この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【紫微斗数】遷移宮の象意について。

こんばんわ。天機です。

(約2000字)

 

 

きょうは、占いのお話です。

 

東洋占術に、「紫微斗数(しびとすう)」という占いがあるのですが、

きょうは、その占いで登場する「遷移宮(せんいきゅう)」

についての、独自の分析記事になります。

 

 

 

さて、紫微斗数においては、

いろんな分野のことを占うために、命盤というのを用意します。

 

その命盤は、12の部屋に分かれていて、それを「12宮」といいます。

 

その12宮のなかで、自分自身をあらわす、

いちばん大切な部屋が「命宮(めいきゅう)」なのですが、

その命宮の向かい側の部屋、つまり、命宮の対宮(たいきゅう)

にあたる部屋が、遷移宮なのです。

 

 

 

遷移宮については、一般的に、

 

①外出運、移動運などをあらわす。

 外出した際や、遠方に移転したときに、その移動先で

 発展できるのかどうか。

 ひとから歓迎されるのか、どうか。

 

②そのひとの対外的な印象をあらわす。

 外から見て、そのひとは、どのように見られているのか。

 

といったことをあらわす、と言われています。

 

 

 

天機は、ここからさらに発展させて、

遷移宮というところが、

どういうふうなことをあらわすのかについて、考えてみようと思います。

 

 

 

まず第一に、遷移宮は、「後天運」や「後半生」を

あらわす可能性があります。

 

ふつう、紫微斗数において、「後天運」や「後半生」

をあらわす宮位といえば、「身宮」が有名でしょう。

 

ですが、各種の紫微斗数の文献や、あるいは、

紫微斗数の本場、台湾などの紫微斗数サイトでは、

身宮にならんで、

「福徳宮」や「遷移宮」が、「後天運」や「後半生」

をあらわす、としているものが、いくつかあるのです。

 

 

 

このことについては、つぎのように考えることができます。

 

 

 

遷移宮の「遷移」という言葉は、

「移り変わって変化していく」という意味を持ちます。

 

つまり、命宮と、その対宮である遷移宮の関係でいえば、

そのひとが生まれたときどうであったか、

ということをあらわすのが命宮なら、

その後どのように変化していくのか、をあらわすのが遷移宮なのです。

 

したがって、

先天運や前半生のことが命宮によく示されるように、

後天運や後半生のことは遷移宮によく示される、

と考えることができるわけです。

 

 

 

ということは、たとえば、

命宮にはあんまりいい星が入っていないけれど、

遷移宮にはかなりいい星が入っている、というような人は、

生まれた時や若い時にはあまり恵まれないけれど、

人生の後半に向かうにつれて、だんだん運が上向きになる、

と読めるわけです。

 

 

 

そして、この「遷移宮」については、

 

各宮の遷移宮

 

というものを考えることができると思うのです。

 

 

 

どういうことなのか、説明していきましょう。

 

 

 

たとえば、紫微斗数の命盤においては、

夫妻宮と官禄宮というのは、たがいに向い合せになっており、

対宮の関係にあります。

 

ということは、

官禄宮というのは、夫妻宮から見た場合の「夫妻宮の遷移宮」であり、

夫妻宮というのは、官禄宮から見た場合の「官禄宮の遷移宮」である、

とみることができるわけです。

 

 

 

ということは、どういうことかというと、

官禄宮は、仕事運や事業運といった、本来あらわしている内容以外に、

 

後半生における結婚運をあらわす

 

という読み方をすることが可能になるのです。

 

反対に、夫妻宮は、本来あらわしている恋愛運や結婚運以外に、

 

後半生における仕事運をあらわす

 

という読み方をすることが可能になるのです。

 

 

 

ゆえに、本来の紫微斗数の命盤において、

夫妻宮にはいい星が入っているけれど、官禄宮には悪い星が入っている、

といった場合には、このひとは、

 

前半生においては恋愛運がよくて仕事運が悪いけれども、

後半生においては仕事運がよくなり恋愛運が悪くなる、

と読むことができます。

 

 

 

以上が、各宮の遷移宮、ということについての説明です。

 

 

 

もう1つ、遷移宮は「遷移」すること、つまり、

 

変化すること全般

 

の吉凶をみることができます。

 

 

 

遷移宮にいい星がたくさん入っているのなら、

このひとは、なにかと変化したほうがラッキーである、

という運の持ち主なのです。

 

反対に、遷移宮にあまりいい星が入っていないようなら、

このひとは、あまり変化せずに、

ひとつの所をじっと守ったほうがいい、

という運の持ち主だということになります。

 

 

 

たとえば、変な例ですが、

数学の試験問題を解いているときに、

1つの問題がむずかしくて、全然わからないとします。

 

遷移宮がいいひとなら、こういうとき、

その問題はおいといて、他の問題にとりかかったほうが、

うまくいく可能性が高い、ということになります。

 

ほかの問題に「移る」ということを、「遷移宮」が管轄しているからです。

 

 

 

また1つ、変な例ですが、

デパートの便所に行ったら、すごく並んでいたとしましょう。

 

遷移宮がいいひとなら、こういうとき、

エスカレーターでほかの階へ移って、べつのトイレを探してみたら、

案外、すいているかもしれません。

 

ほかのトイレへと、「場所を移動」することは、

遷移宮の管轄だからです。

女性はなぜ、共感をもとめるのか。

こんにちわ。天機です。

(約3600字)

 

 

 

きょうは、男女のコミュニケーションのありかたの違いについて、

考えてみたいと思います。

 

 

 

さて、世の中ではときどき、

男女のコミュニケーションのありかたについて、

 

 

 

女性は共感をもとめる

 

 

 

のに対して、

 

 

 

男性は解決策を提示しようとする

 

 

 

といったことが、言われることがあります。

 

 

 

もし、これが事実なのだとしたら、

その原因はいったい、どんなところにあるのでしょうか。

 

 

 

これについては、

男性は「思考」が発達しているのに対して、

女性は「感情」が発達しているからだ、

といった説明がされることも、よくあると思うのです。

 

 

 

ですが天機は、もっと深く考えてみようと思いました。

それは、以下のようになります。

 

 

 

天機は、このことの背景には、

 

 

 

苦というものをどのようにとらえているのか

 

 

 

について、

男女間で違いがある、ということがあるのではないだろうか…と、

思ったのです。

 

 

 

具体的にみてみましょう。

 

 

 

天機の考え方では、

 

 

 

男性は、「苦を消し去ることは可能だ」と考えている

 

 

 

のに対して、

 

 

 

女性は、「苦を消し去ることはできない」と考えている

 

 

 

のではなかろうか、と思うのですね。

 

 

 

いまここに、なにか問題があったとします。

 

 

 

問題が、解決されないままでそのまま残っているのは、

嫌なことですから、

それはひとつの「苦」である、といっていいかもしれません。

 

 

 

もし、この「苦」を目の前にしたときに、

「苦というものは消し去ることができるんだ」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

それはもちろん、そんな「苦」は、

早々に消し去ってしまったほうがいいに決まっています。

それで、嫌なこととおさらばできるのですから。

 

そして、そのためには、「解決策」を考えていく、ということになりそうです。

 

 

 

これが、おそらくは、男性の基本思想なのです。

 

したがって男性は、

なんらかの「苦」を提示されると、それを「問題」ととらえて、

「解決策」を模索しようと、頭脳を稼働させ始めるのです。

 

それは、「苦というものは消し去ることができるのだ」

という、男性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

では、同様に、ここになにかひとつ、問題があったときに、

「苦というものは消し去ることはできない」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

これは、先の場合とは異なります。

 

