この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

バスにはなぜ、老人が多いのか。

市営バスなどに乗ることがある。

 

そういうとき、いつも思うのは、

「老人が多いな」ということだ。

 

ほんとうに、薄気味が悪くなるほど、老人がうじゃうじゃと乗っている。

 

若い女の子でもたくさん乗っているのならば、

気分も明るくなるのだが、

老人がたくさん乗っていると、不快感が増してくる。

 

 

どうして、バスにはたくさん老人が乗っているのだろう。

 

 

第一に考えられる理由としては、高齢者は、バス料金が安い、ということだ。

 

市営バスなどの公共交通機関に関しては、自治体が高齢者に、

敬老優待パスなどを配布していることがある。

 

それを使えば、高齢者はバスに安く乗車できるので、結果として、

高齢者のバス利用が多くなる、ということになるのだ。

 

実際、市営バスとほぼ同じ路線を並走して走っている民間の路線バスなどには、

高齢者がそれほど乗っていない、という現実もある。

たぶん、敬老優待パスは、民間の路線バスでは使用できないからなのだろう。

 

 

しかし、ここで不思議なことがある。

 

敬老優待パスが使用できるのは、市営バスだけではない。

公共交通機関であれば使用できるから、たとえば、

市営地下鉄でも使用できるのだ。

 

ところが、市営地下鉄の老人率は、市営バスほどではないのである。

 

市営地下鉄には、たしかに老人もおおく乗車しているのだが、

市営バスのようにうじゃうじゃと老人が凝集している、

などといったことはないのだ。

 

これをどう考えたらいいのだろう。

 

 

そこで、市営バスにとくに老人が多いことの理由の第二として、

所要時間の問題が浮上してくる。

 

路線バスというのは、一般的に、

目的地に着くまでに非常に長い時間がかかる。

 

同じ目的地へ行くのでも、市営バスに乗るよりも、

鉄道や地下鉄を利用したほうがよほど早く着く、ということは、よくあることだ。

 

ひとつには、バスというのは、鉄道に比べて、

ノロノロ運転するものである、ということもあろうし、また、

バスというのは、渋滞に巻き込まれるものである、ということもあろう。

 

老人というのは、基本的に、ひまな時間をもてあましている。

だから老人にとっては、バスがノロノロと運転していて、

目的地へ着くまでに時間が多くかかったとしても、

なんらの痛痒を感じないのである。

 

ところが社会には、老人だけが存在するわけではない。

 

学校へ行かなければいけない学生がいる。

買い物をしなければいけない主婦がいる。

通勤しなければいけないサラリーマンがいる。

 

こういったひとたちに共通していえることは、みな、時間がない、ということだ。

目的地に着くまでにだらだらと時間をくってもらったら、困るのである。

 

だからこういったひとたちは、おそらく、

所要時間が長くかかるような、バスという交通機関は、

移動手段からは排除するのである。

 

そして、学生、主婦、サラリーマンといったひとたちは、

比較的、年齢が若い。

年齢が若い、彼ら、彼女らがバスには乗らないので、

バスにたくさん乗り込む老人の影響を、

若いエネルギーで中和することができないのだ。

 

 

これがおそらく、

バスには老人がうじゃうじゃと乗っている理由である。

 

そして、いつバスに乗っても老人がうじゃうじゃと乗っているなあ、

と思って、不快な思いをした若い層は、

ますますバスを敬遠することになるだろう。

そうすると、さらにバスの老人率が上昇することになる。

悪循環である。

松乃家の、から玉丼。

松乃家の、から玉丼を食べた。

 

いままで、松乃家では、からあげ定食をたのむことが多かった。

一度、メインのとんかつを使ったかつ丼をたのんだことがあったのだが、

どういうわけか、ころもがパサパサしていたためか、

口の中の皮がめくれてしまったのだ。

 

それ以降、松乃家では、からあげ定食をたのむようになった。

からあげでは、口の中の皮がめくれたりは、しなかった。

 

からあげ定食は、600円だ。

最近、松乃家のホームページを見ていて、から玉丼というのがあるのを知った。

 

