんを選んだのは、あなただよね?」

とか、

「てか、やられっぱなしってありえない。

 なんでやり返さないの?

 旦那さんの暴力をそのままにしてる奥さんにも責任あるよ。」

 

とか言うことが可能になる、ということです。

 

 

 

なんとも盛大なブーメランです。

 

 

 

それともなんでしょうか、

妻が夫に対してDVをはたらいたときには、

その遠因となる夫の責任をことさらにあげつらうのに、

夫が妻に対してDVをはたらいたときには、

夫だけをただ一方的に非難するだけで、

その遠因となる妻の責任に言及することはまったく許さないのでしょうか。

 

 

 

もしそうだとするならば、

理のかけらもない、

ずいぶんと得手勝手な論理構成をとるのですね。

 

 

 

なにも複雑なことはないのです。

 

 

 

悪いことをしたら非難される。

悪いことをしたら、悪いことをした者が非難される。

悪いことをしたことに、

もっとも大きな主要な責任を負うものが、いちばん大きな非難を受ける。

DVをしたのなら、DVをした張本人が非難を受ける。

夫が妻にDVをすることもあれば、妻が夫にDVをすることもある。

夫が妻にDVをしたのならその夫を非難すればよく、

妻が夫にDVをしたのならその妻を非難すればいい、

ただそれだけのこと。

人間には、良い人間もいれば、悪い人間もいる。

良い人間であっても、悪い人間であっても、

時と場合により、良い行為をすることもあれば、悪い行為をすることもある。

このことは、男女双方にいえること。

男性は良い人間しかいなくて良い行為しかしない、

と考えることがおかしなことであるのと同様に、

女性は良い人間しかいなくて良い行為しかしない、

と考えることもおかしなことである、ということ。

男性も、女性も、DVの加害者にもなるし、被害者にもなる。

DVにおいては、男性は常に被害者で女性は常に加害者である、

と考えることがおかしなことであるのと同様に、

DVにおいては、女性は常に被害者で男性は常に加害者である、

と考えることもおかしなことである、ということ。

 

 

 

最近では共働きもとても多いですが、それでも、

夫である男性がフルタイムではたらき、

家計の主要な部分を支えている、という家庭も、

まだまだそれなりに多いのではないでしょうか。

 

 

 

そういった家庭では、

その男性が会社を定年退職すると、それまでと比べて、

必然的に家庭内で過ごすことも多くなるでしょう。

 

 

 

そうすると、家庭において妻は、

夫と顔を突き合わせる時間が長くなることにもなるでしょうが、

そのことが、妻の不満を高めるのだ、

としている記事などを、ときどき見かけることがあるんですね。

 

 

 

 

でも、これっておかしなことではないでしょうか。

 

 

 

自宅というのは、そもそも、妻だけの所有物なんですかね?

 

 

 

自分は違うと思います。

 

普通に考えて、自宅という不動産は、夫婦の共有財産であるだろうし、

住宅ローンを組むときには、

夫だけの名義で組んでいる家庭も多いだろうと思うのです。

 

 

 

だとすれば、

妻がその自宅不動産について権利を主張することができるのと同様に、

夫もまた、

その自宅不動産について権利を主張することができるのが、

自然なありようでしょう。

 

 

 

なにも、妻の側だけが一方的に、

夫を排除するかたちで、排他的かつ独占的に、

自宅は私のものだからお前は出ていけ、外出しろ、

などと言う権利は、

けっして持ち合わせていないことになります。

 

 

 

そもそも考えてもみてください。

 

夫の側は30年間か40年間かそこら、会社で勤務してきていて、

その間、妻は毎日8時間かそこら、

自宅で1人だったのでしょう。

 

 

 

自宅というのは、夫婦の共有財産ですから、

夫の側も、妻の側も、双方ともに、

その自宅不動産に対して自己の権利を主張することができます。

 

かりに、1人で過ごす時間を確保したいから、

あなたは少し外出してくれないか?と、

相手側に要請しうる権利のようなものがあるとすれば、

その権利は、

妻の側が夫の側に対して行使しうるだけではなくて、

夫の側もまた、妻の側に対して行使しうる権利であるはずです。

 

 

 

そして、ここで大事なことなのですが、

夫の側は30年間か40年間かそこら、

会社に勤務している時間のあいだ、自宅を留守にしており、

すでに妻の側としては、

自宅を1人で占有する時間を確保できていた、

という、過去の事実、実績があるわけです。

 

 

 

だとするならば、

 

夫の定年後に、家をあけて外出しなければならないのは、

夫というよりも、むしろ、

妻のほうではないですか?

 

 だってそうでしょう。

 

何度も言うようですが、

夫の側はすでに、過去30年間から40年間、

毎日8時間以上にわたって、自宅をあけており、その間、

妻の側としては、

自宅を独占的に1人で占有する権利を実現できていたわけです。

 

 

 

だとするならば、

こんどは、自宅を独占的に1人で占有できる権利を実現すべきなのは、

妻の側ではなく、夫の側でしょう。

 

 

 

整理してみます。

 

 

 

まずそもそも、自宅というのは、夫婦の共有財産であって、

夫婦の双方が、その財産に対して自己の権利を主張できるという

原則から考えれば、

妻の側が、この自宅はわたしのものだから、

わたしはあんたと顔を突き合わせたくないから、

あんたは外に出て行ってよ!