今度は、苦というのは、嫌なものなのに、

それから逃れるすべは、原理的には「ない」ということになってしまいます。

 

ここでは、どんなに「解決策」のようなものが提示されたとしても、

そのひとにとっては、どれも空疎なものに聞こえるでしょう。

 

それよりは、

逃れようのない圧倒的な「苦」にさらされている自分にとっては、

せめて、その自分の苦しみへの「共感」があるほうが、

どんなにか力強く感じられるのではないでしょうか。

 

 

 

これが、おそらくは、女性の基本思想なのです。

 

したがって女性は、

なんらかの「苦」に直面すると、基本的には、

その苦を解決しようとしたり、解決策を求めたりするよりも、

自身への「共感」をもとめることになるのだと思います。

 

それは、

「苦というものを消し去ることは原理的には不可能だ」

という、女性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

ちまたで、男女が口論になっている場面では、

男性は、

「どうして解決策を考えようとしないんだ!?」といきどおり、

女性は、

「ただ共感がほしいだけなのに…なんでわかってくれないの?」

といったふうにいきどおる…

といったようなことがある、と聞いたことがあります。

 

天機は、そんな場面に出くわしたことが、これまでの人生でありませんので、

よく知りませんが。

 

 

 

こういった場面でも、

男性がなんで、解決策にこだわるのかといえば、それは、

 

問題というものは解決ができるのだ

 

と、ある意味「無邪気に」信じているからかもしれず、

 

女性がなんで、共感にこだわるのかといえば、それは、

 

この世界には、解決できない苦しみもあるんじゃない?

 

という、男性へのひそやかな反問がかげにかくれているから、

かもしれません。

 

 

 

ところで、そもそも、

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

これが、根源にある、かなり大きな問いであるような気がするのです。

 

 

 

天機は、この広い自然世界と、人間の体のかたちとかを、

関連付けて考えるクセがあって、

それは、このブログのほかの記事とかでも書いているのですが、

この世界は、

 

 

 

矛盾→理→生

 

 

 

という順番で生成してきた、と、勝手に考えています。

 

 

 

具体的な存在や現象でいうと、

 

矛盾(夜の闇の黒)→理(昼の光の白)→生(夕焼け空の赤)

 

であり、また、

 

矛盾(髪の毛)→理(頭脳)→生(胴体、生殖器

 

でもある、と思っているのです。

 

 

 

で、この原理の関係のなかに、

 

 

というのを入れてみると、じつは、

 

 

 

矛盾(苦しみ)→理(それを解決しようとする理性)

→生(その結果得られる快楽)

 

 

 

なんじゃないか?

とも、思ったんですよね。

 

 

 

ここでもう一度、問いにもどります。

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=髪の毛

 

なわけです。

 

 

 

女性って、どういうわけか、髪の毛を長くのばしますよね。

男性は、そうはしない。バッサリといっちゃう。

 

 

 

これなんかも、

女性というのは、苦(髪の毛)というものを、

まるで愛おしむかのようなところがあるように、自分なんかには思えるのです。

 

 

 

いや、そんなことはないよ、って、女性からの反発の声もあるとは思います。

 

でも、少なくとも男性は、苦というものを、

ただ嫌なものでしかない、と見る傾向が強いな、という気はします。

 

 

 

もうひとつ、上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=夜の闇の黒

 

でもあるわけです。

 

 

 

暗闇で、たとえばマッチなんかをすって、光をともすでしょう。

 

すると、そこにあった暗闇(苦)は、消えます。

 

言ってみれば、光(理性)によって闇は殺された、とも、言えるかもしれません。

 

 

 

そうすると、たしかに、

光(理性)によって闇(苦)を消すことができた、と見えるかもしれません。

 

 

 

しかし、光には、寿命があります。

 

マッチの火であれば、マッチが燃え尽きれば、やがては、

もとの闇が戻ります。

 

 

 

この広い広い宇宙は、そのほとんどが暗闇でおおわれています。

 

太陽のように、みずから燃えて輝く恒星はたくさんあって、

その恒星の周辺では、暗闇が消されているわけですが、

それら恒星にも、寿命があるわけなので、

恒星が燃え尽きれば、やがては、ふたたび闇におおわれることになるでしょう。

 

 

 

男性というものは、ある意味、無邪気なところがあって、

その無邪気さが、いろんな成功や発展につながることもあったし、

その無邪気さが、逆に、悲しみや苦しみを生むこともあったと思うのです。

 

 

 

基本的には、男性は、苦しみを嫌がります。そして、快楽を好みます。

苦しみがあれば、それを消し去ろうとして、

頭脳をフル稼働させてくるのが、男性です。

 

苦しみとともにいよう、とか、苦しみを抱きしめよう、とかは、

たぶん、ほとんどの男性は、考えないと思います。

男性にとっては、「苦」は「嫌なもの」でしかないからです。

 

 

 

その男性の、苦しみを避けたいという気持ちと、

そのために働かせた頭脳のおかげで、

たとえばこの地球上には、さまざまな学問がうまれ、科学が発達し、

文明の利器がたくさん誕生しました。

 

そのために、たとえば、

夏の暑さに苦しむという「苦」も、

過重な労働をしなければいけないという「苦」も、

みな、「消し去る」ことができたのです。

 

 

 

そのなかには、たとえば、

炊飯器や電気洗濯機、エアコンや冷蔵庫や電気掃除機なんていうものも

あったりして、

それらは、これまで家事労働を主にになうことも多かった女性の負担を

一定程度減らしているかもしれず、

男性は「えっへん。どうだい?」と胸を張るわけです。

 

 

 

しかし、そんなにも文明と文明の利器が発達したのにもかかわらず、

もう何千年、何万年の昔から、

たとえば、

お産の時に、女性だけが苦しまなければいけない、

といった現実は、なんら変わっていないのです。

 

 

 

女性だけが苦しまなければいけない、などという理は、

もちろん、あるはずもないのですが、

この、人間の歴史においては、事実として、

「女性」と「苦しみ」は、近い位置に存在し続けてきたのです。

 

 

 

つまり、

「苦しみ」というのは、

女性にとっては、「肌感覚で感じることのできる現実の1つ」

なのだ、というところが、男性と違うところであって、

それゆえ、

なにか問題があったときに、

解決策を提示してくる男性の、その背景に、

 

苦しみというものは消し去ることができる

 

という、男性特有の無邪気な基本思想の存在を、

女性の敏感な「嗅覚」は感じ取っていて、

それが女性の中に、いやいや、

 

消せない苦しみもあると思うよ?

