この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

罪と罰

情けはひとのためならず、とか、

己の欲せざるところをひとにほどこすなかれ、とか、

そういう、

他人に親切にしましょう、他人に迷惑をかけないようにしましょう、

といった道徳的なことは、むかしからよくいわれる。

 

そのときによくいわれるのが、

よいことをしていたら自分によいことが返ってくるから、とか、

悪いことをしていたらお天道様がみていて罰が当たるから、とかいった、

応報的なことだ。

 

しかし、どうも釈然としない思いを抱いているひとも、

少なくないはずだ。

というのも、実際の世の中を見ていると、

ほんとうに人のいいひとが度々だまされたり、つらい目にあったり

している一方で、

性格の悪い、他人を平気で踏みつけるようなひとが、

世の中でうまくやってたりする、ということは、よくあるからだ。

 

いやいや、そうはいうものの、長い目で見れば、やっぱり

善人は報われ、悪人は報いを受けるもんだよ、などというひとも

いるかもしれないが、どうも、

善人と報償、悪人と報復のあいだには、それほど有意な関係があるように

も思えない。

 

自分が思うに、自分の行為がどういう結果になって返ってくるかに

関しては、注目されていない、別の因子が関係しているのではないか。

 

その因子とは、「罪悪感」である。

つまり、善いことや悪いことを実際にどのくらい実行したのか、

という事実に関する因子のほかに、

そのひとがどの程度、自分の行為に罪悪感をいだいているのか、

という心理的な因子が、

どういう結果になって返ってくるかに影響しているのではないか。

 

ほんとうに人のいいひとなんだけれども、他人をうらまず、

自分ばかりを責める傾向のあるひとは、抱えている罪悪感が大きい。

そのために、実際には悪いことをほとんどしていないのに、

おおきな罰となって自分にかえってくる。

反対に、ひとを虐げ、踏みつけているにもかかわらず、

そのことをなんとも思わないで、他人を虫けらのように考えている

ひとは、抱えている罪悪感が小さい。

そのために、罰がほとんど加えられないで済む。

 

人間はふつう、悪いことをしたら相応の罪悪感をもつ。

だから、天というか、神様というか、そのひとにどれだけ罰を

与えてどれだけご褒美をあたえるかを決める存在は、

そのひとがどれだけ悪いことをしたかを計測するメーターのひとつに、

「罪悪感メーター」というのを設定したのではないだろうか。

その罪悪感メーターの針がおおきく振れていれば、

たとえ実際の行動としては悪いことをほとんどしていなくても、

天というか、神様というかは、罰をあたえてくるのではないだろうか。

 

結論。

罪悪感も、ほどほどに。

朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足ースフィンクスの謎かけ

古くから知られている有名な謎かけに、

スフィンクスの謎かけ、と呼ばれているものがある。

 

「朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足である生き物はなんだ?」

というものだ。

 

 

 

スフィンクスは、謎かけに答えることができなかった旅人を

食い殺してしまったと言われているから、

けっこう、おそろしいなぞなぞなのだ。

 

このなぞなぞを解いたのが、オイデュプス王であったと、伝説にある。

なぞなぞのこたえは、「人間」である。

 

 

 

朝、昼、夕という3つの時間帯は、それぞれ、人間の一生における

段階をあらわしている、という。

 

朝は、人間が生まれたてで、よつんばいではいはいをしているから、

4本足。

 

昼は、成長して二足歩行をするようになるから、2本足。

 

夕は、老人になって、杖をついて歩くようになるから、

杖も1本とかぞえて、3本足。

 

だから、これは人間の一生をあらわしている、と、

こういうわけなのである。

 

 

 

では、このお話の「教訓」は、いったい、なんなのだろう。

 

 

 

いや、もちろん、ただのなぞなぞにすぎないよ、教訓なんて

もとからないんだよ、と考えることもできる。

 

でも、なぞなぞなんて、はるか昔から今日に至るまで、

それこそ数えきれないほどつくられてきただろうに、どうして

このなぞなぞは、こんなに長い時をへて、こんなにさまざまな国に

おいて、みんなが知っている有名ななぞなぞになったのだろう。

 

 

 

神話や物語、伝説、説話、故事成語といったものが、

はるかな時をへても朽ち果てることなく伝えられていくのは、

たぶん、そのなかに、一見しただけではそれとわからないような

かたちで、この世界の真実、真理がかくされているからではないか、

と、個人的には考えている。

 

 

 

では、このスフィンクスの謎かけにかくされている意味とは、教訓とは、

なんなのだろうか。

 

 

 

このスフィンクスの謎かけは、西洋の物語である。

 

そして、そのこたえは「人間」である、と、「日本語」で伝わっている。

 

ということは、もともとの西洋においても、

日本語の「人間」に相当する、むこうの言葉があったはずなのだ。

 

