男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

いじめ自殺に関しては、加害生徒側への制裁を。

いじめで自殺した生徒の両親が、町や県と和解、とのニュース。

 

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町や県にも責任はあるのかもしれないが、

第一次的で重大な責任があるのは、いじめた生徒側だ。

 

いじめをしたらどういうことになるのか、

どういう責任が負わされるのか、

きっちり知らしめるためにも、

いじめた生徒側に、厳しい制裁となるような、

多額の損害賠償義務を負担させるべきだ。

慶応大学学生、集団準強姦容疑で書類送検。

慶応大学の広告学研究会に所属していた男子学生6人が、

集団準強姦の容疑で書類送検されたという。

 

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なぜ、逮捕しないのだろうか?

なぜ、実名を公表しないのだろうか?

 

東大や千葉大で同様の事件が発生した時は、

逮捕し、実名を公表したのではないか。

 

慶応大学が腐った大学である、ということが露見すると、

なにか困るひとでもいるのかな?

グーグルで性差をめぐる論争。

グーグルの男性社員が、IT業界で女性が頭角をあらわせないのは、

男女の生物学的な違いによるものだ、とした文書を流通させたとして、

グーグルに解雇された。

 

あきらかに、この男性の主張は正しく、

この男性を解雇したグーグルの判断は、非難されるべきものだ。

 

自分が注目しているのは、

この文書をきっかけとして、グーグル内に、

「議論」「内紛」が生じている、と報道されている点。

 

もし、圧倒的多数のひとたちが、この男性の意見に反対しているのなら、

この男性への「非難」が殺到している、とか、

この男性は「批判」されている、と報じられているはず。

 

ところが、事実はそのようにはなっていない。

「議論」が生じ、「内紛」が勃発するということは、つまりは、

こちら側の意見の人たちと、あちら側の意見の人たちの、

両陣営にわかれて対立している、ということを意味する。

 

ということは、

男女の間には生物学的な違いがあって、女性は劣っているかもしれない、

と考えているひとたちの数は、

それを異常者である、と簡単に片づけて排斥してしまえないくらいに、

決して少なくない、ということを意味している。

 

なんだか、楽しくなってきた。

いままでだったら、英国のEUからの独立を目指す人も、トランプを支持する人も、

異常だよね、ということで一蹴されていた。

ところが現実には、そういった人たちのほうが勝つくらいに、

数が増えつつある。

 

革命の予感がする。

そして、革命こそは、自分のもっとも愛するものだ。

脳の男女差を考えるときには。

脳には、そのはたらきに男女差がある、といわれている。

その男女差について考える際には、注意しなければいけないことがある。

 

ひとつは、公平に見る、ということ。

 

もうひとつは、あらかじめ結論ありきではなく、

事実に基づいて厳密に判断し、それが、社会的に波乱をよぶものであっても、

事実、真実の追究のほうを重視する、ということだ。

 

脳の男女差について語る際には、

「男性の脳には〇〇という長所があり、女性の脳には〇〇という長所があります」

あるいは、

「男性の脳には✕✕という短所があり、女性の脳には✕✕という短所があります」

といった表現は、公平な見方に基づいている。

 

いっぽうの長所について語るさいには、他方においても長所について語り、

いっぽうの短所について語るさいには、他方においても短所について語っている

からだ。

 

それに対して、

「男性の脳には✕✕という短所があり、女性の脳には〇〇という長所があります」

というような表現は、公平なものではない。

 

男性については短所をあげているのに、女性については長所をあげており、

このような表現に接した者は、

女性の脳のほうが男性の脳よりも優れている、といった、

歪んだ認知にいたる可能性があるからだ。

 

インターネット上のサイトで、脳の男女差についてかかれたものを読む

際には、

こういった不公平な表現が、全面的あるいは部分的に、

なされていないかといったことについて、慎重にみていく必要がある。

 

