この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

とても小さくて、かすかなもの。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約600字)

 

 

 

この世界には、

とても小さくて、小さくて、

細くて、細くて、

かすかで、かすかで、

あるのかないのかすら、わからないようななにか、

というものがあると思います。

 

はたして、それは、存在するのでしょうか。

それとも、存在しないのでしょうか。

 

 

 

数の論理や数学の論理は、おそらく、

「そんなものは存在しない。それは、無だ。ゼロだ。」

と言うかもしれませんね。

 

なにしろ、数の論理や数学の論理は、

0.00000000000…000000000001

を、

とみなすことで成立している論理体系なのですから。

 

 

 

でも天機は、

とても小さくて小さくて、かすかな、

あるのかないのかわからないようななにかは、

 

「ある。ゼロとは違う。」

 

というほうに、「賭けたい」と思っています。

 

 

 

これは難しい問題で、

どちらが正しいとか、簡単には言えないと思うんです。

 

自分がどの立場をとるのか、ということです。

 

あるひとは、「そんなものはない。無だ。ゼロだ。」

という立場をとるでしょう。

 

でも、天機は、「それは存在する。ゼロや無ではない。」

と主張する側に与する、ということです。

 

 

 

To be, or not to be, that is the question.

 

「闘」という漢字の中では、きょうも、「豆」と「寸」が戦っているように、

天機には見えます。

【四柱推命】外格と破格。

こんにちわ。天機です。

 

 

きょうの記事は、占いや運命学にかんする記事です。

四柱推命における、「外格」と「破格」について、書いてみようと思います。

 

 

 

的中率の高さから、「占いの王様」といわれることもある四柱推命ですが、

ここ日本で知られているそれは、本場中国のものとはちがって、

簡略化されたものもあるようです。

 

 

簡略化された四柱推命の特徴は、

① 内格と外格といった、格局の区別をしない

② 月支元命や変通星といったものをやたらと重視し、

  それのみで占断しようとする

といった特徴があります。

 

 

 

ほんとうの四柱推命には、まず、内格と外格という、格の区別があります。

そのひとの格が、いずれに属するのかを最初に決定しなければ、

そのあとの占断が、なにもできなくなるからです。

 

 

 

四柱推命には、木火土金水、という、

いわゆる「五行」の考え方との関連があります。

 

内格、というのは、この五行のバランスができるだけ整っているほうがいい、

という考え方のもとに成り立つ格のことで、

一般的な、ふつうの大多数のひとは、こちらの格になります。

 

それに対して、外格というのは、この五行のバランスができるだけ

偏っているほうがいい、という考え方のもとに成り立つ格のことで、

一部の人は、この格になります。

 

 

 

たとえば、五行のなかで、「火」の要素が強い人がいたとしましょう。

 

火の要素がある程度強いくらいでとどまっているならば、

このひとは、依然として内格です。

バランスを重視する内格では、偏りをもたらす「火」は凶となり、

「火」をおさえるものが、よいものとなります。

 

 

 

ところが、その「火」が、尋常でないくらいに強い、

としたら、どうでしょうか。

その場合、このひとは外格になります。

偏っていればいるほどいい、という外格では、

偏りをもたらす「火」は吉とされ、

火の要素が強まれば強まるほど、いいことになります。

 

 

 

全員が内格だ、というふうに固定して考えるのではなくて、

通常は内格であるけれども、

その理屈ではとらえきれないひとについては、外格、というカテゴリーを

用意して考える。

 

そのような考え方をもとに成り立っている四柱推命という占いは、

東洋的な、あるいは、中国的な、考え方が、濃厚に反映されている、

と言ってもいいかもしれません。

 

その考え方とは、つまり、

「この世界には、通常があれば、異常もある。

 通常と異常、この2つが合わさって、はじめて、この世界は完成する。」

という考え方なのです。

 

 

 

このような考え方は、占いや運命学といった分野だけではなくて、

中国的なほかのなにか、といった分野にも、顔をのぞかせることがあります。

 

 

 

たとえば、麻雀なんかも、そうかもしれません。

 

麻雀は、手牌をある規則に沿ってそろえていって、

面子をつくることを目指すゲームです。

手牌はできるだけ、そろっているほうがいい。それが、通常です。

 

