この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

人間の耳は、なぜ、互いに反対方向を向いているのか。

ユダヤのことわざに、こんなのがある。

「人間には、口が1つしかないのに、耳は2つある。

 自分が話す分の倍だけ、人の話を聞かなければいけないからだ」。

 

これをさらに推し進めて、

どうして人間の耳は、たがいに反対方向を向いてついているのか、

考えてみた。

 

最初、思ったのは、こうだった。

他人の意見というのは、1つだけの意見とか、

ある見方からだけの意見とか、自分の気に入った意見だけとか、

そういった意見だけを聞くのではなくて、

たがいに対立するようなさまざまなちがった意見を聞いたうえで、

それらを自分の中で咀嚼して、そうして判断しなければいけない。

だから、

さまざまなちがった意見を聞けるように、

2つの耳はたがいに反対方向を向いているのだ、と。

 

でも、自分はさらに、この世界の不思議と関連付けて、

考えを深めてみることにした。

 

人間には、五感といわれているものがある。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つだ。

これらのうち、ある程度の距離のある相手の情報を得ようと思った時に

使うのが、

視覚と聴覚だ。

けっこうはなれているものでも、目には見えるし、

耳で聞くこともできる。

遠くのほうで沈んでいく夕日を眺めることもできるし、

遠雷の音を聞くこともできるよね。

また、視覚と聴覚は、頭で考えること、判断すること、を、

ささえるはたらきもある。

考えているとき、頭の中には、言葉がめぐっているよね。

いちいち、しゃべりはしないけれども。

その言葉というのは、文字であれば読めるし、

発話された言葉であれば、耳で聞くことができる。

考えるのには言葉をつかい、その言葉は、見たり聞いたりする。

その意味で、視覚と聴覚は、判断にかかわると思うんだ。

判断することが理の作用であるならば、

目と耳は、その理の作用にかかわるという意味で、

理的判断器官、といってもいいかもしれない。

 

閑話休題

この、相手を知る、対象を把握するためにもちいられる目と耳だが、

はたらきかたには、ちがいがある。

目がものを見ようと思ったら、かならず、光がなくてはいけない。

光がなかったら、ものを見ることはできないよね。

でも、その光があると、困るものがある。

 

それは、闇だ。

暗闇でマッチをすると、そこの闇は殺されて明るくなるように、

光は闇を殺す性質がある。

だから、闇を把握しようとおもったら、目は使えない。

目は光を必要とし、その光は、闇を殺してしまうものであるから。

 

じゃあ、どうするか。

闇を把握したい、闇がなんなのかを知りたい、闇の言葉を知りたい、

と思ったら、

闇の語ることを耳で聞くしかない。

闇は、目では把握できない。耳をつかって、闇の言葉をきくのだ。

どういうわけか、闇、っていう漢字の中には、音、っていう字がかくれて

いるよね。

 

そして、この闇というのは、この世界の不思議の中では、

いったい、どんな存在だっただろう。

 

世界の生成の順番を、もういちど、ふりかえってみよう。

始めに暗闇の黒があった。朝日が昇って、昼の光の白でみたされた。

やがて夕方になり、夕焼けの赤にあたりはそまった。

はじめに、髪の毛がうまれた。つぎに、頭がみえてきた。

最後に胴体が、うまれてきた。

世界の生成の順番というのは、

はじめに矛盾があり、つぎに理がうまれ、最後に生がうまれたんだよね。

 

つまり、闇というのは、矛盾に対応している。

闇というのは、矛盾という名の、この世界のはじまりのお母さんなんだ。

だから、闇のかたる言葉というのも、当然、矛盾をふくむことになる。

おたがいに対立するような内容が、そのなかに含まれてくる、ということだ。

 

耳というのは、人間についている2つの耳というのは、本来、

目では把握することができない(闇を殺してしまうから)、

闇という、矛盾という、はじまりのお母さんの言葉をきくためのものだった。

その闇のお母さん、矛盾というお母さんの語る言葉が、

やっぱり矛盾をふくんだもので、

その相対立する内容をはらむ矛盾をしっかりと把握できるように、

人間の耳は、たがいに反対を向いているのではないだろうか。

 

