この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【紫微斗数】福徳宮の象意について。

きょうは、占星術、運命学のカテゴリーのお話。

 

紫微斗数という中国の占術において、福徳宮といわれる場所がある。

一般的には、

精神的な充足度や趣味といったことがらをあらわすとされている。

 

が、本場の中国や台湾の書籍やネットをみてみると、

どうやら、それにとどまらない意味合いがあるようだ。

 

たとえば、福徳宮は、後半生や晩年運をあらわす、

としているものがある。

紫微斗数において後半生をあらわすものとして代表的なものには、

身宮があるが、

それ以外にも、遷移宮や福徳宮が後半生や晩年運といったものを

あらわす、としているものがいくつかあるのだ。

その説にしたがえば、たとえば、

福徳宮に輝度のたかい吉星がたくさん入っていれば、

晩年は恵まれた状態になる、と判断できることになる。

 

もうひとつ、福徳宮の象意として、あまり一般的には見かけない

が、中国や台湾のネットや書籍で見かけるものとしては、

それが、「行運」をあらわす、というものだ。

 

かつて、日本に紫微斗数を紹介した泰斗として、

鮑黎明というかたがおられたが、そのかたが、

中国においては個人の命運を決するものとして、

①命②運③風水④積陰徳⑤念書

の順番で運命学においては考えられている、と述べられていた。

 

①命とは、もってうまれた先天的な命運である。

②運とは、時々刻々の時の変化によって変化しうる、

後天的な行運である。

③風水とは、住居にかんすることなどをととのえることである。

④積陰徳とは、困っている人に施しをしたりすることである。

⑤念書とは、勉強や努力によって、自己の能力を高めていくことである。

 

命と運の関係は、自動車と道路の関係にたとえられる。

命が自動車、運が道路である。

もってうまれた先天的な命運がとてもよいが、

めぐってくる後天的な行運がとてもわるいひとは、

ベンツやF1カーで、ジャングルの泥道を走るようなものだ。

反対に、

もってうまれた先天的な命運がとてもわるいが、

めぐってくる後天的な行運がとてもよいひとは、

自転車でアスファルトの高速道路を走るようなものなのである。

 

命も大切だが、運も大切なのだ。

運はあなどれない。

命がとてもよくても、運にめぐまれないと、

幼少のころから青年期にかけて、成績優秀、出世街道にものったのに、

中年にかけて、大病を発して死んでしまったりすることもある。

 

紫微斗数の福徳宮というのは、

この、後天的にめぐってくる行運のよしあしをあらわしている、

という説がある。

つまり、なにかとラッキーなめぐりあわせになるのか、

それとも、なにかとアンラッキーなめぐりあわせになるのか、

そういうことをあらわしている、ということだ。

ストラディバリウスが、現代製に負ける。

ストラディバリウスが現代製に負けた。

 

ヴァイオリンの名器とされるストラディバリウスで弾いた楽曲と、

現代のヴァイオリンで弾いた楽曲を、

どちらで弾いたかはわからないようにして聴衆に評価してもらった

ところ、

どちらでもほとんど差はなかったという。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

ストラディバリウスといえば、

人間がその熟練した技で仕上げた逸品である。

現代のヴァイオリンは、おそらくは、機械が製造工程にはいって

いるだろう。

 

人間の熟練した技が、機械とかわらなくなる。

あるいは、機械に追い越されてしまう。

そういう話をきくと、自分は、将棋のことを思い出す。

 

将棋といえば、昭和のころまでは、

大山康晴升田幸三といった、すごい人気棋士がいた。

娯楽がまだそれほどなかった時代だから、

いまより将棋に注目があつまった、ということもあるだろうが、

将棋の技術だけでなく、

その人間的な魅力もまた、ひとびとをひきつけていたのである。

そのころは、将棋の強さというのは、

人間的に円熟してはじめて手に入るようなもの、

と考えられていたふしがあった。

つまり、ひとつの芸である。

その芸の極みに達したものが、将棋もまた強いのだ、

などと考えられていたのである。

 

しかし、時代は平成に入り、

将棋とは計算である、というあらたな考えが台頭してきた。

そして、計算能力にたけた若手が勝ち進むようになったころから、

将棋が、かつてほどの人気を集めなくなってきた。

 