などと、独占的、排他的に自己の権利のみを主張するのは、

理に合わないことです。

 

 

 

それだけではありません。

 

事実の点からしても、夫である男性の側は、

過去30年から40年にわたって自宅を留守にするという

「実績」をつくっており、

そのことを考慮すれば、こんど自宅を留守にすべき「順番」

が回ってきているのは、

むしろ、妻の側だといえるのです。

 

 

 

こんな簡単な「理」がわからない、頭のおかしな妻によって、

自分が自宅でゆっくりとすごす権利が侵害されるくらいなら、

男性は、結婚などせずに、

1人で生活したほうが、よほど幸福といえます。

 

現在、定年後の生活を迎えようとしている男性たちが、

そういった、妻からの理不尽な仕打ちを受けるのを

目の当たりにした、

まだ若い男性たちは、そのぶんだけ、

結婚へのモチベーションが低下する可能性があり、

そのことが結果的に、

現在結婚を希望する若い女性たちが結婚できにくくなる

土壌をつくる可能性があるだろうと、自分は考えます。

 

大坂なおみが全豪OP初優勝。時代がかわるとき。

こんにちわ。天機です。

(約4200字)

 

 

 

きのうは、大坂なおみがテニスの全豪オープンで初優勝しましたね!

天機はテレビで見ていなかったのですが、

ヤフーニュースのテキスト速報を固唾をのんで見守っていました。

(←テレビ見ろよ)

 

 

 

大坂なおみは、先の全米オープンでも初優勝をかざっていて、

これで、グランドスラム2勝目となります。

 

先の全米オープンでは、

セリーナ・ウィリアムズとのあいだで確執があったのですが、

今回は、論争の余地なく覇者となり、すっきりしました。

 

 

 

思えば、最近になって、

時代がかわりつつあるなあ、と思えるような出来事が、

立て続けに起こっています。

 

 

 

テニスでは、

2000年代の初頭から、セリーナ・ウィリアムズが絶対女王として、

ほぼ15年以上にわたって黄金時代を築いてきたのですが、

ここにきて、

大坂なおみが次世代の女王の貫録を見せつつあります。

 

 

 

野球の世界では、

1990年ごろからおよそ30年ほどにわたって、

イチローが名実ともにヒーローだったのですが、

ここにきて、

2019年になって、イチローマイナー契約になることが報じられるいっぽう、

大谷翔平というニューヒーローがあらわれようとしています。

 

 

 

将棋の世界では、

やはり、1990年ごろからおよそ30年間ほどにわたって、

羽生善治が名実ともに棋界の第一人者の地位を築いてきたのですが、

昨年2018年、羽生善治は、

約30年ちかくぶりに無冠に転落し、

いっぽうで、藤井聡太というニューヒーローが頭角をあらわしつつあり、

棋界は戦国時代の様相を呈してきています。

 

 

 

古い時代が過ぎ去って、新しい時代が始まろうとするときには、

オールドヒーローが勝てなくなって静かに退場して行き、

いっぽうで、

ニューヒーローが華々しく登場する、

のかもしれない。

 

天機は、そんな印象をいだいています。

 

 

 

思えば、2016年という年は、

イギリスがEUから離脱することが決まり、

アメリカにトランプ大統領が誕生することが決まり、

天皇陛下生前退位されることが決まった、

時代の画期となる年でした。

 

ことしは、2019年なのですが、

この2016年から2019年という、ここ数年間ほどのあいだに、

これまで長い間つづいてきたことが、大きく変わって、

時代がおおきく動き始めるような出来事が、数多く発生しています。

 

そのことについては、こちらの記事でも書いています→

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

1つの時代が変化するときというのは、

天機が思うに、

ひとびとの個々の運命も、おおきく変化するような気がするのです。

 

 

 

よく、人は言います。

 

成功しようと思ったら、努力しなくちゃいけない。

成功しようと思ったら、人との関係を大切にして、人から好かれなくちゃいけない。

情けは人のためならず、だ。

人のことを思ってなにか善いことをしてあげていれば、

やがてそれは、自分に返ってくるのだ、と。

 

 

 

たしかに、それらのことには、一理あるでしょう。

 

 

 

しかし、

 

時の運

 

というのは、不思議なもので、

 

そのひとが努力してきたのかどうか、とか、

そのひとが人から好かれているのかどうか、とか、

そのひとが他人に親切にしてきたのかどうか、とかいったことには、

 

いっさい関係がなく

 

電車の踏切で信号が青に変われば電車が進むことができ、

赤に変われば電車が進むことができなくなるように、

ただ、

 

時が変化したという、そのことだけで

まるでスイッチでも切り替わるかのように

 

