この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「屁理屈」について考える。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「屁理屈」について考えてみたいと思います。

(この記事の字数 約1900字)

 

 

 

よく、相手がなにか主張したときに、

「それは屁理屈だ!」とかなんとか言って、相手の主張を封じようとする

ひとがいます。

 

 

 

天機はひねくれているので、どちらかというと、

「それは屁理屈だ!」と言うようなひとは、嫌いです。

 

そして、いわゆる「屁理屈」をこねるひとのほうが、好きなのです。

 

 

 

だいたい、「それは屁理屈だ!」と言うようなひとというのは、

親が子に対してそういうふうに言う場面とか、

相手を、「理屈」ではなく「権力」で、押さえつけてやろうというような

ひとが、多いような気がするんです。

 

 

 

「それは屁理屈だ!」というひとは、たぶん、

相手の「理屈」にいらだっています。

 

 

 

というのは、ひとつには、

自分が相手の「屁理屈」だとして片づけてしまいたい相手の「理屈」が、

なかなか効果的に反論するのがむずかしいものであるからで、

もうひとつには、

相手がなぜ、そういった「屁理屈」を展開してくるのかというと、それは、

相手の側に、なんらかの確保したい自己の利益があるからです。

 

 

 

つまり、

一見「理屈」のかたちをとっている、自分から見れば「屁理屈」に見えるもの

の背後には、相手の利己心が見え隠れしているということ、

そして、それなのに、

その「屁理屈」の論理はなかなか堅牢で、突き崩すのがむずかしいということ、

これらのことがないまぜになって、いらだちを生み、

「それは屁理屈だ!」と思わず言ってしまうことにつながるのでしょう。

 

 

 

では、「屁理屈」の背後にある、相手の利己心や、自己の利益を確保したいという

動機は、よくないもので、排斥されなければいけないものなのでしょうか?

 

 

 

天機は、そうは思いません。

 

 

 

子供がなんらかの「屁理屈」を言い、それに対して親が、

「それは屁理屈だ!」と言っているような場面で考えてみましょう。

 

 

 

この場合、親の側には、

① 親の側が確保したい利益

② それを主張するために親の側がとる論理構成

があります。

 

いっぽうで、子の側には、

Ⅰ 子の側が確保したい利益

Ⅱ それを主張するために子の側がとる論理構成

があります。

 

 

 

つまり、「屁理屈」の背後には、利己的な動機があって、

それはよくないものだ、という考え方がたしかにひとつ、あるのですが、

利己的な動機をもっているのは、

なにも、「屁理屈」を言う側だけではないのです。

 

 

 

うえの、親と子の例でいうならば、

親の側にも、子の側にも、確保したい利益がそれぞれあって、

その両者は対立しているわけです。

 

 

 

そのような状況にあるのに、

子の側が自己の利益を確保しようとする動機と主張だけが、

「それは屁理屈だ!」という言葉のもとに、

一方的に排斥されてしまうのは、なんともおかしなことではないでしょうか。

 

 

 

両者ともに、確保したい利益があって、それが対立しているのならば、

それを主張する、両者それぞれの「論理構成の」優劣、適否で、

事を決するべきだと、天機は思います。

 

 

 

そして、その論理構成の対決において、事実上「敗北」したならば、

見苦しく「それは屁理屈だ!」などと言い募ることなく、

いさぎよく自己の主張を引っ込めるべきでしょう。

 

 

 

さらには、「屁理屈」とされるような「理屈」のなかには、

「豊かさ」を生むような萌芽がある、とも天機は考えます。

 

 

 

たとえば、自分で鍬をふるうことなく畑を耕したいなあ、とか、

もっと安く洋服を買うことができたらなあ、とか、

暑い夏をもっと涼しく過ごしたいなあ、とかいったことは、みな、

ひとつの、人間の「利己心」です。

 

 

 

「屁理屈」の背後には「利己心」があって、

およそ「利己心」というものはよくないものなのだ、とする

立場に立つならば、

上に挙げたような「利己心」もまた、排斥されることになります。

 

 

 

「鍬をふるわずに畑を耕したい?そんなバカなことを言ってるひまがあったら、

 もっと鍬をふるえ」

「もっと安く洋服が欲しい?そんなバカなことを言ってるひまがあったら、

 機を織るんだ」

「暑い夏を涼しく過ごしたいだと?バカが、夏は暑いに決まってるだろう」

とかいったようにね。

 