から玉丼は、からあげを卵でとじた丼で、480円だという。

からあげ定食より安い。

これは、からあげ定食の代替になるのではないか、と期待して、たのんでみた。

 

結果。

まあまあ、おいしかった。

とろとろの卵でとじてある部分は、とくにいい。

 

が、からあげの数が若干、少ないように感じた。

 

からあげ定食だと、大きめのからあげが4つ、ついてくる。

から玉丼のからあげは、切ってあって、若干、小さくて、

全部合わせてもからあげ2、3個にしかならないんじゃないだろうか。

 

でもまあ、それなりにうまい。

 

ブログのアクセス数と、メダルゲームのメダル。

ブログを純粋な趣味でやっていると、

ブログのアクセス数が増えても、収入には結びつかない。

 

そんなブログのアクセス数は、

ゲーセンのメダルゲームのメダルに似ている。

 

スロット店のメダルゲームであれば、

メダルはお金につながる。

 

が、ゲーセンのメダルゲームは、そうではない。

ゲーセンのメダルゲームでメダルが増えても、

実際の収入とは全然関係がない。

 

そういう意味で、趣味でやっているブログのアクセス数が増える喜びは、

ゲーセンのメダルゲームでメダルが増える喜びに似ている。

寿命1年を1000万円で買い取ってもらえるなら。

こんなことを考えることがある。

自分の寿命1年分を、1000万円のお金で買い取ってくれるサービスがあったなら、

自分ははたして、どれくらい売却するだろうか、と。

 

これは、そのときの自分の年齢によって、そして、

残された寿命によって、おおきくかわってくるかもしれない。

 

自分がいま20代の若さで、残された寿命がわずか5年だったとする。

もしそうなら、自分はたぶん、寿命をまったく売却しないだろう。

残された時間を精一杯、生きることだろうと思う。

 

自分がいま何歳であるかにかかわらず、

自分が100歳まで生きることがわかっているなら、

90歳から100歳までの10年間の寿命を売却して、1億円を手に入れる

かもしれない。

というのも、90歳から100歳までの間なんて、

どうせよぼよぼで、生きていてもそれほど楽しくはないだろうから。

 

このように考えてくると、おかれた状況によって、

寿命の価値がずいぶんちがっていることがわかる。

 

20代で余命5年の人とかは、むしろ、

1年1000万円ほどであれば、寿命を買いたい側の人間であるかもしれない。

 

反対に、身寄りもなく孤独で、慢性病をかかえている老人などは、

1年100万円ほどであっても、残りの寿命を売り払って人生を清算したい、

と思うかもしれない。

 

ここに、寿命売買業者というのが存在したとする。

おそらくその業者は、安い値段で寿命を買い付けて、

高い値段でそれを売りつけることで利益をえるだろう。

 

学校卒業後ニート、ひきこもりの状態が長く続いていて、

人生に何の希望も持てず、

大量殺人事件でも引き起こして人生を終わらせよう、などと考えている

若者に近づいていって、寿命売買業者は、こうささやくのである。

「あなたの寿命を1年50万円で買い取りますよ?」と。

 

その若者が短絡的であれば、残りの寿命を全部売り払うだろう。

そうすれば、寿命売買業者は、破格の値段で寿命を獲得できる。

若者は、そのお金を使って、きれいなネーチャンのいるお店で遊んだりできる。

そして、起こるはずだった大量殺人事件は、起こらない。

いいことづくめではないだろうか。

 

そして今度は、寿命売買業者は、高い値段ででもいいから寿命がほしい、

と思っているひとのところへ、その寿命を売りに行くのだ。

 

美貌も、名声も、家族も、学歴も、職業も、なにもかも恵まれている女性がいて、

ただ、病気のために、30代にもかかわらず余命があとわずかだとする。

その女性の夫は、とても裕福だ。

さらには、その女性は国民的な人気があるために、

その女性の命を救うためならば、多額の寄付金が集まるかもしれない、

という状況であったとする。

 

そういう女性のところへ、寿命売買業者は近づいて行って、こうささやくのだ。

「1年1億円で、寿命をお買い上げになりませんか?」と。

 

