この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

世帯貯蓄が2000万円近く?

世帯貯蓄が2000万円近くになり、過去最高であるとのニュース。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

このニュースで気になるのは、

調査した世帯というのが、どういうわけか、

2人以上世帯に限られているということ。

 

2人以上世帯というのが世帯の大半をしめていて、

単身世帯などは無視できるほど少数であるのならば、それでもいいだろうが、

いまや、単身世帯は、世帯の種類としては最多になっている

んじゃなかったっけ?

その単身世帯を調査から全面的に省いてしまって、はたして、

正確な「世帯貯蓄」といえるんだろうか。

 

単身世帯には極端に貯蓄が少ないひとが多くて、

全体の調査結果に影響をあたえてしまうのかもしれないが、

だとするならば、

全体の調査結果に影響をあたえてしまうかもしれない、

極端に貯蓄が多い世帯も省かないと、

公平、公正な調査の仕方とはいえないよ。

【0学占術】月星のラッキーフード。

0学占術での月星の、

ラッキーフードをふくめたラッキーアイテム、

アンラッキーフードをふくめたアンラッキーアイテムについて、

以前読んだ本の中に書いてあったことを、書いてみようとおもう。

 

【月星のラッキーフード】

牛肉料理。焼肉、ステーキなど。あるいは、ヨーグルトなどの乳製品。

そば茶。

 

【月星のアンラッキーフード】

生魚を使った料理。刺身、寿司など。

トマトジュース。

 

【月星のアンラッキーアイテム】

バレーボール。

人体方位7-巽為風と、鼻の向き。

人間の体のなかには、いつもぴゅーぴゅーと

風の吹いているところがある。

それは、鼻のある場所だ。

鼻は、空気を吸い込んだり、吐き出したりしているから、

いつも、風が吹いているかのようだ。

 

人間の鼻っていうのは、顔にただ穴があいているだけではない。

かといって、ゾウの鼻のように、

たれさがって真下を向いているわけでもない。

人間の鼻は、ある角度をもって、顔面からつきでている。

 

その鼻の先っぽは、人体方位における南東をさしているようにみえる。

頭の方向が西、足の方向が東、背中の方向が北、

目が見つめている方向が南だったから、

鼻が指し示す方向っていうのは、考えてみたら、

南東のようにみえるんだよね。

 

南東というのは、八卦でいうと、巽為風。

風をあらわす方位だ。

そして、鼻の先っぽは南東を指していて、

その鼻のあたりでは、風が吹いているかのように空気の

出入りがある。

これって、なんだか関係がありそうな気がするよ。

 

 

※ 人体方位、にかんする記事の一覧は、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

人気記事と書きたい記事。

このブログは人気のあるブログではない。

こじんまりと、ひっそりとやっているブログである。

そんなブログの記事の中でも、

そのなかでは人気の記事というのがある。

 

人気の記事のほとんどは、

時事ニュースに自分なりの解説をくわえたものだ。

めずらしいところでは、

「おちんちんと、おまんこ」という記事が、非常に人気がある。

 

逆に、人気がないのが、

この世界の不思議や神秘について書いた記事だ。

人間の体にはこの世界の秘密がかくれている、

といったことに関する記事は、

このブログの主がとても書きたい記事なのだけれど、

一般受けはよくない。

【紫微斗数】福徳宮の象意について。

きょうは、占星術、運命学のカテゴリーのお話。

 

紫微斗数という中国の占術において、福徳宮といわれる場所がある。

一般的には、

精神的な充足度や趣味といったことがらをあらわすとされている。

 

が、本場の中国や台湾の書籍やネットをみてみると、

どうやら、それにとどまらない意味合いがあるようだ。

 

たとえば、福徳宮は、後半生や晩年運をあらわす、

としているものがある。

紫微斗数において後半生をあらわすものとして代表的なものには、

身宮があるが、

それ以外にも、遷移宮や福徳宮が後半生や晩年運といったものを

あらわす、としているものがいくつかあるのだ。

その説にしたがえば、たとえば、

福徳宮に輝度のたかい吉星がたくさん入っていれば、

晩年は恵まれた状態になる、と判断できることになる。

 

もうひとつ、福徳宮の象意として、あまり一般的には見かけない

が、中国や台湾のネットや書籍で見かけるものとしては、

それが、「行運」をあらわす、というものだ。

 