この世界の、全体の時の運が変化したことによって、

世の中の風向きががらっと変わる、そのことによって、

突如としてうまくいかなくなる人がでてきたり、あるいは、

突如として成功の上昇気流に乗り始める人があらわれてきたり、

そういったことがあるのだろう、と、天機は思うのです。

 

 

 

このことを、情景でたとえるならば、

つぎのような情景を考えることができるかもしれません。

 

 

 

広い広い、大地があります。

その大地には、赤い旗を持った人と、白い旗を持った人がいます。

 

 

 

あるとき、その広い広い大地を見下ろすような、

高い高い山の頂に、

大きな大きな、「赤い旗」が1本、高らかに掲げられました

 

 

 

これが、「全体の時の運」「世の中の、そのときの風向き」を

あらわす旗で、

赤の時代の到来を示しています。

 

 

 

すると、

広い広い大地にいた、赤い旗を持った人たちは、

突如として、やることなすこと、うまくいくようになります

反対に、白い旗を持った人たちは、やることなすこと、うまくいかなくなります。

 

 

 

赤い旗を持った人たちは、自信を深めます。

白い旗を持った人たちは、自信を失います。

 

 

 

世の中には、

「成功するなら赤い旗を持とう!」とか、「時代は赤い旗だ!」

とかいった番組や情報、書籍があふれるようになります。

 

赤い旗を持った人が、さかんにメディアに登場し、

自分が成功したのは赤い旗を持っていたからだ、と得意げに語ります。

 

会社の上司は、出来の悪い部下を呼び出しては、

「おまえがいつも失敗ばかりするのは、白い旗なんか持っているからだ!」

と叱責し、

自宅でこれを読むように、と部下に手渡したビジネス本には、

「成功したいなら赤い旗を持て!」といったタイトルが書かれています。

 

 

 

ところが、です。

 

それから何十年かたったころでしょうか。

 

 

 

だれも注目をあまりしていないような、

その、広い広い大地を見下ろす、高い高い山の頂上に、

いままで燦然とひるがえっていた、あの

「赤い旗」が、ひっそりと降ろされて、

かわりに、「白い旗」が掲げられるときが来ます

 

 

 

白の時代の到来です。

 

すると、突如として、

いままであれほどうまくいっていた、

赤い旗を持って大手を振っていたひとたちが、

なぜだか、すこし、調子が悪くなり始めます。

 

 

 

最初のうちは、思うかもしれません。

 

そりゃ、赤い旗にも、調子のわるい時だってあるさ。

でも、基本はやっぱり、赤い旗だよね、って。

 

 

 

でも、違うんです。

 

赤い旗が調子が悪くなりはじめたのは、

全体の時の運」「世の中の、そのときの風向き」をあらわす、

広い広い大地を見下ろす、高い高い山の頂の、その1本の大きな旗の色が、

赤から白に変わったからなのです。

 

それに気づかないでいると、

赤い旗を持った人たちは、

いままでの成功と繁栄が、1枚1枚、樹の皮でも剥ぐかのように、

失われていくことになります。

 

そして、それまでの長い冬の時代、赤の時代を耐え忍んでいた、

白い旗を持った人たちには、

ようやく陽の光が差し込んでくることになるのです。

 

 

 

では、

赤い旗を持っていたひとたちは、努力が足りなかったのでしょうか。

それとも、努力が十分だったのでしょうか。

 

赤い旗を持っていたひとたちは、人から好かれる素質が足りなかったのでしょうか。

それとも、そういった素質にあふれていたのでしょうか。

 

白い旗を持っていたひとたちは、どうでしょう。

 

白い旗を持っていたひとたちは、努力が足りなかった?

それとも、努力が十分だった?

 

白い旗を持っていたひとたちは、人から好かれる素質が足りなかった?

それとも、そんな素質が十分だった?

 

 

 

もちろん、そういったことも、関係があるかもしれません。

影響があるかもしれません。

 

しかし、うえでみたような情景のなかで、

赤い旗を持ったひとたち、白い旗を持ったひとたち、

それぞれの栄枯盛衰に、もっとも大きな影響をもたらしたのは、

ほかでもない、

高い高い山の頂にある1本の大きな旗の色が、

赤と白のどちらだったのか、ということだったのです。

 

 

 

よくひとは、

成功すれば、それはそのひとが努力したからだといい、

人間性が素晴らしいからだ、と言って、誉めそやします。

 

反対に、失敗すれば、

それはそのひとの努力が足りなかったからだといい、

人間性が劣っているからだ、と言って、けなします。

 

 

 

しかし、そういったものとは関係なく

ただ、

 

時の運

 

がどうなのか、そして、

 

世の中の風向き

 

がいま、どちらの方向を向いているか、といったことが、

個々人の運命に大きな影響をもたらしていることは、

現実には、よくあることです。

 

そして、ある程度の年数を生きてこないと、

時の運というものは、じつは移り変わるものなんだなあ、ということは、

なかなか肌感覚での実感には、なりにくいものだとも思うのです。

 

 

 