 

 

ここで、人間、という日本語について考えてみる。

 

ここ日本では、人間という言葉以外にも、ひと、人、という言葉が、

人間やひとをあらわすのにつかわれている。

 

そして、人、という文字からは、人類、という言葉もできてくる。

 

人間という言葉なら、1人1人のひと、という感じがするが、

人類といえば、そういった人間の集合体、ということにもなろう。

 

 

 

もしかしたら、このスフィンクスの謎かけのこたえは、

むこうの西洋では、「人間」ではなく、「ひと」だったのではないか。

 

そして、それは、ただひとりの「人間」をあらわすだけではなく、

「人類」をもあらわしていたのではないだろうか。

 

 

 

では、もしこの謎かけのこたえが「人類」であったなら、

そこにはどんな教訓がかくされているのだろう?

 

 

 

もういちど、この謎かけをみてみよう。

 

朝は、4本足。昼は、2本足。夕は、3本足。

 

 

 

すると、このそれぞれの段階において、

人間の体における頭の高さ、頭の位置が、微妙に異なっていることに

気づく。

 

 

 

朝は4本足ではいはいしているのだから、頭の高さは地面近くの

低いところにある。

 

昼は2本足で歩いていて、この状態で人間の頭の高さは、

もっとも高くなる。

 

夕は、杖に体重をあずけて、やや前傾姿勢になるから、

2本足の昼の時にくらべると、そのぶんだけ、わずかに頭の位置が

低くなる。

 

 

 

人間の頭って、なにをするところだろう。

 

 

 

それは、物事を考えたり、判断したりする場所だ。

 

つまり、人間の理性をつかさどっているのが、

人間の頭、ということになる。

 

その理性があるからこそ、人間は文明をうみだし、文明を発展させ、

さまざまな発見や発明をおこない、

いわゆる文明の利器もうみだしてきたのだ。

 

 

 

ここで、朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足、というのを、

1人の人間の一生、ととらえるのではなく、人類の歴史、ととらえてみる。

 

 

 

朝は4本足。この段階では、はいはいをしていて、頭の位置はひくい。

人類の理性も、まだ十分に発達していなかった。

 

さまざまな道具は、まだ十分にうみだされていなかったかもしれない。

 

火もあつかえず、獣の脅威におびえていたかもしれない。

 

言葉も、文字も、それらを記録する方法も、

まだ十分には発明されていなくて、

コミュニケーションによる協働作業も、

十分なものではなかったかもしれない。

 

人類の理性と文明の、黎明期だ。

 

 

 

昼は2本足。この段階では頭の位置が十分に高くなる。

人類の理性が発達していく。

 

人類は、自分の頭で考えたり、試行錯誤したりして、

さまざまな発見、発明をおこない、文明を発展させていく。

 

星々の規則的な運行を観察することで、いつ洪水がおこるのか、

といったことをあらかじめ知る。

 

太陽の動き、そのかたむき、季節の変化から、暦をうみだす。

 

火を通せば、食物を安全に食べられることを知る。

 

火薬が戦争に有効であることを知る。

 

羅針盤をつかえば、効率的に、安全に航海できることを知る。

 

日常的な自然現象の背景に、科学法則の存在することを、

実験と観察によって知る。

 

人類の理性と文明は、発展していった。

 

 

 

夕は3本足。老人は杖をつく。杖は、老人を楽にしてくれるいっぽうで、

やや、頭の位置を下げる。

 

人類は文明を発展させ、ついには、近代科学、現代科学という、

巨大な体系を実現した。

 

そうして生まれた科学文明の巨大な体系は、人間に、

多数の「文明の利器」をもたらしてくれた。

 

航空機、船舶、衛星放送、スマホ、パソコン、インターネット、洗濯機、

電子レンジ、エアコン、数え上げればきりがない。

 

そういった文明の利器を手に入れたおかげで、人類は、

「楽」ができるようになった。

 

遠方の地へ旅するのに、何か月、何年とかかることは、もはやない。

 

友人や恋人と連絡をとるのに、手紙に頼らなければいけないわけでもない。

 

冬にこごえる必要もなければ、夏の暑さに苦しむ必要もない。

 

人類は、そういった「文明の利器」を手にすることで、

たしかに「楽」をすることができるようになった。

 

ちょうど、老人が自分のからだをささえる、「杖」を手に入れたように。

 

 

 

でも、この文明の利器を、その中身を、そのしくみを、

理解して使っているひとは、いったい、どれくらいいるだろうか。

 

 

 

パソコンも、スマホも、ボタンをおせば、画面がきりかわる。

 

エアコンも、スイッチひとつで、冷風、温風がでてくる。

 

やあ、便利な時代になったね。昔にくらべて、人類は進歩したね、と。

 

 

 

でも、ほんとうにそうだろうか。

 