 

といったような、ある種の反発をも生じさせているんじゃないかな。

 

 

 

そんなふうなことを、天機は考えていました。

 

 

食事中のトイレについて、思うこと。

こんにちわ。天機です。

(約2200字)

 

 

 

きょうは、食事中のトイレについて、思うことを書いてみようと思います。

 

 

 

食事中にトイレに立つことについては、いろいろな意見があるようです。

 

 

 

「食事中にトイレに立つなんて、マナー違反だ。

 きちんと食事前にトイレをすませておくべきだ。」

 

という意見があるいっぽうで、

 

「食事中にトイレに行きたくなったときに、

 我慢を強いるというのは、一種の虐待にもなるんじゃないか?」

 

といった意見があったりします。

 

 

 

天機は、この問題について、自分の意見をのべてみたいと思います。

 

天機の意見が正しい、というわけではなくて、

世の中にいろんな意見がある、そんななかの1つの意見として、

天機はこんなふうに考えているのだな、

と思っていただければ、さいわいです。

 

 

 

さて、天機はいろんな問題について考える際の、

その思考枠組みの1つに、

 

「物事には、この世界には、通常と異常がある。

 通常だけがこの世界のすべてをおおいつくしているわけではなくて、

 通常と異常、その2つが合わさって、はじめてこの世界はできている。」

 

というような思考枠組みを持っています。

 

 

 

今回の、食事中のトイレの問題も、

この思考枠組みをもとにして、考えてみましょう。

 

 

 

まず、「通常」は、

食事中にトイレに立つというのは、マナー違反であって、

避けるべきことだと思うのです。

 

 

 

1人で食事をしているときなら、さほど問題ではないかもしれないですが、

ほかのひとが同席しているときなどは、やはり、

だれかが食事中にトイレに立つというのは、

気分のよいものではありません。

 

 

 

お里が知れる、という言葉もありますが、

いい大人になって、食事の最中にトイレに立つようなことが度重なると、

「このひとは、小さい時に、そういったマナーをしつけてもらえなかった

 のかな?」

と思われる可能性も、なきにしもあらずでしょう。

 

 

 

そして「通常」は、

食事中にトイレに立つことを防ぐことは、

さほどむずかしいことでもないようにも思うのです。

 

自分がそういった傾向がある、というふうにわかっているのなら、

注意して、

なるべくトイレは食事前にすませておくように、

習慣づけることもできるはずだからです。

 

 

 

以上が、「通常」です。

 

 

 

ただ、この世界には、「通常」だけではなく、

「通常」の外側に、「異常」が存在する、と天機は思うのです。

 

 

 

では、食事中のトイレの問題に関しての、

「異常」とは、いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、その「異常」というのは、

 

「食事前にあらかじめトイレに行っておく、などの予防策を講じて

 おいたのにもかかわらず、

 その点における不注意はなかったにもかかわらず、

 急な、突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立つ必要に

 迫られた場合」

 

のような場合だと思うのです。

 

 

 

これが、「通常」に対する、「異常」の場合です。

 

 

 

そして、通常には通常を管轄する論理があって、

通常の場合は、その通常を管轄する論理に従えばいいのですが、

他方で、

異常には異常を管轄する論理があって、

異常の場合は、通常を管轄する論理で対応すべきではなく、

異常を管轄する論理で対応しなければいけない、

というのが、天機の考え方です。

 

 

 

あらかじめ、食事前にトイレを済ませておく、

などの予防策をとったのに、

それでも、急な突発的な腹痛で、どうしてもトイレに行く必要に

迫られた、というのは、「異常」の論理が適用されるべき場面です。

 

 

 

ここでもかりに、

「通常」の論理を適用したとなると、

 

「どんなに急で突発的な腹痛が起こったとしても、

 食事中にトイレに立つのは、

 いついかなるときでも絶対的にマナー違反だから、

 どんなに苦しくても、絶対に食事中にトイレに立ってはダメだよ?」

 

ということになりかねません。

 

 

 

ですが、天機は、これはおかしなことだと思うのです。

 

 

 

そもそも、マナーや礼儀といったものは、

人と人とが、健やかに幸福に社会生活をおくっていくために、

人間社会において醸成されてきたものであるはずです。

 

つまり、人間の幸福というものが優先すべきものであって、

その意味からすれば、マナーは、

人間の幸福との関係では、劣後するものなのです。

 

 

 

いま、急で突発的な腹痛によって、どうしてもトイレに行きたくて、

苦痛を感じている人に、

それでもマナーだからトイレに行くな、

というのは、

人間に不必要な苦痛を強いるものであって、

本来、人間の幸福には劣後するはずのマナーが、

人間の幸福に対する優位を主張する、おかしなことになっている、

といえそうです。

 

 

 

ですから、天機は思うのです。

 

 

 

食事中のトイレの問題に関しても、

「通常」と「異常」が存在するのです。

 

「通常」は、食事中にはトイレに立たないように、

食事前にトイレを済ませておくのがマナーであって、

それは、特段むずかしいことでもありません。

 

また、小用など、我慢するのがさしてむずかしくないような

便意に関しても、我慢するのがベターだといえそうです。

 

 

 

しかし、あらかじめ注意をしていた(つまり、本人に「帰責性」がない)

にもかかわらず、

急で突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立ちたくなった

(つまり、トイレに立つ「必要性」が大きい)ときに、

それでもマナーを理由として、本人に無用の苦痛を強制するのは、

不適当だと思うのです。

 

このような「異常」の場合には、

マナーは劣後し、トイレに行かせてあげるのが穏当であろう、

と、天機は思います。

昔話と、意識と時間。

こんにちわ。天機です。

(約2800字)

 

 

 

今回は、昔話を題材にもしつつ、人間の意識と、時間の関係について、

考えてみたいと思います。

 

 

 

まず、ここでちょっと、皆さんの日常的なことを思い出してほしいのですが、

たとえば、

おんなじ8時間と言っても、

朝出勤してから夕方退勤するまでの8時間と、

夜就寝してから朝起床するまでの8時間とでは、

あー、8時間たった、というときの、その時間経過の感覚が、

すこし違うような感じがしませんか?

 

 

 

自分なんかは、

朝から夕方までの8時間の場合には、

それこそいろんなことがあって、いろんな人にも会って、

飯も食って、移動もして、それでようやく夕方になって、

ああ、やっと今日も一日お疲れさんだ、という感じで、

すごく、8時間が長く感じるんですよ。

 

 

 

それに対して、

夜布団に入ってから、ぐーぐー、ぐーぐー、寝て、

まあ、夢とかは見ることがあるかもしれませんが、

朝になって起きたとき、ああ、朝が来たなあ、また1日のはじまりだ、

というときって、

なんだか、布団に入ったのは、ついさっきのような感じがしませんか?

 

つまり、8時間がすごく短く感じるんですよ。

 

 

 

この、時間経過に対する感覚の違いは、

いったいどこからやってくるんだろう?と考えたときに、

そういえば、

朝から夕方までの8時間というのは、起きている、つまり、意識がある。

それに対して、

夜から朝までの8時間というのは、眠っている、つまり、意識がない。

ということに、思い至りました。

 

 

 

言葉を変えると、

起きている、というのは、顕在意識の状態であり、

眠っている、というのは、潜在意識あるいは無意識の状態なのですが、

この、意識状態の差異が、時間経過に対する感覚に違いをあたえている

のではないだろうか。

 

 

 

具体的に言うと、

無意識状態のもとでは、

時間があまりたっていないかのように感じてしまうような、

そんな現象がおこるのではないか。

 

 

 

そんなことを思ったのです。

 

 

 

無意識ということでいいますと、

ユングとか、フロイトとかいった精神分析学者は、

人間の意識、無意識について、深く研究したひとたちです。

 

なかでも、集合的無意識という概念を導入したユングによって

創始された心理学を、深層心理学というのですが、

この深層心理学を日本に導入した泰斗が、河合隼雄という先生で、

かつて、文化庁長官をつとめられました。

 

この河合先生は、その深層心理学の研究に役立つという観点から、

世界各地の神話や伝説のほかに、

日本のもふくめた民話や昔話といったものにも、

熱心に目を通されていたといいます。

 

 

 

自分も、たとえば、昔話のなかにも、

この世界のかくれた真理や秘密の「かけら」のようなものが、

隠れているのではないだろうか?と考える人間なのです。

 

 

 

では、今回の記事のテーマでもある、

人間の意識と時間の関係について、ヒントになるような昔話は、

あるのでしょうか。

 