かつて、松下幸之助という実業家は、

自社の社員を採用するさいに、運の良さを非常に重視した、

ということが言われています。

 

また、日露戦争の開戦がちかくなったときに、

だれを日本の連合艦隊司令長官にするかを決めるにあたって、

ときの総理の山本権兵衛は、東郷平八郎を推し、

その真意を下問された明治天皇に、

「彼は運のいい男ですから」と答えたというのも、

有名な逸話としてのこっています。

 

 

 

ある集団や組織においては、

そのトップとなる人間の運勢や運命といったものが、

その集団や組織の、全体の運勢や運命に影響することがあります。

 

 

 

あとすこしで、日本においては、

平成という時代が終わりをつげます

 

この平成という時代、この30年間の時代を、

言ってみれば、主宰するような人間は、はたして誰であったか?

といえば、それは、

今上天皇ということになるでしょう。

 

内閣総理大臣は、日本国のトップではありますが、

比較的頻繁にころころと変わりますから、

平成という30年間全般にわたってトップであった内閣総理大臣

というのは、考えにくいものでしょう。

 

 

 

とするならば、

この平成という、30年間の時代に対しては、

今上天皇ご本人のもつ運勢や運命が、

非常に大きな影響をなしていた可能性があります。

 

 

 

今上天皇は、

1933年12月23日午前6時39分に東京でお生まれになられています。

 

この生年月日と生まれた時間をもとにして、

西洋占星術でいうところの、ホロスコープをつくることが可能になります。

 

そのホロスコープと、

国民1人1人が持っている、

個々人の生年月日と生まれた時間をもとにしたホロスコープ

照らし合わせてみれば、

はたして、

この平成という時代が、

自分個人にとっては、運のいい時代だったのか、

それとも、そうではなかったのかが、

ある程度、読み取れるかもしれません。

 

 

 

そして、平成という時代が終わるということは、

その、自分個人の運勢にも影響してきたところの、

この日本国の全体の時の運、世の中の風向きも変わるということであって、

それはつまりは、

自分個人の運勢も変わるということなのです。

 

 

 

【紫微斗数】遷移宮の象意について。

こんばんわ。天機です。

(約2000字)

 

 

きょうは、占いのお話です。

 

東洋占術に、「紫微斗数(しびとすう)」という占いがあるのですが、

きょうは、その占いで登場する「遷移宮(せんいきゅう)」

についての、独自の分析記事になります。

 

 

 

さて、紫微斗数においては、

いろんな分野のことを占うために、命盤というのを用意します。

 

その命盤は、12の部屋に分かれていて、それを「12宮」といいます。

 

その12宮のなかで、自分自身をあらわす、

いちばん大切な部屋が「命宮(めいきゅう)」なのですが、

その命宮の向かい側の部屋、つまり、命宮の対宮(たいきゅう)

にあたる部屋が、遷移宮なのです。

 

 

 

遷移宮については、一般的に、

 

①外出運、移動運などをあらわす。

 外出した際や、遠方に移転したときに、その移動先で

 発展できるのかどうか。

 ひとから歓迎されるのか、どうか。

 

②そのひとの対外的な印象をあらわす。

 外から見て、そのひとは、どのように見られているのか。

 

といったことをあらわす、と言われています。

 

 

 

天機は、ここからさらに発展させて、

遷移宮というところが、

どういうふうなことをあらわすのかについて、考えてみようと思います。

 

 

 

まず第一に、遷移宮は、「後天運」や「後半生」を

あらわす可能性があります。

 

ふつう、紫微斗数において、「後天運」や「後半生」をあらわす宮位といえば、

「身宮」が有名でしょう。

 

ですが、各種の紫微斗数の文献や、あるいは、

紫微斗数の本場、台湾などの紫微斗数サイトでは、

身宮にならんで、

「福徳宮」や「遷移宮」が、「後天運」や「後半生」

をあらわす、としているものが、いくつかあるのです。

 

 

 

このことについては、つぎのように考えることができます。

 

 

 

遷移宮の「遷移」という言葉は、

「移り変わって変化していく」という意味を持ちます。

 

つまり、命宮と、その対宮である遷移宮の関係でいえば、

そのひとが生まれたときどうであったか、ということをあらわすのが命宮なら、

その後どのように変化していくのか、をあらわすのが遷移宮なのです。

 

したがって、

先天運や前半生のことが命宮によく示されるように、

後天運や後半生のことは遷移宮によく示される、と考えることができるわけです。

 

 

 

ということは、たとえば、

命宮にはあんまりいい星が入っていないけれど、

遷移宮にはかなりいい星が入っている、というような人は、

生まれた時や若い時にはあまり恵まれないけれど、

人生の後半に向かうにつれて、だんだん運が上向きになる、と読めるわけです。

 

 

 

そして、この「遷移宮」については、

 

各宮の遷移宮

 

というものを考えることができると思うのです。

 

 

 

どういうことなのか、説明していきましょう。

 

 

 