でも、国士無双という役があって、その役は、手牌ができるだけバラバラな

ほうがいいのです。しかも、点数がとても高い役です。

これは、言ってみれば、異常、でしょう。

 

四柱推命における外格というのは、言ってみれば、

ひとつの「異常」であって、

これは、麻雀における国士無双のようなものかもしれません。

 

 

 

人生には、運のいい時期も、悪い時期もあります。

この、後天的にめぐってくる運のことを、東洋占術では、

「行運(こううん)」と呼んだりします。

 

 

四柱推命において、内格であるひとは、一般に、

この行運による運不運の振幅がすくないです。

運がよいときでも、それほどものすごくは発展しないかわりに、

運がわるいときでも、底までおちぶれるというわけでもありません。

  

 

外格のひとはちがいます。

外格のひとは、

運がよいときには、それこそ、天にも昇るような大発展をとげるかわりに、

運がわるいときには、ふつうのひとではありえないくらいに、

どん底まで落ちます。

 

つまり、内格のひとにくらべて、外格のひとというのは、

めぐってくる行運によって、運不運が、

まるでジェットコースターのようにおおきく変化する

という運命を持っているのです。

 

 

 

よくない行運のことを、忌神運、なんて言ったりしますが、

外格のひとが、この忌神運にはいった場合、ときにはそれは、

生死にもかかわるような、人生そのものの破綻を意味するほどの、

深刻な影響をもつことがありえるのです。

 

そして、外格のひとにとって、代表的な忌神運となるのが、

いわゆる「破格運」です。

 

外格というのは、偏っていればいるほど吉だ、という論理で成り立っている

システムです。

だから、逆に、その偏りを正すような、バランスをとるような、

そんな方向へと向かわせる行運が来てもらっては、困るのです。

そのような行運が、破格運です。

 

 

 

具体例でみてみましょう。

 

日主が火で、命式のなかでとても金が強い、従財格のひとがいたとします。

従財格は、外格のひとつです。

外格は、偏っていればいるほどいいのですから、このひとの場合は、

強い金がもっともっと強くなればいい、ということになります。

 

金にとっては、火は自分を剋するものですし、木は、その火を生み出す

ものです。

これらは、金を弱くしてしまいます。

したがって、このひとの場合は、火の運や木の運は、破格運ということに

なります。

 

 

 

破格運を考える際には、めぐってくる行運について、

その天干、地支、そして、季節の運まで考える必要があります。

 

上のひとの場合は、まず、天干にかんしていえば、

丙や丁、甲や乙といったものが行運にあれば、破格運になりえます。

 

地支にかんしていえば、

巳午未の南方火運に属する地支や、午戌寅の三合火運に属する地支、

あるいは、

寅卯辰の東方木運に属する地支や、未亥卯の三合木運に属する地支があれば、

破格運になる可能性があるとして、要注意です。

 

干支は天干と地支の組み合わせでできています。

天干も地支も、両方とも、

火や木といった五行である場合(純火運や純木運)は、

その凶作用が、はなはだしく強くなります。

天干や地支の、一方だけが火や木である場合には、

破格運としての凶作用は、若干、弱くなります。

 

季節の運にも、注意しなければいけません。

季節の運とは、めぐってくる行運の干支のうち、地支に注目したものです。

寅卯辰を東方木運、巳午未を南方火運、申酉戌を西方金運、亥子丑を北方水運、

として、

大運がそれぞれの地支のところをめぐっている、

それぞれ合計して30年のあいだは、

その五行がとても強くなる、と考えるのです。

 

したがって、季節の運にかんしていえば、うえのひとの場合、

東方木運や南方火運をめぐっている時期というのは、破格運だ、

ということになります。

 

季節の運というのは、30年間という長期におよびますので、

破格運であれば、その影響も長く続くことになり、要注意です。

 

とくに、要注意なのは、その30年間のなかでも、

ちょうど中間地点となるような時期です。

東方木運が破格運となるひとがいるとすれば、

30年間の東方木運のちょうど中間となるような時期、つまり、

東方木運がはじまって15年ほどが経った時期です。

東方木運でいえば、地支が卯の大運の、ちょうど真ん中あたりの時期です。

 

