男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

株価は、15000円くらいまで下げたほうがいい。

どういうわけか、日経平均株価の動きをみていると、

上げよう、上げようとする、不自然な力がはたらいているようだ。

 

上げることもあれば、下げることもある。それが株価だ。

上げる方向へばかり動こうとするのは、不自然なものだろう。

 

ここはひとつ、がーんと下げてもらいたい。

それこそが、経済の実態を反映した株価というものだ。

15000円くらいが、妥当なところではないだろうか。

生まれる赤ちゃんへの思い。

自分は結婚していない。

妻はいない。

当然、出産に立ち会ったこともない。

出産に際して女の人が、どんな気持ちになるのかなんて、

正直、わからない。

 

でも、前から思っていた。

出産は、ひどくつらそうだ、って。

だから、こんなことを考えることがある。

 

女性は、子供が生まれてきて、うれしいにはちがいない。

でも、心のどこかで、かすかにこんなふうに思うことは

ないのだろうか。

 

この子さえいなければ、こんなに苦しまなくてもいいのに、

って。

 

女性は、子供を産む女性は、子供を慈しみ、

まるで聖母か何かのように思われるかもしれない。

でも、女性だって、生身の人間だ。

正面切って表には出さなくても、

口にするのがはばかられるような思いをいだくことは、ないのだろうか。

 

旧約聖書の創世記には、

エデンの地をでて巣立っていくアダムとイブに、

神様が、

皮の衣を着せた、

とわざわざ言及している箇所がある。

 

この世界に存在する生き物、存在するものには、

他者と自己を区別する境界線となる、輪郭がある。

絵を描くときには、まず、鉛筆で輪郭をとって、それから色を重ねるよね。

その輪郭。

 

人間にも、輪郭がある。

そして、輪郭を侵すと、ただちに赤い血がでてくるんだ。

皮膚があるよね。

それを刃物か何かで傷つける。

そしたら、皮膚の奥のほうに血液のはいった袋があって、

その袋を破ってはじめて出血という現象が起きる、のではなくて、

まるで、皮膚という輪郭を侵したという、

その事実からただちに赤い血が出るという現象がおきるように、

自分にはみえる。

 

この世界のはじまりに、黒い女性、矛盾という女性がいた。

その女性は、自分がはじめて産んだ子供、

理という白い男の子とまじわって、そうやって、

2番目の女の子、生という赤い女の子がうまれる。

 

もしかしたら、存在のひとつひとつをつつみこんで守っている、

その境界線は、その輪郭は、

はじまりのお母さんのからだの一部なんじゃないかな。

はじまりのお母さんが、2番目の子供、赤い女の子を産んだそのときと、

ちょうどおなじように、

境界線という輪郭を侵すと、血という赤い子供がでてくるんじゃないかな。

そんなことを、ふと思った。

 

自分のもとから巣立つ子供に、はじまりのお母さんは、

自分のからだを割いて、服を着せてあげた。

でも、はじめに言ったよね。

お母さんというのは、

この子さえいなければ、こんなに苦しまなくてもいいのに、

っていう気持ちを、どこかに持っているんじゃないか、って。

 

だから、お母さんが着せたその服には、

「祝福」と「呪い」の両方が、こめられているんじゃないかな。

その服、その輪郭、その境界線は、

矛盾をあらわすお母さんが自分のからだを割いてつくったもの。

だから、その服にも、

祝福と呪いという、正反対のものがいっしょになった、

矛盾がかくれているんじゃないかな。

 

服は、英語で、CLOTHE。

祝福は英語で、CONGRATULATION。

呪いは英語で、CURSE。

なんで、全部、Cではじまるんだろうね。

そして、祝の字と呪の字は、なんで、ちょっと似てるんだろうね。

芥川龍之介の「羅生門」の、なぜ。

羅生門という作品は、高校の国語の教科書にかならずといって

いいほど、とりあげられる作品だ。

この作品の「なぞ」について、自分の思うところを書いてみよう。

 

◇ なぜ、「羅城門」ではなく「羅生門」になったのか。

→人間が生きていくためには、かならず、食べるということをしなければ

 いけない。ほかのことはしなくてもね。

 食べるというのは、自分が生きるために他者の命を犠牲にするということ。

 この、自分が生きるために他者を犠牲にする、というのが、

 生の本質。それは、修羅にも通じるもの。

 羅生門の全編をつうじて、悪とは何かということが中心テーマになって

 いるが、この悪というものも、生の本質と深いかかわりがある。

 自分とは異なる他者を認めるというのが理の本質であるとするならば、

 その理に対置されるような、

 他者を犠牲にしてでもこの自分は生きるというのが、生の本質。

 前者が善であるならば、後者はすなわち、悪。

 羅生門に登場する主人公である下人は、この悪の世界、生の世界、

 修羅の世界へ足を踏み入れるかどうかで逡巡している。

 その舞台となった羅生門という門は、いわば、そんな生の世界への関門。

 ゆえに、羅城門ではなく、羅生門

 