たとえば、紫微斗数の命盤においては、

夫妻宮と官禄宮というのは、たがいに向い合せになっており、

対宮の関係にあります。

 

ということは、

官禄宮というのは、夫妻宮から見た場合の「夫妻宮の遷移宮」であり、

夫妻宮というのは、官禄宮から見た場合の「官禄宮の遷移宮」である、

とみることができるわけです。

 

 

 

ということは、どういうことかというと、

官禄宮は、仕事運や事業運といった、本来あらわしている内容以外に、

 

後半生における結婚運をあらわす

 

という読み方をすることが可能になるのです。

 

反対に、夫妻宮は、本来あらわしている恋愛運や結婚運以外に、

 

後半生における仕事運をあらわす

 

という読み方をすることが可能になるのです。

 

 

 

ゆえに、本来の紫微斗数の命盤において、

夫妻宮にはいい星が入っているけれど、官禄宮には悪い星が入っている、

といった場合には、このひとは、

 

前半生においては恋愛運がよくて仕事運が悪いけれども、

後半生においては仕事運がよくなり恋愛運が悪くなる、

と読むことができます。

 

 

 

以上が、各宮の遷移宮、ということについての説明です。

 

 

 

もう1つ、遷移宮は「遷移」すること、つまり、

 

変化すること全般

 

の吉凶をみることができます。

 

 

 

遷移宮にいい星がたくさん入っているのなら、

このひとは、なにかと変化したほうがラッキーである、という運の持ち主なのです。

 

反対に、遷移宮にあまりいい星が入っていないようなら、

このひとは、あまり変化せずに、

ひとつの所をじっと守ったほうがいい、という運の持ち主だということになります。

 

 

 

たとえば、変な例ですが、

数学の試験問題を解いているときに、

1つの問題がむずかしくて、全然わからないとします。

 

遷移宮がいいひとなら、こういうとき、

その問題はおいといて、他の問題にとりかかったほうが、

うまくいく可能性が高い、ということになります。

 

ほかの問題に「移る」ということを、「遷移宮」が管轄しているからです。

 

 

 

また1つ、変な例ですが、

デパートの便所に行ったら、すごく並んでいたとしましょう。

 

遷移宮がいいひとなら、こういうとき、

エスカレーターでほかの階へ移って、べつのトイレを探してみたら、

案外、すいているかもしれません。

 

ほかのトイレへと、「場所を移動」することは、

遷移宮の管轄だからです。

女性はなぜ、共感をもとめるのか。

こんにちわ。天機です。

(約3600字)

 

 

 

きょうは、男女のコミュニケーションのありかたの違いについて、

考えてみたいと思います。

 

 

 

さて、世の中ではときどき、

男女のコミュニケーションのありかたについて、

 

 

 

女性は共感をもとめる

 

 

 

のに対して、

 

 

 

男性は解決策を提示しようとする

 

 

 

といったことが、言われることがあります。

 

 

 

もし、これが事実なのだとしたら、

その原因はいったい、どんなところにあるのでしょうか。

 

 

 

これについては、

男性は「思考」が発達しているのに対して、

女性は「感情」が発達しているからだ、

といった説明がされることも、よくあると思うのです。

 

 

 

ですが天機は、もっと深く考えてみようと思いました。

それは、以下のようになります。

 

 

 

天機は、このことの背景には、

 

 

 

苦というものをどのようにとらえているのか

 

 

 

について、

男女間で違いがある、ということがあるのではないだろうか…と、

思ったのです。

 

 

 

具体的にみてみましょう。

 

 

 

天機の考え方では、

 

 

 

男性は、「苦を消し去ることは可能だ」と考えている

 

 

 

のに対して、

 

 

 

女性は、「苦を消し去ることはできない」と考えている

 

 

 

のではなかろうか、と思うのですね。

 

 

 

いまここに、なにか問題があったとします。

 

 

 

問題が、解決されないままでそのまま残っているのは、

嫌なことですから、

それはひとつの「苦」である、といっていいかもしれません。

 

 

 

もし、この「苦」を目の前にしたときに、

「苦というものは消し去ることができるんだ」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

それはもちろん、そんな「苦」は、

早々に消し去ってしまったほうがいいに決まっています。

それで、嫌なこととおさらばできるのですから。

 

そして、そのためには、「解決策」を考えていく、ということになりそうです。

 

 

 

これが、おそらくは、男性の基本思想なのです。

 

したがって男性は、

なんらかの「苦」を提示されると、それを「問題」ととらえて、

「解決策」を模索しようと、頭脳を稼働させ始めるのです。

 

それは、「苦というものは消し去ることができるのだ」

という、男性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

では、同様に、ここになにかひとつ、問題があったときに、

「苦というものは消し去ることはできない」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

これは、先の場合とは異なります。

 

今度は、苦というのは、嫌なものなのに、

それから逃れるすべは、原理的には「ない」ということになってしまいます。

 

ここでは、どんなに「解決策」のようなものが提示されたとしても、

そのひとにとっては、どれも空疎なものに聞こえるでしょう。

 

