この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

世帯貯蓄が2000万円近く?

世帯貯蓄が2000万円近くになり、過去最高であるとのニュース。

 

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このニュースで気になるのは、

調査した世帯というのが、どういうわけか、

2人以上世帯に限られているということ。

 

2人以上世帯というのが世帯の大半をしめていて、

単身世帯などは無視できるほど少数であるのならば、それでもいいだろうが、

いまや、単身世帯は、世帯の種類としては最多になっている

んじゃなかったっけ?

その単身世帯を調査から全面的に省いてしまって、はたして、

正確な「世帯貯蓄」といえるんだろうか。

 

単身世帯には極端に貯蓄が少ないひとが多くて、

全体の調査結果に影響をあたえてしまうのかもしれないが、

だとするならば、

全体の調査結果に影響をあたえてしまうかもしれない、

極端に貯蓄が多い世帯も省かないと、

公平、公正な調査の仕方とはいえないよ。

人気記事と書きたい記事。

このブログは人気のあるブログではない。

こじんまりと、ひっそりとやっているブログである。

そんなブログの記事の中でも、

そのなかでは人気の記事というのがある。

 

人気の記事のほとんどは、

時事ニュースに自分なりの解説をくわえたものだ。

めずらしいところでは、

「おちんちんと、おまんこ」という記事が、非常に人気がある。

 

逆に、人気がないのが、

この世界の不思議や神秘について書いた記事だ。

人間の体にはこの世界の秘密がかくれている、

といったことに関する記事は、

このブログの主がとても書きたい記事なのだけれど、

一般受けはよくない。

ゆずり「あう」ことが大切。

人と人とのつきあいのなかでは、

ゆずりあいが大切だ、なんて言われることがある。

社会がうまく、円滑にまわっていくためにも、

ゆずりあいは、大切なものだろう。

 

そのゆずりあいに関して大事なことは、

「おたがいにゆずりあう」ということだ。

 

誰かが誰かにゆずったならば、今度は、

ゆずられた誰かがゆずった誰かにゆずる。

 

一方だけが、一方的にゆずってばかりとか、

一方だけが、一方的にゆずられてばかりとかいうのは、

不健康なありかただろう。

 

だれかになにかをゆずってあげると、

ゆずられたほうは、たいてい、ニコニコするだろう。

 

たいせつなのは、

相手がいつもニコニコするばかりでは、おかしい、ということだ。

たまには、自分がニコニコすることがあってもいい。

 

逆もしかり。

自分がニコニコするばかりでなく、

相手がニコニコすることもあっていい。

 

社会で生きていく中では、利害や意見の衝突は、

つきものだ。

 

そういうとき、

相手の意見を通して自分の意見をひっこめたときだけ歓迎され、

自分の意見を主張しようとすると、とたんに相手が不機嫌になる、

ということが、

なんだか、自分の人生では繰り返し起きてるなあ、と思う人は、

そういう自分の人生のあり方を、

再検討する時機にきているのかもしれない。

 

やみくもに自分の利益ばかりを追求して、

他者をないがしろにするひとは、社会で嫌われる。

が、そのいっぽうで、

自分の利益をいつも犠牲にして、他者の利益を優先してばかり

いるひとは、

いいように利用されたり、陰であなどられたりするものだ。

 

自分がそういった、「敗北者」の地位に固定されてるなあ、

と思う人は、革命を起こす必要がある。

 

とはいうものの、いきなり相手をおしのけて自分が勝とうとしても、

相手もあることだから、すぐには、うまくいかないだろう。

 

簡単な方法の第一は、

奉仕者」にばかりなるのを、やめてみることだ。

なにか災害が起こったらすぐ寄付してみたり、

街角で困っている人をみたら、すぐ駆け寄っていって手助けする、

なんてことを、一度、やめてみることだ。

 

もちろん、そういった他者への貢献は、

ふつうは、いいことである。

でも、世の中は、助けたり、助けられたり、のはずだ。

 

自分がすぐにそういった奉仕、貢献をしようしようと思う人は、

他者の心の痛みに敏感な人なのだ。

ただ、それがあまりにも過剰に敏感すぎることになると、

自分がいらぬ損な役回りを引き受けることにもなる。

だから一度、ためしに、そういうことをやめてみたらいい。

 

こう考えてみたらどうだろう。

なにか災害で困っている人がいたとして、

自分が1万円出して助けるのではなく、

100人が100円ずつ出して助けるような、

そんなありかたもあるんじゃないか、と。

 

