この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【千葉少女殺害】 ベトナム人家族を襲った暗剣殺の悲劇。

千葉県でベトナム人の少女が殺害された事件で警察は、

PTA会長の男を逮捕した。

少女のご冥福をあらためてお祈りしたい。

 

少女の家族は、父も母もふくめて、全員がベトナム人だ。

少女に日本でよい教育を受けさせたいと、

少女が2歳のときに日本に移住した。

 

ベトナムから見て日本は、北東の方位にある。

正距方位図法の地図をインターネットでみれば、確認できる。

少女はいま現在9歳だから、日本に移住した2歳の時というのは、

いまから7年前の2010年にあたる。

この年、北東の方位には暗剣殺、南西の方位には五黄殺がめぐっていた。

暗剣殺というのは、暗闇から剣で突かれるように、

突発的な凶事が発生する方位とされている。

 

方位に関する運命学に関しては、自分も半信半疑なところがあるが、

ときどき、このように符合する例が発生するから、あなどれない。

緊迫する朝鮮半島情勢。

朝鮮半島情勢が緊迫してきた。

話し合いと協調によって、物事がすべて解決するのならば

言うことはないのだが、

この世の中では、それではすまないこともままある。

 

自分の望むようなかたちで問題を解決したいと思うならば、

十分に考え、シミュレーションしなければならない。

ただし、考えた結果は、かならずしも慎重な選択になる

とはかぎらない。

 

トランプ大統領は、前任のオバマ大統領とはずいぶん違うかたちで、

アジア地域に関与しようとしている。

端的に言えば、非常に男らしい、それに尽きる。

かりに、地域の平和と安定のために、

恒久的に不安要素を取り除くことに成功したならば、

それはとても歓迎すべきことだ。

問題は、どれだけ成算があるのか。

 

そして、いうまでもないことだが、

朝鮮半島情勢が緊迫の度を増せば増すほど、

株価に対しては相当の下押し圧力が働いてくることになるだろう。

「欲」という漢字と、人間の三大欲求の性質。

人間の三大欲求には、食欲、性欲、睡眠欲があるといわれている。

 

これら三大欲求には、共通する性質がある。

それは、「接着」。

 

食欲は、食べ物を自分の体内に取り入れようとする欲求だ。

牛乳でも、パンでも、食べ物というのは、食べられるまでは、

自分の体の外にある。

自分のからだと食べ物のあいだには、間隔、スペースがある。

食べるというのは、その間隔、スペースをなくして、

食べ物を自分のからだに近づけ、接着させ、さらには、

体内に取り込んでしまおう、ということである。

 

性欲というのは、異性と性交渉したいという欲求だ。

性交渉するまでは、異性は、自分の外に存在する。

自分のからだと異性のからだのあいだには、間隔、スペースが存在する。

性交渉をする、というのは、その間隔、スペースをなくして、

異性のからだと自分のからだを近づけ、接着させ、

出したり入れたりしようとすることだ。

 

睡眠欲は、眠ろうとする欲求だ。

ふつう、ひとは、立ったり座ったりして寝たりはしない。

寝るときには、横になる。

起きて、日常生活を送っているときには、

立ったり座ったりして活動している。

そのとき、自分の体と大地や床のあいだには、間隔、スペースが存在する。

寝るというのは、横になるというのは、

その大地や床と自分のからだのあいだにある間隔、スペースをなくして、

自分のからだと大地や床を、接着させるということだ。

 

以上、見てきたように、

人間の三大欲求にはすべて、接着という要素がかくれている。

英語でいうと、「ON」。

 

「欲」という漢字は、「谷」と「欠」があわさってできている。

「谷」のなかには「口」が存在する。

自分は、この「口」というのは、たんなる人間の、

ものを食べるための口を意味するばかりではなく、

「ある空間が確保されているということ。その空間は、物理的な

 ものばかりではなく、抽象的な意味でのものも含める。

 ある領域が、侵されないスペースとして、確保されている、

 ということ」といった内容をもしめしているのではないか、

と考えている。

 

であるならば、「谷」に「欠」をくみあわせた「欲」という漢字は、

そういった間隔、スペースをなくしてしまおう、欠かしてしまおう、

とするようなはたらきが、原義としてあるのではないか。

 

そして、人間の三大欲求はすべて、「生きる」ということと関わる。

人間が食べるのは、その人1人が一生を生きるためであり、

人間が性交渉をするのは、自分が死んだ後もべつなかたちで

自分が生き続けるためだ。

人間が睡眠をとるのは、疲れをとり休息するためであって、

やはり、命をつなぐことと関連する。

 

つまり、三大欲求には接着という要素がかくれていて、

接着というのは、間隔やスペースをなくす、というはたらきに

関連していたが、

三大欲求は同時に、「生」の原理ともかかわる。

ということは、「生」の原理というのは、

間隔やスペースをなくしてしまおう、という原理とかかわりが

あるのではないだろうか。

 

 

漢字についての、その他の記事は、こちらから↓

 

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矛と盾。

詰将棋をたまに解くことがある。

詰将棋を知らないひとが、たまに、

「相手が自分の考えている手と違う手を指してきたらどうするの?」

と聞いてくることがある。

 