それよりは、

逃れようのない圧倒的な「苦」にさらされている自分にとっては、

せめて、その自分の苦しみへの「共感」があるほうが、

どんなにか力強く感じられるのではないでしょうか。

 

 

 

これが、おそらくは、女性の基本思想なのです。

 

したがって女性は、

なんらかの「苦」に直面すると、基本的には、

その苦を解決しようとしたり、解決策を求めたりするよりも、

自身への「共感」をもとめることになるのだと思います。

 

それは、

「苦というものを消し去ることは原理的には不可能だ」

という、女性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

ちまたで、男女が口論になっている場面では、

男性は、

「どうして解決策を考えようとしないんだ!?」といきどおり、

女性は、

「ただ共感がほしいだけなのに…なんでわかってくれないの?」

といったふうにいきどおる…

といったようなことがある、と聞いたことがあります。

 

天機は、そんな場面に出くわしたことが、これまでの人生でありませんので、

よく知りませんが。

 

 

 

こういった場面でも、

男性がなんで、解決策にこだわるのかといえば、それは、

 

問題というものは解決ができるのだ

 

と、ある意味「無邪気に」信じているからかもしれず、

 

女性がなんで、共感にこだわるのかといえば、それは、

 

この世界には、解決できない苦しみもあるんじゃない?

 

という、男性へのひそやかな反問がかげにかくれているから、

かもしれません。

 

 

 

ところで、そもそも、

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

これが、根源にある、かなり大きな問いであるような気がするのです。

 

 

 

天機は、この広い自然世界と、人間の体のかたちとかを、

関連付けて考えるクセがあって、

それは、このブログのほかの記事とかでも書いているのですが、

この世界は、

 

 

 

矛盾→理→生

 

 

 

という順番で生成してきた、と、勝手に考えています。

 

 

 

具体的な存在や現象でいうと、

 

矛盾(夜の闇の黒)→理(昼の光の白)→生(夕焼け空の赤)

 

であり、また、

 

矛盾(髪の毛)→理(頭脳)→生(胴体、生殖器

 

でもある、と思っているのです。

 

 

 

で、この原理の関係のなかに、

 

 

というのを入れてみると、じつは、

 

 

 

矛盾(苦しみ)→理(それを解決しようとする理性)

→生(その結果得られる快楽)

 

 

 

なんじゃないか?

とも、思ったんですよね。

 

 

 

ここでもう一度、問いにもどります。

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=髪の毛

 

なわけです。

 

 

 

女性って、どういうわけか、髪の毛を長くのばしますよね。

男性は、そうはしない。バッサリといっちゃう。

 

 

 

これなんかも、

女性というのは、苦(髪の毛)というものを、

まるで愛おしむかのようなところがあるように、自分なんかには思えるのです。

 

 

 

いや、そんなことはないよ、って、女性からの反発の声もあるとは思います。

 

でも、少なくとも男性は、苦というものを、

ただ嫌なものでしかない、と見る傾向が強いな、という気はします。

 

 

 

もうひとつ、上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=夜の闇の黒

 

でもあるわけです。

 

 

 

暗闇で、たとえばマッチなんかをすって、光をともすでしょう。

 

すると、そこにあった暗闇(苦)は、消えます。

 

言ってみれば、光(理性)によって闇は殺された、とも、言えるかもしれません。

 

 

 

そうすると、たしかに、

光(理性)によって闇(苦)を消すことができた、と見えるかもしれません。

 

 

 

しかし、光には、寿命があります。

 

マッチの火であれば、マッチが燃え尽きれば、やがては、

もとの闇が戻ります。

 

 

 

この広い広い宇宙は、そのほとんどが暗闇でおおわれています。

 

太陽のように、みずから燃えて輝く恒星はたくさんあって、

その恒星の周辺では、暗闇が消されているわけですが、

それら恒星にも、寿命があるわけなので、

恒星が燃え尽きれば、やがては、ふたたび闇におおわれることになるでしょう。

 

 

 

男性というものは、ある意味、無邪気なところがあって、

その無邪気さが、いろんな成功や発展につながることもあったし、

その無邪気さが、逆に、悲しみや苦しみを生むこともあったと思うのです。

 

 

 

基本的には、男性は、苦しみを嫌がります。そして、快楽を好みます。

苦しみがあれば、それを消し去ろうとして、

頭脳をフル稼働させてくるのが、男性です。

 

苦しみとともにいよう、とか、苦しみを抱きしめよう、とかは、

たぶん、ほとんどの男性は、考えないと思います。

男性にとっては、「苦」は「嫌なもの」でしかないからです。

 

 

 

その男性の、苦しみを避けたいという気持ちと、

そのために働かせた頭脳のおかげで、

たとえばこの地球上には、さまざまな学問がうまれ、科学が発達し、

文明の利器がたくさん誕生しました。

 

そのために、たとえば、

夏の暑さに苦しむという「苦」も、

過重な労働をしなければいけないという「苦」も、

みな、「消し去る」ことができたのです。

 

 

 