かつて、日本に紫微斗数を紹介した泰斗として、

鮑黎明というかたがおられたが、そのかたが、

中国においては個人の命運を決するものとして、

①命②運③風水④積陰徳⑤念書

の順番で運命学においては考えられている、と述べられていた。

 

①命とは、もってうまれた先天的な命運である。

②運とは、時々刻々の時の変化によって変化しうる、

後天的な行運である。

③風水とは、住居にかんすることなどをととのえることである。

④積陰徳とは、困っている人に施しをしたりすることである。

⑤念書とは、勉強や努力によって、自己の能力を高めていくことである。

 

命と運の関係は、自動車と道路の関係にたとえられる。

命が自動車、運が道路である。

もってうまれた先天的な命運がとてもよいが、

めぐってくる後天的な行運がとてもわるいひとは、

ベンツやF1カーで、ジャングルの泥道を走るようなものだ。

反対に、

もってうまれた先天的な命運がとてもわるいが、

めぐってくる後天的な行運がとてもよいひとは、

自転車でアスファルトの高速道路を走るようなものなのである。

 

命も大切だが、運も大切なのだ。

運はあなどれない。

命がとてもよくても、運にめぐまれないと、

幼少のころから青年期にかけて、成績優秀、出世街道にものったのに、

中年にかけて、大病を発して死んでしまったりすることもある。

 

紫微斗数の福徳宮というのは、

この、後天的にめぐってくる行運のよしあしをあらわしている、

という説がある。

つまり、なにかとラッキーなめぐりあわせになるのか、

それとも、なにかとアンラッキーなめぐりあわせになるのか、

そういうことをあらわしている、ということだ。

ストラディバリウスが、現代製に負ける。

ストラディバリウスが現代製に負けた。

 

ヴァイオリンの名器とされるストラディバリウスで弾いた楽曲と、

現代のヴァイオリンで弾いた楽曲を、

どちらで弾いたかはわからないようにして聴衆に評価してもらった

ところ、

どちらでもほとんど差はなかったという。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

ストラディバリウスといえば、

人間がその熟練した技で仕上げた逸品である。

現代のヴァイオリンは、おそらくは、機械が製造工程にはいって

いるだろう。

 

人間の熟練した技が、機械とかわらなくなる。

あるいは、機械に追い越されてしまう。

そういう話をきくと、自分は、将棋のことを思い出す。

 

将棋といえば、昭和のころまでは、

大山康晴升田幸三といった、すごい人気棋士がいた。

娯楽がまだそれほどなかった時代だから、

いまより将棋に注目があつまった、ということもあるだろうが、

将棋の技術だけでなく、

その人間的な魅力もまた、ひとびとをひきつけていたのである。

そのころは、将棋の強さというのは、

人間的に円熟してはじめて手に入るようなもの、

と考えられていたふしがあった。

つまり、ひとつの芸である。

その芸の極みに達したものが、将棋もまた強いのだ、

などと考えられていたのである。

 

しかし、時代は平成に入り、

将棋とは計算である、というあらたな考えが台頭してきた。

そして、計算能力にたけた若手が勝ち進むようになったころから、

将棋が、かつてほどの人気を集めなくなってきた。

 

さらには最近になって、AIが人間に勝つようになってきた。

最初、AIがプロを破った衝撃的な事件となったのは、

電王戦で米長永世棋聖がコンピュータに敗れたときだっただろうか。

米長永世棋聖はそのショックからか、

すぐに亡くなってしまった。

米長さんといえば、人間について非常にふかく考えたかたで、

ファンも多かった棋士である。

つまり、人間的な魅力が非常にあったひとなのだ。

そんな米長さんが、ただの機械にあっけなく負けてしまった。

その敗北と、それにつづく米長さんの死が、

将棋の流れの中における、ひとつの大きなターニングポイント

になったような気がする。

 

人間的な魅力、というものが、逆風にさらされているということ

でいえば、芸能界もそうである。

 