そうすれば、その女性は、10年分、20年分くらいなら、寿命を買うかもしれない。

そうすれば、自分に幼い子がいたとして、

その子が立派に成人するくらいまでは、見届けることができるかもしれない。

反対だなあ。教育無償化と、こども保険。

政府は、教育無償化を憲法改正の目玉に位置づけるなど、

政策としてすすめようとしている。

また、自民党は、こども保険という名前の制度をもうけて、

幼児教育の無償化などを実現しようとしているようだ。

 

自分は、そのいずれにも、反対だ。

 

教育無償化というのは、一見したところ、授業料などの費用がかからなくなって、

教育の機会均等にも資するし、いいことだなあ、と思うかもしれない。

しかし、それが「いいこと」であるのは、

現に学校へ通っている生徒、児童本人に対してか、あるいは、

そのような生徒、児童をかかえる家庭に対してだけである。

 

教育無償化を実現するには、財源が必要だ。

その財源としては、おそらく、税金がつかわれる。

 

税金は、みんなが納めたものだ。

教育無償化を実現すると、そのみんなが納めた税金が、

子供のいる家庭だけに配られることになる。

 

つまり、子供がすでにいなくなった家庭とか、

子供がいない家庭とか、単身世帯などにとっては、

税金をはらうだけで、自分にとってはまったくなんの利益もない制度、

ということになってしまう。

 

これでは、あまりにも不公平ではないだろうか。

 

たしかに、日本の未来にとっては、子供がいることは重要なことだ。

しかし、子供を産み、育てるというかたちばかりではなく、

この日本では、各人が各人の方法で、日本の国と社会の繁栄や発展のために

貢献しているのである。

 

なにも、子供を産み、育てるような国民だけが一等国民であって、

子供のいないような国民は二等国民である、というわけでもないのだ。

子供のいない国民の一方的な負担において、子供のいる国民を利することは、

公平、公正の原理から考えれば、おかしなことであろう。

 

それに、いまでこそ日本はそれなりに豊かであるが、

高度成長期以前の日本は、まだ貧しかったのである。

そんななかでも、ひとびとは、なにも教育無償化などといった制度がなくたって、

自分の力で立派に子供を育ててきたのだ。

 

現在、教育無償化という制度が必要である、と主張するひとたちは、

当時と比べて、状況的になにがどう変化したのか、あきらかにすべきだろう。

 

また、こども保険というのも、おかしな制度設計だ。

 

保険と名のつくものは、基本的に、受益者負担が原則である。

 

火災保険にはいっているひとは、万が一、火災が発生したさいには、

自分がその火災保険にはいっていることによって、利益をえられる。

 

地震保険にはいっているひとは、万が一、地震が発生したさいには、

自分がその地震保険にはいっていることによって、利益をえられる。

 

健康保険にはいっているひとは、万が一、自分が病気になったさいには、

自分がその健康保険にはいっていることによって、利益をえられる。

 

保険料をしはらうのは、みな、自分自身もその保険の恩恵にあずかることが

できるからこそ、保険料をしはらっているのである。

 

ひるがえって、こども保険はどうか。

 

こども保険の保険料は、みなが支払う。

ところが、それで利益を得るのは、実際にこどもがいる家庭だけだ。

保険料の負担者と受益者が、一致していないのである。

 

この世の中には、

子供がすでにいなくなった家庭、子供のいない家庭、単身世帯、

いろんなかたちの家庭が存在する。

そういった家庭の存在を無視して、一方的に子供がいる家庭だけをもてはやすのは、

なんともおかしなことだろう。

 

 

 

国民みなに影響するような制度を設計するさいには、なによりもまず、

その制度が公平、公正なものであるかどうか、ということに意を払うべきであって、

必要かどうか、利便性の観点からはどうか、

ということだけにとらわれてはならない、と思う。

 

劉暁波氏、コール元首相の死去に思う。

中国の民主活動家、劉暁波氏が亡くなった。

先ごろには、ドイツのコール元首相も亡くなった。

 

劉暁波氏が民主化運動の前面に登場したのは、

1989年の、のちの天安門事件につながる、中国での民主化運動

のときのことだった。

 