大切なのは、真実であること、公平であること、だ。

そして、真実であること、公平であることは、

たとえ感情に逆らうものであったとしても、価値があり、大切なものなのである。

男女は平等ではない。男性が女性に優越する。

近代市民革命期においては、男女が平等だとする思想が表明されたが、

それは、

この世界の真理を洞察できなかったことに由来する、

誤った考え方である。

 

男女は、決して平等ではない。

男性が女性に優越し、女性は男性の支配に服するものである。

 

自分とは異なる他者が存在することを認め、尊重するのが、理の原理だ。

それに対して、

この自分自身が生きるために他者を犠牲にする、というのが、生の原理だ。

 

人間には、心と体がある。

理が心と結びついたものが、理心であり、男性の心だ。

生が心と結びついたものが、生心であり、女性の心だ。

理が体と結びついたものが、理体であり、女性の体だ。

生が体と結びついたものが、生体であり、男性の体だ。

 

理と生は、それぞれ、心と体に結合するのだが、

その結合のしかたに関して、

男性の場合と女性の場合とで、ねじれに似たような相違がある。

 

そして、理心は生心に優越し、理心は生心を支配する。

さらに、生体は理体に優越し、生体は理体を支配する。

 

ゆえに、理心生体を基本構造とする男性は、

生心理体を基本構造とする女性に優越し、男性は女性を支配することになる。

 

この原理は、人間の心と体だけに関係するのではなく、

自然界のおおきな現象にも関係する。

 

理と結びついた心である理心は、人間においては男性の心であり、

自然界においては、火のかたまりである太陽をあらわす。

 

生と結びついた心である生心は、人間においては女性の心であり、

自然界においては、水のかたまりをあらわす。

 

理と結びついた体である理体は、人間においては女性の体であり、

自然界においては、大地をあらわす。

 

生と結びついた体である生体は、人間においては男性の体であり、

自然界においては、天空をあらわす。

 

以上を整理すると、以下のようになる。

 

理心=男心=太陽

生心=女心=水

理体=女体=大地

生体=男体=天空

 

そして、明らかなことであるが、

太陽と天空はあわせて天にあり、水と大地はあわせて地にある。

そして、天は地の上位に位置する。

 

このことから、

理心と生体をあわせもつ男性は、生心と理体をあわせもつ女性よりも、

上位に位置することがみちびかれる。

 

夜空に月が輝いていて、それがどれだけ美しくみえたとしても、

所詮は太陽の光を借りて輝いているだけであり、みずから輝いている

わけではない。

 

西洋に発祥した男女平等の思想は、一見したところ、

とても美しいものに見えるかもしれないが、

偽りの考え方である。

 

天と地の間には、1つの境界線である、地平線がある。

その地平線をさかいにして、上には天が、下には地がある。

地は天をお手本にして成立したものであり、天そのものではない。

そのような地が、自分こそが正統であると騙るなど、

烏滸がましいにもほどがある。

 

鏡というのは、鏡のこちらがわに実物が、鏡の向こう側に虚像がある。

そして、どういうわけか、鏡に映すと、左右が反転するのだ。

 

 

メルケル首相は、退陣したほうがいい。

ドイツのメルケル首相は、欧州と世界全体に、

非常に大きな悪影響をもたらしている。

彼女が退陣しないかぎり、世界に希望はない。

建設現場に「女性用」トイレ?

建設作業現場に女性が作業員として進出する流れをうけて、

女性への訴求力を高めるために、

快適な女性用トイレを設置する動きが加速している、という。

 

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でも、これっておかしくはないか?

 

いままでは、建設作業現場で働いていたのは、おもに男性で、

汚いトイレでも文句をいわずに頑張ってきたんだろう。

それが、女性が入ることになると、綺麗なトイレでなきゃいやだ、なんて、

女は、お姫様かなにかですか?