進歩したのは、いったい、なんなのだろう。

 

 

 

たとえば、昔の漢文の文章とかをみてみると、

句読点があまり打たれていないことに気づいたりする。

 

句読点があれば便利なのに昔はなかったんだね、

と現代人は思うかもしれない。

 

 

 

が、裏をかえせば、むかしのひとは、句読点なしでも文章を把握できるほど

強い理性をもっていた、ということだ。

 

 

 

カレンダーや時計のない生活は、現代人にとって不便なものかもしれない。

 

が、むかしのひとは、そういったものがなくても、時の変化、季節の変化を

把握できる、強い理性をもっていたんだ。

 

 

 

杖というのは、人間を楽にしてくれる。

 

ただ、杖をつかうと頭の位置が下がるし、杖をつかうのは老人だ。

 

文明を発展させる人間の理性は素晴らしいけれど、

その文明によってうみだされる「文明の利器」という

「杖」にもたれかかり、

そこで楽をするようになった現代という時代は、

人間の理性そのものは、かえって低下してはいないだろうか。

 

ちょうど、杖にからだをあずけた人間の、頭の位置が低くなるように。

 

 

 

朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足。

 

杖をつかうことで3本足になった時間帯というのは、夕方だ。

 

 

 

よくよく気をつけないと、それは、「人類の夕方」「人間の歴史の夕方」

になってしまうんじゃないか、と、

はるか昔のかなたから、スフィンクスは警告しているのかもしれない。

understandは、なぜ「理解する」なのか?つづき

この記事の、前の記事は、こちらから

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

では、続きを書いていきたい。

 

underについて

underという英単語は、下に、という意味をもつが、それ以外にも、

表面には表れてはいないものの、内面や背景にはどういったものがあるのか、

その内面や背景といった場所、

そういったところを指すときに使われる英単語であるように思う。

 

人間は、その外から見てわかる表面に、肉体をもつ。

肉体は、皮膚や毛髪、筋肉、血液、骨格などからできていて、

見たり触ったりしようと思えば、(解剖するということも究極的には

ふくめて)感覚器官で把握できるものである。

 

が、人間はそれだけでできているのではない。

「こころとからだ、人間の全部。」

というのは、某企業のキャッチコピーだったと思うが、

人間には、心もある。

そして心の中は、たとえば感情がその表情にあらわれたり、

自分が考えたり思ったりしていることを表現しないかぎりは、

通常は、外部からはうかがい知れないものであろう。

その意味で、心というのは、表面にあらわれているものではなく、

underな領域にあるといえる。

 

そして、こういった肉体と心のような、外部と内部の関係は、

人間にだけみられるものではない。

 

たとえば、天体や宇宙を観測すれば、惑星などが軌を描くようにして

動くのが観測されるだろうが、そこには、たとえばケプラーが発見

したような、面積速度一定の法則、のような法則がはたらいている。

また、あるものが燃焼することでべつのあるものへと化学変化する

ようすは、実験室などで観察することができるだろうが、そこには、

質量保存の法則のような法則がはたらいている。

 

そして、惑星の運動の様子、ものの燃焼の様子、といったものは、

目などの感覚器官でもってとらえることができるものだが、

その背景にあってそういった現象を支配している面積速度一定の法則

質量保存の法則といった科学法則そのものは、それを直接、

感覚器官で把握することができない。

そういった法則があるだろうなあ、と把握できるのは、

頭脳による認識という精神活動のおかげなのだ。

 

人間の肉体という表面にあるもののunderな領域には、

精神活動をつかさどる心が存在する。

この世界にあるさまざまな存在、物質、現象といったもののunderな

領域には、精神活動によって認識することでのみ把握できる、

法則性や理が存在する。

 

つまり、underということばの含意するものは、

表面にあらわれているところの存在、物質、現象といったものに

対置されるような、精神、法則性、理といったものである、

とも考えられるのではないか、と自分はおもう。

 

余談であるが、たとえばこのことは、

undertakeといった英単語を考える際にも言えるかもしれない。

takeだけであれば、具体的ななにかを手に入れるだとか、

中学英語の範疇でいえば、バスに乗るとか、風呂に入るとか、

そういったときなどに使われる単語である。

これにunderが付着してundertakeになると、

仕事や義務、責任を引き受ける、企てる、約束する、請け負う、

といった意味になる。

義務も責任も、企ても約束も、観念や概念が濃厚な世界のものである。

具体的、物質的ななにか、に関連する程度はひくい。

その意味でやはり、ここでも、underは、精神性と関連してくる。

 

以上をまとめると、

underというのは、精神、理、法則性に関連していて、

standというのは、構造の存在に関連している、といえそうだ。

とするならば、understandが「理解する」という意味になるのは、

「構造の存在」について「精神」活動を通して認識する、

ということが背景になっているのではないか。