あまりにも重すぎる重荷は、そのひとを壊してしまうかもしれない。

そして、あなたの味方をしてくれる天使みたいな存在は、

たまには、あなたにも微笑んでほしいと思っているかもしれない。

 

欽ちゃんの愛称で知られる萩本欽一さんは、

「ダメなときほど運はたまる」というシリーズの本を出している。

そのなかで欽ちゃんは、

社会がうまくまわっていくためには、

ひとびとがもっとサービス精神をもったほうがいい、

という意見をのべている。

 

しかし、この点に関しても注意しなければいけないのは、

そのサービス精神は、

双方がもたなければいけない、ということだ。

 

だれかがサービス精神をもついっぽうで、

他方はまったくサービス精神などもたず、

ただ、相手を利用するだけ、なんてことならば、

そんな社会は、どう考えてもおかしいだろう。

 

ブラック企業なんか、そうなんじゃないだろうか。

あるいは、過労死問題、サービス残業問題をかかえる企業なんかも

そうだろう。

 

ブラック企業に酷使されているひと、

過労死するくらい働かされているひと、

サービス残業を強要されているひと、そんなひとたちに、

あなたはサービス精神を発揮していますね、いいことです、

なんて、

そんなおかしなことがあってよいはずがない。

 

サービス精神というのは、「お互い」が持たねばならない。

力点は、

「サービス精神をもつこと」にあるのではなく、

「それが、お互いであること」にある。

そして、お互いということ、相互性ということ、

そこに、まさに理が存在するのである。

大切にしなければいけないのは、理、なのだ。

 

ストラディバリウスが、現代製に負ける。

ストラディバリウスが現代製に負けた。

 

ヴァイオリンの名器とされるストラディバリウスで弾いた楽曲と、

現代のヴァイオリンで弾いた楽曲を、

どちらで弾いたかはわからないようにして聴衆に評価してもらった

ところ、

どちらでもほとんど差はなかったという。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

ストラディバリウスといえば、

人間がその熟練した技で仕上げた逸品である。

現代のヴァイオリンは、おそらくは、機械が製造工程にはいって

いるだろう。

 

人間の熟練した技が、機械とかわらなくなる。

あるいは、機械に追い越されてしまう。

そういう話をきくと、自分は、将棋のことを思い出す。

 

将棋といえば、昭和のころまでは、

大山康晴升田幸三といった、すごい人気棋士がいた。

娯楽がまだそれほどなかった時代だから、

いまより将棋に注目があつまった、ということもあるだろうが、

将棋の技術だけでなく、

その人間的な魅力もまた、ひとびとをひきつけていたのである。

そのころは、将棋の強さというのは、

人間的に円熟してはじめて手に入るようなもの、

と考えられていたふしがあった。

つまり、ひとつの芸である。

その芸の極みに達したものが、将棋もまた強いのだ、

などと考えられていたのである。

 

しかし、時代は平成に入り、

将棋とは計算である、というあらたな考えが台頭してきた。

そして、計算能力にたけた若手が勝ち進むようになったころから、

将棋が、かつてほどの人気を集めなくなってきた。

 

さらには最近になって、AIが人間に勝つようになってきた。

最初、AIがプロを破った衝撃的な事件となったのは、

電王戦で米長永世棋聖がコンピュータに敗れたときだっただろうか。

米長永世棋聖はそのショックからか、

すぐに亡くなってしまった。

米長さんといえば、人間について非常にふかく考えたかたで、

ファンも多かった棋士である。

つまり、人間的な魅力が非常にあったひとなのだ。

そんな米長さんが、ただの機械にあっけなく負けてしまった。

その敗北と、それにつづく米長さんの死が、

将棋の流れの中における、ひとつの大きなターニングポイント

になったような気がする。

 

人間的な魅力、というものが、逆風にさらされているということ

でいえば、芸能界もそうである。

 

かつてほどの勢いはなくなったが、

みのもんた和田アキ子といえば、一時期は、芸能界のご意見番

などと言われ、非常におおきな力をもっていた。

なぜ彼らがそのようなおおきな力をもっていたかといえば、

それはなにも、

彼らの口にする意見がそれ単体として非常にすぐれていたから、

というわけではない。

彼らの口にする意見は、彼らの人間としての魅力と分かちがたく

結びついているのである。

つまり、キャラクターだ。

そのキャラクターがすごくひとをひきつけるものであったからこそ、

かれらの口にする意見もまた、それに付随して、

影響力をもちえたのである。

芸能界のドル箱スターというのは、たいてい、このような

人間としての魅力が非常にあるひとなのだ。

言ってしまえば、なにもしゃべらなくても魅力があるかもしれない

ひとなのである。

 