かつてほどの勢いはなくなったが、

みのもんた和田アキ子といえば、一時期は、芸能界のご意見番

などと言われ、非常におおきな力をもっていた。

なぜ彼らがそのようなおおきな力をもっていたかといえば、

それはなにも、

彼らの口にする意見がそれ単体として非常にすぐれていたから、

というわけではない。

彼らの口にする意見は、彼らの人間としての魅力と分かちがたく

結びついているのである。

つまり、キャラクターだ。

そのキャラクターがすごくひとをひきつけるものであったからこそ、

かれらの口にする意見もまた、それに付随して、

影響力をもちえたのである。

芸能界のドル箱スターというのは、たいてい、このような

人間としての魅力が非常にあるひとなのだ。

言ってしまえば、なにもしゃべらなくても魅力があるかもしれない

ひとなのである。

 

ところが、そういった非常に力のある大物スターといったひとたちにも、

逆風がふきはじめた。

タモリの笑っていいともがなくなった。

さんまのスーパーからくりテレビがなくなって、

さんまは、NHKにも出演するようになった。

国民的な人気をほこっていたSMAP解散した。

ここ数年で発生したこれらの事件は、みな、

芸能界における人間的な魅力というものに対して逆風が吹き始めた

ことの、ひとつの兆候なのではないか、という気がしている。

 

芸能界において、そのひとの魅力がそのひとのキャラクターと

わかちがたく結びついているのとは対照的なのが、

ネットの世界だ。

ネットでは、いろんなひとが、いろんな意見をアップしている。

そしてネットの世界では、

ある意見をアップしたひとが、いったいどのようなキャラクターの

持ち主なのか、ということは、

通常、明らかでない場合もおおい。

たとえば、ヤフーコメントの機能をつかって、多くの人が、

いろんなニュース記事にコメントをよせている。

そのコメントには、投票機能がついていて、

数万の賛同をあつめるコメントも、なかにはある。

なぜ、そのコメントがそんなに多くの賛同を集めるのかといえば、

それは、そのコメントをしたひとのキャラクターがすごくひとを

ひきつけるものであったから、などではない。

純粋に、そのコメントが、単体としてひとびとに評価されたから

である。

ここが、テレビとネットのちがうところだ。

ネットでは、その意見というのが、

往々にしてそのひとのキャラクターといった属性とは切り離されて

提示されるのである。

そのひとを信頼していなくても、

その意見そのものに説得力があれば、ひとをひきつけることにもなる。

これもまた、

人間的な円熟、人間的な厚み、深みといったものが、

重要視されなくなっていく現代の傾向のひとつだといえるのでは

ないだろうか。

 

ヴァイオリンの話、将棋の話、芸能界とネットの話、

としてきたが、

こういったことは、ほかにも探せばいっぱい事例がでてくるだろう。

昔はひとびとは、八百屋さん、お肉屋さん、魚屋さんといった、

個別の店で買い物をしていた。

いまはみな、スーパーマーケットである。

個別の店で買い物をしていたときには、その店主との人間的な

つながり、といったものも重要視されていたかもしれない。

スーパーマーケットでの買い物でひとが重視するのは、

価格と品質だけだ。

 

こう書いてくると、なんだか、このブログ主は、

人間的な魅力といったものが重視されなくなる現代の傾向にたいして、

否定的な見方をしているかのように思われるかもしれないが、

実際は、その逆である。

人間的な魅力といったものが、自分はあまり好きではない。

このブログだって、文字情報だけで勝負してるでしょ。

勝負、というほどのことも、書いてないけど。

【論語】40歳50歳になっても頭角をあらわさないならば。

孔子の言行録といわれる書物に、論語がある。

その論語の中で孔子は、

「40歳、50歳になっても頭角をあらわしたり、

 いい評判がきこえてきたりしないようならば、

 そのような人物はおそれるにたりない」

と、きびしくこきおろしている。

 

が、これを現代にあてはめて考えるときには、

古代と現代の、平均寿命のちがいにも注意しないといけないだろう。

統計資料によると、

孔子の生きていたような古代には、

ひとびとの平均寿命は30歳にも満たなかったようである。

であるならば、

おそれるにたりないと孔子がいっている、

40歳、50歳になっても頭角をあらわさない人間というのは、

現代でいえば、すくなくとも、

60歳、70歳になっても頭角をあらわさない人間、

ということになるのではないだろうか。

 

つまり、孔子のこの発言を現代にひきなおして考えれば、

「60歳、70歳になっても、いまだ頭角をあらわさないような

 人間は、おそれるにたりない」

ということになりそうだ。