 

 

自分が思いついた昔話は、以下の2つです。

 

 

 

① 浦島太郎

 

浦島太郎は、亀を助けたために、海の底にある竜宮城へといざなわれ、

乙姫たちと楽しい日々をおくって、やがてもとの漁村へ帰ってきたのですが、

あたりは、もう何十年もたったかのように様変わりしていました。

そこで浦島太郎が玉手箱をあけると、白い煙がふきだして、

自分も白髪のおじいさんになってしまった、というのが、あらましです。

 

 

 

なんで、この物語は、最後はバッドエンドで終わるんでしょうか。

竜宮城で楽しみ過ぎたことの、罰が、年寄りになってしまうということだった

のでしょうか。

 

 

 

自分は、じつは、この浦島太郎という物語のなかにかくれている、

この世界の真理や秘密に関するひとつの「かけら」が、

人間の意識と時間の関係に関するものだろうと思うのです。

 

 

 

じつは、「海」というのは、無意識ととてもつよい結びつきがあります。

 

西洋占星術では、海をあらわす海王星は、無意識を管轄する星ですし、

また、先に述べたユング深層心理学では、

人間の意識(顕在意識)というのは、無意識の大海に浮かんだ、

島のようなものだ、という説明がされています。

 

 

 

つまり、です。

 

浦島太郎のお話においては、じつは、

 

〇海の底の竜宮城にいるとき→無意識下にあるという状態

 

〇もとの漁村に帰ってきたら時間がすごくたっていた

→無意識下と意識下では、時間の進行速度が異なる

 

ということが、描かれていたのではないでしょうか?

 

 

 

② 養老の滝伝説

 

自分が、人間の意識と時間とのかかわりについて、

示唆をあたえてくれるだろう、と考えた、もうひとつの昔話が、

いわゆる、養老の滝伝説です。

 

 

 

これは、日本各地にさまざまなバージョンがあるのですが、

だいたいのあらましをいうと、

 

〇 おじいさんと息子が暮らしていて、あるとき、息子が山奥で、

  かぐわしい香りをはなっている滝の水を見つけて、家に持ち帰り、

  おじいさんに飲ませると、おじいさんが元気になって若返った、

  というもの。

 

〇 老夫婦が暮らしていて、あるとき、おじいさんが山奥で、

  かぐわしい香りをはなっている滝の水を見つけ、飲んでみたところ、

  若返ったかのように元気になった。

  その話を、家に帰ったおじいさんがおばあさんにしたところ、

  おばあさんも出かけて行った。

  ところが、おばあさんがなかなか帰ってこないので、

  おじいさんが様子を見に行ったところ、

  若返りの水を飲み過ぎたおばあさんは、なんと、赤ちゃんになっていた、

  というもの。

 

といったパターンがあります。

 

そして、だいたいにおいては、この話に出てくる若返りの水というのが、

じつは、ある種のお酒であった、とされているようです。

 

 

 

ここで、お酒というのは、アルコールであり、

飲めば気分がよくなるように、

人間の意識状態に影響する飲み物です。

 

通常は、お酒を飲めば、顕在意識は退行して、ぼんやりとした意識になります。

 

そして、人間の成長と老化に関して言えば、通常は、

赤ちゃん→子供→青年→壮年→老人

というのが、通常の時間経過のありかたのはずなのですが、

この、養老の滝伝説の昔話においては、

人間の意識をぼんやりさせるところの、若返りの水、つまりはお酒を飲むと、

若返る、つまり、時間経過の流れが反転する、とされているのです。

 

 

 

以上の2つの昔話から、

人間の意識と時間経過について考えてみて、

自分は、つぎのようなことを思いました。

 

 

 

つまり、

顕在意識のもとでの、通常の時間経過が、

たとえば、左から右へと流れる矢印のようなものであらわされるとしたら、

眠ったり、お酒をのんだりして、

意識状態が無意識や潜在意識にはいってくると、

逆に、右から左へ流れるような、

反転した時間経過があらわれてくるのではないだろうか。

 

通常は左から右への矢印なのに、そこに、右から左への矢印が追加されることで、

たとえば、

通常の時間経過が、すこしおそくなるような、

そんな現象もあらわれてくるんじゃないだろうか。

 

 

 

そんなことを考えていました。

神社に行くと、運が悪くなる?

こんにちわ。天機です。

(約1900字)

 

 

 

きょうは、神社仏閣について、自分の思ったことを書いてみようと思います。

 

 

 

個人的な話なのですが、天機は、2003年ごろから2005年ごろにかけて、

人生の中でも、とびきり運のわるい時期がありました。

 

じつはこの時期には、開運のこととかを考えて、

神社仏閣に足しげく参拝していたのです。

 

つまり、簡単に言うと、

神社仏閣によく参拝していた時期と、自分の運が非常に悪かった時期は、

自分の中では、重なっていたんですね。

 

 

 

 そこで、その時期のことを最近、思い返すなかで、天機は、

 

もしかしたら、神社仏閣というのは、

ひとに悪い影響をもたらすことも

あるんじゃないか。

そこまでは言えないにしても、

神社仏閣から、

あまり恩恵を受けられないような

タイプの人もいるんじゃないか

 

というような、いくぶん罰当たりなことを、考え付いたのです。

 

そして、じつは、ネットで検索してみると、

神社に行くとかえってよくないことが起こった、

というひとが、自分以外にも、ちらほら存在することがわかったんですね。

 

 

 

 この現象を、どう考えたらいいのでしょうか。

 

 

 

お正月には、多くの人が初詣に行くと思いますが、

それはふつう、神社というものがなんらかのご利益をもたらしてくれる、

と、考えているからだと思います。

 

そうなんです。

ふつうは、神社仏閣というのは、ご利益をもたらしこそすれ、

害をもたらすはずはない。

そう考えるのが、普通なのです。

 

なので、神社仏閣に参拝して、かえって悪いことが起こった、となると、

それは、

神社の境内とかに存在する低級霊に憑かれたからなんじゃないか?

という意見をいうひともいるわけです。

 

あくまで、神社そのものは悪くない、という前提に立った意見ですね。

 

 

 

この考え方というのは、簡単にまとめると、つぎのようになります。

 

つまり、神社仏閣というのがどのように機能しているか、というその原理は、

参拝してくれた人に対してご利益をもたらす

 

利益付与システム

 

というのが、その基本原理になっているのだ、と。

 

これはおそらく、ほとんどのひとが神社仏閣に対して、

なんとなく感じている、自然な印象にも合致する考え方だろうと思います。

 

 

 

でも、天機は変わり者なので、つぎのように考えてみました。

 

つまり、神社仏閣がどのように機能しているか、ということについて、

その拠って立つ基本原理というのは、じつは、

 

国家社会的見地からの利益移転システム

 

なのではないだろうか、と。

 

 

 

天機がこのように考えたのには、理由があります。

 

その理由とは、

多くの参拝者が神社仏閣をおとずれるなかで、

参拝者それぞれが実現したいそれぞれの願い事が、

相互に対立、矛盾することがあるのではないか、ということです。

 

つまり、一言で言えば、

願い事相互間で利益相反状態が発生しうる、

ということですね。

 

 

 

具体的にみてみましょう。

 

 

 

たとえば、太郎君は花子さんと恋人関係をつづけたがっているのに対し、

花子さんは太郎君との恋人関係を終わらせたいと思っているとします。

 

そのような2人が、神社に行ってそれぞれの願い事を願ったら、

相互に矛盾する関係にある、その2つの願い事をまえにして、

神様はいったい、どのように裁定をくだすのでしょうか?