ところが、そういった非常に力のある大物スターといったひとたちにも、

逆風がふきはじめた。

タモリの笑っていいともがなくなった。

さんまのスーパーからくりテレビがなくなって、

さんまは、NHKにも出演するようになった。

国民的な人気をほこっていたSMAP解散した。

ここ数年で発生したこれらの事件は、みな、

芸能界における人間的な魅力というものに対して逆風が吹き始めた

ことの、ひとつの兆候なのではないか、という気がしている。

 

芸能界において、そのひとの魅力がそのひとのキャラクターと

わかちがたく結びついているのとは対照的なのが、

ネットの世界だ。

ネットでは、いろんなひとが、いろんな意見をアップしている。

そしてネットの世界では、

ある意見をアップしたひとが、いったいどのようなキャラクターの

持ち主なのか、ということは、

通常、明らかでない場合もおおい。

たとえば、ヤフーコメントの機能をつかって、多くの人が、

いろんなニュース記事にコメントをよせている。

そのコメントには、投票機能がついていて、

数万の賛同をあつめるコメントも、なかにはある。

なぜ、そのコメントがそんなに多くの賛同を集めるのかといえば、

それは、そのコメントをしたひとのキャラクターがすごくひとを

ひきつけるものであったから、などではない。

純粋に、そのコメントが、単体としてひとびとに評価されたから

である。

ここが、テレビとネットのちがうところだ。

ネットでは、その意見というのが、

往々にしてそのひとのキャラクターといった属性とは切り離されて

提示されるのである。

そのひとを信頼していなくても、

その意見そのものに説得力があれば、ひとをひきつけることにもなる。

これもまた、

人間的な円熟、人間的な厚み、深みといったものが、

重要視されなくなっていく現代の傾向のひとつだといえるのでは

ないだろうか。

 

ヴァイオリンの話、将棋の話、芸能界とネットの話、

としてきたが、

こういったことは、ほかにも探せばいっぱい事例がでてくるだろう。

昔はひとびとは、八百屋さん、お肉屋さん、魚屋さんといった、

個別の店で買い物をしていた。

いまはみな、スーパーマーケットである。

個別の店で買い物をしていたときには、その店主との人間的な

つながり、といったものも重要視されていたかもしれない。

スーパーマーケットでの買い物でひとが重視するのは、

価格と品質だけだ。

 

こう書いてくると、なんだか、このブログ主は、

人間的な魅力といったものが重視されなくなる現代の傾向にたいして、

否定的な見方をしているかのように思われるかもしれないが、

実際は、その逆である。

人間的な魅力といったものが、自分はあまり好きではない。

このブログだって、文字情報だけで勝負してるでしょ。

勝負、というほどのことも、書いてないけど。

【論語】40歳50歳になっても頭角をあらわさないならば。

孔子の言行録といわれる書物に、論語がある。

その論語の中で孔子は、

「40歳、50歳になっても頭角をあらわしたり、

 いい評判がきこえてきたりしないようならば、

 そのような人物はおそれるにたりない」

と、きびしくこきおろしている。

 

が、これを現代にあてはめて考えるときには、

古代と現代の、平均寿命のちがいにも注意しないといけないだろう。

統計資料によると、

孔子の生きていたような古代には、

ひとびとの平均寿命は30歳にも満たなかったようである。

であるならば、

おそれるにたりないと孔子がいっている、

40歳、50歳になっても頭角をあらわさない人間というのは、

現代でいえば、すくなくとも、

60歳、70歳になっても頭角をあらわさない人間、

ということになるのではないだろうか。

 

つまり、孔子のこの発言を現代にひきなおして考えれば、

「60歳、70歳になっても、いまだ頭角をあらわさないような

 人間は、おそれるにたりない」

ということになりそうだ。

ありがとうございました、を言わない店員。

お店で買い物をし、精算した時に、

ありがとうございました、を言わない店員が、ときどきいる。

 