◇ 丹が塗ってあって赤い羅生門を、なぜ物語の舞台にしたのか。

→ 夜の暗闇があって、朝、太陽がのぼると白い光が満ちあふれ、

  夕方には赤い夕焼けに染まる。

  黒→白→赤の順番で、推移する。

  人が生まれてくるときは、ふつう、まず髪の毛があらわれ、

  つぎに頭があらわれ、最後に胴体があらわれる。

  これは、この世界のはじまりにおいて、

  矛盾→理→生の順番で世界が誕生したという、その原理を、

  具体的な現象で現在もなお、なぞっているからだ。

  「生」をあらわす色は、赤。

  よって、羅生門の色は、赤。

 

◇ なぜ、下人の「右」の頬には、「赤い」にきびがあったのか。

→右は理の原理、左は生の原理を、それぞれあらわす。

 英語でも、右はRIGHT、理はREASONで、ともにRではじまるが、

 左はLEFT、生はLIFEで、ともにLではじまる。

 古代ローマ以来、西欧では左を邪悪とみなす伝統があるが、それは、

 左が生の原理、すなわち、悪に通じるからである。

 右という理をあらわす領域である下人の右の頬にできた、

 赤という生をあらわす色をおびたにきびは、

 下人の中において、当然と思っていた理のなかに、生による反乱が

 起ころうとしている、その萌芽が生まれていることをしめす。

 実際、下人は逡巡ののち、理をかなぐり捨て、生という悪の道にはいる

 決心をする。

 

◇ 老婆はなぜ、髪の毛を抜いていたのか。

→ 老婆が悪いことをしていた、ということを描写するだけなら、

  死体から金品を盗んでいた、などでもよかったはず。

  なぜ、髪の毛を抜くという特異な状況を設定したのかといえば、

  人間の髪の毛は、矛盾という原理をあらわすものだからだ。

  さきほど、黒→白→赤という順番で推移すると書いたが、

  赤はしばしばこの世界で、黒へと変化する。

  赤い夕焼けの後には、黒い夜空がひろがる。

  赤い炭火は、燃え尽きれば黒い炭になる。

  赤い血潮は、空気中で凝固すれば、くろっぽいかたまりになる。

  赤い肉は、腐ったり、うんこになったりすれば、やはり、

  黒いかたまりになる。

  太古の昔からつづく赤は、しばしば、黒へと変化する。

  これは、赤という生の原理は、矛盾という原理へと変化することを示す。

  この老婆は、

  自分のためであれば他者を犠牲にするという原理を、生の原理を、

  悪の原理を、選択した者の、なれの果ての姿なのだ。

  この世界のはじまりにおいて、矛盾という母がいた。

  その母が、はじめてとなる自分の子供を出産する。男の子だ。

  その生まれたばかりの男の子と、その男の子を産んだ母が、まじわる。

  すると、2番目の子供がうまれる。女の子だ。

  最初に生まれた男の子が、理。 

  2番目に生まれた女の子が、生。

  その2番目に生まれた女の子、生は、変化して、はじまりの母、

  つまり矛盾へと、姿をかえる。

  女性はこの誕生の物語のなかで、2人あらわれる。

  黒の女性と、赤の女性だ。

  黒の女性は矛盾という原理をあらわし、年老いている。

  赤の女性は生という原理をあらわし、若い。

  悪という原理、生という原理を選択したものは、やがて、

  みずからが矛盾という原理、苦しみの原理へと変化することを

  知ることになる。

  悪という原理、生という原理が変化したなれの果てが、矛盾という原理

  、苦しみという原理であることを示すためにも、この場面は、

  老婆でなくてはならなかったし、髪の毛でなくてはならなかったのだ。

  そして、この老婆の姿は、悪の道、生の道をえらんだ下人のその後の

  運命でもある。

  だから、物語の後半、下人が盗みを終えたあとに、

  こういう表現があるよね。

  あとにはただ黒洞洞たる闇があるだけだった、って。

  黒という色がどんな原理を意味する色かは、

  重ねていうまでもないだろう。

 

◇ 下人はなぜ、老婆の行動を善悪いずれのものとも決定しがたかった

  のか。

 →老婆のあらわす原理は、「矛盾」であるから。

  善であるとも、悪であるともいえないのだ。

 