そのなかには、たとえば、

炊飯器や電気洗濯機、エアコンや冷蔵庫や電気掃除機なんていうものも

あったりして、

それらは、これまで家事労働を主にになうことも多かった女性の負担を

一定程度減らしているかもしれず、

男性は「えっへん。どうだい?」と胸を張るわけです。

 

 

 

しかし、そんなにも文明と文明の利器が発達したのにもかかわらず、

もう何千年、何万年の昔から、

たとえば、

お産の時に、女性だけが苦しまなければいけない、

といった現実は、なんら変わっていないのです。

 

 

 

女性だけが苦しまなければいけない、などという理は、

もちろん、あるはずもないのですが、

この、人間の歴史においては、事実として、

「女性」と「苦しみ」は、近い位置に存在し続けてきたのです。

 

 

 

つまり、

「苦しみ」というのは、

女性にとっては、「肌感覚で感じることのできる現実の1つ」

なのだ、というところが、男性と違うところであって、

それゆえ、

なにか問題があったときに、

解決策を提示してくる男性の、その背景に、

 

苦しみというものは消し去ることができる

 

という、男性特有の無邪気な基本思想の存在を、

女性の敏感な「嗅覚」は感じ取っていて、

それが女性の中に、いやいや、

 

消せない苦しみもあると思うよ?

 

といったような、ある種の反発をも生じさせているんじゃないかな。

 

 

 

そんなふうなことを、天機は考えていました。

 

 

心と体に刻印された数字。

こんにちわ。天機です。

(約1300字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議系のお話です。

 

 

 

1と2という数字があります。

 

とても単純な数字なのですが、天機はこの数字について、

なんとなく、

 

2というのは「対(つい)」になっているから、それで完結できる数字

 

1というのは、それだけでは完結できず、相手を求める数字

 

のように考えることがあります。

 

 

 

さて、世の中には、

 

男性と女性

 

がいます。

 

 

 

男性にも心と体があり、女性にも心と体がありますから、

 

男性の心、男性の体、女性の心、女性の体、

 

というふうに、4つのパターンがあると思うんです。

 

 

 

天機は、この4つのパターンには、

数字の1か2が、それぞれにセットになって「刻印」

されてるんじゃないかな?

と思ったのです。

 

 

 

そして、その刻印のされかたというのが、

 

男性の心ー②

男性の体ー①

女性の心ー①

女性の体ー②

 

なんじゃないだろうか?

と思ったのですね。

 

 

 

なんで、そういうふうに思ったのか。

 

その理由を、すこし明らかにしてみましょう。

 

 

 

まず、男性の心というのは、②と結合していますから、

それで完結しています。自己完結しているのです。

 

だから、男性は、どちらかというと女性に比べて、

心の交流をするというよりは、

自分の中であれこれと「思考」するのが好きです。

自分の中で解決しようとするのです。

 

 

 

それに対して、女性の心は、①と結合しています。

これは、自分だけでは解決せずに、相手を求める、ということです。

 

ですから女性は、どちらかというと男性にくらべて、

他者と心の交流をするのを好みます。

 

女性のこの性質は、たぶん、女性の「おしゃべり好き」

となってあらわれます。

 

 

 

体について、見てみましょうか。

 

 

 

男性の体というのは、①と結合しています。

 

つまり、男性は、体のことに関して、

自分だけでは完結せずに、相手をもとめる、ということです。

 

肉体に関して相手をもとめる、という、この男性の性質は、

たぶん、女性に比べた場合の、男性の「エッチさ」

になって、あらわれてくるように思えます。

 

 

 

それに対して、女性の体は、②と結合しています。

 

これは、女性は肉体のことに関しては、自己で完結している、

ということです。

 

つまり、肉体のことに関しては、

男性ほどには、相手を求める、ということをしないので、

それゆえ女性は、

男性ほどにはエッチなことを好むわけではない、

という性質になって、あらわれてくるように思えるのです。

 

 

 

そして、余談ですが、

男性の体が数字の①と結合し、女性の体が数字の②と結合しているのは、

男性の体、女性の体を、

それぞれ外から眺めてみたときの、「かたち」にも

関わっているような気もするのです。

 

 

 

男性の体には、女性の体にはない「出っ張り」があります。

おちんちんです。

その、おちんちんの数は「①」ですが、

これは、男性の体が数字の①と結合していることと符合します。

 

 

 

女性の体には、男性の体にはない「出っ張り」があります。

おっぱいです。

その、おっぱいの数は「②」ですが、

これは、女性の体が数字の②と結合していることと符合します。

 

 

 

きょうは、そんな変なお話でした。

食事中のトイレについて、思うこと。

こんにちわ。天機です。

(約2200字)

 

 

 

きょうは、食事中のトイレについて、思うことを書いてみようと思います。

 

 

 

食事中にトイレに立つことについては、いろいろな意見があるようです。

 

 

 

「食事中にトイレに立つなんて、マナー違反だ。

 きちんと食事前にトイレをすませておくべきだ。」

 

という意見があるいっぽうで、

 