 

不潔なトイレが嫌で、綺麗なトイレのほうがいい、って思ってるのは、

なにも、女にかぎったことではない。

男性も、心の中ではそう思っているのだ。

 

でも、男性は、綺麗なトイレじゃなきゃやだやだ、なんて、

不平不満を口には出さないだけである。

じっと、我慢して、黙々と働いているのだ。

 

ところが女は、男性が辛抱しているその同じトイレに、我慢ができないらしい。

ようするに、辛抱する能力に欠けているのである。

これはつまり、労働力として考えた場合に、

女のほうが男性よりも劣っている、ということの、なによりの証左だろう。

 

もともと、公共のトイレでも、百貨店のトイレでも、

男性用トイレと女性用トイレは、基本的なつくりは同じだった。

 

男性用トイレには小便器があるが、女性用トイレには個室だけしかない、

といった、基本的な違いがあるだけだったのである。

 

女性用トイレには、男性用トイレには存在しないような利便性がある、

といったことは、なかったのだ。

それが、正常なあり方である。

 

ところが最近になって女は、

女性用トイレには男性用トイレにはない利便性を設けよ、などと言いはじめた。

じつに、めんどくさい存在である。

 

女性には、女性特有の性質がある。

たとえば、女は化粧をする。男性は通常、化粧などはしない。

 

この点を考慮すれば、

女性用のトイレに、化粧に適したような姿見を設置するなどの工夫をすることには、

一定の合理性がある、と考えることも不可能ではない。

 

ただ、建設作業現場のトイレに話を戻して考えれば、

トイレにおいて一般的な清潔さが保たれているということ、

和式の便器ではなく洋式の便器が設置されているということ、

建設作業で使うヘルメットをかけるフックが設置されているということ、

除菌シートが設置されているということ、

あたたかくなる便座が設置されているということ、

こういったことは、女だけではなくて、

男性の需要もあるものであり、男性をも快適にするものであり、

男性にもそれを享受する正当な権利があるものである。

端的に言えば、女だけに必要なものではなくて、男性にも必要なものだ。

 

このことから考えて、

建設現場において、従来よりも快適さを増したトイレを設営することは

かまわないが、

それを女だけに限って使用させることは、

絶対に許されないことだ。

 

快適さを増したトイレを設営するのならば、

男性用トイレも、女性用トイレも、等しく快適さを増すようにするのが

スジだろう。

 

コストの関係からそれができない、というのであれば、

快適さを増した女性用トイレというのは、端的に言えば、

金食い虫、ということになる。

 

そして、はっきり言ってしまえば、そんな金食い虫になるような

トイレがなければ働けないような女というのは、

会社にとっては、お荷物だということだ。

会社が利潤を追求するうえで、その足を引っ張っているのである。

 

記事の中では、人手不足の中では女性の労働力を確保することが必須の課題

であり、そのためにはトイレを快適にすることが云々、

といったことも述べられていたが、それもおかしな話だ。

 

考えてみたら、わかりそうなものだ。

女性の労働力が確保されるいっぽうで、男性の労働力が失われるとしたら、

どうだろう?

 

もしかりに、女性がどんどん働きだすいっぽうで、男性がつぎつぎに

辞めていったら、人手不足の状況は、どうなるんだろうね?

 

実際には、そんなことは起こらないだろう。

 

しかしながら、男性が働くのは当然であって、

女性が働くのは、なにか特別に価値あること、特別に素晴らしいこと、

と考えるのは、歪んだ間違った考え方であることは、明らかだ。

 

この社会に暮らしている一員である以上、

男性であれ、女性であれ、なんらかのかたちで労働して、

社会に貢献しなければいけないのは、当然のことである。

 

一方的に労働が当然視されるひとがいるいっぽうで、

お客様のような扱いを受けて平然としている腐った層がいるのならば、

そんな社会は早晩、崩壊することになるだろう。

 

男性の労働力も、女性の労働力も、等しく価値のあるものだ。

女性の労働力を必要としているからといって、

現に今存在している男性の労働力は、当然のものになるわけでもなんでもない。

 

労働力を確保したいのならば、

男性の労働者にも、女性の労働者にも、

公平に目配りすることが大切である。

 

いっぽうの犠牲の上に他方をお客様のようにあつかうことは、

社会に深刻な歪みをもたらす。