◇ 下人が老婆のまえにふりかざした「白い」太刀の効果は。

→白は、理という原理をあらわす色である。

 このとき下人は、老婆から金品を奪い取るためではなく、

 なにが正しくてなにが間違っているのかという理の観点から、

 老婆に対峙しようとしているのだ。

 

◇ 善悪いずれのものとも決定しがたかった老婆の行為を、

  下人はなぜ、悪と断定したのか。

  →下人の心がそのとき、理の心であったからだ。

   矛盾はただそのままあれば、矛盾のままである。

   しかし、矛盾は理の光に照らされると、滅ぼされなければ

   ならないものとなる。

   暗闇でマッチをすると光が生まれ、そこにあった闇は

   殺される。

   黄泉の国にいたイザナミ、あんなに美しかったイザナミは、

   イザナギが灯を照らした瞬間、ただの醜い死体にしかすぎなく

   なってしまった。

   数学で使う背理法というのは、矛盾が生じれば、

   それはありえないことだ、とする。

   理というのは、矛盾を認めることができない。

   はじめて生まれた男の子が、この世界のはじまりの母を

   傷つけたようにね。

   発酵してできるお酒の良さがわかるのは、その子がもっと

   成長してからだ。

 

◇ 羅生門は、なぜ場面設定が夕暮れ時なのか。

 →この世界の生成の順番は、

  矛盾→理→生で、人間の体でいえば、

  髪の毛→頭→胴体(生殖器)。

  時間でいえば、

  夜の闇→日中の光→夕暮れ時の夕焼けで、

  色でいえば、

  黒→白→赤。

  下人が悪の道、生の道を選択し、その後、苦しみをむかえることに

  なる、という状況だから、

  生をあらわす夕方から、矛盾や苦しみをあらわす夜にかけての

  時間帯がえらばれた。

 

◇ なぜ芥川龍之介羅生門は、高校国語の定番になっているのか。

 →その理由は定かではないが、この羅生門という作品は、

  ふつうの作品ではないことはたしかだ。

  この作品はふつうの人間では見抜けないような、

  この世界の隠れた原理についてとりあつかっている。

  高校の国語の先生などは、この作品のテーマは人間の

  エゴイズムだ、なんていうかもしれないが、

  まあ、それが、普通の平凡な理解の限界でもある。

  が、この作品は、そんなレベルでとどまるものではない。

  そこに描かれた世界というのは、

  ふつうの人間が知ると狂ってしまうこともありうる

  異常な世界だ。

  そのような世界を見る「目」をもった人間が、

  ここ日本においても、その他の国においても、

  そう頻繁に誕生するものではないことは、たしかだろう。

豚。

1日働いて疲れて家に帰り、さあ、くつろごうと思って

部屋に入ると、

豚がいるとする。

 

豚はおおきな図体で、たるんだ肉体で寝そべりながら、

テレビを見ている。

 

こんな豚を飼ったおぼえはないぞ。

誰だって、そう言いたくなるだろう。

 

人生相談に相談してみる。

家に豚がいるんですけど、と。

 

すると回答者は言うのだ。

あなたは豚に幻想を見すぎなんですよ、と。

 

こんな理不尽、あなたならどう思うだろうか。

透明感のある清純な美しさ。

以前は風俗や個室ビデオに行っていたが、

最近ではあまり行かなくなった。

お金がもったいないのと、病気がこわくなったからだ。

 

ネットでエロ画像を見れば満足できるだろう。

そう考えた。

 

しかし、ネットのエロ画像は、なかなか満足いくものに出会えない。

ブサイクな面の女。

薄汚い裸の画像。

これを大量に見ていくと、なんだか、

腐りかけの肉でつくったジャンクフードを大量に食べさせられて

いるような不快感をおぼえる。

 

その点、乃木坂46の美しさは別格だ。

なんというか、品のある、透明感のある清純な美しさがある。

実際に彼女たちがビッチであるかどうかは、どうでもいいことだ。

すくなくとも、画面上にビッチ臭がただよっていなければ、それでいい。

 

乃木坂46は、エロ画像とはちがって、裸ではない。

でも、なんだかそれでもいいような気がしてきた。

顔が可愛ければ、べつに裸でなくたって、いいや。

自分にとっては、裸であることよりも、

顔が可愛いというのが、絶対ゆずれない条件なのだ。

体より、顔だ。

【千葉少女殺害】 見守り隊は、かならずしも信用できない。

いまでもあるのかどうか知らないが、かつて高校数学には、

命題と論理という単元があった。

その単元には、ある命題が真なのか、それとも偽なのかを判別させるもの

があって、

ある命題が偽であることの証明に使われたのが、

反例をあげる、という手法だった。

 