「食事中にトイレに行きたくなったときに、

 我慢を強いるというのは、一種の虐待にもなるんじゃないか?」

 

といった意見があったりします。

 

 

 

天機は、この問題について、自分の意見をのべてみたいと思います。

 

天機の意見が正しい、というわけではなくて、

世の中にいろんな意見がある、そんななかの1つの意見として、

天機はこんなふうに考えているのだな、

と思っていただければ、さいわいです。

 

 

 

さて、天機はいろんな問題について考える際の、

その思考枠組みの1つに、

 

「物事には、この世界には、通常と異常がある。

 通常だけがこの世界のすべてをおおいつくしているわけではなくて、

 通常と異常、その2つが合わさって、はじめてこの世界はできている。」

 

というような思考枠組みを持っています。

 

 

 

今回の、食事中のトイレの問題も、

この思考枠組みをもとにして、考えてみましょう。

 

 

 

まず、「通常」は、

食事中にトイレに立つというのは、マナー違反であって、

避けるべきことだと思うのです。

 

 

 

1人で食事をしているときなら、さほど問題ではないかもしれないですが、

ほかのひとが同席しているときなどは、やはり、

だれかが食事中にトイレに立つというのは、気分のよいものではありません。

 

 

 

お里が知れる、という言葉もありますが、

いい大人になって、食事の最中にトイレに立つようなことが度重なると、

「このひとは、小さい時に、そういったマナーをしつけてもらえなかった

 のかな?」

と思われる可能性も、なきにしもあらずでしょう。

 

 

 

そして「通常」は、

食事中にトイレに立つことを防ぐことは、

さほどむずかしいことでもないようにも思うのです。

 

自分がそういった傾向がある、というふうにわかっているのなら、

注意して、

なるべくトイレは食事前にすませておくように、

習慣づけることもできるはずだからです。

 

 

 

以上が、「通常」です。

 

 

 

ただ、この世界には、「通常」だけではなく、

「通常」の外側に、「異常」が存在する、と天機は思うのです。

 

 

 

では、食事中のトイレの問題に関しての、

「異常」とは、いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、その「異常」というのは、

 

「食事前にあらかじめトイレに行っておく、などの予防策を講じて

 おいたのにもかかわらず、

 その点における不注意はなかったにもかかわらず、

 急な、突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立つ必要に

 迫られた場合」

 

のような場合だと思うのです。

 

 

 

これが、「通常」に対する、「異常」の場合です。

 

 

 

そして、通常には通常を管轄する論理があって、

通常の場合は、その通常を管轄する論理に従えばいいのですが、

他方で、

異常には異常を管轄する論理があって、

異常の場合は、通常を管轄する論理で対応すべきではなく、

異常を管轄する論理で対応しなければいけない、

というのが、天機の考え方です。

 

 

 

あらかじめ、食事前にトイレを済ませておく、

などの予防策をとったのに、

それでも、急な突発的な腹痛で、どうしてもトイレに行く必要に

迫られた、というのは、「異常」の論理が適用されるべき場面です。

 

 

 

ここでもかりに、

「通常」の論理を適用したとなると、

 

「どんなに急で突発的な腹痛が起こったとしても、

 食事中にトイレに立つのは、

 いついかなるときでも絶対的にマナー違反だから、

 どんなに苦しくても、絶対に食事中にトイレに立ってはダメだよ?」

 

ということになりかねません。

 

 

 

ですが、天機は、これはおかしなことだと思うのです。

 

 

 

そもそも、マナーや礼儀といったものは、

人と人とが、健やかに幸福に社会生活をおくっていくために、

人間社会において醸成されてきたものであるはずです。

 

つまり、人間の幸福というものが優先すべきものであって、

その意味からすれば、マナーは、

人間の幸福との関係では、劣後するものなのです。

 

 

 

いま、急で突発的な腹痛によって、どうしてもトイレに行きたくて、

苦痛を感じている人に、

それでもマナーだからトイレに行くな、

というのは、

人間に不必要な苦痛を強いるものであって、

本来、人間の幸福には劣後するはずのマナーが、

人間の幸福に対する優位を主張する、おかしなことになっている、といえそうです。

 

 

 

ですから、天機は思うのです。

 

 

 

食事中のトイレの問題に関しても、

「通常」と「異常」が存在するのです。

 

「通常」は、食事中にはトイレに立たないように、

食事前にトイレを済ませておくのがマナーであって、

それは、特段むずかしいことでもありません。

 

また、小用など、我慢するのがさしてむずかしくないような

便意に関しても、我慢するのがベターだといえそうです。

 

 

 

しかし、あらかじめ注意をしていた(つまり、本人に「帰責性」がない)

にもかかわらず、

急で突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立ちたくなった

(つまり、トイレに立つ「必要性」が大きい)ときに、

それでもマナーを理由として、本人に無用の苦痛を強制するのは、

不適当だと思うのです。

 

このような「異常」の場合には、

マナーは劣後し、トイレに行かせてあげるのが穏当であろう、

と、天機は思います。