 

 

 

また、絵馬をかざってある神社もあると思いますが、

Aさんも、Bさんも、Cさんも、〇〇大学絶対合格!と絵馬に書いたとしても、

〇〇大学には定員がある以上、

だれかの合格はだれかの不合格を意味することになるかもしれません。

 

そんなとき、神様はいったいどんな基準で、

合格を後押しするひとを選ぶのでしょうか。

 

 

 

と、このように、

だれかの願い事をかなえることは、だれかの願い事をかなえない、

ということを意味することがありえるわけです。

 

経済学やゲーム理論で言うところの、

ゼロサムゲーム」のような状態が、場合によっては、

願い事相互の間でも発生することがありえるわけですね。

 

 

 

そこで神様は、そういった状況が発生したときには、

一段高い大所高所から判断して、

「国家的には、あるいは、社会的には、あるいは、世の中的には、

あるいは公共の見地からは、

今回はAさんの願い事をかなえてあげて、Bさんには泣いてもらおう」

といったような判断、裁定をおこなう可能性があるわけです。

 

それが結果として、事実上の、

BさんからAさんへのご利益の移転効果をもたらし、

Bさんとしては、

「神社へ行ったら、かえって運が悪くなったぞ?」

というような印象をうみだしているのではないでしょうか。

 

 

 

今回もまた、こんなとりとめのないことを考えていました。

  

犬を含む漢字について。

こんにちわ。天機です。

 

今回の記事は、とても気が引けるのですが、大作です。

字数は、約10400字あります。

 

 

 

きょうは、ひさしぶりに漢字論について語ってみようと思います。

 

ただし、いつものことなのですが、

天機が独自説をとなえるときというのは、いつも、

自分の思い付きを「論理的に見えるように」説明したものになります。

 

漢字を専門的に研究している大学の先生などには、

学問的なトレーニングというバックボーンがありますが、

天機には、それがありません。

 

なので、あまり、正しいことを言っている、とは思いこまないで、

エッセーのようなたぐいだと思って、読み進めてください。

 

では、いきます。

 

 

 

漢字の中には、「犬」という部分を含む漢字が、いくつかあります。

 

本場の中国では、それはもう漢字の数がすごく多いですから、

犬を含む漢字も多数に上るのですが、

ここは日本ですから、常用漢字にしぼって考えることにしましょう。

 

そのなかでも、「犬」なのか、「大」なのかについて、

争いのある漢字については省くことにします。

 

すると、

日本の常用漢字において、あきらかに「犬」という部分をふくむ漢字は、

以下の8つになります。

 

 

 

伏 然 犬 状 献 獄 獣 黙

 

 

 

天機は、うえにあげた「犬」をふくむ漢字の字源について気になったので、

ネットで調べてみました。

 

以下に記載する、それぞれの漢字の字源については、基本的には、

ウィクショナリーというサイトを参考にし、

ウィクショナリーに字源の記載がない場合は、

その他のサイトを参考にしました。

 

では、字源について、見ていきましょう。

 

 

 

この漢字は、会意文字とされています。会意文字とはなんであるのか、

天機にはよくわかりません。

人が、犬のように伏せたり、はいつくばったりするところからできた漢字だ、

とされているようです。

 

 

 

この漢字も、会意文字とされています。

犬の肉をあぶるところからきた漢字で、燃焼の燃の原字だという説明ですね。

 

 

 

この漢字の説明はシンプルでした。

象形文字です。

犬が、このように見えた、ということなのでしょう。

 

 

 

この漢字は、右側の「犬」という部分と、左側の部分とからなっていますが、

左側の部分は、もともと、寝台を意味する部分で、

音のみを借りた形声文字だという説明がされていました(説文解字)。

形声文字がなんなのか、天機にはよくわかりません。

 

 

 

この漢字は、左側に「南」という部分がみえますが、ここはもともと、

「南」ではなく、

物を煮炊きする意味をもつ、べつの原字があったようです。

そこからこの漢字は、

犬を煮炊きして神にささげる、という意味を持つようになった、

という説明がされています。

 

 

 

この漢字は、いちばん左側にあるけものへんと、いちばん右側にある「犬」とが、

あわせて2匹の犬をあらわしていて、

その2匹の犬がお互いに吠えて争うところから、

原告と被告をあらわし、裁判に関係し、服役、刑務所に関係する、という説と、

もう1つ、

2匹の犬がお互いに吠え争うところから、

そのような、人間にとっては危険な場所をあらわすようになった、

という説があります。

 

 

 

この漢字の左側の部分は、狩猟の道具をあらわしていて、

右側の「犬」は、狩猟の際に連れて行く猟犬をあらわしており、

あわせて「狩猟」というのがもともとの意味なのだ、という説明がされています。

 

 

 

犬を犠牲として埋めて、だまって喪に服する、

という説明が、白川静さんによってなされています。

「字統」や「字訓」といった大著のある白川先生は、

漢字学においておおきな影響力をもつことになりましたが、

正統派の漢字学者からは、批判されることがあります。

 

 

 

以上が、ネットを参考にしてまとめてみた、

「犬」という部分をふくむ漢字の字源です。

 

こうしてみてくると、明らかなことなのですが、

これらの字源の説明において、

なぜ、「犬」という部分がふくまれているのかについて説明するにあたっては、

ことごとく、

 

実際に吠えたり走り回ったりするところの、

動物の犬をもとに思考をすすめている

 

のです。

 

 

 

天機はなにを言ってるんだ?

そんなの、あたりまえやん。

動物の犬以外に、「犬」になにがあるっていうんだよ!

 

そんな、お叱りの声も聞こえてきそうです。

 

 

 

でも、頭のおかしい天機は、こんなことを考えてみたのです。

 

 

 

犬という部分を含む漢字における犬は、

実際の動物の犬ではなくて、

犬という動物に象徴されるような、

背後にあるなんらかの隠れた原理のことを指してるんじゃないか?

 

と。

 

 

 

では、この天機の妄想をもとに、論をすすめていきましょう。

 

ここから、天機の独自説を開陳していきますが、

独自説を展開するにあたっては、

古今の碩学の学説などといったものは、ことごとく無視していきます。

 

では、いきましょう。

 

 

 

漢字というものが、どうやってできたのか。

そんなことを考えていると、そこにおおきなロマンを感じることがあります。

 

漢字学者といったような、漢字について専門的に考えることを

職業にしているひとたちも、漢字について、日々考えていることでしょう。

 

 

 

ですが天機が思うに、

漢字学者といったようなひとたちは、

古代の人たちが漢字をつくりだすにあたって持っていた理性というものを、

すこし軽く考えるくせがあるのではないかな?