まとめると、以下のようになる。

対象を把握するためには、目と耳がある。

→目は、闇を把握するためには、使えない。

→目は、光を必要とし、光をともせば、闇を殺してしまうから。

→闇を把握するためには、耳を使う。

→その闇というのは、矛盾という、世界のはじまりのお母さん。

→矛盾だから、その語る内容も、やっぱり矛盾。

→その矛盾(相対立する内容)を把握するため、耳は反対向き。

ありがとうございました、を言わない店員。

お店で買い物をし、精算した時に、

ありがとうございました、を言わない店員が、ときどきいる。

 

 

いつごろからなのだろうか。

十年、二十年ほどまえは、それほどでもなかったような気がする。

 

最近になって、そういう店員に出くわすことが、

まれではなくなったような気がするのだ。

 

 

インターネットで、

ありがとうございましたを言わない店員、とか、

ありがとうございましたを言わないコンビニ、とかで検索すると、

それなりにヒットする。

 

決して少なくはないひとたちが、そういった店員に対して、

違和感や不満を感じているのだろう。

 

 

この現象をどう考えたらいいのだろうか。

 

 

まず第一に、支払いを済ませたお客さんに対して、店員が

ありがとうございました、と言うのは、当然のことである、

ということだ。

 

店員さんはお客さんに対して、商品を買ってくれてありがとう、

お客さんは店員さんに対して、接客してくれてありがとう、

だから本来は、双方がありがとうと言うべきなのだ、

なんていう意見もなかにはあるだろうが、それは違うと思う。

 

 

店員のありがとうございましたは、業務内容にふくまれている。

 

つまり、仕事なのだ。

 

まともな経営者であれば、従業員に対して、あいさつは徹底して

教育しているはずである。

 

 

もしかりに、あいさつなんて必要ない、単に、

商品を受け渡しすればいいのだ、

ということであれば、接客は、機械やロボットでも

じゅうぶん事足りるわけだ。

 

 

そうではなくて、人間の従業員を雇用しているということで

あるからには、

当然、人間に求められることが、業務内容としてはいってくる。

 

繰り返すが、店員がお客に対してありがとうございました、

と言うのは、仕事の一部なのだ。

 

 

そして、その仕事に対しては、経営側から従業員側に対して、

お給料が支払われている。

 

ということは、

店員がありがとうございました、と言うことと、それに対して

店員がお給料をもらうということ、

この2つが対価関係にたっているのである。

 

決して、

店員がありがとうございました、と言うことと、それに対して

お客が店員にありがとうございました、と言うこと、

この2つが対価関係にたっているわけではないのだ。

 

 

考えてみればあきらかなことである。

 

お客は、買い物をしたところで、

だれからもお金なんてもらってないよね。

 

 

店員がありがとうございました、

と言うか言わないかなんて小さなこと、

そんなことに目くじらたてないでも、

なんていう意見もあるかもしれないが、

それも違う。

 

 

あいさつは、人と人とが気持ちよく社会生活をおくっていくうえで、

欠かすことのできない大切なものだ。

 

決して、小さなものなんかではないのである。

 

 

蟻の一穴、という言葉があるが、そんなことは小さなこと、

と考える態度は、

やがては拡大し、いろんなことをどんどん小さなこととして

切り捨てていくことにもなるだろう。

 

それが結果的には、社会における基本的道義の崩壊に

つながっていったとしても、不思議ではないのだ。

 

 

ありがとう、という言葉は、いろんな場面で登場する。

 

そして、店員さんがお客さんに対してありがとうございました、

と言うのは、

その典型的で基本的な場面のひとつなのだ。

 

 

ありがとうございました、と言うことは、決して小さなことではない、

と言った。

 

そして、もし仮にそれが小さなことであったとしても、

小さなことはすなわち意味のないこと、

小さなことはすなわち無視してよいこと、

には、決してならないのである。

 

 

店員さんは、なぜ、ありがとうございましたを言わないのだろうか。

 

 

もしかしたら、うっかり忘れていたのかもしれない。

 

あるいは、その日の虫の居所が悪かったのか、あるいは、

そのお客が気に入らなかったのかもしれない。

 

 

たとえそうであったとしても、

お金をもらって仕事をしている以上は、

自らの感情のままに行動してはいけないことは、明らかである。

 