 

 

でも、ここに、「利己心」を大切にして、「屁理屈」といわれるような

「理屈」を大切にするひとたちがいました。

 

 

 

彼らはやがて、自分たちの考えた「屁理屈」を体系化し、

それらは、力学、熱力学、電気工学、電磁気学といったものに

かたちをかえていったのです。

 

 

 

そうして、

鍬をふるわずに畑を耕すことのできるトラクターがうまれ、

手作業によらずに繊維製品を大量生産できる紡織機がうまれ、

暑い夏を涼しく過ごすことのできるエアコンがうまれました。

 

 

 

天機は、人間の「利己心」も、

それを実現しようとして人間があみだす「屁理屈」も、

大好きです。

 

「逃」げると「挑」むは、似た漢字だ。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、漢字のお話をしてみようと思います。

 

 

 

「逃」げるという漢字と、「挑」むという漢字は、

両方とも、「兆」という文字がはいっていて、

部首だけが、「しんにょう」と「てへん」で違っています。

 

見た感じ、2つの漢字は似たところがあるなあ、と思いますが、

部首が「しんにょう」になるか、「てへん」になるかで、

意味的には、まるっきり正反対になります。

 

かたや、逃げ出すのに対し、かたや、逃げずに挑戦するわけですから。

 

 

 

はじめて、この2つの文字について意識したのは、

いまから20年ほど前にやっていたテレビ東京系アニメの、

ふしぎ遊戯」という作品を見た時でした。

 

その作品で、主人公の女の子が、

「逃げるっていう漢字と挑むっていう漢字はよく似てるでしょ?

 逃げるのも、挑むのも、ほんの少しの違いなんだよ?」

とかなんとか、そんなことを言っていて、

なるほど、ほんとうにそうだなあ、と感心した記憶があります。

 

 

 

あれから20年ほどたった現在、天機はよく、

漢字の成り立ちについて、自分で考えてみて、独自の説をつくってみる、

というのを面白がってやっています。

 

では、「逃」げるという漢字と、「挑」むという漢字は、

どうして、

「兆」+「しんにょう」だと「逃げる」という意味になって、

「兆」+「てへん」だと「挑む」という意味になるんだろうか?

 

天機は、そんなことを考えてみました。

 

 

 

そこで、天機が考えた説というのは、つぎのような感じです。

 

 

 

まず、「兆」という漢字なのですが、これは、「きざし」と読みます。

物事が、まだはっきりとしたかたちとなってあらわれるまえの、

予兆や兆候のことだと思います。

 

よく、下駄の鼻緒が切れるとよくないことが起きる、とかいう言い伝えが

あったりしますが、天機は、

この「兆」という字は、予兆や兆候の中でも、

なにかよくないことが起こることを暗示するような予兆や兆候を

指す文字なのではないか?

と思ったんですね。

 

そして、「しんにょう」や「てへん」といった部首の部分というのは、

その、よくない予兆や兆候に遭遇した時に、

自分はどういう態度でそれに臨むか、ということをあらわす

部分なのではないか?

と思ったのです。

 

 

 

天機が思うに、「しんにょう」という部首は、

「あることがらから、あることがらへと、変化するプロセスというのが、

 穏当なものであり、いわば、逆接ではなく、

 順接のような関係で変化していく、

 その変化のありかた」

をしめす部首なのではないか、と考えます。

 

ここで、順接というのは、たとえば、

「雨が降ってきた『から』傘をさす」とか、

「おなかがすいた『から』パンを食べた」とかいった、

変化のしかたです。

 

なにかよくない予兆や兆候があったとき、ふつう、ひとは、

恐怖を感じたりして、それを避けたくなりますよね。

 

よくないことの予兆や兆候→恐怖心の発生→回避行動

 

という一連の流れは、ごくごく自然で、穏当で、

うえでいうところの順接の関係なのです。

 

だから、

「兆」-よくないことの予兆や兆候

と、

「しんにょう」-それに直面した時の、自然で、順接関係になるような変化

とがあわさると、

「逃」げる、という意味になるのではないでしょうか。

 

 

 