と思うのです。

 

つまり、現代というのは文明が開けた世界であって、

人間の歴史というのは、時代が新しくなればなるほど、どんどん進歩していく。

逆に言えば、

はるかな古い古い時代というのは、文明もまだ開けていなくて、

迷信もはびこっており、

ということは当然、古代人の持つ理性などといったものもたいしたことはなく、

なにかのもののかたちを見たままに象形文字にしたり、

あるいは、呪術的な要素も、濃厚に作字のプロセスには存在したであろう。

 

そんなふうに、現代の漢字学者は考えているのではないかな、

と、天機なんかは、思うことがあるのです。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか。

 

天機は、この世界にかたちをとってあらわれた、

個別具体的な存在や現象の背後には、

それらのおおもとになったような、かくれた原理が存在する、

と考えています。

 

漢字は一見したところ、それらの個別具体的なもののほうを参考にして

つくられたように見えるかもしれませんが、

じつは、漢字というのは、

背後に隠れたおおもとにある原理のほうに言及して生まれてきたものなのではないか。

 

そして、

そういった隠れた原理を洞察して、それに言及し、

広範な漢字の体系の中で相互に矛盾のないしくみとして組み上げていく

ことができた古代人の理性というのは、

じつは、むしろ、

現代人などが逆立ちしてもかなわないような、

神がかり的なレベルにあったのではないか。

 

そんなふうに天機なんかは考えたりするのです。

 

 

 

では、今回とりあげた、

「犬」という部分をふくむ漢字に話をもどして考えてみると、

どういったことがいえるでしょうか。

 

天機の想像は、こうです。

 

 

 

人間について、すこし考えてみましょう。

 

人間には、「体」と「心」があります。

 

体というのは、見ることができる。

体から発せられる声などは、聞くことができる。

愛するひとの体に、触れることもできる。

 

ようするに、感覚器官でもってその対象である体を把握することができるというのが、

「体」というものがもっている1つの性質です。

 

 

 

また同時に、体というものは、変化しにくい、という性質をもっているとも、

ある程度はいうことができるかもしれません。

 

もちろん、女性は化粧をすれば変身することができるでしょうし、

交通事故などに遭えば、

たちどころに重傷を負うようなこともありうるでしょう。

 

ですが、

昨日会った友人が、今日見てみると、身長が2倍に伸びていた、とか、

1年前に会った親戚の伯父さんに、ひさしぶりに再会したら牙が生えていた、

といったことは、通常はないわけです。

 

へんなたとえをだしましたが、

体というのは、だいたいにおいて、変化はしにくいものだと、天機は思うのです。

 

 

 

それに対して、心はどうでしょうか。

 

ひとは、話したり、手紙を書いたりすることで、

自分の心の内を、他者に伝えることはできます。

 

ですが、その伝えた内容が、つねに真実である保証はありません。

人というのは、嘘をついたり、冗談を言ったりすることがあるからです。

 

拷問にかけて、ひとに一定の「情報」を吐かせることはできるかもしれませんし、

キリシタンに踏絵をふませて、「忠誠」をあきらかにさせることも

できるかもしれませんが、

そのじつ、内心ではなにを思い、なにを考えているかまでは、

通常は、分かりにくいものでしょう。

 

ということは、心というのは、体とはちがって、

感覚器官による把握がむずかしい、ということが、一定程度、

言えるのではないか、と思います。

 

 

 

また同時に、心というものは、からだにくらべて、

変化しやすい、という性質ももっています。

 

女心と秋の空、というたとえがありますが、べつに女性の心にかぎらなくても、

さっきまで気分良く過ごしていたのに、

急に電話がかかってきて、仕事で呼び出された、とかいったことがあると、

とたんに不快な気分になる、

というのが、人間の心です。

 

その意味で、人間の心は、からだにくらべると、変化しやすいものだと思うのです。

 

 

 

以上を整理すると、

人間には「体」と「心」があって、

体というものは、感覚器官で把握しやすく、また、変化しにくい。

他方で、心というものは、感覚器官で把握しにくく、また、変化しやすい。

 

おおざっぱにいって、うえのような区別をたてることが可能ではないだろうか、

と思います。

 

 

 

うえでみたような、体と心の区別というのは、

「人間」に対象をしぼって考えてみたものでした。

 

では、これを、

この宇宙とか、この世界とかに、範囲をひろげて考えてみたら、

どうなるでしょう。

 

 

 

天機が、このように考えてきたときに、

漢字の成り立ちとの関連で考え付いたのが、

 

という漢字と、

という漢字です。

 

 

 

大も、小も、いずれも小学校で習うような、基本的な漢字ですよね。

 

大は大きいということであり、小は小さいということである。

いずれの意味も、日本人にとっては基本的なもので、

さらにいえば、

大という漢字と小という漢字から、これ以外の意味を導き出すようなことは、

通常はあまりないといってもいいでしょう。

 

 

 

ですが、天機は、さまざまな漢字の中の一部として、

この「大」や「小」がふくまれている場合をずーっと見てきた中で、

ひと言で言えば、

 

大という漢字は「フェーズ」を

小という漢字は「遷移」を

 

それぞれあらわすのではないだろうか?

と思ったんです。

 

 

 

さらに、もっと突っ込んで言えば、

大という漢字の中には横線が入っていますが、

 

漢字における横線はフェーズをあらわし

 

また、小という漢字の中には縦線が入っていますが、

 

漢字における縦線は遷移をあらわす

 

のではないだろうか、と、例によって天機は、

「勝手に」考えたんです。

 

 

 

ここで、「フェーズ」だの、「遷移」だのといった、

もともとの用語からしてあまりなじみがないうえに、

さらには、おそらく天機はここにおいて、

自分独自の用語法でこれらの言葉を使用してるであろうために、

さらに混乱を招きかねない、

これら2つの言葉について、くわしく見ていきたいと思います。

 

 

 

まず、フェーズについて。

このフェーズという言葉によって、天機がここで言い表そうとしている内容は、

 

「存在や現象。それはなんなのか?と問われたときに、それは〇〇だ、というふうに

 かちっと定義できるようななにか。目に見えたり、耳で聞こえたり、感覚器官

 で把握しやすいもの。人間の、体と心でいうならば、体にあたるもの。

 かちっとしていて、比較的明確で、空間性のあるもの。変化があまりないもの。

 確定的であって、そこに立脚して、つぎに積み重ねていくことができる基盤に

 あたるようななにか。場。姿。外面。ある局面。静と動でいえば、静。」

 

と、おおよそ天機の頭の中では、こういうふうなものをフェーズという言葉で

あらわそうとしています。

 

 

 

ではつぎに、遷移について。

この遷移という言葉によって、天機がここで言い表そうとしている内容というのは、

 

「精神や法則性、理法といったような、物事の表面からは見えない、背後に隠れた

 なにか。人間の、体と心で言うならば、心にあたるほう。フェーズというのが、

 電車が停まる駅だとすると、遷移というのは、その間をつなぐ線路みたいなもの。

 かちっとした確定的な感じはなくて、変化変動しようとするのが、遷移。

 感覚器官ではとらえにくく、変化しやすい。いま、どうであるのか、いま、なんで

 あるのか、を問題にするのがフェーズの議論であるならば、

 これから先、どのような方向へと変化していくのか、ということを問題にするのが

 遷移の議論。静と動でいえば、動。内面。変化とかかわりがあるので、

 時間性と関連があるのが、遷移。物質がフェーズだとすると、エネルギーが遷移。

 エネルギーが遷移とかかわりがあって、エネルギーというのは、他のものに力や

 作用を及ぼすものであるところから、この遷移は、作用、変化、適用、といったもの

 とも関連する。」

 

 

 

とまあ、このように、

天機の頭の中は、おもちゃ箱がひっくり返ったような感じで混乱しているのですが、

「フェーズ」という言葉と、「遷移」という言葉で、

天機が脳内でイメージしている事柄というのは、

だいたい、上で述べたような感じになります。

 

そして、繰り返しになりますが、

漢字の「大」は「フェーズ」に、漢字の「小」は「遷移」に、

それぞれ関連している、と考えているわけです。

 

 

 

では、「犬」という漢字は、いったい、どのように考えたらいいのでしょうか。

 

 

 

ネットにのっている字源解説では、この「犬」という漢字は象形文字だと、

つまりは、犬を見たらそういうふうに見えたと、解説されていました。

 