詰将棋というのは、早い話が、場合分けだ。

相手の応手というのは、すべて読み込まれている。

詰将棋での正解というのは、相手がどのような手で応じても

かならず詰むようになっている。

 

詰将棋を解くときというのは、考えられる手がたくさんあって、

茫漠としている。

詰将棋というのを、

解こうとする自分の側と、解かれまいとする相手の側の戦争

だとしてみよう。

相手側は、こんなにたくさん手があるのだから、

まさか、正解にはたどり着けないだろう、と考える。

実際、その多数の候補手のなかでさまよい、正解をみつけられなかった

ならば、こちらの負けだ。

 

正解は、たった1本の細い糸のようなものだ。

それを、頭脳を使って探り出していく。

そうして、もし正解にたどりつけたなら。

 

その効力は絶対的だ。

相手は、いかに抵抗しても、もはや詰みを逃れることはできない。

 

詰将棋は、男性が比較的このむ。

女性は、あんまりこのまないようだ。

従来の漢字理論。

従来の漢字理論には、自分は、あまり納得していない。

 

漢字がどのようにつくられたのか、その字源や成り立ちといった

ことに関しては、

古くから、いろんな説がとなえられてきた。

代表的な漢字論に関する古典としては、説文解字がある。

また、日本の有名な漢字学者としては、白川静氏などがおられる。

 

ただ、主要な漢字論、あるいは、漢字学者の説では、

しばしば漢字をつぎのような観点から説明するきらいがある。

 

① 古代の人々の呪術的な儀式や祭祀と関連付けて説明することが

  多い。困ったら、呪器だの神器だの言う。

  その背景にはおそらく、古代の人々は現代とはちがって、

  文明もまだ発達していなかっただろうから、神をおそれ、

  迷信を信じていたのだろう、というような、勝手な偏見が

  あるように思われる。

 

② 説明が、その都度その都度、行き当たりばったりである。

  漢字には、いろんな漢字のなかに共通してあらわれる部分、

  部品のようなものがあるのだが、

  それらすべてに共通するような根本にさかのぼることが

  事実上できないために、

  ある漢字ではこう説明していた部品を、べつの漢字では

  またちがうように説明していたりする。

 

③ 自分が理解できない漢字の部品に関しては、音をあらわす

  「音符」にすぎない、として、話をごまかす。

 

自分は、漢字に限らず、文字や言語といったものについては、

普通は知ることの難しいような、この世界のかくれた原理の洞察があって、

その体系的な原理の洞察の上にたって、言語体系、文字体系もやはり、

この世界のかくれた原理を反映した体系的なものになっている、

と考えている。

つまり、言語や文字には、この世界のかくれた原理がひそんでいる、

と考えるのだ。

だから、単に意思を伝達する必要から機械的に記号のような文字や

言葉を生み出した、という考え方には、くみすることができないし、

その都度その都度、個別的にそれぞれの事物にかたどった象形的な

文字を生み出したのだ、というような考え方にも、くみすることが

できない。

 

たぶん、漢字をはじめとする文字や言語を生み出した古代の人びと

というのは、信じられないほど賢かった、と思う。

漢字をはじめとする文字や言語にかくされた秘密というのは、

容易には見抜くことができない深遠なものであろうし、

たいていのひとは、一生かかってもたぶん、見抜けないだろう。

 

 

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「許」という漢字には、なぜ「午」がはいっているのか。

漢字の考察記事である。

ゆるす、というのは、漢字で書くと、許す、だが、

なぜ、許という漢字には、午がふくまれているのだろう。

その字源については、どうなっているのだろうか。

 

漢字学者の白川静は、この許という字は、神が許す、というところから

きているものだ、とする。

また、午というのは杵と共通しており、そこには、

お互いという要素がふくまれていて、

許し許されるという一連のプロセスをいうものではないか、

とする説もある。

 

しかし例によって自分は、そういった先達(せんだつ)の見解を

いっさい無視して、

独自説をたてようと思う。

 

唐突な話だが、西洋占星術では、ホロスコープというものをつくる。

ホロスコープとは、ある人がうまれたときの天球の星の配置を

しめした図で、1室から12室まで、円が12の部屋にわけられている。

その各室には、それぞれ、示している事柄があって、

たとえば3室であれば、そのひとの初等教育や近距離の旅行の状態を、

10室であれば、そのひとの職業や社会的地位の状態をしめす。

 

このホロスコープで1室は、自分自身をしめす。

その1室の真向かいにあるのが7室で、通常は結婚や結婚相手をあらわす。

 

しかし自分は考えた。

結婚相手というものは自分と対になるパートナー、ということだが、

本来この7室は、

自分自身という存在に対置されるような、「他者の存在」をしめす

室なのではなかろうか、と。

じぶんにとって、もっとも重要で親密な「他者」というのが、

通常は結婚相手であろうから、そういう事情で7室は、

結婚相手をさすようになったのではないだろうか、と。

 

そうであるとするならば、7番目の部屋である7室は、本来、

「他者の存在」をしめすところ、ということになる。

他者が他者として存在することを認められる、

それが、7番目の部屋にあらわれたことがら、ということだ。

 