 

人間のこころのなかには、2つの部分がある。

 

 

1つは、好きか嫌いか、自分は何をしたいのか、

何が気持ちいいのか、何が不快なのか、

という部分をつかさどる、感情の部分。

 

もう1つは、何が正しくて何が間違っているのか、

どういう行動をすべきか

といったことの判断をつかさどる、思考の部分。

 

 

自分が気に入らない、不満だ、という感情のままに、

自らを制御できず、

その気持ちをそのまま外界にあらわしてしまう人というのは、

要するに、思考の部分が弱いのである。

 

お客が気に入らないと思えば、ありがとうございましたを

言わないという行動に出てしまう店員、

自分が気持ち悪いと思えば、その自分の感情のままに「キモい」と

発言する女子高生、みな、根っこは同じことだ。

 

 

もし仮に、世の中のひとびとがみな、自分の感情のままに行動し、

意思や思考による制御がまったくなかったならば、

社会はめちゃくちゃになってしまうだろう。

 

意思や思考によって、他人に無用の不快感を与えないように

みずからの行動を制御する、というのは、

人と人とが気持ちよく社会で暮らしていくうえでの

必須のスキルともいえる。

 

それができないということは、端的に言えば、

コミュニケーション能力が欠けている、ということにほかならない。

 

 

では、こうした事例を見かけたときに、お客である我々の側には、

いったい、どういった対処が考えられるのか。

 

 

ひとつには、店側に対して、自分が不快な思いをしたというその苦情を、

はっきりと伝えることだ。

 

コンビニであれば、本社に電話するのでもいいだろう。

 

イオンのようなショッピングセンターであれば、ご意見カードのような

ものを設置している店もあるので、そこに苦情を書くのもいいだろう。

 

 

もうひとつは、インターネットで、

ありがとうを言わないひと、

といったワードで検索してみることだ。

 

ありがとうございましたを言わない店員に対して、自分と同じように

不快感を抱いているひとが多数いることが分かり、

おかしいのは店員のほうである、

という確信を強くすることができるだろう。

 

 

そのほかには、相手の店員によっては、

ありがとうございましたを言わないの?と、

直接店員に反問するのでもいいだろう。

 

 

また経験上、

ありがとうございましたを言えない店員というのは、

どうも、コンビニに多いような気がする。

 

食品スーパーとか、書店とかでは、

あんまりいないような気がするのだ。

 

 

であるならば、

コンビニはなるべく利用しないで食品スーパーのほうを

利用するようにするとか、あるいは、

ありがとうございましたを言えない店員のいるコンビニは

避けるようにして、

接客態度のまともな店員のいるコンビニを利用するようにするとか、

そういった対策をとることでも、

不快な思いをすることは、

だんだんと減っていくかもしれない。

 

「子」という漢字の字源について。

「子」という漢字がある。子供の、子だ。

たぶん、この漢字についても、漢字学者たちがなんらかの字源を解説

していることだろうと思う。

が、ここでは、例によって、自分自身のあたまで考えた独自説を

たてようと思う。

 

人間をふくめた生き物は、基本的に、食べ物を食べて生きている。

生まれて、食べ物を食べたり、排せつしたり、寝たり、起きたりして、

何十年か、そんなことを繰り返すと、寿命がきて、やがて死ぬ。

これが、1人の人間の、一生のサイクルだ。

 

この人間の一生のサイクルは、なにもしなければ、ここで終わりをむかえる。

生まれて、生きて、死んで、それで終わりだ。

終了するということ、なんらかのサイクルが完了するということ、

その、終了、完了という言葉の中には、いずれも、

「了」という文字がはいっている。

この文字はおそらく、なんらかの終結や完結とかかわりのある文字だ。

 

ただ、人間は、伴侶をみつけ、セックスし、子孫をのこすことで、

いったんは終了、完了する自分の生命のプロセスを、

自己の遺伝子という形で、終わらせずに次代にひきついでいくことができる。

つまり、「子」というのは、終「了」、完「了」を阻止するものなのだ。

 

その意味で、終了、完了のなかにある「了」の文字に、

横線を1本くわえて、その意味を否定したものが、

「子」という文字になっているのではないか。