30年間の季節の運の中で、そのちょうど真ん中あたりの時期というのは、

その季節の運であらわされる五行が、

最も強くなるような時期と考えられます。

したがって、それが破格運であった場合には、

決定的な凶作用が、その時期のあたりにでやすいのです。

 

 

 

外格のひとに深刻な打撃をあたえる可能性のある破格運ですが、

それが、人生のどの時期にめぐってくるのかは、ひとによって異なります。

 

若いころから順風満帆で喜神運を生きてきた外格のひとが、

中年にさしかかるころに、

人生初めてとなる破格運に遭遇するかもしれません。

 

あるいは、若いころから破格運で、地の底をはうような苦難に満ちた人生を

歩んできたひとが、中年にさしかかるころにはじめて、

破格運を抜けて喜神運がはじまる、といったようなこともあるわけです。

 

 

 

これについては、

若いころに喜神運であれば、その後に破格運が来たとしても、

人生の基盤はできているのだからダメージは少ない、とか、

若いころに破格運であれば、就職にも失敗するなどしているから、

その後に喜神運が来たとしても挽回はできない、とか、

そういうことを言うひともいますが、正しくはありません。

 

もし、そのような発言が正しいのならば、すなわち、

若いころに喜神運→人生喜神運

若いころに破格運→人生破格運

ということになってしまい、のちに行運が変化するという、

その、「時の変化」の影響などは、まったく、あるいは、ほとんどない

ことになってしまいます。

 

 

 

実際は、そうではありません。

喜神運が破格運になる場合にも、破格運が喜神運になる場合にも、

いずれの場合も、

その「時の変化」というものは、確実に、重大な影響をおよぼしてきます。

 

だから、たとえば、

若いころから順風満帆の喜神運をすごしていて、ビジネスでも成功し、

財を成したようなひとが、

破格運にいたって、やることなすことうまくいかなくなり、

孤立無援になって自殺する、といったことがあるわけです。

 

あるいは、若いころから喜神運で、やることなすことうまくいき、

音楽の分野でミリオンヒットをとばしまくったような歌姫が、

破格運に至って、容貌も醜く肥え太り、ヒットもでなくなり、

激しいバッシングを受けるようになる、といったこともあるのです。

 

また逆に、若いころから破格運がつづいていて、苦難に満ちた人生をおくり、

仕事運にもめぐまれず、底辺生活をつづけていたようなひとが、

40歳をすぎて喜神運にはいるころから、人生の流れがかわり、

執筆した小説がつぎつぎとヒットして、

社会派推理小説の大家として認められる、

といったようなこともあるわけです。

 

 

 

だから、人生とは、わからないのです。

 

ただ、自分の命運をあらかじめ知ることができたのなら、

それに応じた対策をたてることも、不可能とは言い切れません。

 

自分が外格であって、かつ、若いころに喜神運がきて、のちに破格運が来る、

と知ったのならば、

外格の喜神運では非常に発展できるのですから、それを利用して、

若いうちに成功をおさめて、

破格運がきたあとは、一線をしりぞいて、それまでのたくわえによって生きる

ことを目指すのも、ひとつの方法でしょう。

 

逆に、自分が外格であって、かつ、若いころから破格運が続いて、

中年になってからはじめて喜神運が訪れる、と知ったのならば、

のちの、喜神運になってからの人生、という、おおきなチャンスをふいにして

しまうような、致命傷となるような決定的なミスを、

破格運のときに、なんとしても、

おかしてしまわないようにすることが肝心です。

 

それはたとえば、怒りにまかせて殺人をおかしてしまったり、

劣情に負けて性犯罪をおかしてしまったり、あるいは、

人生に絶望して自殺してしまったり、といったようなことです。

 

破格運に生きているときにたいせつなのは、その不運を、

決定的なかたちで人生に刻印してしまわないことなのです。

破格運というのは、ただ生きて、無事にその時期を通過するだけでも

たいへんなこと。

それが、外格の破格運です。

でも、外格の破格運がそれほどまでにキツイものであるからこそ、

外格の喜神運というのも、

人並み外れた成功をもたらしてくれる場合があるのです。

 