 

 

が、天機はそのようには考えませんでした。

 

天機は、この「犬」という漢字は、

「大」という漢字がもともとあって、その右上に点をひとつ加えたものだと

思ったのです。

 

つまり、漢字の「大」があらわすような性質がまずあって、

それを前提にして、右上に1つ点を加えることで、

その性質にある種の制限をかけた、と考えたのです。

 

 

 

それが意味するところはなにか、というと、

 

存在や現象といった、外から見てわかるなにか、体と心で言えば、体、

そして外面、

そういったものに、一定の拘束や制限がかかっている状態

 

その状態を指して、

「犬」という漢字で表現したのではないだろうか、と考えたのです。

 

 

 

犬を象形文字だとする考え方というのは、ようするに、

そのへんを走り回っている、個別具体的な動物の犬の姿を見て漢字をつくったのだ、

とする考え方なのです。

 

それに対して、天機の考え方というのは、

そのへんを走り回っている、個別具体的な犬の背後には、

じつは、

大という漢字があらわす存在や現象といったものに一定の拘束や制限がかかっている

状態、

というひとつの原理があって、

犬という漢字は、個別具体的な動物の犬から着想を得てできた漢字ではなく、

そのおおもとになった、ひとつの原理のほうに言及してできた漢字なのだ、

というものなのです。

 

 

 

そして、非常に狂気じみたことに、

漢字というのは、日常の意思疎通のために便宜的に記号のようなものを

人間がこしらえた、というわけではなくて、

ふつうは見えないような、この世界の隠れた原理、

さらには、それら原理相互間の関係、そして、その関係の集大成である体系まで、

洞察したうえでつくられたものである、と、

天機は考えているのです。

 

 

 

「犬」という漢字に話をもどしましょう。

 

ふつうは、この世界に犬という動物がいて、それを見て、

ひとは「犬」という漢字をつくったのだ、と考えるかもしれません。

 

 

 

ですが、天機は頭がおかしいので、そのようには考えません。

 

この世界には、個別具体的な存在物に先立って、なんらかの「原理」があった、

と考えます。

そして、その「原理」が、具体的なかたちをとって、

この世界にあらわれ出でたのが、個別具体的な存在物である、と考えるのです。

 

「犬」についていうならば、

存在や現象といった外面に、なんらかの一定の拘束や制限がかかっている状態、

というひとつの「原理」がまずはじめにあって、

その「原理」が、この世界に具体的なかたちをとってあらわれたのが、

動物の「犬」なのだ、というふうに天機は考えています。

 

 

 

そして、犬はこのような背景をもってこの世に生まれてきているので、

この原理をあらわすような性質を、

実際の動物としての「犬」も、持つようになります。

 

 

 

たとえば、この世界を見渡してみると、いろんな動物がいますよね。

 

牛も、豚も、鶏も、魚も、人間に獲って食べられることも多く、

その意味では、人間の支配に服している、と見ることもできるかもしれません。

 

が、だからといって、それらの生き物は、

人間に対して従順であるという姿勢を、外面的に表したりはしませんよね。

服従の姿勢をしめすことは、ないんです。

 

 

 

犬と並んで、人間がペットとして飼うことも多い猫とかも、

そうではないでしょうか。

 

自分はペットには詳しくはないのであれなんですが、

猫がリードをつけて散歩されてたり、

猫が「お手!」とか「おすわり!」とかいったことをやらされてる場面

というのは、

犬に比べると、想像しにくいんですよね。

 

 

 

ところが、犬はちがいます。

 

犬というのは、ほかのいろんな生き物がいるなかでも、

あきらかにほかとは異なって特徴的なことに、

人間に対する「服従」の姿勢を、「外面的に」表現するのです。

 

もちろん、犬だって生き物ですから、

その気持ちの中では、「この飼い主きらいだな」と思っているかもしれませんよ。

 

でも、ここで問題にするのは、そういった内面ではなく、

外面なのです。

 

そして、その外面というのは、漢字の「大」が象徴するものでした。

 

 

 

つまり、

「犬」という生き物は、その漢字の成り立ちからわかるように、

存在や現象といった、姿、外面に一定の拘束や制限がかかっている状態、

という、1つの原理を背景として生まれてきている生き物なので、

なので、

実際の動物としての犬も、

飼い主に対する「忠誠」の姿勢を、他の生き物たちとは異なって、

外面的に表現するという性質をそなえるにいたったのではないか、

ということなのです。

 

 

 

そして、ここからがいよいよ、

今回のブログ記事のメインテーマなのですが、

最初のほうにあげたような、「犬」という部分をふくむいろいろな漢字についても、

個別具体的な動物の犬をもとにしてその字源を考えるのではなくて、

外面に対して制限や拘束がかかっているというかたち、

という、1つの原理をもとにして字源を考えてみたら、

統一的に解釈することができるのではないか、

というのが、天機の考えたことなのです。

 

では、1つ1つの漢字について、見ていきましょう。

 

 

 

これは、「犬のように」ふせたり、はいつくばったりするからではなく、

人間が伏せるという姿勢が、

外から見たときの人間の態度や姿勢、つまり、外面に抑制がかかっている

ところから、

このような字ができたと考えられます。

 

 

 

この漢字は、動作としては、自分の側から相手の側へと、

なんらかのものを受け渡すということなのですが、

通常は、たとえば、身分の低いものから目上の者へといった、

渡す側の「へりくだり」を含意する動作です。

 

単に、あげる、とか、わたす、とかいった、単純な「give」ではないのです。

 

そこにふくまれる「へりくだり」が、

わたすひとの外面への抑制や制約になっているところから、

この字には「犬」がふくまれると考えられます。

 

 

 

だまっている、沈黙している、ということと対比されるもの、

それとは反対になるもの、といえば、通常は、

話している、声を出している、自分の意見を表明している、

ということでしょう。

 

自分の意見を表明するということは、発話によって、

自己表現をおこなう、自己主張をおこなう、自分というものを押し出していく、

ということです。

 

沈黙しているということは、話すのか話さないのかということに関して、

自分というものを積極的に外へと押し出していく姿勢に

一定の拘束や制限がかかっているということができます。

 

なので、この漢字にも「犬」がはいります。

 

 

 

この漢字は、現代でいえば、刑務所のことをさすでしょうか。

 

刑務所に入った受刑者、服役囚は、

基本的には、看守やその他の人間の規律に服して、おとなしくしている必要が

あります。

 

たとえ、どんなに心の中(内面)において、

「この看守、気に入らねえなあ。殺してやりてえ。」

と思ったとしても、その気持ちを態度(外面)にあらわせば、

袋叩きにあいますよね。

 

なので、「獄」に収監されている者は、みずからの態度(外面)を抑制的に

している必要があり、

その限度で外面に制約がかかっているといえるので、

やはり、この文字にも「犬」がはいります。

 

 

 

この世界には、いろんな生き物がいます。

 

草原にも、海の中にも、ジャングルの奥地にも、それは多数の生き物が

いますから、

たとえ人間と言えども、それらの生き物のすべてを24時間コントロールしたり、

支配したりは、できないわけです。

 

しかしながら、この「獣」という文字は、おそらくは、

たんに中立的な立場から生き物たち、動物たちを指してうまれた文字ではなく、

人間に対する者、いざとなれば人間によって支配される、人間とは異なった

生き物、という意味で、動物たちを指してつくられた文字だという気がするのです。

 

禽獣ですね。

 