さらには最近になって、AIが人間に勝つようになってきた。

最初、AIがプロを破った衝撃的な事件となったのは、

電王戦で米長永世棋聖がコンピュータに敗れたときだっただろうか。

米長永世棋聖はそのショックからか、

すぐに亡くなってしまった。

米長さんといえば、人間について非常にふかく考えたかたで、

ファンも多かった棋士である。

つまり、人間的な魅力が非常にあったひとなのだ。

そんな米長さんが、ただの機械にあっけなく負けてしまった。

その敗北と、それにつづく米長さんの死が、

将棋の流れの中における、ひとつの大きなターニングポイント

になったような気がする。

 

人間的な魅力、というものが、逆風にさらされているということ

でいえば、芸能界もそうである。

 

かつてほどの勢いはなくなったが、

みのもんた和田アキ子といえば、一時期は、芸能界のご意見番

などと言われ、非常におおきな力をもっていた。

なぜ彼らがそのようなおおきな力をもっていたかといえば、

それはなにも、

彼らの口にする意見がそれ単体として非常にすぐれていたから、

というわけではない。

彼らの口にする意見は、彼らの人間としての魅力と分かちがたく

結びついているのである。

つまり、キャラクターだ。

そのキャラクターがすごくひとをひきつけるものであったからこそ、

かれらの口にする意見もまた、それに付随して、

影響力をもちえたのである。

芸能界のドル箱スターというのは、たいてい、このような

人間としての魅力が非常にあるひとなのだ。

言ってしまえば、なにもしゃべらなくても魅力があるかもしれない

ひとなのである。

 

ところが、そういった非常に力のある大物スターといったひとたちにも、

逆風がふきはじめた。

タモリの笑っていいともがなくなった。

さんまのスーパーからくりテレビがなくなって、

さんまは、NHKにも出演するようになった。

国民的な人気をほこっていたSMAP解散した。

ここ数年で発生したこれらの事件は、みな、

芸能界における人間的な魅力というものに対して逆風が吹き始めた

ことの、ひとつの兆候なのではないか、という気がしている。

 

芸能界において、そのひとの魅力がそのひとのキャラクターと

わかちがたく結びついているのとは対照的なのが、

ネットの世界だ。

ネットでは、いろんなひとが、いろんな意見をアップしている。

そしてネットの世界では、

ある意見をアップしたひとが、いったいどのようなキャラクターの

持ち主なのか、ということは、

通常、明らかでない場合もおおい。

たとえば、ヤフーコメントの機能をつかって、多くの人が、

いろんなニュース記事にコメントをよせている。

そのコメントには、投票機能がついていて、

数万の賛同をあつめるコメントも、なかにはある。

なぜ、そのコメントがそんなに多くの賛同を集めるのかといえば、

それは、そのコメントをしたひとのキャラクターがすごくひとを

ひきつけるものであったから、などではない。

純粋に、そのコメントが、単体としてひとびとに評価されたから

である。

ここが、テレビとネットのちがうところだ。

ネットでは、その意見というのが、

往々にしてそのひとのキャラクターといった属性とは切り離されて

提示されるのである。

そのひとを信頼していなくても、

その意見そのものに説得力があれば、ひとをひきつけることにもなる。

これもまた、

人間的な円熟、人間的な厚み、深みといったものが、

重要視されなくなっていく現代の傾向のひとつだといえるのでは

ないだろうか。

 

ヴァイオリンの話、将棋の話、芸能界とネットの話、

としてきたが、

こういったことは、ほかにも探せばいっぱい事例がでてくるだろう。

昔はひとびとは、八百屋さん、お肉屋さん、魚屋さんといった、

個別の店で買い物をしていた。

いまはみな、スーパーマーケットである。

個別の店で買い物をしていたときには、その店主との人間的な

つながり、といったものも重要視されていたかもしれない。

スーパーマーケットでの買い物でひとが重視するのは、

価格と品質だけだ。

 

こう書いてくると、なんだか、このブログ主は、

人間的な魅力といったものが重視されなくなる現代の傾向にたいして、

否定的な見方をしているかのように思われるかもしれないが、

実際は、その逆である。

人間的な魅力といったものが、自分はあまり好きではない。

このブログだって、文字情報だけで勝負してるでしょ。

勝負、というほどのことも、書いてないけど。

人間の耳は、なぜ、互いに反対方向を向いているのか。

ユダヤのことわざに、こんなのがある。

「人間には、口が1つしかないのに、耳は2つある。

 自分が話す分の倍だけ、人の話を聞かなければいけないからだ」。

 