いつごろからなのだろうか。

十年、二十年ほどまえは、それほどでもなかったような気がする。

最近になって、そういう店員に出くわすことが、

まれではなくなったような気がするのだ。

 

インターネットで、

ありがとうございましたを言わない店員、とか、

ありがとうございましたを言わないコンビニ、とかで検索すると、

それなりにヒットする。

 

決して少なくはないひとたちが、そういった店員に対して、

違和感や不満を感じているのだろう。

 

この現象をどう考えたらいいのだろうか。

 

まず第一に、支払いを済ませたお客さんに対して、店員が

ありがとうございました、と言うのは、当然のことである、ということだ。

 

店員さんはお客さんに対して、商品を買ってくれてありがとう、

お客さんは店員さんに対して、接客してくれてありがとう、

だから本来は、双方がありがとうと言うべきなのだ、

なんていう意見もなかにはあるだろうが、それは違うと思う。

 

店員のありがとうございましたは、業務内容にふくまれている。

つまり、仕事なのだ。

まともな経営者であれば、従業員に対して、あいさつは徹底して教育

しているはずである。

 

もしかりに、あいさつなんて必要ない、単に、商品を受け渡しすればいいのだ、

ということであれば、接客は、機械やロボットでもじゅうぶん事足りる

わけだ。

 

そうではなくて、人間の従業員を雇用しているということであるからには、

当然、人間に求められることが、業務内容としてはいってくる。

繰り返すが、店員がお客に対してありがとうございました、と言うのは、

仕事の一部なのだ。

 

そして、その仕事に対しては、経営側から従業員側に対して、

お給料が支払われている。

ということは、

店員がありがとうございました、と言うことと、それに対して

店員がお給料をもらうということ、この2つが対価関係にたっているのである。

決して、

店員がありがとうございました、と言うことと、それに対して

お客が店員にありがとうございました、と言うこと、この2つが対価関係

にたっているわけではないのだ。

 

考えてみればあきらかなことである。

お客は、買い物をしたところで、だれからもお金なんてもらってないよね。

 

店員がありがとうございました、と言うか言わないかなんて小さなこと、

そんなことに目くじらたてないでも、なんていう意見もあるかもしれないが、

それも違う。

 

あいさつは、人と人とが気持ちよく社会生活をおくっていくうえで、

欠かすことのできない大切なものだ。

決して、小さなものなんかではないのである。

 

蟻の一穴、という言葉があるが、そんなことは小さなこと、と考える態度は、

やがては拡大し、いろんなことをどんどん小さなこととして切り捨てていく

ことにもなるだろう。

それが結果的には、社会における基本的道義の崩壊につながっていったとしても、

不思議ではないのだ。

 

ありがとう、という言葉は、いろんな場面で登場する。

そして、店員さんがお客さんに対してありがとうございました、と言うのは、

その典型的で基本的な場面のひとつなのだ。

 

ありがとうございました、と言うことは、決して小さなことではない、

と言った。

そして、もし仮にそれが小さなことであったとしても、

小さなことはすなわち意味のないこと、小さなことはすなわち無視してよいこと、

には、決してならないのである。

 

店員さんは、なぜ、ありがとうございましたを言わないのだろうか。

もしかしたら、うっかり忘れていたのかもしれない。

あるいは、その日の虫の居所が悪かったのか、あるいは、

そのお客が気に入らなかったのかもしれない。

 

たとえそうであったとしても、お金をもらって仕事をしている以上は、

自らの感情のままに行動してはいけないことは、明らかである。

 

人間のこころのなかには、2つの部分がある。

1つは、好きか嫌いか、自分は何をしたいのか、何が気持ちいいのか、

何が不快なのか、という部分をつかさどる、感情の部分。

もう1つは、何が正しくて何が間違っているのか、どういう行動をすべきか

といったことの判断をつかさどる、思考の部分。

 

自分が気に入らない、不満だ、という感情のままに、自らを制御できず、

その気持ちをそのまま外界にあらわしてしまう人というのは、要するに、

思考の部分が弱いのである。

 

お客が気に入らないと思えば、ありがとうございましたを言わないという行動

に出てしまう店員、

自分が気持ち悪いと思えば、その自分の感情のままに「キモい」と発言する

女子高生、みな、根っこは同じことだ。

 

もし仮に、世の中のひとびとがみな、自分の感情のままに行動し、

意思や思考による制御がまったくなかったならば、

社会はめちゃくちゃになってしまうだろう。

 