さて、西洋占星術では、そのホロスコープにおいて、

1室から12室までわかれた。

また、牡羊座からうお座までの、12星座というものもある。

 

ひるがえって東洋においても、12にわけるものがある。

十二支だ。

ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い。

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。

この十二支の7番目に位置するのが、午だ。

西洋において、その西洋占星術でもちいるホロスコープにおいて、

7番目の部屋である7室のもつ本来的意義は、

「他者の存在」である、とのべた。

もしかしたら、東洋でも同様に、

十二支の7番目である「午」、そして、この「午」という漢字には、

「他者の存在」という意味合いが、かくれているのではないか。

 

そこで、この「午」という漢字について、これと似た漢字である

「牛」と比較しながら、考えてみる。

古代中国において、牛という生き物は、祭祀のための犠牲、

つまり、いけにえ、とされることがあった。

だれかがだれかを犠牲にする、というときの、この犠牲という言葉。

その「犠」という文字にも、「牲」という文字にも、

「牛」がかくれている。

また、この「牛」という漢字は、「生」という漢字の中にもある。

生きる、ということだ。

 

生きていれば、いろんなことをする。

読書もする。恋愛もする。ケンカもする。勉強もする。散歩もする。

でも、それらは、べつにしなくたって、生きていくことはできるものだ。

生きていくうえでひとは、いろんなことをするけれども、

なかには、べつにしなくたって生きていけるような事柄もおおい。

 

しかし、生きていくためには、絶対にしなければ生きてはいけない

ような事柄がある。

 

それは、食べること。

 

野菜を大地から引っこ抜く。果樹を枝からもぎとる。

魚を水から引き揚げて、その命を絶つ。

牛や豚や鶏の命を絶つ。

そうやって、他の生き物を、自分が生きるための犠牲として、

自分はそれらを食べて生きている。

 

生きていく上では避けては通れないこと、それは、

自分が生きるために他者を犠牲にする、ということ。

この他者を犠牲にする、という性質が、「生」のなかには

濃厚にふくまれているために、

犠牲の「犠」の文字にも「牲」の文字にも含まれていた「牛」

という文字が、「生」という文字のなかにかくれているのではないか。

 

つまり、こういうことである。

「牛」という文字と、「午」という文字は、よく似ている。

でも、すこしちがう。

「牛」の文字は、上がつきでている。

「午」の文字は、上がつきでていない。

上がつきでている「牛」の文字は、自己のために他者を犠牲にする、

という意味合いがかくれているのに対して、

上がつきでていない「午」の文字は、自己のために他者を犠牲にする

ことなく、他者の存在を存在として認める、

という意味合いがかくれているのではないか。

 

ここから、「許」の文字について考えてみる。

許、という文字の左側は、ごんべんだ。

ごんべんは、言という文字がもとになったものだから、通常は、

言う、話す、しゃべる、といったこととかかわる。

しかし自分は、ごんべんというのは、

「自己の見解を対外的に表現、表明する」という意味をもつ部分だと

思う。

とするならば、

ごんべんに「午」をあわせた「許」という文字は、

「あなたという他者の存在を存在として認めますよ、という

 自己の見解を対外的に表明する」

というのが、原義になっているのではないか。

もし、あなたを許さない、となれば、許せないような存在である

相手なんか、滅んでしまえ、消え去ってしまえ、ということにも

なるだろう。

そのこととの対比で考えれば、許すということ、

そして「許」という漢字の背景は、

上に述べたような感じになるのではないだろうか。

 

 

 

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【教育勅語】一身を「皇国」などのために捧げる気はない。

教育勅語が問題になっている。

政府関係者は答弁で、教育勅語を教育現場で使用することも、かならずしも

否定されるものではない、との見解をしめした。

 

教育勅語の内容の中には、親を尊重せよ、とか、兄弟仲良く、とか、

みんなの役に立つことをして世界をリードしよう、

といったような、かならずしも否定できないような、

道徳的な内容もふくまれている。

 

が、それだけならいいのだが、教育勅語には、

いったん国家の非常事態が発生したならば、

身命を賭して国家と天皇のために尽くせ、という文言が入っていて、

これこそが教育勅語の核となっている。

 

かつての大戦の悲惨な経験を忘れてしまったのだろうか。

身命を賭して国家と天皇のために尽くすことを強要したからこそ、

悲劇的な玉砕や神風特攻といった悲劇が多発したのだろう。

こういったことは、第二次大戦の敗戦国は日本のほかにもあったけれども、

日本以外では見られなかった悲劇だ。

国家のために国民が存在するのではない。

国家のためならば国民はぼろ雑巾のように使い捨てられてよいもの

ではないのだ。

国民あってこその国家だろう。

国民がかわいそうだとは思わないのか。

日本を支えてくれる大切な国民に、そういった犠牲を強いた当時の

政府関係者は、きびしく批判されなければいけない。

 

国家は国民のものである。

日本のこれまでの歴史も、名もなき市井のひとびとが営々と

積み重ねてきたものだ。

それを忘れてはいけない。