〇〇は✕✕である、という命題は、もしかりに、

すべての〇〇は例外なく、かならず✕✕である、という意味で言われるならば、

少なくとも1つの〇〇は✕✕ではない、という反例が提示された瞬間に、

その命題は偽である、という刻印が押されることになる。

道理とは、その意味で、たいへん厳しいものなのである。

小さいことなんかこだわらなくてもいいでしょ、なんていう言いぐさは、

道理と論理の前には、ことごとく駆逐されるのだ。

 

カラスは黒い、という命題はどうだろう。

もしかりに、この命題が、

どんなカラスであろうとも、カラスであれば例外なく黒い、

という意味で言われるならば、

1匹の白いカラスが登場した段階で、ただちに破綻することになる。

その場合は、

たいていのカラスは黒い、とか、一般的にはカラスは黒い、とは言えても、

カラスであればすべて黒い、という意味で、カラスは黒い、

ということを言うのは、もはや許されないことになる。

 

たった1匹の白いカラスの存在が、命題の帰趨を決定する力をもつ。

これにかぎったことではない。

理のあらわれるところ、どういうわけか、たった1つのなにか、

ほんのわずかななにか、が、とても大きな力となってあらわれることが、

よくあるのだ。

たった1匹のカラスなんて無視していいんだよ、

そんなやつほっとけよ、

やっぱりカラスは黒いんだよ、それでいいじゃん、

なんて言うやつは、理に対する叛徒にほかならない。

 

見守り隊の隊員をつとめていた男が、少女殺害の件で逮捕された。

この事件をみて、どう思うだろうか。

あの男は特殊な例外なんだよ、無視していいんだよ、

見守り隊というのはやっぱり信用していいんだよ、

と、あなたなら考えるだろうか。

 

自分は、それは違うと思う。

たった1人の例外があらわれた瞬間、

見守り隊というのは例外なく全員が信用できる存在だ、

という命題は、見事に破綻してしまったのだ。

現時点でせいぜい言えることは、

見守り隊というのは一般的には信用できるかもしれないね、

例外もあるけどね、

程度のことでしかない。

みんな、そのことにうすうす気づいているからこそ、

あんなにも地域が動揺しているのではないだろうか。

 

そろいの黄緑色の服をきて、児童を見守る見守り隊。

いかにも怪しげな外見で怪しげな挙動の成人男性を「仮想敵」とみなし、

「声掛け事案」などという度を越えた通報システムまで構築した、

地域の防犯パトロールとやら。

なんのことはない、

怪しいのは、地域の防犯パトロールや見守り隊の「外」にいるやつでは、

なかったのだ。

 

見守り隊や地域の防犯パトロールとはいっても、

全幅の信頼をおくことは、できない。

アニオタが犯罪をおかせば、ああ、アニオタって危ないやつらなんだ、

という。

ロリコンが犯罪をおかせば、ああ、ロリコンって危ないやつらなんだ、

という。

であるならば、見守り隊が犯罪をおかしたときだけ、

特異な事例だから見守り隊を否定してはいけない、

というのは、許されないことだろう。

見守り隊が犯罪をおかしたときに、特殊なケース、というひとこと

で片づけるのなら、なぜ、

アニオタやロリコンが犯罪をおかしたときは、

特殊なケースと考えず、アニオタ全体やロリコン全体に敷衍

して考えるのか。理に合わないではないか。

整合性というのは、とても大切なことだ。

【千葉少女殺害】 意外な容疑者。

千葉県でベトナム人の少女が殺害された事件で、

容疑者が逮捕された。

PTAの会長で、自身の子供も2人いる妻帯者で、

マンション一棟のオーナーでもある資産家だという。

 

だいたい、この手の事件が起こった時に予想される犯人像というのは、

無職のお兄さん、あるいはおっさんで、

妻もなく子供もなく、ロリコンオタク風の気味の悪い風貌のやつ、

といった感じのものだろうが、

逮捕された容疑者は、そういった犯人像とはかけはなれたもので、

衝撃をあたえるものだ。

 

資産家でもあり、家族もあり、PTA会長までつとめていて、

言うなれば、

失うものがとても多いひとであるということがいえるのに、

どうしてこのような犯行にいたってしまったんだろう。

自分は逮捕されない、見つからない、という、

確信のようなものでもあったのだろうか。

また、幼児性愛なのかもしれないが、

お金を払ってその手のお店で解消する、というわけには

いかなかったのだろうか。

 

短絡的な行為のせいで、みなが不幸になった。