これをさらに推し進めて、

どうして人間の耳は、たがいに反対方向を向いてついているのか、

考えてみた。

 

最初、思ったのは、こうだった。

他人の意見というのは、1つだけの意見とか、

ある見方からだけの意見とか、自分の気に入った意見だけとか、

そういった意見だけを聞くのではなくて、

たがいに対立するようなさまざまなちがった意見を聞いたうえで、

それらを自分の中で咀嚼して、そうして判断しなければいけない。

だから、

さまざまなちがった意見を聞けるように、

2つの耳はたがいに反対方向を向いているのだ、と。

 

でも、自分はさらに、この世界の不思議と関連付けて、

考えを深めてみることにした。

 

人間には、五感といわれているものがある。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つだ。

これらのうち、ある程度の距離のある相手の情報を得ようと思った時に

使うのが、

視覚と聴覚だ。

けっこうはなれているものでも、目には見えるし、

耳で聞くこともできる。

遠くのほうで沈んでいく夕日を眺めることもできるし、

遠雷の音を聞くこともできるよね。

また、視覚と聴覚は、頭で考えること、判断すること、を、

ささえるはたらきもある。

考えているとき、頭の中には、言葉がめぐっているよね。

いちいち、しゃべりはしないけれども。

その言葉というのは、文字であれば読めるし、

発話された言葉であれば、耳で聞くことができる。

考えるのには言葉をつかい、その言葉は、見たり聞いたりする。

その意味で、視覚と聴覚は、判断にかかわると思うんだ。

判断することが理の作用であるならば、

目と耳は、その理の作用にかかわるという意味で、

理的判断器官、といってもいいかもしれない。

 

閑話休題

この、相手を知る、対象を把握するためにもちいられる目と耳だが、

はたらきかたには、ちがいがある。

目がものを見ようと思ったら、かならず、光がなくてはいけない。

光がなかったら、ものを見ることはできないよね。

でも、その光があると、困るものがある。

 

それは、闇だ。

暗闇でマッチをすると、そこの闇は殺されて明るくなるように、

光は闇を殺す性質がある。

だから、闇を把握しようとおもったら、目は使えない。

目は光を必要とし、その光は、闇を殺してしまうものであるから。

 

じゃあ、どうするか。

闇を把握したい、闇がなんなのかを知りたい、闇の言葉を知りたい、

と思ったら、

闇の語ることを耳で聞くしかない。

闇は、目では把握できない。耳をつかって、闇の言葉をきくのだ。

どういうわけか、闇、っていう漢字の中には、音、っていう字がかくれて

いるよね。

 

そして、この闇というのは、この世界の不思議の中では、

いったい、どんな存在だっただろう。

 

世界の生成の順番を、もういちど、ふりかえってみよう。

始めに暗闇の黒があった。朝日が昇って、昼の光の白でみたされた。

やがて夕方になり、夕焼けの赤にあたりはそまった。

はじめに、髪の毛がうまれた。つぎに、頭がみえてきた。

最後に胴体が、うまれてきた。

世界の生成の順番というのは、

はじめに矛盾があり、つぎに理がうまれ、最後に生がうまれたんだよね。

 

つまり、闇というのは、矛盾に対応している。

闇というのは、矛盾という名の、この世界のはじまりのお母さんなんだ。

だから、闇のかたる言葉というのも、当然、矛盾をふくむことになる。

おたがいに対立するような内容が、そのなかに含まれてくる、ということだ。

 

耳というのは、人間についている2つの耳というのは、本来、

目では把握することができない(闇を殺してしまうから)、

闇という、矛盾という、はじまりのお母さんの言葉をきくためのものだった。

その闇のお母さん、矛盾というお母さんの語る言葉が、

やっぱり矛盾をふくんだもので、

その相対立する内容をはらむ矛盾をしっかりと把握できるように、

人間の耳は、たがいに反対を向いているのではないだろうか。

 

まとめると、以下のようになる。

対象を把握するためには、目と耳がある。

→目は、闇を把握するためには、使えない。

→目は、光を必要とし、光をともせば、闇を殺してしまうから。

→闇を把握するためには、耳を使う。

→その闇というのは、矛盾という、世界のはじまりのお母さん。

→矛盾だから、その語る内容も、やっぱり矛盾。

→その矛盾(相対立する内容)を把握するため、耳は反対向き。