では他方で、「てへん」はどういうことをあらわすのか、というと、

一般的には、人間の身体における「手」に関することをあらわす、

などといわれたりしますが、天機は、

「ある状況に際して、その状況に対して、主体的、積極的に、

 こちらから改変をくわえていこうとする、意志や行動」

といったものをあらわすのではないか、と考えます。

 

この世界には、石とか、木とか、いろいろなものがありますが、

人間は、二足歩行を実現して両手が自由になり、

その自由になった両手で、それらのさまざまなものに「改造」をくわえて、

世界をつくりかえていきますよね。

 

そういった、「手」のもつ本来的なはたらきから、

さらに敷衍して考えて、「手」に象徴されるようなはたらきというのは

いったい、どのようなものなのだろうか?と考えていったときに、

天機が思いついた「てへん」の定義というのが、

うえのようなものになったわけです。

 

 

 

では、これが、「兆」の文字とあわさると、どうなるのか。

 

「兆」という漢字は、よくない予兆や兆候をあらわしていて、

そういったよくない予兆や兆候に遭遇したときに、

人間がとる「自然な」行動というのは、「逃げる」ということでした。

 

ところが、「てへん」というのは、

「てへん」が象徴するものというのは、そういった、

「自然な」変化のありようではなくて、自然な流れに逆らってでも、

自分は状況に「改変」をくわえてやるぞ、というものなのです。

 

なので、

 

「兆」-よくないことの予兆や兆候

と、

「てへん」-その状況にたいして主体的、積極的に「改変」をくわえて

      いこうとする意志や行動

とがあわさると、

「挑」む、という意味になるのではないでしょうか。

 

 

 

今回は、そんなことを考えてみました。

NHKラジオの語学番組を継続するために。

こんばんわ。天機です。

 

 

 

きょうは、NHKラジオの語学番組をつづけるために、

自分が心がけていることについて、書いてみようと思います。

(この記事の字数 約1000字)

 

 

 

天機は、学生だったころから、何回か、

NHKラジオの語学番組を聴こうとして、挫折してきました。

 

 

それが、いまから1年半ほどまえに聴きはじめた、

「実践ビジネス英語」と「まいにち中国語」は、

継続して聴くことに成功しています。

 

 

その違いをうみだしたものは、なんなのでしょうか。

 

 

 

まず第一に、ラジオの前に座って聴いたり、録音したりしなくても、

一定期間内であれば

インターネットのストリーミングで聴けるようになった、

というのが大きいです。

 

 

これのおかげで、

いつでも自分の好きな時に聴くことができるようになりました。

 

 

 

つぎに、タスクをできるだけシンプルに、軽いものにしたことで、

継続しやすくなったことがあげられます。

 

 

 

挫折していたときというのは、

 

① 本文や単語をべつのノートにまとめていたり

② かならず復習しなければ、と思っていたり

③ かならず声に出して発音しなければ、と思っていたり

④ おなじ講座を週に2回以上は聴きなおそうとしていたり

⑤ 講座は最初から最後まで15分通して聴こうとしていたり

 

といったことをしていました。

 

 

 

それが、挫折せずに、継続できるようになった現在は、

どうしているかというと、

 

① ノートはつくらない。テキストは買う。読むだけ。

② 復習は、できなければ、しない。

③ 都合で、声に出せないときは、とりあえず聴くだけは聴く。

④ 週に1回聴けたらよしとする。

⑤ 金曜日は復習回になっているので(まいにち中国語)聴かない。

  実践ビジネス英語は、ビニェットをしっかりおさえることに集中し、

  ヘザーさんとのトークトークとか、リスニングチャレンジとか、

  ジョークとか、名言とかは、聴かない。

 

といったように、できるだけ負担を軽くするようにしています。

 

 

 

負担を軽くすることを目指しているので、

NHKラジオの語学番組から本来得られるはずの効果は、

得られていないかもしれません。

 

 

それでも、「継続する」という、ただそれ1点だけにこだわって、

このようにしています。

 

 

一般に、タスクがシンプルで負荷が少なくなるほど、

物事は、つづきやすいです。

 

 

そして、このように負荷を少なくしているのにもかかわらず、

1年半もつづけていると、

実践ビジネス英語なんかは、

少しずつ聴き取れるようになってきたのを実感できています。