この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

ブログのアクセス数と、メダルゲームのメダル。

ブログを純粋な趣味でやっていると、

ブログのアクセス数が増えても、収入には結びつかない。

 

そんなブログのアクセス数は、

ゲーセンのメダルゲームのメダルに似ている。

 

スロット店のメダルゲームであれば、

メダルはお金につながる。

 

が、ゲーセンのメダルゲームは、そうではない。

ゲーセンのメダルゲームでメダルが増えても、

実際の収入とは全然関係がない。

 

そういう意味で、趣味でやっているブログのアクセス数が増える喜びは、

ゲーセンのメダルゲームでメダルが増える喜びに似ている。

寿命1年を1000万円で買い取ってもらえるなら。

こんなことを考えることがある。

自分の寿命1年分を、1000万円のお金で買い取ってくれるサービスがあったなら、

自分ははたして、どれくらい売却するだろうか、と。

 

これは、そのときの自分の年齢によって、そして、

残された寿命によって、おおきくかわってくるかもしれない。

 

自分がいま20代の若さで、残された寿命がわずか5年だったとする。

もしそうなら、自分はたぶん、寿命をまったく売却しないだろう。

残された時間を精一杯、生きることだろうと思う。

 

自分がいま何歳であるかにかかわらず、

自分が100歳まで生きることがわかっているなら、

90歳から100歳までの10年間の寿命を売却して、1億円を手に入れる

かもしれない。

というのも、90歳から100歳までの間なんて、

どうせよぼよぼで、生きていてもそれほど楽しくはないだろうから。

 

このように考えてくると、おかれた状況によって、

寿命の価値がずいぶんちがっていることがわかる。

 

20代で余命5年の人とかは、むしろ、

1年1000万円ほどであれば、寿命を買いたい側の人間であるかもしれない。

 

反対に、身寄りもなく孤独で、慢性病をかかえている老人などは、

1年100万円ほどであっても、残りの寿命を売り払って人生を清算したい、

と思うかもしれない。

 

ここに、寿命売買業者というのが存在したとする。

おそらくその業者は、安い値段で寿命を買い付けて、

高い値段でそれを売りつけることで利益をえるだろう。

 

学校卒業後ニート、ひきこもりの状態が長く続いていて、

人生に何の希望も持てず、

大量殺人事件でも引き起こして人生を終わらせよう、などと考えている

若者に近づいていって、寿命売買業者は、こうささやくのである。

「あなたの寿命を1年50万円で買い取りますよ?」と。

 

その若者が短絡的であれば、残りの寿命を全部売り払うだろう。

そうすれば、寿命売買業者は、破格の値段で寿命を獲得できる。

若者は、そのお金を使って、きれいなネーチャンのいるお店で遊んだりできる。

そして、起こるはずだった大量殺人事件は、起こらない。

いいことづくめではないだろうか。

 

そして今度は、寿命売買業者は、高い値段ででもいいから寿命がほしい、

と思っているひとのところへ、その寿命を売りに行くのだ。

 

美貌も、名声も、家族も、学歴も、職業も、なにもかも恵まれている女性がいて、

ただ、病気のために、30代にもかかわらず余命があとわずかだとする。

その女性の夫は、とても裕福だ。

さらには、その女性は国民的な人気があるために、

その女性の命を救うためならば、多額の寄付金が集まるかもしれない、

という状況であったとする。

 

そういう女性のところへ、寿命売買業者は近づいて行って、こうささやくのだ。

「1年1億円で、寿命をお買い上げになりませんか?」と。

 

そうすれば、その女性は、10年分、20年分くらいなら、寿命を買うかもしれない。

そうすれば、自分に幼い子がいたとして、

その子が立派に成人するくらいまでは、見届けることができるかもしれない。

反対だなあ。教育無償化と、こども保険。

政府は、教育無償化を憲法改正の目玉に位置づけるなど、

政策としてすすめようとしている。

また、自民党は、こども保険という名前の制度をもうけて、

幼児教育の無償化などを実現しようとしているようだ。

 

自分は、そのいずれにも、反対だ。

 

教育無償化というのは、一見したところ、授業料などの費用がかからなくなって、

教育の機会均等にも資するし、いいことだなあ、と思うかもしれない。

しかし、それが「いいこと」であるのは、

現に学校へ通っている生徒、児童本人に対してか、あるいは、

そのような生徒、児童をかかえる家庭に対してだけである。

 

教育無償化を実現するには、財源が必要だ。

その財源としては、おそらく、税金がつかわれる。

 

税金は、みんなが納めたものだ。

教育無償化を実現すると、そのみんなが納めた税金が、

子供のいる家庭だけに配られることになる。

 

つまり、子供がすでにいなくなった家庭とか、

子供がいない家庭とか、単身世帯などにとっては、

税金をはらうだけで、自分にとってはまったくなんの利益もない制度、

ということになってしまう。

 

これでは、あまりにも不公平ではないだろうか。

 

たしかに、日本の未来にとっては、子供がいることは重要なことだ。

しかし、子供を産み、育てるというかたちばかりではなく、

この日本では、各人が各人の方法で、日本の国と社会の繁栄や発展のために

貢献しているのである。

 

なにも、子供を産み、育てるような国民だけが一等国民であって、

子供のいないような国民は二等国民である、というわけでもないのだ。

子供のいない国民の一方的な負担において、子供のいる国民を利することは、

公平、公正の原理から考えれば、おかしなことであろう。

 

それに、いまでこそ日本はそれなりに豊かであるが、

高度成長期以前の日本は、まだ貧しかったのである。

そんななかでも、ひとびとは、なにも教育無償化などといった制度がなくたって、

自分の力で立派に子供を育ててきたのだ。

 

現在、教育無償化という制度が必要である、と主張するひとたちは、

当時と比べて、状況的になにがどう変化したのか、あきらかにすべきだろう。

 

また、こども保険というのも、おかしな制度設計だ。

 

保険と名のつくものは、基本的に、受益者負担が原則である。

 

火災保険にはいっているひとは、万が一、火災が発生したさいには、

自分がその火災保険にはいっていることによって、利益をえられる。

 

地震保険にはいっているひとは、万が一、地震が発生したさいには、

自分がその地震保険にはいっていることによって、利益をえられる。

 

健康保険にはいっているひとは、万が一、自分が病気になったさいには、

自分がその健康保険にはいっていることによって、利益をえられる。

 

保険料をしはらうのは、みな、自分自身もその保険の恩恵にあずかることが

できるからこそ、保険料をしはらっているのである。

 

ひるがえって、こども保険はどうか。

 

こども保険の保険料は、みなが支払う。

ところが、それで利益を得るのは、実際にこどもがいる家庭だけだ。

保険料の負担者と受益者が、一致していないのである。

 

この世の中には、

子供がすでにいなくなった家庭、子供のいない家庭、単身世帯、

いろんなかたちの家庭が存在する。

そういった家庭の存在を無視して、一方的に子供がいる家庭だけをもてはやすのは、

なんともおかしなことだろう。

 

 

 

国民みなに影響するような制度を設計するさいには、なによりもまず、

その制度が公平、公正なものであるかどうか、ということに意を払うべきであって、

必要かどうか、利便性の観点からはどうか、

ということだけにとらわれてはならない、と思う。