サーカスで鞭打たれるライオンも、鉄砲におびえる山奥の熊も、

心の中(内面)では、人間に対して激しい怒りを持っているのかもしれませんが、

そういったこととは関係なく、

実際の事象(外面)としては、人間によって支配、馴致されるわけです。

 

なので、そういった外面において、人間に対する関係においては抑制され、

制約を受けているという事実に着目して、

この「獣」という文字にも、やはり、「犬」がはいるのではないでしょうか。

 

 

 

状、然

これら2つの文字に犬がはいる理由は、一見したところ、判然としません。

これらの文字になぜ犬がはいるのかは、じっくりと考える必要があるのです。

 

そこで、熟語にして考えてみましょう。

 

「状」という漢字をふくむ熟語には、たとえば、

状態、状況、状勢、逮捕状、書状、樹状突起、斑状組織、症状、現状、

といったものがあります。

 

「然」という漢字をふくむ熟語には、たとえば、

悠然、自然、天然、泰然自若、公然、

といったものがあります。

 

 

 

たとえば、こんな状況を考えてみましょう。

 

大規模な自動車事故、交通事故、あるいは、鉄道事故などが発生し、

警察や消防、救急などへ通報があいついだとします。

けが人も多数出ています。

 

そういった報を受けた、警察や消防、救急の側には、

おそらく、その事案に応じて対処するために、指揮命令系統というのが

存在すると思うのですが、

総合的な判断をくだす、そういった管轄の上司、リーダーとしては、

「現場の「状」況は?」

と、たずねると思うんですね。

 

すると、実際に事故の現場で対応にあたっている、警察官、消防隊員、

救急隊員などは、どういった応答をしますか?

 

 

 

「おばあちゃんが、ねぎの入った買い物かごをさげてて、

 そのかごから、しょうゆのボトルがころがりでて、おばあちゃんメガネも

 割れてて…」

とか、

「車が、大きいのと、小さいの、赤いのやら黄色いのやらが、ぶつかってて、

 ドアがへこんでて…」

とかいったような、わけのわからない報告は、まずしないと思います。

 

こんな報告の仕方をしていたら、警察官失格、救急隊員失格になってしまうかも

しれませんよね。

 

そうではなくて、通常は、

「〇〇時〇〇分、現着。傷病者合計7名、現場にて多数の散乱物あり。」

とかいった報告の形態になると思うんですよね。

 

 

 

さっきの報告と、今回の報告と、なにがちがうんでしょうか。

 

 

 

それは、さっきの報告というのは、「生の(なまの)事実」をそのまま、

脈絡なく伝えているのに対して、

今回の報告は、上司が判断をしやすいように、必要な情報だけを咀嚼し、

整理したかたちで伝えている、ということなのです。

 

そして、ひとが、「状」況、「状」態、「状」勢、現「状」というふうに認識

ができるためには、

このように、

外面にあらわれた、表面にあらわれた、生の(なまの)事実をそのまま取り扱う

だけでは足りず、

そこに思考や判断によって、

評価、解釈、分析をくわえていく必要があるのです。

 

「然」という漢字についても、同じようなことが言えます。

 

悠然という表現であるならば、ひとがある様子を見たときに、

ああ、これはゆったりした様子だなあ、と感じて、

その様子全体に対して、「ゆったりしている」という観点からの

評価をくわえています。

 

公然というのも、人がある様子をみて、

はっきりしているなあ、隠し事がないようだなあ、という観点から、

全体を「公然」という一言のもとにまとめているわけです。

 

 

 

ということを整理すると、

「状」の字と「然」の字は、ともに、

表面的、外面的にあらわれた事実に対して、

観察者である人間の側が、評価や分析、解釈や批評をくわえるという意味において、

その外面的な事実に対して、ある種のワクをはめ、拘束をくわえている、

とみることができます。

 

おそらく、こういった背景があるために、やはり、

「状」の字にも、「然」の字にも、

「犬」がはいってくるのだろうと、天機は思います。

 

 

 

漢字についての、それ以外の独自考察については、こちら。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

皇太子ご一家と、秋篠宮家。

こんにちわ。天機です。

(約1400字)

 

 

 

天機はあまり、テレビをみることがなくて、

お昼のワイドショーとかもまったく見ないのですが、

見る人は見ますよね。

 

 

 

お昼のワイドショーとかでは、

芸能ネタをやったり、ときには、

皇室に関する話題を取り扱ったりすることもあるかと思います。

 

 

 

きょうは、皇室に関する、

天機の下世話な論評になります。

 

 

 

皇室には、皇太子ご一家と、秋篠宮家があります。

 

天機は、時代の大きな流れ、時代の変化、

といったものをつかみたいと、いつも思っているのですが、

この、皇室における2つのご家庭をみていると、

やはり、時代の変化というものがあるように思えるのです。

 

 

 

2003年ごろから、今年、2018年ごろにいたるまでの、

おおよそ15年間、

世の中的にも、ある種の特徴をもった1つの時代がありました。

 

 

 

そして、この、2003年ごろから2018年ごろに

至るまでの15年間というのは、

ごくごくおおざっぱに言って、

 

「皇太子ご一家下げ、秋篠宮家上げ」

 

という時代だったように思うのです。

 

この時代には、皇太子ご一家があまり運気がよくなくて、

秋篠宮家は運気がよかったような印象をうけるのですね。

 

 

 

2003年ごろを境として、皇太子ご一家では、

雅子様が、適応障害という病気にかかられて、

一般に姿を見せられることがなくなりました。

 

そのために、皇太子ご一家が、ある種のバッシングにさらされることも、

あったわけなのです。

 

 

 

同時期の秋篠宮家は、比較的幸運でした。

 

2006年には、秋篠宮家に、待望の男系男児となる悠仁様が誕生し、

国民の祝福を受けることにもなりました。

 

 

 

以上のことから、総じて言えば、

2003年ごろから2018年ごろにかけてのおおよそ15年間は、

 

「皇太子ご一家下げ、秋篠宮家上げ」

 

という流れだったように思います。

 

 

 

ところが、この流れは、

2018年前後になって、変化を見せ始めます。

 

 

 

2016年、天皇陛下が、突然の生前退位の宣言をなさいました。

 

このことによって、

皇太子さまは、近いうちに、確実に次期天皇になられることが確定し、

皇太子さま、雅子様は、つぎの天皇皇后両陛下になられることになり、

他方で、

秋篠宮家がそのようになる目は消えました。

 

このことと、だいたい時を同じくするようにして、

雅子様の病状が急速にご快復に向かわれるようになり、

メディアへの対応など、

公の場に雅子様がお見えになることが増えてきたのです。

 

 

 

他方で、秋篠宮家においては、

眞子様の婚姻問題が突然浮上することとなり、

婚姻だから慶事であろうと、ふつうは思われるところなのですが、

お相手の人柄なども関連して、

国民の間に祝福のムードが広がっているかというと、

かならずしも、そうとは言えない状況にもなっています。

 

 

 

これらの事柄を総合すると、

2018年前後になってきて、時代は、

 

「皇太子ご一家上げ、秋篠宮家下げ」

 

の方向に、すこしシフトしてきたかな、というように、天機は思うのです。

 

 

 

上で述べたようなことが真実なのかどうかは、全然わかりませんけれども、

なんとなく、

皇太子ご一家の運勢と、秋篠宮家の運勢は、

たがいにシーソーのような関係になっているような気がするのです。

 

 

 

そして、

2003年ごろから2018年ごろまでの時代には、

そのシーソーはある方向に傾いていましたが、

2018年ごろの最近になって、

そのシーソーが、傾きをすこし変えてきたかな、というように思うのです。