世の中は、椅子取りゲームに似ている。

こんにちわ。天機です。

 

 

きょうは、椅子取りゲームについて、思うところをのべたいと思います。

 

 

天機が小学生だった頃、よく教室で、椅子取りゲームというのがおこなわれる

ことがありました。

 

 

教室の机を、うしろのほうにあつめて、真ん中に広い空間をつくります。

そして、椅子だけを円状にならべます。

 

椅子の数は、クラスの人数よりも、1つ少なくしておきます。

 

音楽をかけ、みんなが椅子の周りをぐるぐるとまわり、

音楽がストップすると、あらそって、空いている椅子に座ります。

 

椅子の数は、1つだけ少ないですから、1人、座れないひとがでます。

そのひとを省いて、さらに1つ椅子を少なくし、ゲームを同じように

すすめていくのです。

 

 

天機はおもうのですが、競争のある、この世の中というのは、

この、椅子取りゲームに似ているところがある、と思うのですね。

 

 

椅子取りゲームで無事に椅子に座るためには、

もともとの反射神経があるかどうか、とか、

音楽の流れによく注意していたか、とか、いろんな要素がからんできます。

 

同様に、この世の中でも、

競争から脱落せずに、世の中で勝っていくためには、

もともと運や実力をもっていたかどうか、とか、

努力をしたのかどうか、とか、

いろんな要素がからんでくるわけです。

 

 

ただ、忘れてはいけない基本的なことが、1つ、あります。

 

それは、

 

「椅子の数は、もともと1つだけ少ないんだ」

 

ということです。

 

よく、競争を中心とするこの世の中という椅子取りゲームで、

椅子がとれなかったひとがいると、

 

「そんなのは自己責任だろ」「椅子が取れないのは努力が足りないからだ」

などと言うひとがいるのですが、

そういうひとはもしかしたら、

 

「もともと椅子はひとつ足りないのだ」

 

ということには、あまり注意をはらっていないのかもしれません。

 

 

そうすると世の中には、

「椅子がひとつ足りないのがよくない」

「椅子が足りないのを社会や行政はなんとかすべきだ」

というひとびとがあらわれてくることがあるんですが、

それも、どうか、と思うところがありますね。

 

 

椅子取りゲームというのは、もともと、

椅子が1つ足りないゲームなんです。そういうゲームなのです。

 

そのゲームのルールそのものが不満だ、というひとは、

じゃあ、このゲームは、あなたはやらないでくださいね、

と言われてしまうのがオチでしょう。

 

 

 

人間の歴史の古い時代から、現在に至るまで、

人間は、いろんな社会をいとなんできました。

昔に比べれば、人間の福利は向上してきたかもしれません。

 

それでも、「椅子はいつも1つ足りないのだ」という、

その基本的なことじたいは、もしかしたら、

いかに時代や社会がかわったとしても、

そこに組み込まれている基本的なルールなのかもしれません。

 

 

だとするならば、どうすればよいのか。

 

それは、天機が思うに、

「すくなくとも自分は椅子に座れるように、

 ささやかながら頑張ってみること」

ではないか、と思うんですね。

 

 

 

脱落者がでるような椅子取りゲームより、もっと素晴らしい、

みんなが笑えるような、だれも泣かないような、

そんなゲームが開発される日が、もしかしたら、来るのかもしれません。

 

 

でも、椅子が1つ足りないことがデフォになっている、

この椅子取りゲームを自分はやるんだ、と思うなら、できることは、

自分が椅子に座れるように、頑張ってみることです。

 

 

 

天機が小学校のころにやっていた椅子取りゲームは、

もちろん、だれかは椅子に座れないわけですが、

その座れないだれかもふくめて、みなが笑っていました。

 

 

もちろん、それは、

純粋に楽しみを目的としたゲームだったからかもしれません。

 

 

現実のこの世の中という椅子取りゲームは、

それにくらべると、いささかharshな面があるのかもしれませんが、

それでも、競争には、いやな面ばかりではなく、

ひとを熱中させるなにかも、あるのかもしれない、と、

天機は、思うこともあります。