意思や思考によって、他人に無用の不快感を与えないようにみずからの

行動を制御する、というのは、

人と人とが気持ちよく社会で暮らしていくうえでの必須のスキルともいえる。

それができないということは、端的に言えば、

コミュニケーション能力が欠けている、ということにほかならない。

 

では、こうした事例を見かけたときに、お客である我々の側には、

いったい、どういった対処が考えられるのか。

 

ひとつには、店側に対して、自分が不快な思いをしたというその苦情を、

はっきりと伝えることだ。

コンビニであれば、本社に電話するのでもいいだろう。

イオンのようなショッピングセンターであれば、ご意見カードのような

ものを設置している店もあるので、そこに苦情を書くのもいいだろう。

 

もうひとつは、インターネットで、

ありがとうを言わないひと、

といったワードで検索してみることだ。

ありがとうございましたを言わない店員に対して、自分と同じように

不快感を抱いているひとが多数いることが分かり、

おかしいのは店員のほうである、という確信を強くすることができるだろう。

「トロッコ問題」に、あらたな仮定を付け加えてみた。

トロッコ問題、といわれる問題がある。

詳しい内容はググってもらうとして、自分は、以下のように、

あたらしい仮定を加えてみることにした。

 

ある線路で、制御不能な列車が暴走している。

その列車がすすんでいく線路の先には、100人の作業員が

保線作業をしている。

このまま暴走列車がすすんでいけば、その100人がまきこまれて、

全員が命を落としてしまうことは確実だ。

ただ、その暴走列車と、100人がいる地点のあいだには、

線路を切り替えるポイントがある。

そのポイントで線路を切り替えれば、暴走列車は、

100人のいる地点へは向かわず、べつの経路をとることになって、

100人の命は、すくわれる。

ただ、その場合、あらたに暴走列車が向かうことになる線路の先には、

1人が存在する。

線路を切り替えることにすれば、今度は、その1人のほうが、

犠牲になることになるだろう。

ただし、その1人というのは、

この国の王様

である。

 

この問題、どのように考えるだろうか。

近代市民革命が発生したあと、みんなは当然のように、

人間はみな平等で、1人1人の価値は同等だと思っている。

1人1人の価値が同等だという前提に立つからこそ、

1人1票を原則とした選挙制度による民主主義も、

多数決による決定を原則とする民主主義もなりたつ。

数、というのは、同じ、を前提にして成り立つシステムだ。

3個のリンゴと4個のリンゴをあわせれば、7個のリンゴになる

という。

それが、数の論理だ。

そのうちのいくつかのリンゴは青くて、いくつかのリンゴは赤い

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは小さくて、いくつかのリンゴは大きい

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは腐っていて、いくつかのリンゴは新鮮

かもしれない。

にもかかわらず、そういった事情にもかかわらず、

3個と4個を足せば7個になると言えるのは、

リンゴというくくりでいえば同一だろう、という、

その同一性に着目するからだ。

同一性の前提がくずれれば、数の論理は、その正当性の根拠をうしなう。

1人1人の価値が同等だとする近代民主主義の基本思想は、

この、数の論理と、分かちがたく結びついている。

 

が、その考え方は、かならずしも当然のものではない。

フランス人権宣言などが高らかにある理想をのべたからといって、

それ以前の伝統的な社会が、はたして、

間違っていたことになるんだろうか。

近代市民革命が発生するまで、人間は間違った社会で暮らしていて、

近代市民革命後は、人間は正しい社会で暮らすことになったのか。

そこに、ある種の民主主義の傲慢さを見て取るのは、

変な考え方なのだろうか。

 

本来のトロッコ問題を前にしたとき、なぜ悩むのかといえば、

100人と1人という、数の違いが存在するからだ。

100人と1人なら、当然数の多い100人のほうを助けたほうが

いいような気がする。

しかし、そこには、1人1人の価値は平等であるという、

近代市民革命後にはじめて成立した、ある特定のイデオロギー

ひそんでいる。

このトロッコ問題を考える際には、そのイデオロギーそのものの

正当性も問い直されるべきだ。

つまり、数の違いという量的な違いだけを問題にしていいのだろうか。

その人間の個性、質的な違いは、問題を検討するさいに問題とは

ならないのか。

 

だから、自分は、あらたな仮定をおいた。

もし、その1人のほうが、

この国の王様

だったらどうするのか、と。