コール元首相が歴史にその名を刻んだのは、ドイツ統一を実現したことによる。

そのドイツ統一は、

1989年に連鎖的に発生した東欧での民主化革命の流れのなかの、

そのひとつに位置づけられるベルリンの壁崩壊がきっかけになったものだ。

 

劉暁波氏と、コール元首相。

2人はいずれも、1989年の世界的な民主主義拡大のうねりとともに

登場し、

それから30年近くが経過した2017年の今年、あいついで亡くなった。

 

2人の死去は、1989年ごろから始まった、30年ほどにわたる、

「ある一つの時代」の終焉を示唆しているように思われてならない。

 

なにかの終焉があると、きまって「ひとつの時代が終わった」などとコメント

する輩が存在することは事実だが、

それでも、あとからふりかえったときに、その出来事が、

たしかに、一つの時代の終焉を象徴するかのような、

エポックメイキングな事象だったなあ、ということは、実際あるものだ。

 

今年は、将棋の藤井聡太四段が、30年ぶりに連勝記録を塗り替えた年でもある。

1990年前後からはじまった平成という時代も、

今上天皇生前退位とともに、あとすこしで終わりをむかえる。

また、その平成という時代とともに活躍を続けてきた国民的アイドルグループの

SMAPという団体も、

2017年の今年からは、もういない。

 

ここ30年ほどのあいだ続いてきた、あるひとつの時代の空気感というものは、

これから先、確実に変化していくことになるだろう、という予感がある。

世界史でみる、北東鬼門方位の脅威。

風水というのは中国が発祥だが、

日本にも方位学というのは存在する。

移動するときの方位や、家を建築する際の方位などを、

それでみるわけだ。

 

日本の方位学において、とくに恐れられている方位に、

北東の鬼門方位というのがある。

どうせただの迷信だろう、なんて思うかもしれないが、

世界史上の出来事をしらべてみると、

かならずしも、そうとは言い切れないのだ。

 

ある国からみてある国がどの方位にあるのか。

それを調べたければ、正距方位図法で描かれた地図が必要になる。

が、インターネット上のサイトを使えば、もっと簡便だ。

どこでも方位図法

たとえば、うえのようなサイト。

 

これで、いろんな国をみてみると、どんなことがわかるだろうか。

 

日本は太平洋戦争で米国と戦い、敗れ、はじめて他国に占領されることになった。

日本から見て米国は、北東鬼門方位にある。

 

アメリカの大地にはもともと、インディアンが住んでいた。

ところが、イギリスから移住してきたやつらによって、彼らは虐殺され、

住むところを追われた。

アメリカから見てイギリスは、北東鬼門方位にある。

 

イギリスにはもとともと、いろんな民族がいたが、

11世紀にノルマン人がノルマン朝という征服王朝をたてた。

ノルマン人はもともと、スカンジナビアバルト海周辺が原住地である。

イギリスから見て、スカンジナビアバルト海周辺は、

北東鬼門方位にあたる。

 

ヨーロッパにおいてフランスは、普仏戦争以降、

自力でドイツの侵略を跳ね返せていない。

フランスからみてドイツは、北東鬼門方位にある。

 

ドイツは第二次大戦でソ連に敗れ、とくにその首都であるベルリンは、

ソ連の統治下におかれた。

ドイツから見てソ連は、北東鬼門方位にある。

 

南米にはインカ帝国アステカ帝国が栄えていたが、

スペインからやってきたピサロやコルテスといった侵略者によって滅ぼされた。

インカ帝国などがあった地域から見てスペインは、

北東鬼門方位にある。

 

中国ではいまなお、南京大虐殺でおおくの犠牲がでたことに関して

日本を非難しているが、

南京のある場所から見て日本は、北東鬼門方位にある。

 

などなど。

 

北東にいるやつらは、自分に害をなしてくる可能性がある。

 

ちなみに、日本の中心と言えば、言わずと知れた首都東京である。

東京都民に電力を供給するのは東京電力だが、

その東京電力の本社があるのも、首都東京だ。

日本と、東京電力に大打撃をあたえた惨事と言えば、

東日本大震災と、それにつづく福島第一原発事故だが、

その福島第一原発は、首都東京から見て、北東鬼門方位にある。